Ⅴ、エリザの歌-1
ぴしゃん、と滴の音がした。
指先から感覚が戻って来て肌寒さを覚える。
「ここは…?」
朽ちかけたテーブルの上には錆びたランプ。天井は水が溜まって変色していた。カビの生えた酒樽と、いつ食べたかしれないワインとチーズ。気絶しているアネモネが瞳に映ったラヴェンは跳び上がった。
「アネモネさん! しっかりしてください、アネモネさん!」
「…ハン…ガリー、さま?」
「良かった! 怪我はない?」
「…ここは、一体?」
「ごめんなさい。エリザさんに呼ばれて駆けつけたまでは良かったんだけれど、わたしまで捕まってしまって…」
「捕まる?」
はたと瞬いたアネモネは唇を震わせる。
「そう…でしたわ。リュウを追っていたら、後ろから殴られて…では、エリザもここに?」
「それはその…」
ラヴェンは口を噤んだ。
(今ここで、エリザさんが亡くなっていたことを話さない方がいいんじゃあ)
過った考えを振り払う。
(いいえ、大切な友人を悔やむのに場所なんて関係ないわ! エリザさんはあんなにアネモネさんを護ろうと必死だったんだもの。今話さずして、いつ話すの!)
「…落ち着いて聞いて下さい、アネモネさん。わたしね、アーサ様の部屋でエリザさんに会ったの。彼女、とても愛おしそうに絵を眺めていたわ」
アネモネは一瞬、何を言われたのか分からないような顔をした。青っ白くなっていた頬を朱に染めると、泣きそうな声をあげる。
「そんなはず…! だって、エリザは、三年前に…っ」
「失踪されたんですよね。たぶんエリザさんもこうして攫われて…………亡くなったと、思われます」
「え?」
「アネモネさんを助けて欲しいと頼まれました。貴方だけでも、光の当たる場所に居て欲しいと」
アネモネはぼろぼろと涙を零す。スカートを握ると、必死に首を横に降った。
「あか、るくて…良い子だったんです。ハニービスケットを焼くのが得意で…歌もっ…彼女が、アーサ様の詞に歌をつけたものを、子守唄で、聞かせてくれて。そんな、あんなにいい子があたしより、先に…」
――エリザは歌が上手ね。うらやましいわ。
いつの夜だったか。ベッドルームでいうと、エリザは頬をふくらませた。
――わたしはアネモネが羨ましいわ。このそばかすさえなければ、わたしだってもう少しイケると思うんだけど。
――あら、わたしは貴方のそばかすも大好きよ。なんだか、太陽を真っ直ぐ見上げることを恐れない、エリザに相応しいチャームポイントだもの。
――そう? ……ならしょうがないかしら。こんなに綺麗で美しい太陽にわたしは今まで出逢った事がないんだもの。そばかすが出来ても、瞳が焼き付いても、見上げる事をやめるなんて出来ないわ。
エリザの指先が髪をくすぐる。
――…あの。
入り口から聞こえてきた声に首を巡らせれば、気まずそうに立って居るリュウと目があった。
――アネモネが寝つけないと言っていたからハーブティを用意したんだが、必要はなさそうだな。…というか、邪魔したな。
表情こそ変わらないものの、視線が泳いでいる。待って、と声を掛けるより先に立ち上がったエリザが突撃して、ガチャンとカップがぶつかった。
――もちろん君を仲間外れになんてしないのだよ、リュウ! さあ、存分に愛を語り合おうじゃあないか。
――変な所を触るな!
――この際だからお嬢様も呼んでー、四人で夜のティータイムでも…。
――ダメだ!
――ダメよ!
「死ぬ、なんて」
しゃくりあげて、アネモネは顔を覆う。
「エリザ、……お嬢様…っ、貴方たちをずっと待っていたのに…! こんなことならもういっそ!」
「逃げましょう、アネモネさん」
ラヴェンはアネモネの肩を揺らした。
「エリザさんの言葉を無視しちゃダメです。本当なら伝わるはずのない声を、エリザさん、必死に伝えようとしたんです。生きて欲しいって願っているんです。そんな大事な人の言葉を無視しちゃダメです。アネモネさんが無かった事にしちゃ絶対にダメ!」
「ハン、ガリーさま」
アネモネの瞳が丸くなる。唇がわなないて、彼女はきゅっと結んだ。
「…そう、ですね」
「立てますか?」
鍵が開く音がする。素早く身を翻したラヴェンがアネモネを背に隠すと、小男が顔を出した。
「目が覚めたのか」
「やっぱり後ろの子は上玉だねぇ」
背後からひょいと顔を覗かせたのはノッポの男。腰をいくら曲げてもいい塩梅にならないらしく、窮屈そうに背中を丸めている。見るからにまっとうではない男たちを睨みつけて、ラヴェンは低い声を上げた。
「…貴方たちが、屋敷のメイドを攫っていたのね?」
「そうさあ、そうしてみんな売った。お前たちもすぐに売れる」
「ふざけないで! 売られるつもりなんてないわ!」
啖呵を切りつつ、肝は冷えている。縮みあがりそうになる身体に喝を入れて、
(好きにさせられてたまるものですか!)
ワイン瓶を握ったラヴェン。小男は愉快そうに笑った。
「いいねぇ。貧相な身体だが、聞き分けのないガキも良く売れる」
「オデ、威勢の良い子は好きだなあ」
ノッポ男の視線が上から下までねばりつくように走っていく。物欲しそうな顔をしたノッポ男を小突いて、小男は言い聞かせるような声を上げた。
「手ェ出すなよ、ネズミ。生娘はブランドだ」
「兄貴ぃ。オデ、この子嫁に欲しい」
「はぁ!? お前、金なんかねぇじゃねぇかよ」
ちらりとラヴェンを見て、恥ずかしそうに頬をかく。瞬間総毛立ったラヴェンに気付きもせず、ノッポ男は甘えた声を出した。
「兄貴とオデの仲だろぉ?」
「だがな、ネズミ。分け前の半分はあの野郎にくれてやらなきゃなんねぇんだ。なんせこの件で一番危ない役を担っているのはあの男だからな」
「えぇぇえええ」
袖にしがみついて今にも泣きそうな声をあげる。そんなノッポ男を見下ろして、咳払いした小男は言葉を続けた。
「ま、まあこのガキは元々おまけみたいなものだしな。仕方ねぇ、奴には話つけてやる」
ノッポ男は目を輝かせ、ラヴェンは一気にどん底になる。
(こんな男の嫁? 冗談じゃない!)
瓶を握る手に力が籠った。
(パパやママ、伯父さんに伯母さんを見て来たんだもの。恋だってよく分からないけれど、こんな犯罪で稼いでいる男じゃあないわ。スマートで、優しくて、ちょっと冗談が過ぎても大切に思ってくれて…)
「あ、ああああ、あの、オデ!」
(口は軽いのに、時々とっても寂しそうにするから妙に放っておけなくて)
「おおお、オデの、オデの…!」
(もう、まるでクロードみたいじゃない!)
「オデの嫁さんに来てくれぇぇええええええええ!」
こうなったら叫んでしまえ。ついでに瓶も振り回してしまえ。ラヴェンが大きく息を吸い込んだ瞬間、瞬く間もない出来事だった。黒い線が突撃してきたかと思うとノッポ男が前のめりに沈む。
「お、おい! ネズミ!」
夜のビロードのように揺れるドレス。そこから伸びる足がノッポ男の背中を踏みつける。怒り納まらないように二度三度と踏んづけて、黒い花嫁は叫んだ。
「ラヴェンは僕の嫁だァアアァアァアアア!」
「ネ、ネズミぃいいいい!」
駆け寄って来た小男を蹴り飛ばす。ふんと鼻を鳴らして、踵をノッポ男の背中にぐりぐりねじ込んだ。
「人の物に手を出すと馬に蹴られると言う言葉を知らないのかな? 君が蹴られているのは僕な訳だけれど、似たようなものだよね、黒いし」
いや、馬に蹴られた方が絶対マシだと思う。
世界中探してもこんな馬鹿げた事を言う人は一人しか思い当たらなくて、ラヴェンはわっと声を上げると黒い花嫁を抑えにかかった。
「ちょっとクロード、やりすぎよ!」
「ラヴェン!」
「ぐぇ」
抱きとめられて、二人分の体重をかけられたノッポ男が潰れた声をあげる。
「大丈夫かい? 怪我は?」
ヴェールの上から頬にキス。十分感動の再会だったというのに、水を注されたラヴェンは眉を潜めた。
「もう! 好き勝手して! それは貴方の身体じゃないのよ!」
「ああ、まあ、うん。確かに無理やり借りたけれど、目的は同じだったんだから問題ないんじゃないのかな?」
「あのねぇ、貴方にとってはちょっと借りたつもりでも、ふつう人の身体っていうのはちょっとやそっとの事じゃ借りられないものなのよ」
「攫われた君たちを追いかけていたんだ。お互い助けに来ようとした身だし、共同戦線みたいなものだよ。……ものすごく怒ってるみたいだけれど」
「怒ってる? 誰が?」
とんと親指で心臓を叩く。ラヴェンはギョッと目を見開いた。
「そんな! 貴方に乗っ取られて、意識があるの!?」
「うん、僕も初めての経験だ。横から茶々を入れられるっていうのはまったくもって小うるさいね。こういうのを霊媒体質っていうのかな?」
いけしゃあしゃあと。呆れていると、アネモネが悲鳴を上げた。それに混じって後ろから金属音がする。
「こんな所でお会いできるとは思いませんでしたよ、アーサお嬢様」
猫なで声に目を向けると、背後で小男が銃を構えていた。そしてその横には、
「そんな、どうして貴方が…っ!」
(いいえ、大切な友人を悔やむのに場所なんて関係ないわ! エリザさんはあんなにアネモネさんを護ろうと必死だったんだもの。今話さずして、いつ話すの! 今でしょ!)
今でしょ!とつい書いてしまったのですが、合わなくて断念しました