Ⅵ、恋する気持ち
悪戯に弧を描いた瞳にラヴェンを映して、アーサは差出しかけた手が汚れていることを思い出したようだった。構わず手を取ると、花が咲くように笑う。
「アーサよ」
「ラヴェン・ハンガリーです。ミネルヴァの街で探偵をしています」
「探偵?」
「貴方を探してオーブに来たの」
「……まさかお母様って言うんじゃあ」
「違うわ。レイさんに頼まれたの」
一瞬、アーサは何を言われたのか分からないような顔をした。
「貴方いま、レイって言ったの?」
「ええ」
糸が切れたようにへたり込む。泣きたいような笑いたいような顔をしたアーサは青くなった唇を押えると、声を震わせた。
「驚いたわ。こんな驚きってあるのね」
「レイさん、わたしを訪ねて来たの。ここに来る方法を探して潜っているうちに貴方との繋がりが遠くなって、会えなくなってしまったって。それでも探し止める訳にもいかないから、伝言を届けてくれないかって頼まれたの」
「訪ねて来たのって、貴方……」
「わたし、人よりちょっと目と耳が良くて、こういう頼まれごとも時々あるのよ。それでね、貴方に伝えて欲しいと頼まれたわ。……いつか、触れられる日が来ると信じてる、って」
見張ったアーサの目に涙が滲む。
「あ、あたし……ここに来てしばらくして、夢を見なくなったの」
まるで迷子の子どものように身体を小さくして、
「レイが、消えちゃったんじゃないかって、怖くて」
瞼を伏せると、雫が零れ落ちた。
「ううん。本当はね、ずっと怖かったの。いつだって不安だったわ、ただの夢なんじゃないかしらって。いつか夢から覚めるみたいに会えなくなるんじゃないかとか、レイとの事が思い出になっちゃう日が来るんじゃないかとか、居ない事を…思い、知らされる日が…来るんじゃないかとか。ずっと、ずっと怖くて」
すがるような手がラヴェンを掴む。
「それでもね、諦めきれなかったの。それでもいいって思えてしまうの。あたしにはどうしてもレイが存在しているとしか思えなかった。だから…頑張るしかないって、生きて証明しなくちゃって…!」
(ああ)
手繰り寄せるように抱きしめられて、すすり泣くアーサの声にラヴェンの胸はギュッと狭くなった。
(レイさんが本当に伝えて欲しかったことは、信じているとか、そういうことじゃなかったのかもしれない。もっと優しくて強い…)
「あたし以外の人の世界にも、彼が存在していることを教えてくれてありがとう。あたしも信じるわ。いつか会える場所が、この世でも、天国でも、地獄でも…」
いつかのクロードが脳裏を過る。
――人を好きになる気持ちはポジティブな面だけじゃあないからね。綺麗で可愛らしい名前をつけたいんだよ。
「大手を振って会えるよう、一生懸命生きていくわ」
その言葉が胸の内にすとんと落ちて、たまらずアーサを抱きしめ返すと、くすぐったそうに彼女は笑った。
(わたしもいつか誰かを好きになったら、その時はこんな風に強くて優しい恋がしたいわ)
「ん――ぅ」
「どうしたんです? ラヴェン嬢」
「トマト二つって言うのは、大きなサイズを二つでいいのかしら? それとも中くらいのサイズにしておくべきかしら」
「大きいサイズでも問題はなさそうですが」
「わかったわ。それから砂糖は小さじいち、と」
親の仇を見るような目で計量しているラヴェンに、リュウはつい苦笑を零した。
「そう神経質にならなくてもいいのでは? ぬいぐる…シャルティエ伯の事ですから、ラヴェン嬢が作ったという事だけで喜んで下さると思いますよ」
言うと、ラヴェンはぶるぶると首を横に振る。
「それに甘える訳にはいかないわ、相手はクロード・シャルティエ伯だもの。いくら家庭料理を御所望とはいえ、それなりのものを出さなくちゃ。ヘラさん直伝のレシピを、今日はキッチリかっちり作るのよ」
ヘラ自体が目分量なので、毎回味にバラつきがあるのだが。なんとも頼りないレシピを横目で見ながらリュウは、零れたようにぽつりと口にした。
「旦那様も、アーサ様も……ラヴェン嬢も。皆様自分に出来る事をなさっていたと言うのに……わたしときたら、…情けないばかりです」
――あたし、孤児院を出ようと思うの。
屋敷で起こった一連の出来事に涙したあと、鼻をすすりながら、アーサはリュウが淹れた紅茶に口を浸した。
――……ラヴェンといい、お父様といい。一人で生きようと決めて、助けられている事を知るんだもの。自信はなくなるばかりだけれど、…レイと生きると決めた以上、強く生きていく為に頑張らなくちゃ。
――旦那様、ですか?
――この間画廊に並べたばかりの絵をね、どこかの貴族様が高値で全部買っていったそうなの。………初めて画廊に並ぶ新米画家の絵を一気に買って行く人間なんて、身内くらいのものでしょう? あたしね、気づいちゃった。………お父様がわたしを死んだ事にしてくれたおかげで、わたしは絵を描いていられるんだって。
そう言って、静かに笑った。
――作品にも泊がついてね、次の絵が出来たら、まず見せて欲しいなんて予約も入っているの。だけれどね、……リュウ、あたしはもう貴方を傍に置くための身分もお金も捨ててしまったわ。あの屋敷に帰る事もない。………あの場所であたしを想う必要はないのよ、リュウ。
――アーサ様…。
――こんなことを言うのは勝手な事だけれど、貴方には一人で生きようとしないで欲しい。次にあたしの事を思い出す時は………どんな時でも貴方の味方になる、とびっきり素敵なお友達として思い出してほしいの。アネモネに、エリザ、そしてリュウ。貴方たちがあたしに仕えてくれたことがあたしの宝物だもの。
「……もしかしたらピオニー男爵は、リュウが黒い花嫁だってことに気づいていたのかもしれないわね」
我に返って、リュウは遅れて頷いた。たっぷりのお湯にトマトをつけながらラヴェンは頬を緩ませる。
「気づかぬふりをしていたのだとしたら、きっと男爵は悪い気はしてなかったのよ」
虚を突かれた顔をして、リュウは二度ほど瞬いた。
「アーサ様を思って、リュウなりに一生懸命考えた事だと思ったから放っておいたのかもしれないわ。………そう考えた方が幸せ上手だと思わない?」
口角を緩めるようにして笑う。
「なるほど、幸せ上手…ですか」
――誰かの幸せを願うなら、まずは自分が幸せじゃなくちゃいけないんだよ。
「どうしたの? リュウ」
「いいえ、ぬいぐるみ伯爵が毎度、鬼気迫ってラヴェン嬢を口説いている理由がわかった気がします」
「くど…!? やめてよそんな言い方。それにしてもそろそろ来てもいい頃よね」
「ラヴェンー?」
「噂をすれば、ね。迎えに出て貰ってもいいかしら? リュウ」
「わかりました」
甘えるような声を出していたクロード・シャルティエ伯は、玄関先に出てきたリュウを見るなり鼻に皺を寄せた。
「覚悟はしてきたつもりだけれど、いざ君に出迎えられると複雑な気分だよ、リュウ」
「ラヴェン嬢は今食事の支度で手が離せず、申し訳ありません」
ぬいぐるみの内でこんな顔を向けられていたに違いない。電動椅子に乗って入って来た青年は、むっつりした顔の上にはちみつ色の髪。抜けるように肌が白かった。まるで絵画から抜け出た天使のよう。男でも見惚れてしまうと考えながら、リュウは頭を下げる。
「この度は住む所を見つけて頂きありがとうございました」
「放っておいたらラヴェンの事だ、事務所に住んだらいいと言いそうだしね。それにしてもここには手伝いで入ると聞いたけれど、職は見つけたのかい?」
「そちらはラヴェン嬢が紹介してくださりました。色々試してみたい事はありますが、当面は診療所で働かせてもらう予定です」
「診療所?」
クロードは首を巡らせた。何か言いたげな顔をしたあと、口を噤む。
「…なるほど、君は向いているかも」
「と言うのは?」
「僕は向いてない。あそこは死にかけている人間に優しすぎるからね。君は当分死にそうにないし、上手くやっていけると思うよ」
リュウが椅子をどけると、クロードは机に電動椅子を寄せた。
「それにしても、わたしがラヴェン嬢を手伝うこと、貴方はもっと反対されるかと思っていました」
「しないよ。ラヴェンは喜んでいたんだ。それに反対でもしてごらん、ふてくされてしまうだろう? …まあふてくされたラヴェンも可愛いから、それはそれで良い気もするけれど」
付け足しながら、クロードは事務所を見回す。アンティーク調の家具。橙色をした裸電球にワイヤーを編んでカバーにしたものがぶらさがっている。センスの良い伯父が揃えてくれたのだと、自慢げに言っていたラヴェンが過った。
「見ての通り僕は健常とは言い難いからね。ぬいぐるみは傍に置いて貰えるけれど、いざと言う時不便な事が今回で分かったことだし…君の身体は僕のいいコレクションになりそうだからね。あんなに動きやすい身体は初めてだ。少々君が近すぎるけれど」
それに、とクロードはリュウを見上げる。ガラス玉のような碧い瞳が弧を描いて、彼はにんまりと微笑んだ。
「こう見えて僕は、君に感謝をしているんだ」
「…感謝、ですか?」
「君のおかげで、今回は随分長くラヴェンと一緒に居られたからね。
ありがとう、漆黒の花嫁さん」
――漆黒の、花嫁?
リュウのことを漆黒の花嫁と呼んだ青年がフラッシュバックした。確か彼も、夜だと言うのにやたらと眩しい金色の髪をしていた。電動椅子に乗っていて、瞳の色は碧。
「…っ!」
ぶつかった彼ならば、花嫁衣裳を着ているのが男だと言う事にも気づいていただろう。
「では、初めから…わたしだと知って…」
「できたわよ。…って、どうしたの?」
「リュウの坊やと世間話をちょっとね。それにしてもラヴェン! 今日は赤いスカートなんだね、とてもよく似合っている。まるで君からトマトの甘い香りがしてくるようだよ」
「………冷めるから先に食べてて、着替えてくるわ」
「さあ、皆で食卓を囲もうじゃないか! リュウの坊やも手伝って」
「え、あ…。お持ちします、ラヴェン嬢」
「助かるわ」
ラヴェンからトマトシチューを受け取りながら、リュウは己の指先が震えていることに気づいた。
(恋、とは…)
――あたしだって、皆と何も変わらない。恋をしているだけのなに。
(恋とは、恐ろしいものなんだな)
以上で伯爵は犬のぬい、一部を終了させて頂きます。最後までお付き合いいただきまして、ありがとうございました。十年前に書いたものを加筆修正する作業は発見だらけでとても楽しかったです。次回から、二部と言う事で話の続きをもうちょっとだけ書いてみたいなと考えております。
二部『王子様の恋』
あなたの歌が聞こえる場所にいることにしましょう。なぜなら迷子になればぼくは貴方の王子になり、夢を追うのなら狡猾な魔女にならなければいけないから
「…泣き虫だった王子はね、彼女との約束を守る為に誰より強い王子様になったんだよ」
よろしければそちらもお付き合いください