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願い星

作者: 雨紫謙

 ふと、ベランダに出たくなった。

 今は八月の真っ只中で、例年以上に厳しい猛暑のせいで夜でも外は蒸し焼きにされるような暑さが残 る。

 それなのに、今はなぜかその空気が恋しく思えて窓を開けた。古いマンションから覗く都会の風景は決して美しいと言えるものではなかった。辺りが暗くなればそこら辺に無数に立てられた街灯が地を照らすし、無機質なビルや無駄に飾られた店の看板はチカチカと輝く。それは人口の光が、自然の闇を食らうようにも思える。そんな中でも今日は夜空が綺麗に見えた。黒の世界に、ぽつぽつと淡く光る星々が一面に散らばっている。


 ――東京でも、こんな星空が見えるのか。


 フェンスに背中を預けながら、冷蔵庫から取ってきたビールを傾ける。部屋の中では彼女が遅めの夕食の準備をしていた。同棲をして二年目になる二人だったが、来月に式を挙げることが決まっている。お互い仕事で忙しない身だが、二十八の僕にとってちょうど良い頃合いだろう。

 彼女の後ろ姿を眺めながら「幸せだ」と思うのと同時に、心の奥がずきりと痛む。多分、この綺麗な夜空があの日を思い出させるからだろう。

 ポケットの中から財布を引っ張り出して中から一枚の紙を取り出す。角が少し切れ、何重にも折られた跡があるそれをゆっくりと開くと、可愛いデコレーションが施された便箋に丸っこくかわいらしい文字が並んでいた。彼女からの、手紙だった。

 もう一度夜空を見上げる。あの頃から十年の時が過ぎて、世界と僕は変わってしまった。それでも、この空だけはあの頃と変わらないで、悲しいほど綺麗なままだった。

「――君も、どこかでこの空を見ているのかい?」

 返事を返す者などいない。彼女には、聞こえるはずなどないのだから。


◆   ◆    ◆    ◆    ◆    ◆


 十年前、まだ僕が上京前で十八だった頃。まだ青っぽさが残っていた僕にとって世界は幻想的で、努力すれば叶わないことなどないと、そう本気で信じていた。今から考えれば、それは現実を直視しないで、幻想に逃げていただけなのかもしれない。

 高三に入り六月になって周りの生徒は受験勉強を始める中、僕は昼休みになれば図書室に駆け込み、放課後になれば誰よりも早く帰り支度を済ませ学校を後にしていた。それは別に勉強を熱心にしていたから、というわけではない。むしろ勉強などほとんどそっちのけで僕はある場所を目指していた。

 着いた先は私立の総合病院だった。エントランスの前に立つと自動ドアが僕を迎え入れる。蒸し暑い外の空気とは真逆の、エアコンの効いた人工の風と薬の臭いが鼻を刺激する。ここに来るのは僕が受診をするためではない。いそいそと階段を上り、入院患者の病室が集まる病棟のある一部屋の前で立ち止まった。「壺川キリカ」と書かれたプレートを確認し、深呼吸を一つしてコンコンと控えめにノックをする。「どうぞ」と扉越しに返事を聞くと、静かに扉を開いた。

 「やあ、キリカ」

 彼女に手を振る。

 「ユウキ君、毎日ここに来てていいの? 自分が受験生だってこと自覚してる?」

 「お前が心配することじゃないよ」と冗談気味に答えながら、道中に購入した二冊の小説を手渡す。棚の隣には彼女が読んだ小説が何冊も積み重なっていて、それは僕が彼女のために買ってきたお見舞い品も含まれていた。

 買ってきた小説を受け取ってぱあ、と嬉しそうな表情を浮かべる反面、「いつもいつも申し訳ないよ」といって懐から財布を取り出す。もちろん彼女からお金を貰うなどとは考えていない。これまで何度お金を出そうとする彼女を宥めてきただろう。

 「さっきまで何を読んでいたの?」

 夕陽色に染められたシーツの上にある本を見て尋ねる。

 「ああ、これね」

 手に取って表紙を一度優しく撫で、僕に手渡したそれは……

 「……源氏、物語?」

 源氏物語というと、平安時代にかの有名な紫式部が書いたあれだろうか。僕も多少小説を読むが、夏目漱石や森鴎外の小説でさえ言い回しが難しそうで手が出せないのに、彼女はさらに昔の古典小説に手を出しているのか……。

 「す、凄いな。これ読めるの?」

 「読めるよ。原文からはさすがに無理だけど、訳されたものも出てるし、案外すらすら読めちゃうもん」

 光源氏の恋物語、とても素敵よ。とうっとりとした様子で語るキリカ。本の話をする時の彼女はいつも幸せそうな顏をする。

 「その中でもね、私が一番好きな和歌があるの」

 ぱらぱらとページをめくり目的の箇所を見つけるとこちらに差し出して「ここよ」と指を差す。


 ――限りとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり


 「この和歌はね、桐壷更衣という女性が、最愛の男性に送った歌なのよ」

 とても綺麗で、切ない歌なの。

それだけ言うとキリカは少し俯き、それ以上は何も言わなくなった。

 今から思えば、「限りとて……」の和歌はこれから起きるであろう出来事の暗示だったのかもしれない。無知だった僕は、その和歌に込められた彼女の気持ちも理解できず、酷く曖昧な返答をしてしまった気がする。この時に気づいていれば……。そうすれば、あの結末もまた違ったものになったのかもしれないのに……。


 僕がそれを理解した頃には、全てが終わっていて、もうどうしようもなかった。



◆   ◆    ◆    ◆    ◆    ◆



 彼女との出会いは高学に入り二度目の春を迎えた頃だった。クラス発表の直後、まだ馴染めないクラスの中で彼女は一人机に座り読書に勤しんでいた。時が経てば自然とクラスとも馴染み、溶け込んでいくものだが彼女だけは別だった。もともと体が弱いキリカは中学でも度々学校を欠席していて、馴染む時間など与えてもらえなかったのだ。

 そんな彼女と僕が知り合ったのは放課後の図書室だった。きっかけは些細なもので、図書委員だった僕の元に、キリカが借りるためにある小説を持ってきたのだ。その小説がたまたま僕が気に入っていたもので、「それ、面白いですよね」と声をかけたことが始まり。それからは自然と会話がはずむようになり、彼女が登校する日の放課後は図書館で過ごすようになっていた。

その頃からだろうか、僕はキリカのことを友達としてではなく、一人の女の子として見るようになったのは。

共に時間を過ごしていくうちに自然と惹かれていったのだと思う。それは、きっとキリカも同じだったのだろう。僕たちはお互い惹かれあうのを確かに感じながら、それを言葉にすることだけはしなかった。きっと、僕が自分の思いを言葉にする勇気が無かったから。いつかは、やがて時は経てば二人は然るべき関係になっているのだろう。そう勝手に思い込んで一歩を進まずにいた。


それが五月ごろの出来事で、六月に入るとキリカの具合が一層悪くなり、いつも以上に登校する回数が減った。その数日後、入院したという連絡を聞いた。

 キリカは僕に入院理由を話そうとはしなかった。お見舞いに行っても「すぐ治るから」いつもそうはぐらかして病名や詳しいことは一度も口にしない。最初は心配していたが、彼女の言葉をいつの間にか鵜呑みし、気が付けば「大したことのない病気なんだな」と思いこむようになっていた。

それでもお見舞いを欠かさなかったのは「彼女に会いたかったから」というのともう一つ、やはり大丈夫と思い込むようになっても、心の奥底では何か得体の知らぬ不安があったんだと思う。僕はきっとそれを無意識のうちに感じていたのだ。



◆   ◆    ◆    ◆    ◆    ◆    ◆



 それから夏休みに入り、いつも以上に病院に通った。

 ある日の夕暮れのことである。僕が病室に訪ね挨拶をしても、キリカの返事が聞こえなかった。部屋を覗いてみると、彼女はそこにちゃんといる。ただ、ジッと動かずに、赤く輝く窓を眺めていた。こちらからでは背中しか見えず、表情を覗くことができない。

取りあえずベッドの脇に置いてある椅子に腰を落ち着かせ、ちらりとキリカの顏を覗いた。


 彼女の顏を見た瞬間、僕はハッと息を呑んだ。


 そこで目にしたのは、夕陽に照らされる綺麗な横顔と、その白い頬につう、と流れる一筋の涙であった。キリカは感情的に嗚咽を上げることもなく、ただ夕陽を見つめ涙を流していたのだ。

彼女がどうして声を上げずに涙を流していたのか。僕には全然分からなくて、慰めてあげたくてもどう声をかけていいのかが分からなかった。

その涙はとても悲しげで、見ているこちらまでも心が痛んでくる。


なんとかして、慰めなければ。僕にできることを……。


そう思い立ち、布団の上に置かれたキリカの細い手に僕の少しゴツゴツとした手をおそるおそる重ねた。ゆっくりと、優しく力を入れて彼女の手を包み込む。こうすることで一体何になるのか。僕自身よく分からなかったけど、少しでもキリカが安心できるなら。そう思ったからなのかもしれない。キリカの手がゆっくりと動きだし、僕の手のひらと重なり合う。そしてぎゅっと、か弱い力で手を握った。依然、瞳は夕陽に向いていて、その頬には涙の雫が流れていた。それ以上はなにもできなくて、握られる手の温もりや柔らかさがどうしようもなく切なく思えてきて。しばらくは手を繋いでそのまま夕陽を眺めていた。


それからどれぐらいの時間が経過しただろうか。夕陽も沈み辺りが暗くなったところで「ありがと」とキリカが口を開いた。何があったのか尋ねてみたい気持ちにもなったが口からでかかった言葉をぐっと飲み込んだ。

「ねえ、少しベランダに出ない?」

「え、ご飯の時間は大丈夫なの?」

「今はご飯食べなくてもいいから。ほら、行こ」

強引に手を引いて、僕を夜の世界に誘う。戸を開けると、外はすっかり真っ暗で、下の住宅の明かりや車のライトがイルミネーションのように煌々と輝いていた。

 「私ね、ここから見える風景が大好き。夜は街並みもきらきら輝くし、空がよく見えるから」

 そう言われ、上を見上げた。そこには東京の空とは比べものにならないくらいの、永遠と続く闇が広がっていた。

 「確かに、綺麗だ。星がよく見える」

 黒の中に輝く星々は、とても小さく、弱い光を発しながら輝いている。よく探せばアルタイルやデネブ、ベガなども夏の大三角も見つかるかもしれない。

 そんな中、夜空に一筋の矢が流れた。流れ星だ。

 「あ……」

 キリカもそれを目にしたのだろう。小さく呟いた。

 「流れ星だったな」

 「うん」

 瞬く間に消えたあの星の行方を探そうとあちこち見渡しても、もう見つかるはずはない。そんな時、キリカが口を開いた。

 「私、流れ星ってあんまり好きじゃないんだ」

 突然の告白に少し驚きながら彼女を見る。

 「みんなは流れ星に願いを唱えたりしているけど、私は絶対にしない」

 それは何故? 口にしなくてもキリカには分かったようで、キリカは続けた。

 「『マッチ売りの少女』ってあるでしょ? デンマークの童話作家、ハンス・クリスチャン・アンデルセンが書いた童話の。その中に出てくる主人公の亡きおばあちゃんがね、こう言うのよ」


 ――星が一つ、流れ落ちるとき、魂が一つ、神さまのところへと引き上げられるのよ。


 「つまりはね、流れ星は誰かの命が消えようとしている証なの。これも所詮は作り話なのかもしれないけれど、もし本当だったら、その流れ星にお願いごとをする私達って、すごいやな人だな、って」

 誰かの魂を運ぶ流れ星。だからこそ流れ星はすぐに流れてしまうし、あんなに人の心を打つのか。そう言われれば納得できそうな気もする。だが――

 「僕はそうは思わないかな」

 はっきりと、そう告げた。

 「その話にも納得できるけど、僕はやっぱり流れ星はみんなにとって幸せを運んでくれるような存在だと思うよ」

 ユウキ君って以外とロマンチックなんだね。キリカはくすりと笑う。

 「いや、だからって願い事をして叶う、とは考えてないけどね」

 「なにそれ。矛盾してない?」 

 「僕はね、流れ星に願い事をするのは、流れ星に願いを叶えてもらうためじゃないと思う。やっぱり、願い事は自分で叶えなくちゃいけないんだよ。だけど、人間は弱いから。叶えるための一歩が進めなくて、立ち往生しちゃうんだ。だから神様に頼るんだと思う」

 ふう、と一息つくが、キリカが「続きは?」とせがむ。

 「だから、流れ星に願い事を唱えるのは、叶えてもらうためじゃない。自分がその願い事を叶えるための一歩を踏み出す勇気をもらうためにお願いするんだと思うよ。そうやって勇気をもらって、僕たちは一歩を踏み出すんだ」

 これは誰からの受け売りでもない。僕自身が考えて、僕が見つけた流れ星の本当の意味だ。

 キリカは思案するように口元に手を当てている。

 「初めて聞いた。そういう考え方もできるんだね」

 私にはそんな考え思い付かなかったな。笑いながら、彼女は再び空を見上げた。

 「一歩を踏み出す勇気、か」

 もう一度呟く。だが、その声は自分に言い聞かすように、また何かを決心したような小さくても芯の通った力強いものに聞こえた。

 僕も再び黒の大海原をきょろきょろと見渡す。先ほどの話を話していく中で、自分も、また流れ星の力が必要だな、と思ったからだ。僕自身、まだ一歩を踏み出せないでいた。

 その時、視界の隅できらりと一際強い光の線が走った。流れた。

 見届けた後、口には出さないが心の中で一つの願い事をした。

 ――キリカに、僕の思いを伝えることができますように。

 ずっと抱えていたキリカへの思い。時に頼るのではなく、自分の意思でこの思いを伝えたい。その勇気が出せますように……。

 キリカはその間何も喋らずいた。流れ星が流れた時に、彼女が何を考えていたかはこの時の僕には分からなかったが、それは後々知ることになる。

 自分の願い事を唱え、どこかすっきりした僕は「そろそろ中に戻ろうか」と切りだしてベランダを後にした。夏の少し暖かい風に名残惜しさを感じながら、戸を閉める。

 

 これが、キリカと過ごす最後の時間となることも知らずに。


◆   ◆    ◆    ◆    ◆    ◆


流れ星を眺めてから一週間が経過した。一応は受験生だった僕には夏季補習が入ってしまい、病院に赴く時間が取れずなかなか見舞いに行けない日が続いた。

 事件が起きたのは夏季補習が終わり、やっと足を運べると思ったその日だった。

 昼頃から身支度を始め、一週間分の話の話題と、家から持ってきたフルーツを手土産に持ちながら家を後にした

 だが、病院に着いて彼女の病室に顔を出してみてもそこに彼女の姿はなかった。ベッドの上は綺麗に畳まれていて、まるで使った形跡がなかった。

 どこかに行っているのだろうか。不思議に思いながらも椅子に座って彼女の帰りを待つ。いくら経っても帰ってくる気配が見られないので、積み上げられた本の山から適当に一冊抜き取り、それを読んで時間を過ごした、

 しばらくして、部屋に人が入ってきた。四十代ぐらいの看護婦だ。

「ユウキ君、ですね?」

 ゆっくりとした、それでいて少し焦っているような口調で話す。

 「キリカさんの元に案内します。お時間があるなら着いてきてください」

 それを聞いた時から、僕の中に嫌な予感と不安が生まれた。詳しいことは分からないが、キリカの身に何か起きた。それだけは理解できた。

 案内された先に着き、僕の予感は確証へと変わってしまった。目の前には固く閉ざされた扉、その上には「手術中」と書かれた赤い文字が不気味に光っていた。手術室の前だった。

 「キリカさんはあなたに何もお話ししなかったようなので、私から説明させていただきます彼女の病気はいわゆる心臓病と呼ばれるもので、詳しい病名は控えさせていただきます。それを見つかったのがつい一週間前。病気は既にかなり進んでしまい、すぐにも手術が必要でした。ですが、その成功率も五分五分だったのです。最初はキリカさんも酷く混乱して手術を受けることに躊躇っていましたが、翌日になるとどうしたことか彼女は決心し、今、こうして手術台の上にいます」

 説明を聞いていても、思考が着いてこなかった。まるで悩丸ごと引き抜かれたように、頭の中は真っ白で先ほどまで握っていたフルーツのバスケットが落ちて果物が転がっているのにも気づかなかった。

 「キリカさんの手術はいつ終わるか分かりませんし、これは家族の問題です。ユウキ君、あなたは今日このままお帰りになって下さい」

 分かりました。口だけが勝手に動いて、なすがままに外へ連れ出された。院内を歩いているはずなのに、僕の視界にはあの「手術中」の赤いランプが消えなくて、全身を舐めるエアコンの風が気持ち悪かった。

 外に出ても、どこに向かっていいのか、自分がどこにいるのかが分からないまま歩を進めた。そうしている内にだんだんと視界が晴れてきて、思考が蘇る。今、キリカは戦っている。やっとの思いでその事実を呑み込んだ。

 なら、僕は一体、何をやっているんだ? なんで、こんな所を歩いている。帰れと言われたから? 僕はそれで帰っていいのか。本当に、それでいいのか。

 あの日の夜を思い出す。二人で見た流れ星、僕が祈ったお願い。僕はまだ、一歩を踏み出していない。まだ、これからなのに――。

 そう思った時には既に体は動いていて、来た道を全速力で戻っていた。

 

 もう一度病院の門を潜り、一目散に手術室に向かう。そして手術室の扉が見えてきた時、扉の前に二人の影が見えた。一人は以前に見たキリカの母親、そしてもう一人は手術衣を身に着けている男性。上の赤いランプは消えていた。

 「え……」

 二人の前まで着いて、胸の中にぞわりとした嫌な固まりを覚える。キリカのお母さんが手を顏に当てて項垂れて嗚咽を上げている。医師と思われる男性は沈痛な表情を浮かべその様子を見ていた。

 「キリカさんは頑張られました。私たちも死にもの狂いで戦いました」

 ですが……。医師はぎゅっと眉間に皺を寄せ苦しい表情で、それを告げた。


 「手術の途中、キリカさんは息を引き取られました」

 それは、この世からある一人の少女の命が燃え尽きたことを証明する言葉であった。


◆   ◆    ◆    ◆    ◆


 その日から、僕の世界から色は失われた。

数日後にキリカの葬式が執り行われるまで、僕は学校にも行かずただ部屋に引き籠って涙を枯れるほど流して、彼女を奪ったこの世界となにもできなかった自分を酷く恨んだ。自分の中のキリカの存在はどれほど大きかったかに今更になって気づいた。気づくには、遅すぎた。

 本当のことを言うと、キリカの葬式に出席するかも悩んでいた。出席すれば、彼女の死を認めなくてはいけない。そんな現実なら、いっそうこのまま引き籠っていればいい。弱い僕はそんな風に考えていたが、キリカのお母さんから電話をもらい、結局出席しなければいけなくなった。

 

葬式の間のことは覚えていない。ずっと流れるお経を聞き流し、前に飾られているキリカの顔はできるだけ見ないように俯いていた。周りからはすすり泣く人の声も聞こえて、耳を押さえたくなるのを必死に我慢していた。

 葬式が終わって立ち去ろうとした時、「ユウキ君」と呼ぶ声がした。キリカの母親だ。

 「来てくれて、ありがとうござます」

 深々と頭を下げられ、声が多少震えているのに気付く。この人も、僕と一緒なんだ。そう思うと心が握りつぶされそうなほど傷んだ。

 「今日は、お礼がしたくて。あと、あなたに渡したいものがあったのです」

 そう言って差し出されたのは、キリカが読んでいた源氏物語だった。

 「……これを、どうして」

 中を見てください。言われた通りぱらぱらとめくると、あるページの所になにかが挟まっている。小さく折り曲げられたそれを手に取って裏を見てドクンと心臓が大きく脈打った。そこに書かれていたのは「ユウキ君へ」という文字。キリカからの手紙だった。

 「私は中身を読んでいませんし、内容も教えて頂かなくても大丈夫ですので、どうか読んであげて下さい」

 僕は返事させできないほど、その手紙に動揺していたのだろう。キリカの、最後の言葉。

 無言のままそれを開き、確認する。可愛らしい便箋が数枚重なっていて、女の子らしい丸い文字の列が並んでいる。


『   ユウキ君へ 

 

 こんにちは。うーん、それともこんばんは、かな。

 この手紙を読んでいるということは、きっと私の手術は失敗してしまったのでしょう。

 手術のこと、話さないまま受けちゃってごめんなさい。ユウキ君に、心配かけたくなかったから。本当はね、最初は手術受けるつもりなかったの。先生から五分五分だって言われて、本当に怖くて。でも手術しなくちゃ治らないって言われて、どうしたらいいのか分からなくて一人で泣いてた。

 でも、そしたらユウキ君が来てくれて、私の手を握ってくれた。ユウキ君が慰めてくれるような感じがして、胸が温かくなって、それがちょっと切なくて、涙が止まらなかった。

 その後は一緒に流れ星を見たね。あの時のユウキ君の考えを聞いて、私は手術を受けようって思ったんだよ。マッチ売りの少女のおばあちゃんの考え方より、私はユウキ君の考えの方が素敵だと思った。私も、勇気が無かったんだな、って。だから、あの時流れ星にお願いしたの。「一歩を踏み出す勇気が出せますように」って。私のお願いは叶ったよ。結果はどうであれ一歩を踏み出せた。それが、とても嬉しいの。


 でも、これを読んでユウキ君どう思うかな。落ち込んだりしてないかな。

 どうか、落ち込まないで。

本当ならユウキ君がしてくれたように慰めてあげたいけど、できないから。

 大丈夫だよ。私がいなくなっても、ユウキ君なら大丈夫。きっと、きっと』


 渇いていた涙腺が蘇ってきて、視界がだんだんとぼやけてくる。キリカの言葉が、キリカの優しさが文面から伝わってきて、心に空いた風穴を優しく撫でる。


 『でもね、私、今泣きそうなんだ。

こんなこと書いてるけど、やっぱり怖いよ。ドラマや小説のようなことが実際起きてる。ドラマの人みたいにかっこいいこと書けないよ。こんなもの書きたくない。失敗したら、って思うと、本当に怖くて涙が止まらなくなるの。自分の死ぬなんて考えられない。

 それに、私まだユウキ君に伝えてないことがある。ずっと伝えようと思ってたのに、伝えられなかった。

……でも、言葉にしちゃうとまた決意が揺らぎそうだから、この言葉だけを残します。



  限りとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり 』

 


 この和歌は……。

挟んでいた源氏物語のページを見る。そこはちょうどその和歌が載っているページを読んで初めて、その和歌の意味を理解した。

桐壷更衣が残した思い、そして、キリカの伝えたかったこと、それは――


 ――限りとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり


 『もう今が私の命の最後となります。これからは一人、孤独の旅に行かなければなりません。その別れの旅が悲しく思われますにしても、私が本当に行きたいのは、愛するあなたと生きていく命ある道なのです』


 それは、和歌を通じて伝えられた、愛する人への悲痛な思いだった。キリカからの、あまり悲しすぎる告白だった。

 それ読んだ時にはもう限界で、渇いていた涙腺に涙が溢れて止めることができなかった。

 我慢できずに、式場を後にして走った。伝えられなかった。伝えたかった、伝えてあげたかった。僕の気持ちを……。

 走って公園の前まで来た時、バッと空を見上げた。そこには満面の星が無数に光っていて、悲しいほど綺麗な夜空だった。

 そこに、光る一本の矢、流れ星が流れた。それも一つではない。ひゅんひゅんと、何個も何個もたくさんの星たちが流れては瞬く間に消えていった。

 「――キリカ……!」

 その星々はまるでキリカの魂を運んでいるようで、消えないでと願ってもそれは叶わなくて。堪えられない涙を流しながらその星々の後を追っていた。


◆  ◆   ◆   ◆   ◆


 気が付くと、傾けていたビールが空になっている。昔を思い出していたら、結構時間が経っていたようだ。

 あれから、十年の時が流れた。僕はあの頃より老けてしまったし、世界はどんどんと過去を上書きしていく。記憶もだんだんと曖昧になり、今となっては彼女の顏、キリカのその姿も朧げになっていく。

 それでも、心にぽっかりと空いた穴は塞がることはなかった。彼女を失った悲しみは僕の中深くに癒えない傷となって僕を苦しめてきた。結局大学受験も失敗し、仕方なしにこの東京の地にやってきて、色のない生活を送ってきた。

「こんな僕を、君はどう思うかな」

 本当に、僕は弱い。今も君を忘れられず、こうして空を眺めている。きっと君は笑ってしまうだろう。こんな弱い僕のことを。でも……。

 「それでも、ここまで来たんだ」

  実は、初めて手紙を読んだあの日の夜、無数に流れていたのはちょうど流星群と重なったからだったのだが、その時に一つ、お願いごとをした。


 ――僕が、きちんと前を向いて立ち直れますように。


涙を流しながら一人決心した。ずっと悲しみに浸っていても、キリカを悲しませるだけだから。これからは強く生きよう。あの子のために――。

 「今でも忘れられないし、きっと僕はまだ前に進めてないと思うけど、それでもなんとかここまできたよ」

 そう、ここまでやってきた。大学に入ったら一生懸命勉強はしたし、今はちゃんと就職もしている。そして、守るべき大切な人もできた。

 「だから、僕はもう大丈夫だよ」

 空に向かって話しかける。やはり、キリカのことは今でも忘れられないし、あの時に空いた心の穴はまだ埋まっていない。これからもきっと君のことを思い出し、あの日を思い出すのだろう。

 でも、もうそれは過去の話。前を向かなければ。僕の願いを叶えるために。一歩を進むために。

 「どこかで君が見てくれているなら、見守っていてくれ。僕は、自分の願いを叶えてみせるよ」

 空には満面に星が散らばっていて、その中に一つ、星が流れたような気がした。


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