Ⅳ-2
扉を開け放ったラヴェンは一目散に引出しを開いた。
「やっぱり」
夢で見た場所にヒビが入っている。ペン先を引っ掻けて底を持ち上げると、ぬいぐるみが身を乗り出して驚いた。
「なるほど。間を仕切っていたのか」
「日記帳に抜けていた部分だわ」
ラヴェンはページを捲る手を止める。
「このページで終わってる」
【勇気を出して、話したの。お嬢様がお決めになったことなら、って。身を隠す所も紹介して貰えそう。
……随分長い間悩んだわ。でもね、エリザが…あたしが彼を想って並べた言葉に曲を乗せて口ずさんだ時、やっぱりこの恋がわたしを生かしているのだと気づいてしまった。選ぶべき道じゃない事は分かってる。この世界に生まれて来た以上、この世界の人を愛するべきだわ。ましてやあたしは男爵家の娘で、結婚は父や母の為でもある。
夢の中でしか会う事の出来ない恋人を、どう言葉にすればいいのでしょう。けれどあたしは知ってしまった。例えこの身で結ばれることは出来ないとしても、魂が溶けるほど愛し合うことを知ってしまった。いつか迎えに行くと言ってくれたわ。その時はついてくるか…なんて、それが叶わぬ夢だとしても、その言葉で生きていけると思ったの。
あたしは今日、この家を出て行きます。紹介してもらった所に少しの間お世話になって、絵で食べていけるように頑張ろうと思うの。とんだ夢物語でしょう?
でもあの人を諦めずにいられるのなら、どんなことだって試してみたい。
ごめんなさい。心を痛めるくらいなら、いっそ恨んでくれて構わないわ。恨めないのなら嫁に行ったと思って欲しい。結婚することも、子どもを……証を、残すことも出来ないけれど…代わりにわたしは絵をかきづつけるわ。あの人が確かにここにいる証を残したいの。
さあ、もう準備をしなくちゃ。出発の時間ですもの。日記帳はここに置いて行きます。誰かが見つけてくれるような気がするもの!】
ところどころ涙の染みが出来ている日記帳から顔を上げて、ラヴェンは熱くなった目をぎゅっと瞑った。
「アーサ様は…恨んでなんてなかったのね。それ所か、全部背負いこんで生きて行くつもりだった。やっぱりアーサ様のはずがないわ!……けれど、だとしたらどうして化けて出たりしたのかしら」
「…ううん。そもそも花嫁は、化けて出ていたつもりじゃなかったのかもしれないよ」
「どういうこと? クロード」
ぬいぐるみは考え込む素振りで、輪郭をなぞった。
「幽霊の振りをするのなら、もっとおどろおどろしくする方法なんてたくさんあったはずだ。それなのに花嫁と来たら、キックにバク宙、背中を向けて走り出しただろう? 幽霊に見せかけるつもりがあったとは思えない」
「確かにそうね」
「男爵は令嬢が死んだという事にして、シコリを残さないように努めたのだと言っていた。つまり…」
「アーサ様は、生きているということを伝えたかった?」
「うん、そうかもしれない」
「じゃあ黒い花嫁の正体ってあの人?」
「間違いなくそうだろうね」
肩を落としたラヴェン。なぐさめるようにぬいぐるみは撫ぜる。
「落ち込むにはまだ早いよ、ラヴェン」
「そうね、話を聞きにいかなくちゃ――」
不意に部屋の灯りが消えた。チカリとついて、また消える。
「停電かな? 寒いのかい? マイディア」
「ええ」
「秋口には冷え込むと言うからね」
ラヴェンは一点を凝視している。釣られて目を向けると、いつの間に入って来たのか女が一人、絵画を見ていた。見覚えのない後ろ姿にメイド服を纏っている。
「ラヴェン、彼女は」
「………エリザさん」
「エリザだって!?」
女はラヴェンの声にゆっくりと首を巡らせた。
「亡くなっていたんですね? エリザさん」
こくりと頷く。
「……本当にエリザじゃないか」
アーサの描いた絵と瓜二つだ。けれど太陽のように輝いていた瞳は翳りを帯びていた。透き通るほど真っ白な肌に怖気を感じて、ぬいぐるみはぶるりと身体を震わせる。
『あ』
エリザは喉に手を添えると、唇を開いた。顔が歪む。
「エリザさん?」
『ア…、て』
一枚の絵画を指差した。栗色の髪。意志の強い二つの眼を見て、ラヴェンが問い返す。
「アネモネさん?」
喉をかきむしった。
『……アネモネを、助けて』
「アネモネを助けるだって?」
『アネモネまで、アイツに連れて行かれてしまう。暗くて、さびしくて、怖い場所。そんなのダメ! アネモネは光の当たる場所に居て欲しいの。アネモネは、アネモネだけは…!』
だんだんと声が大きくなっていく。悲鳴とも叫び声ともつかない声に気圧されているぬいぐるみを抱えて、ラヴェンは大きく頷いた。
「分かったわ」
「君はまた後先考えずに!」
「アネモネが今どこにいるのか分からないの。案内してくれる?」
『こっち』
扉の前に現れたかと思いきや、すぐに姿が見えなくなる。弾けるように扉を開いて走り出したラヴェンの腕の中で、ぬいぐるみは声を潜めた。
「軽々しくついて行って大丈夫なのかい?」
廊下の先でエリザが手招いている。
「こういう感覚の話って、口で説明するのは難しいのだけれど。…わたしたちと、見えない世界って、例えるならコインの裏表のようなものだと思うの」
滑るように廊下を行くエリザになかなか追いつけない。屋敷を出て庭を駆けると、門の方へ向けて走っていく。
「身体を持たないものにとって、うわっと」
「暗いから足元に気をつけて」
「……身体を持たないものにとっては、心や魂が全てなの。エリザもアネモネの危機を伝え始めた途端に声が大きくなったでしょう? 想いの強さが彼らを形作って、形作られた時、コインの裏と表の境目があいまいになることがある。心霊体験に恐怖ものが多いのは、負の感情に共感性が高いからね。幸せは人それぞれだけれど、苦しかったり辛かったりって大体一貫性があるじゃない?」
息があがって、ラヴェンは額の汗を拭った。
「クロードはっ、物体に乗り移る事を先に覚えちゃったみたいだから、目に見えない、世界には…、疎いだろうけれど! 身体を動かすのと、霊体を動かすのとじゃあ…、ちょ、ちょっと感覚がっ、違うでしょ?」
「確かに集中を必要とするね。行きたい場所を意識する、というか」
「それと一緒、よ」
「つまり今、エリザは必死なのか」
「そういうこと!」
ようやくエリザが立ち止まった。煙にまかれるようにして姿が見えなくなる。ラヴェンの瞳に映ったのは開け放たれた門と、門前に停められた馬車。その荷台に運び込まれているアネモネの姿だった。
「貴方たち! 何してるの!?」
アネモネはぐったりと動かない。ラヴェンを見るなり跳び上がった小男が荷台に乗り込んで、ノッポ男は転がるように御者台へと向かっていく。
「門番さん、居ないんですか!? 門番さん! どうしよう、とにかく馬車が走り出すのを止めなくちゃ…っ!」
「ラヴェン、あまり深追いするのは危…!」
「っ」
後ろ頭に強い衝撃を覚えて、ラヴェンの視界はぐるんと回った。
(仲間が、いるんだわ。だから門が開いてて…!)
顔を見ようと思ったけれど、意識が遠のいていくほうがはるかに速い。どざりと崩れ落ちたラヴェンの腕の中で、地面に押しつぶられたぬいぐるみは息を潜めた。ラヴェンの身体越しに会話が聞こえてくる。けれど何と話しているかまでは分からなかった。
(ゲ…!)
ラヴェンが担ぎあげられる。
「なんだこりゃあ?」
ぬいぐるみを鷲掴みにして、小男はフレームの折れた丸眼鏡を持ち上げた。
「小汚たねぇ人形だなあ」
(お前に、だけは、言われたくない…!)
しがみついたが、たやすく引きはがされる。ボールのように地面を跳ねて、ぬいぐるみはくそったれめと小さな声で罵った。
「こんなもん持ってちゃあ商品価値がさがっちまうからな。つってもこんな貧相な身体じゃ、たいした金にはなんねぇだろうが」
「違いねぇや。しかし兄貴こっちのメイドは上玉でさあ。女の化け物が出るってんで、ここでの仕事はご無沙汰だったが…やっぱり上玉揃いだなあ」
「ネズミ。顔も見られちまったことだし、このガキもセットで売っちまおう。オズボーンの奴なら二倍所か三倍の値でも買うだろうよ。奴は生娘好きの変態だ」
(ギャ――――!)
ぬいぐるみは叫びまわりたい衝動に駆られたが、暗闇が幸いして口を押えたことには気づかれなかったらしい。それでも我慢できずにもんどりうって震えあがった。
(き、き! 生娘好きの変態だって!?)
こうしちゃいられないと、ぬいぐるみは人目をはばからず起き上がる。ラヴェンが荷台に投げ入れられると声にならない悲鳴をあげた。
(このまあじゃあラヴェンが変態の餌食に…! くそ、こうなったらどっちかの身体を乗っ取るか!?)
小男か、背の高い男か。だけれどラヴェンを殴って気絶させた男だっているはずである。
(どう見たってこの二人は小物だ。今まで捕まっていないくらいだし、こいつらを小間使いにしている奴はそこそこ頭も切れるだろう。間抜けに馬車に乗ってる、なんてことはないだろうな)
馬を打つ音が聞こえた。馬車が走り出す。
(乗り移ったところでヘマして疑われるのも面倒だ。黒幕が出て来るまで、このまま霊体で追いかけた方がいいだろう)
その時、塀の上に立つ影が目に入った。ドレスの裾が舞い上がっているる。猫のようにしなやかな動きで塀を蹴った黒い影が馬車にしがみついたのを見て、ぬいぐるみはぽんと手を打つと、次の瞬間、地面に転がった。
「なるほど、アレを借りるのが一番良さそうだ!」
読んで頂きありがとうございます。次回より不定期に更新します。