人形は、見ていた。
その夜。マヘリア・ノーランドは荒れていた。酒とマリファナでだいぶ酔っ払っているらしく、呂律が回らない口調で、わけのわからないことを叫んでいる。流石に、近所迷惑だろう。
彼女の部屋を訪れたルイス・スタニファーは渋々、マヘリアに声をかけた。
「マヘリア、落ちつけ。どうしたんだ?」
だが意味のある答えは返ってこない。言葉の断片から、職場のパブで嫌な思いをしたらしいということだけがわかった。彼女のヒステリーには慣れているルイスだが、今日のは桁違いだ。
やれやれ。こんなことなら来るんじゃなかった……。
ルイスとマヘリアは、恋人関係にあった。もう5年のつきあいだろうか。
だが、両者の間に「愛」がないということは、二人ともわかっていた。
それでも離れずにいるのは、「惰性」というただ一言に尽きる。特に嫌いでもなく、他に好きな人がいるわけでもない。わざわざ別れる理由もない……まさに惰性だった。
マヘリアの機嫌が良ければ、今夜はここに泊まろうかと思っていた。彼女が仕入れて来るマリファナをわけてもらって、いい気分で夜を過ごせる。
だが当のマヘリアがこれでは……。
「マヘリア。今日はぼく、学生寮の方へ帰るよ。明日は大学で課題の発表をしなくちゃならない。準備しなきゃ」
ルイスはそう言って帰ろうとした。だが、マヘリアが掴みかかって来る。泣きながら「私を見捨てるつもり!?」という類の言葉を叫んでいる。
ルイスは憂鬱になった。ここにいても愚痴を聞かされるだけだし、帰っても恨まれそうだ。
だが一瞬考え、決めた。ここまで酔っているんだ。どうせ今日のことは憶えていないだろう。玄関へと歩を進める。
そのルイスの背中に、マヘリアがぶつかってきた。引き止めようとして、しかし千鳥足だったから、かもしれない。
真意はともあれ結果的には、ぶつかってきたのだ。その衝撃で、ルイスは顔をドアにぶつけた。
「どけよ!」
無性に腹が立ち、多少荒々しく、マヘリアを振り払った。
彼女は、フラフラと後ずさりするように何歩か後退し……足を滑らせ、仰向けに倒れ込んだ。テーブルに頭から突っ込んだ形になる。
「おい、大丈夫か?」
だがマヘリアから返事がない。
「じゃあ、ぼくは帰るからな」
ため息をついてから、ルイスはドアを開け、外に出た。
「やれやれ。ヒステリーさえなきゃ、あいつもなぁ」
ぶらぶらと歩く。やがて苛立っていた心が、平穏に戻る。
……マヘリアは、機嫌を悪くしていないだろうか。
彼女は機嫌が良ければ、マリファナをくれる。だが機嫌が悪いと、もちろん、くれない。
「しょうがない……。謝っておくか」
近くのストアで、安物のケーキを買った。彼女の好物だ。もっと本格的なケーキの方が良かったが、生憎とこの時間では、店が開いていない。
面倒だが、マリファナの代金だと思えば高くはない。
ルイスは買ったケーキを手に、マヘリアの部屋まで戻った。
「マヘリア、さっきはごめんな。ケーキを買ってきたよ」
二人にとって、どちらが悪いとかは、どうでもいいのだ。ルイスが簡単に謝ること。そしてマヘリアが簡単に許すこと。これが、互いの関係が5年も続いた秘訣だ。
ルイスは彼女の部屋に上がった。が、マヘリアはさっきと同じ状態で、仰向けに倒れたままだった。どうやらそのまま眠ってしまったらしい。
「おい、風邪ひくぞ」
ケーキをテーブルに置き、ルイスは寝室へ行った。毛布を持ってくるためだ。
彼女が寝てしまったなら、それでいい。簡単な手紙とケーキを置いておけば、明日、彼女の機嫌も収まるだろう。
寝室から持ってきた毛布を彼女にかけようとして……ルイスは凍りついた。
マヘリアの両目が、開かれたままだったからだ。
「お、おい……」
彼女の瞳は、何も見ていなかった。軽く身体を揺すってみるが、何の反応もない。
「なあ、冗談はやめろよ。起きろって」
彼女の首筋に、そっと手を当てる。
脈が、なかった。
「死、んだ……のか?」
自分が彼女を振り払った時。彼女は倒れた。その時に頭を打ったのだろう。
と、いうことは。
「ぼくが、殺した……?」
殺人犯、ということになる。
どれくらい呆然としていただろう。彼女の死に対して、特に何の感情も湧かなかった。涙も出なかった。ただ、自分が殺したということが恐ろしくてたまらなかった。
「警察に…」
いや、待てよ。これは確かに過失だが、彼女は死んだのだ。あるいは執行猶予がつくかもしれないが、有罪判決が出るのは目に見えている。
ルイスは立ちあがった。毛布を寝室へと戻す。
そう、自分は今日ここには来ていない。マヘリアは一人で酔っ払って転び、自分で勝手に死んだのだ。そうすれば、ただの事故として解決されるだろう。何故なら、このことは誰も見ていないのだから……。
ふと、視界に人形が入った。マヘリアが大切にしていた、少女の人形。
「……人形は、喋らないしな!」
軽口を叩いて、緊張をほぐす。
自分のアリバイは……今更どうにもできない。だけど、今夜こっそり学生寮に戻る。寮長や管理人に見つかりさえしなければ、明日の朝は堂々と食堂にでも顔を見せればいい。
そうすれば「ずっと寮の部屋にいた」ということになるだろう。不完全ではあるが、逆に自然でもある。
テーブルの上のケーキを手にして、ルイスはその場を離れようとした。
最後に、もう一度確認。何か不都合な点がないかどうか。
大丈夫、平気だ。
もともと今日は、この部屋にあまりいなかったのだから。
……しかし。
人形に、見られているような気がした。それだけが唯一、気懸かりだった。