ゴブリン再び
「それ、僕が持つよ」
キャリーケースを指して言った。
未だに愛嘩が運んでいるためだ。
「大丈夫です。あなただって力があるようには見えませんから」
頼り甲斐がないと思われているように感じられて、悔しさを感じた。
「で、でもほら。愛嘩は怪我をしてるでしょ。無理しないで。僕に任せてよ」
「何度も言いますが、怪我は大したことないので安心してください。イツキは今まで通りでいいんです」
うーん。ずっと気にしてなかったけど、愛嘩はなかなか気が強いみたいだ。
そりゃ今までの僕の態度は悪かったかもしれない。
でも少しくらい頼ってくれてもいいのに。
愛嘩は僕を下に見ているような節があるような。
「ねぇ愛嘩」
「なんですか?」
「君ってさ。やっぱり僕のこと嫌ってるでしょ。今まで通りってことはさ、今の僕よりは最初の僕の方が良かったってことなの?」
愛嘩は止まると、振り向いて僕を見た。
「最初のあなたにいいところなんてありましたか?」
なかった、かな。
じゃあつまり、今の僕も、最初の僕も嫌いってことじゃないか。
僕が必要とは言ってくれたけど、それは別に僕以外の誰かでも良かった訳で。
僕でなくてはいけないと思ってほしいのに。
「勘違いしないでください。別に嫌ってなんていません。ただ、最初のあなたと性格が変わりすぎていて……、対応に困るだけなんです」
愛嘩は本当に優しい。
僕が落ち込んでいるときには、必ず優しい言葉をかけてくれる。
「でも、受け入れてよ。今の僕が本当の僕なんだからさ。愛嘩が辛いと僕も辛いし、喜んでくれると僕も嬉しいって思うんだよ。あ、別に依存じゃないからね? 愛嘩が好きなんだ」
「そういうことを軽々しく言わないでください!」
愛嘩は好きだというと余裕がなくなる。
どうも好意を向けられるのが得意ではないらしい。
別に軽々しく言ってるつもりはないんだけどね。
それから僕たちは無言で歩き続けた。
実際のところ、しゃべりながら歩くのは危険だからだ。
また危ない生物に出会うかもしれないから、警戒を怠るわけにはいかない。
2時間くらい歩いただろうか。
少しだけ開けた場所にたどり着いたところで、愛嘩が足を止めた。
「そろそろ薄暗くなってきました。今日の移動は終わりにします」
特に反対する理由もないので、わかったよと返事をした。
「お腹空いてませんか? こっちに来てから食事を取る余裕がありませんでしたし」
そう言いながら、僕の反応を待たずにレジャーシートを敷いた。
愛嘩の言葉で、忘れていた空腹感が思い出された。
「いろいろありすぎて食事のことなんか忘れてたよ」
「あなたの場合は夢だと思っていたんですから、取るつもりもなかったんじゃないですか?」
確かにその通りだった。
食事を取り終えてから、僕たちはトランプで遊んでいた。
寝るにはまだ早いし、他にやることもなかったのだ。
「スリーカード。また僕の勝ちだ」
「ぐぬぬ。やめです、やめ! やってられません」
10回やって10回僕の勝ちだった。
愛嘩はかなり運が悪いみたいだ。
「じゃあ次はなにをする? まだ寝るには明るい気がするけど」
「絵を、見てみたいです。ちょうどスケッチブックも、ってさすがに暗いからやめときましょうか」
「いや、描くよ」
初めて愛嘩が僕を求めてくれたんだから。
断る理由はなかった。
スケッチブックと鉛筆を用意した僕は、なにを描こうか悩んでから、すぐに描き始めた。
今日は珍しいものを見たのだから、あれを描く以外にない。
そう思ってつい描き始めてしまったが、よくよく考えてみれば愛嘩にこれは見せられない。
僕の手元には、ゴブリンの輪郭が描かれていたのだった。
僕が手を止めて絵を消そうとしたら、それを愛嘩が止めた。
「なにを描くつもりだったんですか?」
僕は気まずさから口ごもる。
「い、いやこれは」
「ゴブリン、描こうとしたんですよね」
当てられてしまった。
描いていたものを見せてないのに。
愛嘩は結構鋭い。
「別にかまいませんよ。もう大丈夫ですから」
強がっているようには見えなかった。
本当に、愛嘩は強い子だ。
それでも一応確認する。
「鉛筆だけとはいえ、結構リアルに描いちゃうよ? 本当に大丈夫?」
「私はそんなに弱い人間ではありません。というか、そんなに鮮明に覚えているのですか?」
実際、思い出そうとすればあの時の光景が鮮明に浮かんでくる。
「あぁ。僕は文章や数字の記憶力はないのに、物とか景色とか生物の記憶力だけはすごいみたいなんだ」
少しだけ得意げにしたつもりだったけど。
愛嘩は逆に心配そうな顔をしていた。
「嫌な光景も全部、覚えてしまうってことですよね。辛くはないんですか?」
「問題ないよ。思い出そうとしなければいいだけだからね」
そんなことよりも、愛嘩の心配している顔を見られて嬉しくなっているくらいなのだから。
愛嘩の表情が変わるたびに胸が高まってしまう。
自分でも気持ち悪いから抑えたいとは思うのだが、なかなか制御が難しい。
これが恋というものなのだろうか。
それから僕は黙々とイラストを描き続けた。
愛嘩は僕が描いているところをずっと見ている。
「退屈じゃない?」
僕は手を止めずに聞いてみた。
「いえ、素直に感心していました。描くのが早いですし、すごく上手です。見る見るうちに、紙の上にゴブリンが出来上がっていって。一種の手品かと思いました」
「そ、そうかな。もうすぐ完成するから。できたらあげるよ、と思ったけど。ゴブリンなんていらないよね。これからは愛嘩が描いて欲しいものがあれば何でも描いてあげる」
愛嘩が喜んでくれて嬉しかった。
こんなことならゴブリンなんて描かなければ良かったかな、なんて思いながらも手を動かす。
「それにしても、せめて腰に布くらいつけてあげれば良かったんじゃ」
愛嘩は微笑しながら言った。
「あんなやつは全裸でいいんだよ。この方が間抜けっぽくていいじゃないか」
そうこう話しているうちに、ついにイラストが完成した。
「よし、できた」
愛嘩もそれを見て感嘆の声をあげる。
しかし、それは次の瞬間驚愕の声へと変わっていった。
「な、なんですか。何が起きてるんですか?」
愛嘩がそういうのも無理はない。
僕の描いたイラストが光っているのだ。
この光、僕がここに来た時と同じだった。
「僕にもよくわからないけど。嫌な予感がする。愛嘩、下がって!」
そしてその予感は的中した。
「ギ、ギギィ?」
目の前にゴブリンが現れたのだ。
ゴブリンですら、何が起きたのかわからない様子だった。
僕たちは慌ててゴブリンから距離を取る。
ゴブリンも落ち着いたのか、敵意ある目で睨みつけてきた。
ゴブリンの手には何もない。腰に布も巻いていない。
僕が描いた絵のまんまだ。
だからって油断できない。
「気をつけて。ゴブリンが指を鳴らしたら、急に何も見えなくなったんだ。何か特殊な能力を持ってるに違いない」
愛嘩からの返事はなかった。
油断せずに一瞬だけ振り返ってみると、愛嘩は尻餅をついて震えていた。
そうだ。
彼女はゴブリンを、多分一度殺しているんだ。
怖くないはずがない。
イラスト程度ならまだしも、自分が殺した相手が再び現れたようなものなのだから。
僕がなんとかしなければいけない。
どうする?
ゴブリンは、油断なく僕たちを睨みつけている。
愛嘩が震えている今、逃げる選択は取り辛い。
だったらこっちから攻撃するか?
しかし僕が悩んでいる間に、ゴブリンは方針を決めたようだった。
ゴブリンが走り出す。
僕の方に突っ込んできているように見えるが、その視線の先は僕を見ていない。
戦えなさそうな愛嘩を狙っているんだ。
おそらく僕を素通りして愛嘩を襲いにいくはずだ。
どうする、どうすればいい?
ゴブリンの足は意外に早い。
僕を見ていないのだから、このままここで横から蹴りとばせば倒せるかもしれない。
それしかない!
僕はゴブリンが近くにやってきた辺りでタイミングを見計らって思い切り足を突き出した。
しかし、ゴブリンは最初から別の狙いがあったようだ。
突然目の前で休止すると同時に、腕を前に出して指を鳴らそうとしたのだ。
僕は攻撃のタイミングを見計らっていたせいで、ゴブリンから目を逸らせなかった。
僕が目を瞑ろうと思ったときにはゴブリンの指は動いている。
やられた! そう思った時、後ろから突き飛ばされたことで僕はその光を見ずに済んだ。
振り返ってみれば、愛嘩が目を抑えて倒れている。
「愛嘩!」
僕は叫んで駆け寄ろうとした。
しかし、次の愛嘩の叫びによって足を止めた。
「紙です! 紙を破って! 早く!」
その言葉の意味はとっさには理解できなかったが、僕は一瞬で愛嘩を信じた。
方向を変えてゴブリンがいた場所に落ちているスケッチブックのところへと走り出す。
それでも愛嘩が心配で後ろを振り返りながら走った。
ゴブリンは別の方向へと走って行った僕を無視して、愛嘩の胸ぐらを掴んだ。
服がずり上がり、細いお腹が露出した。
ゴブリンに殺意が湧く。
本気で助けに行きたい、けど紙を破るのが先だ。
目に見えるところにあるくせに、遠く感じる。
ゴブリンが、僕ですら触ったことのない愛嘩のお腹を殴った。
僕の怒りが限界に達したと同時にようやくスケッチブックを掴み取る。
僕はゴブリンの描かれた紙を即座に破った。
破ってすぐさまゴブリンを殺しに行こうと目をやると、そこには倒れた愛嘩だけで、ゴブリンはいなくなっていた。
僕は慌てて名を叫びながら愛嘩の方へ走った。
愛嘩を抱き起こして呼びかけるが、愛嘩は何も答えない。
僕の時と同じように、何も聞こえていないのだろう。
愛嘩の目を見てみれば、開きっぱなしで少し黒くなっていて虚構を見つめているかのようだった。
そっと瞼を閉じてあげる。
「お願いだよ、愛嘩。目を覚まして」
それから僕はレジャーシートの場所まで移動すると、愛嘩を抱きしめたまま目覚めを待っていた。
日は完全に沈み、月明かりだけになった頃、愛嘩は目を覚ました。
「イツキ? 起きてますか? 恥ずかしいので、離してください」
声によって愛嘩の目覚めを知った僕は、少しだけ愛嘩を離して正面から見つめた。
「何泣いてるんですか。女の子にしか見えませんよ? 人前で泣くのはおすすめしませんね」
「し、仕方ないだろ? 心配で心配で。目覚めないんじゃないかって」
泣き言を言う僕の頭を、愛嘩は撫でる。
「年上の男性には全く見えませんね。多分感受性が強すぎるんでしょう。だから感情的で、イメージ力に長けている」
愛嘩は人のことを分析するのが好きなのだろうか。
正直なところ、子供っぽいだとか男らしくないだとか言われてるようで気分が良くない。
感受性どうこうは僕にはよくわからないけど、愛嘩は少し大人すぎる。
それに実際愛嘩だって年齢わからないんだから、見た目が幼いだけかもしれないのに。
「でも、これで私の気持ちが分かってくれたでしょう。イツキももう、死のうとなんてしないでくださいね」
「それは、愛嘩も同じ気持ちだったってことでいいの? つまり僕のことが」
「私だって心配したに決まっているでしょう? でないとゴブリンと争ったりしませんよ。最初はイツキが何をされたのかも分からなかったんですから。死んでしまったのかと思いました」
僕は上機嫌になった。
愛嘩は、やれやれと溜息をついた。
その後、愛嘩の「そろそろ寝ましょう」という言葉に僕は了承した。
寝ると言っても寝具などないためレジャーシートの上で二人して寝転がるしかない。
腕枕してあげようか、と提案してみたものの拒否されてしまった。
仕方ないので、愛嘩が眠ったのを見計らって、抱いて眠った。
僕は普段から早起きだし、愛嘩は最初なかなか起きなかった。
愛嘩より先に起きてしまえば問題にならないはずだ。
「起ーきーてーくーだーさーいー」
その気だるそうな声で僕は目を覚ました。
目の前には、何やら怒り気味の愛嘩の顔があった。
あれ? 今度は何で怒らせたんだっけ?
そう考えていると、愛嘩は手で僕を押していた。
あ、そうだ。抱いたまま眠ったんだった。
「あれー。おかしいな。愛嘩って寝起き悪いと思って……、あ。違うよ? 僕ってさ、寝相が悪くてそれで」
「もう遅いですよ」
愛嘩は呆れていた。
実際のところ、愛嘩はあまり寝起きがいいわけではなかった。
ただ、僕が起きるのが遅かったのだ。
僕が起きた時点で、だいぶ日が昇っていた。
泣き疲れたのでしょうねと、愛嘩は冷静に分析した。