第一話『ローズレッドの髪の少女』
◆
過去へと戻る。彼にとってそれは、呼吸をするのと同じだった。
時間とはかけがえのないもので、一度過ぎ去ってしまえば取り戻すことはできない。人はそう言うが、そんなことはない。少なくとも、彼にとって時間とはそういうものではない。
気にくわないことがあれば、とりあえず過去へと戻る。恥をかくようなことがあれば、すぐさま過去へと戻る。そうやって彼は、幾度となく同じ時間を繰り返してきた。そして自分が過去へと戻れることを利用し、難関といわれるエリート高校を首席で合格。頭脳明晰を装った。さらにはそこそこいいルックスの恩恵もあってか、そこで一躍人気者になることに成功。誰もが羨むような、順風満帆な高校生活を送っていた。
ーーああ、この世界はなんて素晴らしいんだ。
ノートの隅にあるのは、白黒で描かれた大自然。そこに広がる世界には色こそないものの、丁寧に描いたばかりに愛着がわいてしまい、彼には消すのがためらわれた。
「氷室君、この意味わかるかい?」
ふと、遠くの方から先生の声がきこえてくる。
「……」
「氷室くん、Instinctの意味」
氷室由宇は、ようやく我に返った。遠くからきこえてきたように感じたのは、由宇が授業に集中していなかったからのようだ。本日最後の授業ということで、気が抜けていたらしい。
「……」
教室を、息苦しくなるような沈黙が包み込む。ただ、窓の外、おそらくグランウンドあたりから体育を楽しむ生徒たちの声がきこえてくるだけ。教室内には誰一人として声を発する者はいない。
周りの生徒たちはさぞ不思議がっていることだろう。なにせ、由宇は国内有数の進学校であるここ星条高校の入試を一位で通過した身だ。入学初日にはすでに、氷室由宇という名は学校全体に広まっていた。そして、ちょうど一年たった今ではすっかり『できるやつ』として認識されている。もちろん、由宇はそんな『できるやつ』ではないのだが……。
「えっとじゃあ……、三笠君。わかるかい?」
まさか由宇が答えられないとは思ってもみなかったらしい。困り果てた先生は代わりに、由宇の左隣の席の男子を当てた。
「はい、本能です」
「そうだね。じゃあついでに全文訳してもらおうか」
そう言われると三笠というこの男子は、困った様子ひとつ見せずぺらぺらと日本語訳を言い始める。
由宇はこの男子の余裕そうな態度が何となく気にくわなかった。それに見たところ、この男子もルックスはけっこういい方だ。このままでは自分が築き上げてきた株はダダ下がりな上に、そのすべてがこの男子にかっさらわれてしまう、などということもあり得る。しかしそんなことはあってはならない。ここは何としてでも手柄を横取りしたいところだ。
ーーよし、戻ろう。
由宇は静かに目を閉じる。それが戻る合図だ。
そして今度目を開くと、眼前に広がるのは一度経験した世界。相変わらず、窓の外の生徒は体育を楽しんでいるようだ。対して教室内では話し声一つきこえず、皆、熱心に授業をきいている。そして先生はというと、『さっき』と同じようにぶつぶつとわけもわからない言語を喋っている。ただひとつ違うことと言えば、それは由宇が準備万端だということ。
ーーさあ、いつでも来い!
とりあえず、ノートの隅の落書きをさっと消しゴムで消して、当てられるのを待つ。途中、消しカスが邪魔なのでささっと払う。そして案の定、先生は由宇の方を見る。
「氷室君」
「はい、本能です」
今度は先生が言い終えるのを待つことなく答えてやった。そのため先生は少し驚いた様子だったが、まあ氷室君なら、と勝手に納得したようだった。このとき、恥をかかなくてすんだという喜びと、あのイケメンの手柄を横取りしてやった、という喜びが由宇を支配していたのだが……。
「そうだね。じゃあついでに全文訳してもらおうか」
先生の言葉をきいて急速に心臓の鼓動が速まる由宇。考えてみればそうだ。ここで答えたら次は全訳を頼まれるのだった。迂闊にも、由宇にはその準備はできていない。由宇は、準備万端だと思い込んでいたほんの二十秒前の自分を悔やむ。
ーーどうしようどうしよう。もう一度戻るか?
頭を抱えていると、授業の終わりを知らせるチャイムが鳴った。チャイムの音はたちまち、教室中をつつみこんでいく。
「鳴っちゃったかー。すまんな氷室君、今日の授業はここまでにしよう」
そう言って先生は足早に教室を出ていった。どうやらひとまず助かったらしい。授業の終わりを知らせるチャイムの音は、いつきいても心地いいものだが、由宇にとって今はより一層心地いい。
ーーやっと終わったか。
由宇は大きく背筋を伸ばし、力が抜けていく感覚を味わった。そして、そのまま終礼が始まるまで眠りについていた由宇には、自分を見つめる一人の女子生徒の存在に気づくはずもなかった。
◆
ーーもう4時か。
終礼がおわって早々、由宇は荷物を鞄にしまい、帰宅の準備を整えていた。
「氷室くん、もう帰るの?」
声のする方へ顔を向けてみると、五、六人の女子の群れが由宇の後方を囲んでいた。そして、ちょうどそのうちの一人が二、三歩近づいてくるところだった。どうやら彼女が声の主のようだ。由宇に話しかける役を任されたのだろう。
「そうだね。帰ったら塾にも行かなきゃならないし」
由宇はなるべく優しげな口調で言った。むろん、本来ならそんな話し方はしない。あくまで、皆の期待するようなキャラを演じているだけだ。ちなみに、塾に行くというのももちろん嘘。そういう『設定』なだけで、ただ早く帰ってゲームがしたいだけ。
「そっか……。勉強みてもらいたかったんだけど、塾なら仕方ないよね。なんか急いでるみたいなのに、ごめんね」
「ううん、僕の方こそごめんね。また機会があれば一緒に勉強しよう」
由宇は頭がいいと思われているので、こういうことはよくある。しかし由宇が人に勉強を教えることなどできるはずもないので、やんわり断るしかない。ただし、希望をもたせることは忘れないようにしているのだ。
「うん、ありがと……。そ、それじゃあ、またね!」
少し残念そうな、しかしほんの少しの希望を抱いているような表情の彼女。その様子が見れただけでも由宇は満足だ。女子の群れに対して笑顔で手を振ると、鞄を担いで足早に教室を出る。
そしてそのまま玄関へと向かって歩いていく由宇。由宇のいるクラス、二年一組は三階のフロアにあり、登下校の際には階段の昇り降りが必要である。なおかつ教室は玄関の反対側に位置しているため、少し歩かねばねらない。少々面倒だから、教室を変えてほしいと由宇はつくづく思うのだが、言っても仕方のないことだ。とりあえずこの長い廊下を歩く。
と、由宇の姿を見た女子生徒たちがさっと道をあけてくれた。そして意外なことに、男子生徒たちまでもが道を譲ってくれた。当然のことながら、由宇は彼らの厚意に甘えさせてもらう。奇妙な光景ではあるが、何だかどこぞのアイドルにでもなった気がして、由宇は徒歩の苦労を忘れる程度の幸福を感じた。
そうしているうちに玄関にたどり着いた。靴箱を開け、外靴を取りだそうとした由宇。しかし左靴の横に添えてあった水色の紙に目がとまる。
ーーおっ、ラブレターか。
まず、周りに誰もいないことを確認。肩にかけた鞄を下ろす。そして水色の紙を手にとると、折り畳まれたそれを開き読み始める。
『いきなりごめんなさい。氷室くんにどうしても伝えたいことがあって、この手紙を入れさせてもらいました。氷室くんさえ良ければ今日の放課後、体育館裏に来てください。待ってます』
由宇は、思わずにやりとした。星条高校一の有名人にして人気者なだけあって、由宇は今までに何度もこういった経験をしてきた。ラブレターを貰ったり、放課後に呼び出されて告白されたり。人気者とは忙しいものだ。こういった場合、『皆のもの』スタイルを貫いてきた由宇。今回も断ることになるだろうが、それでもやはり、恋愛の対象として見られていると思うと自分の人気を実感することができる。幸福を得ることができるのだ。
ーーさてと、予定変更。
玄関を出て、体育館へと向かう由宇。ラブレターの主と会うところを誰かに目撃されればすぐにうわさが広まるだろうが、そんな心配は取りこし苦労だ。
というのも、星条高校は進学校だから、部活動に入っている生徒は比較的少ないのだ。この時間帯に他の生徒は大概、教室に残って勉強をしている。体育館を使用するバスケ部とバレー部にさえ気をつければ、見られることはないだろう。それに最悪、過去に戻ればうまく皆の目から逃れるようにもできる。
実際に、そういったシーンを目撃されたことが何度かある。そんなときは瞬く間に学校中のうわさになってしまったものだが、由宇には過去に戻る力がある。由宇が経験した、そうした『過去』はこの世界にはもはや存在しない。この世界での由宇には何のスキャンダルも存在しない。
ーーそれにしても、綺麗な字だったな。
ラブレターの主の字を思い出して感動しているうちに、体育館の裏まで来ていた。体育館の中からは物音一つきこえない。まだ部活動は始まっていないようだ。
ーーまだかな?
どうやらラブレターの主はまだ来ていないようだ。自分で呼び出しておいて待たせるなんて、と思うが今の由宇は寛大だ。そんなことは気にならない。むしろ気になるのは場所だ。体育館裏は漫画なんかではよくある告白スポットだが、実際にはそんなにロマンチックな場所ではない。せめて屋上とか、もっと他に場所があるだろうと思う由宇だが、ここはラブレターの主の意思を尊重することに。
ーーまだかまだか……。
よくあることなのに、なぜか少し緊張する。顔を合わせたらまず何から話すか。そんなことを考えているうちに、足音がきこえた。背後からは誰かの気配を感じる。
唾をごくりと飲み、振り返ったその瞬間。由宇の瞳に、ほんの少し赤みがかった髪が写った。由宇が知っている髪色でいえば、それはローズレッドという色が一番近い。風に揺らされなびいた髪一本一本の隙間からは夕日がさし、その髪をきらきらと輝かせる。美しくて眩しくて、思わず手をかざす。まさに運命の出会いだなどと、由宇がそう思ったのも束の間、
「あはは、まさか本当にやって来るなんてね」
由宇の目の前にいるその少女は、突然笑い出した。嘲笑だ。何がそんなにおかしいのか、腹を抱えて笑っている。これから自分は告白されるのだと思っていたばかりに由宇には全く状況が理解できない。それこそ、どういうことだの七文字さえうまく喉を通らないほどに。
「あははは、あなたってほんとバカよね。みっともないわ、ほんと。あはははは」
どのくらい時間がたっただろうか。おそらく一分も経っていないのだろうが、由宇にはそれよりはるかに長く感じた。やがて少女は笑い止み、そして言った。
「あなた、タイムリープしてるでしょ?」