6
瞬きするたび、断続的な速さで。ぱちぱち切り替わる。闇に、光へ。胃液まみれのセリフが喉を通って上がらない。脚が震えて、立ち尽くしたまま、ゆっくり瞼を開いた。
見つめる先、
白無垢の学園が広がっている。
それは広大なグランドを見下ろすように聳えたつ。堅苦しくおもえる印象が、なぜか懐かしく思えた。
吸い込まれると玄関口には古びた靴箱が並んでいる。渡り廊下の曲がり角付近では、とある窓明かりが人気のなさを演出するように差し込んでいた。
男子トイレの鏡の前、檸檬の香り。
顔を洗った直後、水垢だらけの世界に映る自分と目が合う。
濡れたままま、立ち尽くす。滴が肌に弾かれ、とどまりながら、やがては落ちてゆく。
「……」
あまりの体の軽さに、言葉が出ない。喉に異物感なく、素直な口呼吸。鏡に映るその人は、まさしく、失ったはずの“時代”だった。
階段の踊り場から、何でもない景色を見た。だれもいないグラウンド。体格も縮んでる。半袖の制服なんか着て。身長なんて低かったし、ニキビは多かったし、顔から漂う雰囲気自体、もさかった。黴臭い過去がいちいち思い返される。体型も、もやしの髭根みたいで、口は臭かったわ、気になることだらけ。
人の目が気になって、しょうがなかった。コンプレックスでモテなかった自分に打ち勝つため、いろいろした。気がついたら―。
踊り場で耽ていると、暖かくて、乾いた声。階段を乗り越え、足元に吹き付けてきた。聞きなれない、鼓動の原因に視線を向かわせたら、世界が、変わった。
慣れ親しんだ口調で、見上げてくるー見つめたくなる。ふくよかな唇と、桃色に染まる頬の丸み。みずみずしい瞳は、大人びた二重瞼の狭間で少し、あどけなさが眠る。
何気ない瞬きの中で
突き抜けるような爽快感が、一気に羽ばたく。魂だけが舞い上がり、どこにでもある風景を俯瞰する
じりじりと陽が上がって、細くなる目を、彼女を、眩しく照らす。一歩ずつ、僕は段差に向かい、降りきった階段、近づく、ほのかな香り。
「はよ行くで。なにしてんの」
制服は自然な風合で体のシルエットをくるむ。眉にかかる前髪は彼女の汗をすすって濡れていた。
光渡る廊下を支配する、窓硝子の連続。不安と期待に締め付けれられる静寂。高鳴る鼓動を反響させて、いつしか呼吸することさえ忘れてしまっていた。二人だけの空間。
「てか、なんなん、さっきから。」
「え―」
「めっちゃ見てくるやん。」
真横よりも少し下で、覗きこまれては怪訝な顔をされる。
まるで、さっきまで、かみつづけた言葉を吐き捨てるように「小夏」と・僕は無意識に言った―いともたやすく。飛び出た言葉は廊下へ落下し、べちゃっと、くたびれた。ゆっくり固まる二人。
「…なに?」
「え、あ・いや、なんでも」
冷たい印象が連なる。渡り廊下で結ばれた時間の上、立ち尽くしたまま。相反して、じめじめした暑さが汗に変わり、気まずく流れた。
「れいちゃん、なんか変。」
また、彼女の香りが強く、なり、鼻の先を掻いて、誤魔化した。
「てゆーか、始まってんで、」
校内の中庭で学園祭のダンス大会がもうすぐ始まることを教えてもらい、ついてくるよう言われる
「だんす大会?」
「は。なにゆうてんの。…れいちゃん、大トリやで」
「…え。」
手を繋がれ、柔らかな感触。そのふっくらした指先に、右手の要所要所の神経は、浸透して、ぎゅっとー離さないから魂が縮んだ。手のひらの皺の一本一本が合わさるたびに。いならぶ数多の教室を見向きもせずに、小夏の後ろ姿へ向かって、視野は狭く、そのまま駆け抜けていった。
北館を目指し、前のめりになる。突っ切ったら、いよいよ加速する背筋。北館の渡り廊下に入り、左、いや転回―なんどか滑った。方向を間違えても。氷の上にいるような気分で。やばい。小夏の手の中、楽しさが倍増する。軽音楽部を横目に、突き当たり左の出入口は校舎の中庭へと繋がっているみたい。今、まさにはち切れんばかりの熱気が「わっ―」と呑みこんできた。
『れいちゃん、あの***にのぼって!早く!』
数えきれない生徒の歓声で入り乱れ、ここに学年の境目もなく―踊る炎と化した。中庭を前に、飛び入る自分は一匹の蠅。混濁と興奮と少しの狂乱を背景にもう一度振り向いてきた小夏。入道雲がじわじわと迫りくるなか、二人の間を風は通る。涼しげな瞳。日射しを受けて、浮き出た汗の滴が、嘗めるように落ちた。
ときは今、熱くて、狂っていた。
祭りあげられた体は、朝礼台のような舞台へと移動する。見渡す限り、人、海の如く、すこしでも踏み出せば、
空にかかる青ー
若い緑が生い茂る断崖絶壁へ打ち寄せる眼差し。
デッサンのような薄い顔に油で塗りたくった画は晒されつづけて、動きが止まる。潮はひいた。
陽射しが照明となって降り注ぎ、汗は鼓動にのって、落ちるだけ。黒光るスタンドスピーカーを両側にし、拡声する情熱。低い弾道で、鴨居へ襲いかかり、波打ち際のスタートラインに立つ。朝礼台の下から音響の操作者も今か今かと待ちわびている
挟まれる―ドンと開幕の合図は口火を切って落とされた。リズムは嘲笑う者たちを嵐にする。雷鳴轟く大音響の中へ、自殺する。一歩踏み出したとき
【小夏をみつけた。咄嗟に口ぶりを視線は追った。】
何か言ってる。身を投げ出した。
《誰もいない教室》
観客は雑に並んだ机や椅子たち。みな、同じ顔ぶれ。
なのに後ろの空いたスペースに立って見渡せば、それぞれの場所で個性を出してる。ケダるい感じは闊歩し、まいちるダストが降り注ぐ。光のカーテンの揺らめきと同調して、どうでもいい気を放った。頭空白、はきつぶした上履きで肩幅のテリトリーをこするように前後させる。同じ動き、反復再生し、刻まれる短いsteP。まもなく訪れるだろう、ブリキ型した心の終わり。五臓六腑の勇姿。四方八方へ鼓動の飛び交う様が。高鳴る胸は抑えきれず、限界まで達する。体の内部と対流している熱い理想で冷めた現実、少しずつすれ違い、ぶつかあう。そうあれと願った。境目に力は加わり始め、やがて耐えられなくなり、両者の「ずれ」が衝動へ生まれ変わる。肩に強すぎる振動が現れ、燃えちる激流。膝は崩れ落ち、見えない糸に肘から吊り上げられ、意味もなく操られている気分。足は弧を描きながら無重力に進ム。変化を恐れズ。直線上でinOut、踏み出した足は不均衡に弾けとぶ―
クイックに場面が切り替わり―無人の廊下へ繋がれた今。それまでかき鳴らしていた鼓動とは違う別の衝動。それでも、いきなりカットして、新しい流れをスタートさせる。頭だしはブッたぎるような速さで。乱立するテンポに合わせー始動する。
スピーディーな展開を求めLaれる今、脚のバネにフラストレーションが溜まり、伸縮しながら掻き鳴る鼓動。体力さえも。汗となって。舞いおりる。半袖から湿った腕が空中で遊ぶ。柔らかなフットワークが、自由自在に行き来するこの距離を、楽しみながら高速の世界へと導く。
―果てしない廊下がひとりでに移動する。一方通行の上を、踏み出したら、目的地なんてないのに、水平のまま、自動的な歩み。続けざまに、人間を立たせたまま、ローラーのような駆動。蠢く廊下。上履きが軽快なリズムを放ち、加速する淡いグリーン、ステップと調律を合わせた。比較的テンポが近いもの同士、PLAY中の手足は連なり動く。ピッチは上がり、手足の位置を揃えたら次の表現で解放。レベルを徐々に上げて―もう、後戻りできない―断続的に背景が差しかわり、繰り返す、風景の一部ト化ス♯何気ない木製ロッカー♯画鋲で磔られた教室♯教壇に上がり♯動く廊下を経て♯行き着いた誰も知らないところ♯叫ぶ♯佇む黒板の前♯チョークの粉が薄く、時に強く残り♯ナリヒビク廊ヰ
既存の常識を素材にした響なんて意味ない、新たなバージョンへ導くその手中、―打ち続ける心臓の調律を変えてはスローなテンポでアゲアゲナ感じに激しく変えてゆく、風景の一部は繰り返されたり。削除されたり。他の景色に重ねちゃったり。
《我、魅力を変えて作り直す作業の中。すでに雰囲気として出来上がりつつある動作を、違う躍動へ変える、ただそれだけ。》
ターンして机や椅子を振り切り、廊下へ続く2つの空間。混ぜ合わせ、2つの空間を同時に再生、やがて一。特殊な融合にまみれながら、手を抜き差ししたり、切り換える指先ひとつ。2つの空間のずれをゆっくりとかき合わせた。かかとから爪先までコマ送りのように魅せ、ゆっくり・角度を付けて。ハイスピードに、横からのアングルで、何発かステップする。陽が射す教室で、まるで戦闘地域。360度見られている。体を回転させながら舞う様が、弾けるポップコーン。軸足を外側に―スライドさせたら、体感はバグってユクんだ。
チャイムは詞になり、縛られた時間から解放された。ピンポン玉が跳ねて、滑る様が肉体を表現し、教室から飛び出るバレーボール。横たわる古いカセットテープ、何も聞こえない音楽、4分割にして、それぞれひとつずつ思いの丈を割り当てる。素早く4つしかない思いの丈、叫び、背景が重なり滲む。すぐに心が埋まってしまう。だから空いている隙間に音量を上げた心臓の叫びがミックスされ、今まで使っていた体のパーツは新たな境地へ向かってゆく。身をユダねてしまえば、それぞれのパーツは、調節できない。
内部を司る骨組みは、はじけ、飛べ、体はスライム。
足を振り回すくらい激しく動かし、必要最低限のメンタルで、スタミナとシャッフルされる野心。自分の体重、腹筋・背筋は、どこかへ置き忘れたのか、ちょっと宙に浮いたJUMP。縦や横だって、主張のベクトルは発信され、着地したあと、つま先に重心を置き、内股と、がに股の繰り返しが勢いづく。足首が内向きのときに片足を上げ、リズミカルから一転、哀愁漂うブルースな表情。叫ぶように音色が揺れる。血管を流れる生命は溶岩なのか、うねり、連なり、形成される赤い点。心臓まで震わす、轟。幾つもの情景が折り重なる万華鏡。瞳、解き放つしかない。放たれる、指先からのサーチライトは、制御不能に、乱れ崩れた。
教室や廊下を繰り広げ、音楽と同時に様々な空間が繋がれたり融合したり。複数の映像に撹拌された瞳の中、割り込んできた次の画面、真っさらな脳へと黒い文字が浮かぶ、ネガティブだったりポジティブだったり幾つもの文字の羅列で視力は更新する―爆竹―のようにつま先が飛び散った。2つの息づかいは、重なる。何小節もキープされ、ミックス状態のまま、徐々にステップは加速する。重なった状態が長ければ長いほど、呼吸は必死でコントロールしようとする。体とともに回転する床を手で押したり押さえたりしてキープ。視界の片隅から音の圧力は低い弾道で押し寄せ、リズムと心拍数に乗りながら、骨まで届くサウンド、胸のup@ダウン、底から鳴り響く。
〈淡い期待に背く後ろ姿の女。あざとい感じの女。間の悪そうな男。うら若き女。そよいでる女。はぐらかす女。社会から断絶されたような男。居座るしらこい女。〉
不思議な風景が身体に憑依し、軽やかなRHYTHMで拡がる。朝礼台の淵に押し寄せる有象無象の連中は踊り狂い、中庭の制限区域内で密閉されたせいか、熱狂が巻き起こる。一旦は衰え、熱されたフラストレーション、時に捌け口の欲求を刺激すれば、深い呼吸で取り込まれた酸素が次々結びつく。化学反応が急激に進み、爆発を引き起こす。たちまち火の海となった。生徒が炎上すると隣接する校舎の内部も高温状態になる。勢いで煽られた一人一人の上に立つ、正直、火炎が起きるほどの情熱は自分自身に起きていない、不完全燃焼のまま、可燃性のガスが溜まり続けている。それでも胸の内を開け、酸素が取り込まれ、心臓の中の物は一気に燃え広がる。
炎に身を投下し、揉みくちゃとなって、視界が焼けていく。自分に殺意がある訳でもない。主張がある訳でもない。ただ体が不規則に動き回る。呼びかけた不特定多数の生徒が、群れをなし、背後へ集まってくる。前触れなく突如として先頭に立ち、声を上げず、中庭からグラウンドへ向かって、踊り狂う。
炎の雑踏の中、その群れが火の粉を巻き散らし、フラッシュした視界の先、一気に延焼する。1,000℃を超えるような高温の環境が広範囲に拡がり、もはや回避できない。消火もできない。この勢い、全て焼け野はらにする
集団は周囲の関心を引いたのち、定刻、解散した。
****
昼過ぎから真っ白な陽気に包まれ、三階渡り廊下を歩くたび、七色の歓声で呼び止められる。視界は良好、まさにミュージカルシアター。同級生や女子たちが観客と化し、歌は飛び交う。せりふが話されるたび、それはレチタテイーヴォセッコ。歌うというより、ふつうの話しことばでも抑揚をつけたような、そんな話し方。旋律の美しいアリア、合唱の間を流れ、人生という名の奏は通りゆく。低音と高音が重なり、伴奏をともなう管楽器。鳴り響くレチタティーヴォ・アッコンパニャート。弾む心、廊下ではダンスが舞う、吹き抜ける風と共に。
「れいちゃん―、」
渡り廊下の曲がり角で、声が聞こえた。振り返ると夏の日差しが彼女の人気のなさを演出するように小さく差し込んでいた。
「なに、浮かれてんの。」
「…おつかれ。」
半袖に、なまめかしい光が照りつけている
「一躍ヒーローやもんな。モテモテやし」
人気もんになったことをいじられて、嫌々否定する。「れいちゃん、ダンスあいかわらず、うまかったよ。ケガしてやめたんやと思ってた」「え」
肩を並べ、立ち尽くす姿。どことなく見ていた。窓辺に小さく背もたれする優しげな顔。
「すごいね。影で練習してたん?」
「ケガ?」
「ん」
ダンスが得意という設定に初めて気付いた。壇上へ祭り上げられたということは「そういう設定か」
「は?」
少し前を歩いていたことに気付く
汗の雫が垂れる瞬間、静けさに包まれた。瞼へ濃いオレンジの斜陽。
「え、いや、ほ―‥なんでもないわ」
どこへ向かってるんだろう。色づきが変わり、暗くなる渡り廊下。景観の変わらない、気持ちを描けずにそっと飲み込む、二人だけの世界。
「…小夏…は、このあと暇?」
「え?」
「いや‥あれやったら一緒に帰る?今日」
「…そんだけ言うのに、なんでしどろもどろなん。れいちゃん、なんか変。」
「ごめん」
小夏は、満足げに笑った。「なんで謝るん。彼氏と帰るからムリやで。」
云わなかった?―みたいな顔が、僕という生き物のをえぐりだす。
「えっ。あ。そうなん」
ポトッって心がもげた。
「れいちゃん、最近、会ったんやろ。なんか言ってなかった?」
「だれが?」
「え、会ったんちゃうん。ウチの彼氏と」
―いえいえ!
「なんで敬語なん。っていうか、れいちゃんを癒すために来たのに全然癒せへんくてごめんね」
「癒すって。」
「どうせ、まだ彼女おらんねやろ。彼女がおったら、疲れを癒してくれるのにな~。残念」
「……。」
小夏は手厳しい反面、僕らの先輩でもある彼氏には、可愛らしく振る舞っているらしい。なついているって聞かされた。
「“彼女おらん”れいちゃんの話、またいつでも聞くで!良い人おったらなんでも言って!協力するし、ささやかながら相談にものるで」
どこか大人びており、性格はクールでドライ。発言は辛辣そのもの。毒も、たっぷり。吐く
「…。」
「なんや」
目を極端に細めて、輩みたいな口振り。
「なんでもありません」
なんや、を連呼して追い込んでくる。
「れいちゃん最近できたセンター街の新しいカフェ行ってみたんやけど、よかったで。知ってる?」
彼氏のカミングアウトはかーなーりーびっくりしたけど、れいちゃんも悩みすぎず、考えすぎず、思いつめないよーにね。
「なんか大事な試合だったんだって―。怪我がなかなか治らなくて。きっとわたしなんかが想像もできないくらいしんどい立場なんだと思うけど、あんまり追い詰めないようしてほしいな」
「先輩、土井整形通ってんの?」
「せやで。ほんで聞いて!―」
療養中の彼氏とケンカした話、愚痴を聞かされ―
よく相談をされる。ショウジキ、イヤだけど。素直な分、小夏とはしょうもない口喧嘩もする。それでもウマがあう、不思議な関係。
「先輩の代わりに俺の友達が出るらしいねんけど、そいつのこと、先輩、めっちゃキラッてんねん。どーしよっかな…」
「れいちゃんの思うように振る舞ったらいいし、どっちの味方をする必要もないよ。それもひとつの選択肢やしね」
揺れた毛先の滑らかさが暗に輝いて、流れてる。誰も知らない。
「中立な立場でいるのってたぶん一番しんどいけど、どっちもれいちゃんにとって大事な人なんやから、辛いのは当たり前やし、我慢せんでいいで!また遊びにゆこね」
横にいると、腕の柔らかな部分がくっついて、少し、離れる。
先輩から笑いながら話された小夏の処女を奪った話。隣り合わせの小さな体が、また、ぶつかる。股の肉付きから実りかけた谷間にかけて、その内容は頭を攪乱し、掻きみだし、思い返し、重ねて想像し、直視し心、抉られてゆく
「…まぁ、先輩が試合に出られないのは、小夏が原因じゃないわけなんやし、なんも気にせんでええと思うで。俺は小夏の味方やで。またパーと遊びにいこ」
「ほんまやなーでもわたしも心当たりがないかと言われたら…ないとは言い切れないからちょっと申し訳ない…でもれいちゃんが味方でいてくれたら!わたしはそれだけで嬉しいわ」
目を優しく細め、小夏の頬に明るさが戻った。
「ありがと!」
階段の踊り場で二人は寛いでいた。居場所をさ迷う猫が暗い窓から見える。
「あ。ネコ。」
さっと横切り、暮れ泥む世界へ消えてゆく。
「おらんやん?れいちゃん、どこにおるん?」
僕が指差したら、その自信のなさで何かを汲み取るように、見つめてきた。
「うそつき。」
壁に見たことない黴のような模様がある。
「れいちゃん、甲子園観に行ったんやって?」
「うん」
「巨人戦?」
「そう。だいぶ前やけどな。」
「野球興味あんの?」
距離を詰めてくるさまが、少しあどけない。忍び寄る、影に、蛍光灯の明かりが重なりあう。夕方との境目はにじんでいった。
「…うん」
「てゆうか、」
慣れ親しんだ瞳で見返してくる。ふくよかな唇は、最後の陽射しを浴びて、大人びた
「れいちゃんが試合観に行ってから、阪神調子悪いねんけど」
「そんなん知らんわ」
僕の反応をじっくり観察してどう追い込もうか考えている。たぶん、
「知らんていうことは興味ないねんな」
「え、なんて?」
「うーわ。この距離やで何で聞こえへんの」
知ってる選手を一通りあげるよう言われ、もたついているとめちゃくちゃいじってくる。けらけら、笑ってきた
「…いや、笑いすぎやろ。」
考え事してる。時たま鼻の下に髪の先っちょを当てている。
額から小さな顎にかけての緩やかな曲線。振り向く姿はそんな女性の美しいラインをじっくりと堪能できる体位。女性らしさをより強調する瞳に、吸い込まれていると気付き、近づくのが怖くなった。彼女は背伸びし、ヒップをギュッと上げ、ウエストがよりくびれた。
「れいちゃん、なんか元気ないね。」
「そう?」
「ちゃんとご飯たべれてるー?そういえば昨日はいろいろとありがとね」
「…昨日?」
「うん。さゆりから彼氏とのこと聞かれた時はドキッとしたけど、れいちゃんが助けてくれてほんと嬉しかったよ!ほんとに助かった!」
背中のラインがとてもキレイに見える。
「さゆりからウチとれいちゃん、お似合いやなってめっちゃ言われてなかった?」
「うん」
窓辺から振り返るそれは、のぞきこむように
「いや、れいちゃんとは無いな」
見つめられて、明るく否定された
何色でもない。踊り場の片隅にちりつもる時の沙。なのに。見えないはず。眉間の前を落ちていく何か。
「でも昨日のはちょっとしんどかったねー。わたしは自分のことだから我慢できるけど、れいちゃんにまで気をつかわせてしまって。迷惑かけちゃって、ほんとに、申し訳なさすぎるよ」
「そんなん…気にせんでいいよ」
なぜか距離を感じる姿が、汚れた窓に映し出され
「ごめんね。いつもありがと」
「…なんで謝るん」
女子は群れの中だと残酷なほど思ったことをすぐ言うくせに
「今度は全力でサポートするから任せて!」
今は
「またウチの彼氏にご飯おごってもらってね!」
「…うん」
「そろそろ帰るわ。彼氏と待ち合わせしてるし」
時間やからと立ち上がり、踊り場に背を向けた
「家まで気をつけてーほんとにありがと!」
「うん、遅くまでありがとう」
「またねー」
階段の途中、降るのをやめる。玲二に声をかけられたからだ。背中は振りかえる。近づく影に、小夏の目が丸くなった。見上げたまま、かたまる。
それは大人のキスなどに比べ、幼稚だった。浅はかで、唇の柔軟性を失っていた。
「…」
離したあと、
彼女がボォーとしている光景が目に飛び込む。考える前に話すいつもの感じはない。一つのことに集中しているようだった
むずがゆくて、いがらっぽくて、甘い罪から灰汁がにじみ出る唇の隙間。
瞳をコロコロ転がして弱く見つめ返す小夏は、静かに一歩、退く。
最期に、光ノ死際を浴びた、二人は、看取られた。




