第五話『苦し紛れの交渉』
お付きの女の表情には、明らかな変化が出た。先ほどまでとは種類も程度も異なる敵意の視線。しかしそれも当然のこと。今まさに、自分の主が脅迫の材料に使われているのだから。
「貴様、何を企んでいる」
彼女の声からは、怒りがにじみ出ている。由宇も多少の恐怖は感じつつも、その程度で引き下がるわけにはいかない。
「何、簡単なことさ。『お嬢』の命が惜しければ、大人しく僕の言うことをきくんだ。それだけでいい」
「……貴様、お嬢に危害を加えるつもりか……?」
「君の対応しだいでは、そうなるね」
「そうか、ならその前に貴様を捕らえてやるまでだ」
そう言うとお付きの女は、ポケットへと手をのばす。そして金属の擦れる音がきこえるのとほぼ同時に、大きく一歩踏み込んできた。気づけば二人の間合いは一足一刀の間合いにまで。
「いいのかな?そんなことしたら……」
「問答無用!」
「えっ……」
そのまま彼女は勢いを殺すことなく、もう一歩踏み込んできた。そして鎖が飛び出てきたかと思えば、それはあっという間に由宇の身体にまとわりついてゆく。
ーーあれれ……?
予想外の展開に、戸惑いを隠せない由宇。これでは計画は失敗だ。本来なら、このあとさらに畳み掛けて命令に従わせる予定だったのだが、由宇にはその時間すら与えられなかった。本当にこの女は、人の話を最後まで聞かないらしい。結局脅迫が彼女に効くことはなく、由宇はまたしても捕まってしまった。
ーーどうしようどうしよう……。
慌てて次の手をさぐる由宇だったが、何も浮かばず呆然と立ち尽くす。気がつくと由宇は回し蹴りをくらい、その場にしりもちをついていた。お約束のようにスカートの中がちらっと見えたが、彼女はそんなことには気づかない様子。さげすむような目で由宇を見下ろし、そして言う。
「いいか、氷室由宇。貴様の罪は重いぞ。私はお嬢に仇なす者は誰であろうと決して許さない」
口調こそは静かなものだったが、彼女の声色は氷のように冷たく、その裏には軽蔑と憎悪の念が潜んでいた。背筋がぞっとして、由宇は言葉を発することができなかった。
「ありがとう、朱里。手間が省けたわ」
遅れてやってきた痛みに耐えかねて悶え苦しんでいると、後方から声がした。その声に、由宇の身体は反射的に震え上がる。
「お嬢、どうしてここに……?」
「あなたが彼に声をかけられてから、ずっと様子を窺ってたのよ。まああなたのことだから心配ないってことはわかってたんだけどね」
そう言うと少女は、一歩二歩とこちらへ近づいてくる。由宇には恐怖のあまり後方に顔を向けることができないので、正確には靴音が近づくのがきこえてくるだけであるが。
と、由宇の耳元にわずかばかりの吐息がかかり、悪魔のような囁き声が流れこんできた。
「あなた、タイムリープしてるでしょ?」
何度もきいたその言葉に、身体の震えはますます加速する。そして追い討ちをかけるように、由宇の頬に少女の手が触れる。
ーーやばい、戻らないと……!
なぜかはわからないがそのとき、彼女が今まさに由宇の『能力』を奪おうとしていると、そう悟った。それは本能的な何かとしか言いようがない。当然のことながら、『能力』を奪われるわけにはいかないので、
「させるかよ!」
恐怖のなか、怒号とともに由宇は頬に触れる手を振り払った。すると少女は即座に反応し、戻らせまいという意図を隠すこともなく、由宇の目へと手を伸ばす。そして右目に彼女の手が触れるが、しかし由宇の方がわずかに早かった。次の瞬間、由宇は勢いよく目を閉じた。
◆
ーーはあ、何とか助かった……。
過去へと戻り、ひとまず安堵する由宇。しかし、それも束の間、
「それで、話とは何だ?」
声がきこえるのとともに目を開けると、そこにはお付きの女の顔が。そうだった。まだ何も解決できていないのだ。この女を何とかする方法が見つからなければ、あの少女には勝てない。能力まで奪われてしまえば、もうこれまでどおりの高校生活は送れなくなるだろう。そんなことはあってはならないのだ。
しかし、お付きの女を何とかするというのは、それはもう最大の難関なのである。この女に脅迫はきかないし、してもまた鎖で縛り上げられるのがオチだ。だったら、どうすればいいのか。このまま諦めて能力を奪われ、平和な日常を捨て去らなければならないのか。再び、恐怖の感情が呼び覚まされる。
「おい、きいてるのか?」
また、お付きの女の声がきこえてきた。そこには『さっき』のような、冷酷な雰囲気は宿っていないが、それでも同じ声であることには変わりない。『さっき』が思い出されて、心はますます恐怖に苛まれる。
「……えっと、何だっけ?」
「何だっけ、じゃないだろう。話があると、貴様がそう言ったんだぞ」
「ん?あ、あー、そうだったね」
ーーそういえばそうだったな。
恐怖のあまりわけがわからなくなっていた由宇だが、うわべだけの返事のあと、ようやく状況を把握する。
「まさか、告白じゃないだろうな。だとしたら悪いが……」
「あ、いや、そうじゃないんだ」
すでに一度経験したのだから、フラれてしまうのは目に見えている。好きでもないのにフラレてしまうことほど哀れなことはない。由宇はお付きの女の言葉を途中で遮り、否定した。するとやはり彼女は、ん、と首を傾げるが、少しの間のあと、自分の勘違いに気づいたようで、
「そうか、それはすまない。勝手にその気になってしまっていたようだ。忘れてくれ」
「い、いいよいいよ。気にしないから」
「しかし、だとしたら一体何の話なんだ?」
そう言われ、返答に困る由宇。たしかに『さっき』の由宇には脅迫という目的があった。しかしそれが無駄だということを思い知らされ、かといって他に方法も浮かばない。由宇の頭の中はすでに、万策尽きた状態なのである。
「何なんだ、無いなら私は帰らせてもらうぞ。まだ問題を解いている途中なんだ」
連れ出しておいて何も言わない由宇に、とうとう痺れを切らしたようだ。お付きの女はくるりと背を向け、元来た道を引き返そうとする。
ーーだめだ、このままじゃ……
「ま、待て、お前の持っている鎖。それを僕に渡すんだ」
それは、咄嗟に出た言葉だった。この女の行動は何ともできないのだとしても、せめて少しでも不安要素を取り除いておきたい、ということだ。もちろん、由宇にはそれを可能にするような名案はなく、ただの苦し紛れの一言である。
しかしなぜかお付きの女は、その言葉によって由宇を多少の脅威として認識するに至ったらしい。踏み出した足を止めて再び由宇の方に身体を向け、そして言う。
「貴様、なぜそれを知っている……?」
「えっとそれは……」
「この鎖のことはお嬢以外は誰も知らないはずだ。なのになぜ貴様はそれを知っているのか、教えてもらおうか」
そう言ってお付きの女は、ポケットの隙間から鎖を覗かせた。なるほど、これこそまさに脅しである。しかし由宇も、それに屈するわけにはいかない。
「それはだねーー僕がタイムリープしてるから……かな」
あえてタイムリープのことを話し、由宇はお付きの女に更なる脅威を与えようとする。この女に一矢報いるにはその流れで脅迫し返すしかない。もはやタイムリープの秘密を守るという当初の目的が破られているのは否めないが、しかし気づいたらそんな博打的な賭けに出ていたのだ。
「は?何を言っている」
バカにするなとでも言いたげな様子のお付きの女。内心では、また捕らえられてしまうのではないかと恐くて仕方がないのだが、一度口を開いてしまったからにはここで引き下がるわけにはいかない。由宇は、ここぞとばかりに虚勢を張る。
「だから、タイムリープしてきたって言ったんだよ」
由宇は何も嘘をついていないのだが、しかしやはりお付きの女は信じようとしない。彼女は由宇をぎろりと睨みつけて、
「ふざけるな。茶化せと言っているのではないんだ」
「いや、だから本当に……」
「真面目に答えろ。なぜ鎖のことを知っている。お嬢以外には誰にも見せたことがないんだぞ」
これ以上は何を言っても信じてもらえないだろう。元々それを信じてもらえる証拠も持ち合わせていないので由宇は口を閉ざさざるを得ない。
と、賭けに諦めかけたそのとき、
「彼の言っていることは本当よ」
後方から、助け舟が出た。それは宿敵である、あの少女の声である。
「お嬢、どうしてここに……?」
「あなたが彼に声をかけられてから、ずっと様子を窺ってたのよ。けれどそんなことより、彼の言い分ももう少しきいてあげたらどうかしら?」
「お嬢まで何をおっしゃるんですか。タイムリープだなんて、フィクションじゃないのですから」
「まあ、信じられないのも無理ないわ。でも彼の言っていることは本当よ。でしょ、氷室くん?」
「ん。あ、ああ……」
由宇にタイムリープを認めさせたいという彼女の立場からすれば、彼女がそう言うのは当然のことだ。しかしまるで彼女が味方についたかのようで、由宇はどこか心強く感じつつも、かなり困惑していた。するとその様子が表情に出たのか、お付きの女はますます疑わしげに由宇を睨む。
「お嬢、やはり私はタイムリープなど信じられません。この怪しげな態度こそが、この男が言っていることは嘘であるという何よりの証拠です。鎖のことは、何か下劣な手段を使って知ったに違いありません」
「下劣、ねえ……」
少女はうっすらと、不気味な笑みを浮かべた。そしてちらっと由宇の方に目を向け、彼女は続ける。
「そうね、彼はこれまで、タイムリープという下劣な手段を何度も何度も、何度も何度も使ってきたわ。あなたが鎖を隠し持ってることも、そうして知ったのでしょうね」
「そんなこと、あるはずが……」
「いいえ、これは事実よ」
そう言って、少女は制服の胸ポケットからメモ帳を取り出す。そこに載っているのは、由宇のタイムリープに関する重大な手がかりである。それを彼女が話せば、お付きの女もタイムリープを信じざるを得ないだろう。しかし、
ーーこの流れ、まずいんじゃ……。
ようやく由宇は自分がまたも追いつめられていることを実感し、背筋にはぞっと悪寒が走る。
たしかにお付きの女が由宇のタイムリープを信じ恐怖を感じたりでもしてくれることなら、そこからの脅迫はたやすいことだろう。彼女から鎖を取り上げることもできるし、タイムリープ攻略等の由宇に都合の悪い動きもさせないようにできる。
しかしそれよりも先に少女が仕掛けてくるに違いないのだ。また少女に脅迫されるようなことになれば戻らざるを得ないが、かといってうっかり『能力』を奪われるようなことにでもなれば、それすらできず奴隷ルート確定。
「例えば、彼が入学試験を一位で通過できたのは……」
少女はメモ帳に書かれた内容を淡々と語り始めた。いつ、また脅迫されるかわからない。冷や汗が由宇の頬を伝う。そして心臓の鼓動は手を当てずとも感じられるほどにまで、強く、速く。
ーーこのまま、また脅迫されるか……?
ーー……いやだ、そんなのはもう懲り懲りだ。
ーーこうなったら、やるしかない……!
由宇は拳を握りしめ、そして最後の賭けに出る。
「ちょっと待った。その前にひとつ、交渉しないか?」
「……交渉?」
少女はメモ帳の内容を読み上げるのをやめ、由宇を見た。その視線に思わず身動ぎしたが、
「ああ、そうだ」
「一応、どんなかきいていいかしら」
「そうだな、じゃあお前は僕を従えて何がしたいのか。それからお前が今日のために練った計画の詳細はどんなものなのか。せめて最後に、この二つを教えてほしい。それを知れた後ならこっちも諦めがつく。『能力』は大人しくお前に渡すし、『犬』にでも何にでもなってやるよ」
すると少女はご不満な様子で、ふん、と鼻を鳴らす。
「そんなものが交渉になるとでも?あたしには何のメリットもないじゃない」
「メリットならあるだろう。こっちの交渉にのれば、お前は確実に僕を『犬』にできるんだから」
「いいえ、そもそもそこに信用性がないのよ。あなたがそう素直に従うとは思えないわ」
なるほど、当然のことである。彼女からすれば由宇は敵であり、信用するには値しないのだ。たしかにその通りで、由宇にはそうやすやすと少女の奴隷になる気はない。むしろ、また生徒会長辺りにでも助けてもらって、ききだせるだけの情報はききだして何度でも過去へ戻りとことん少女に抗うつもりである。
「そうか、なら鎖でも何でも使えばいいじゃないか。タイムリープに対する対策だってあるんだろう?」
由宇はお付きの女を指さしながら言った。見ると彼女は、話題についていけず一人置いてけぼりの状態である。少女もお付きの女を見て、その様子に気づいたようだ。しかしそんなことには気にも留めず、少女は再び由宇の方へと目を戻す。そしてはあとため息をつき、
「仕方ないわね。可哀想だからのってあげるわ、その交渉とやらにね」
少女が折れるのと同時にチャイムの音が鳴り響き、三人を包み込む。由宇はごくりと唾をのみ、戦闘態勢に入った。