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瞬きするたびに、断続的な速さで、ぱちぱちと切り替わる。闇に、光へ。胃液まみれのセリフが喉を通って上がらない。脚が震えて、立ち尽くしたまま、ゆっくり瞼を開いた。
見つめる先、壇上の裁判官と目が合った途端、視線を逸らした。粛々と居座るその威圧感。自分をより小さく、惨めにする。法服と呼ばれる漆黒を身にまとい、誇らしげな姿。証言台の前で、先の見えない末路に立たされている。
阻むように聳え立つ、目前の法壇。証言台から見て、左手は検察官席が毅然と配置され、対する弁護人席を右手に配する。振り返れば、低い柵の向こう側にいくつもの座席が並んでいる。この全容を、誰でも、傍聴することが可能だ
裁判官は恰幅のよい中年の男だった。薄毛が寂しい短髪で、丸い眼鏡を着用している。饅頭のような輪郭からは優しい雰囲気をのぞかせて、口が真一文字に結ばれている。
その配下で、裁判官と同じ法服に身を包んだ若い女性。裁判所の職員に当たるらしく、フレームの細い黒ぶち眼鏡の奥からは沈んだ表情を浮かばせていた。
検察官のふてぶてしい唇。女形のような切れ長の瞳、ふっくらした体型で、身長は割と高く、鋭い眼差しを突きつけていた。
法廷の片隅で、傍聴席の柵と寄り添うように席がある。廷吏と呼ばれる、年配の男性が腰かけていた。
ずんぐりむっくりの、ハゲ散らかした男、赤ん坊みたいな顔して、傍聴席最前列に居座る。最後列の片隅にはギョロ目の痩せ細った男が背を丸めていた。
二人組の看守のうち、一人は、証言台の真後ろの長椅子に、もう一人が弁護人席前の被告人席で待機する。
スーツ姿の“被告人”は、神妙に俯いていた。ノーネクタイの襟元は窮屈そうに第一ボタンをしめ、起伏の目立つ腹も寂しくみえる。窶れた顔で唯一取り柄だった優しい目許は、見る影もなく、忍び寄るその時に、脅えているようだった
「貴方は鴨居玲二さんですね」
被告人は立ち尽くしたまま、小さく返事した。
「生年月日は」
「昭和48年4月14日です」
「本籍は」
「…兵庫県丹波市…えっと…」
「起訴状には兵庫県丹波市氷上町常楽園449番地1とありますが、間違いないですね」
その後、住所、職業の順に尋ねられ、起訴状記載の事実と一致しているか確認された
「これから、あなたに対する平成13年11月16日の事件及び平成27年7月9日の事件の審理を始めます。検察官が起訴状を朗読するのでよく聴いておいて下さい。それでは検察官、お願いします」
検察官により、生前の素行が読み上げられる。あまり特徴のない声が響き渡った
「‥では、今、検察官が朗読された事実について審理を行いますが、被告人には黙秘権があります。答えたくない質問には答えを拒むことが出来るし、初めから終わりまで黙っていることもできます。反対に答えてもらった方が気持ちがよくわかります。しかし、答えた内容は証拠として扱われるので、よく考えて、間違えのないよう気をつけてください」
お経のような言葉の連呼が耳の中をうねりながら通り抜ける。
「検察官が朗読した起訴状の事実に、どこか間違いはありますか?」
俯き加減で鴨居の瞳はどこか一点を見つめていた。沈黙は得もしれぬ間を作り、総てが注目の的になっている。
「…ありません。」
「―弁護人ご意見は?」
その人の、年老いた瞼は気品が滲み出ていた。白髪をきれいに纏め、狭い額までかかるような大きな鼈甲色のメガネが知的さを映し出している。背丈の小柄な男は、ゆっくり腰を上げ、マイペースに口が開いた。
「被告人と同意見で、公訴事実に争いはありません。」
裁判官の指示で被告人席へ戻る鴨居に、看守の動きは連鎖する。弁護人席前の定位置で、二人の看守に挟まれた。
林檎のような丸まった顔をして、検察官の口から語られるのは被告人の身上、経歴についてだった。冒頭陳述を皮切りに証拠調べ手続が始まる。年配の廷吏が割と緩やかな歩調で、縦横無尽に、此の紋切型の舞台を動き回っている。疎らな観客席も、深々と寝入りに陥る頃。
「―以上の事実を証明するため、証拠等関係カード記載の各証拠を請求します。」
「弁護人ご意見は?」
「甲号証、乙号証ともすべて同意いたします。」
「それでは検察官、証拠を提出して下さい。」
言うが否や、廷吏は検察官から証拠書類を受け取り、法壇へ提出した。
小太りの平べったい顔で優しい物腰だが、しめるところはしめる。そんな裁判官からの滑らかなトークは噺家のごとく身ぶり手振りで表現されていた
のそっと立ち上がった弁護人はようやく与えられた自分の持ち時間で、予想以上に反響する、しゃがれた咳を、放つ。
「被告人の情状を立証するための証人尋問を請求します。」
“証人?”―鴨居は動揺して振りかえるも、“あれ。言ってなかったっけ”という風な顔をされる。
「検察官、ご意見は?」
「しかるべく。」
動揺が内心からえぐり出る。誰なのか、誰なのか、そればっかり、頭の中をリフレインする。裁判前の高山との面会時など、出来るだけ思い当たるシーンを一部始終、炙り出すも、浮かんではこない。不安が背中に、闇となってのしかかる。その暗い闇が法廷を照らす光で段々ぼやける時、拓かれた扉に鴨居の全神経は注ぎ込まれた。
傍聴席に現れた一人の老婆を、廷吏は迎え入れる。
「え、、おばあちゃん?」
亡くなったはずの祖母と目があった。控えめな装いのその人に、辺りは冷たく静まり返って、自然と祖母の視線も低くくなる。
「坂田正恵さん、証言台の前に来てください」
手にはハンカチがあり、証言台へと向かった。
裁判官から宣誓書を読み上げるよう言われ、廷吏から、そそくさと渡される
弱々しく、包み込むような瞳はもう一度、鴨居に向けられる。それは一瞬の事。ふっと、伝うものを見た。指先で受け止め、咄嗟に目を細めたまま、法壇へ向き直っていた。
「…良心に従って真実を述べ、何事も隠さず、偽りを述べないことを誓います。」
偽証した場合は偽証罪に問われる事があると言われ、ゆっくり着席した。
「はじめに弁護人が質問しますので、こちらを向いて答えてください。では、弁護人どうぞ」
恵比寿顔の裏に、悲しみやら楽しみ、寂しさを住まわせる器用さは昔と変わらない。祖母は亡くなる前より元気になっている気がする。小さくて、されど大きな祖母の存在が痩せた記憶に語りかける。
生前の被告人の生活状況、性格など、覚えている範囲で高山から聞き取られた祖母は、申し訳なさそうに目を閉じ、背中が丸くなっていた。自分の“罪状”を晒され、鴨居は、頭が上がらない。
「被告人が今回の事件を起こした事は知っていましたか?」
「いえ、知りませんでした。」
「では、今回の事件の事を聞いて、どう思いましたか」
「…正直な話、ショックでしたねぇ。信じられませんでした。」
心痛な面持ちで零した声は嗄れていて、床の底に沈んだ。消え行く、そのさまが、いつまでも鼓膜から離れない。
情状証人に対して一つずつ、丁寧で明確な質問をする高山。連続した談話でも、証人が答えやすいように工夫している。
「ボランティア活動などもしていましたね」
「はい。‥たしか玲二が学生の頃だったと思います。とても熱心にやっていたと思います。」
「被告人の生前の様子を見に行きましたよね。どうでした?」
嘘やろ。
俯いていた鴨居の顔が咄嗟に上がり、驚きを隠しきれていない。
「はい。真面目に生活しているように見えました。高山先生とともに玲二の様子を見に行ったんですが、会社の部下に対する思いやりとか、そうそう、若い子の悩みを聞いてあげたり、そういえば最近、電車でおばあちゃんに席を譲ってましたよ」
生前の行動を列挙する祖母は遠目で、ふんわりと、はにかんだ。前を向いて答えるよう高山から注意されると、下界したときの話が、また矢継ぎ早になり、その都度止められていた。
「はい。分かりました。質問は以上です。」
替わって、検察官が立ち上がり、ふてぶてしい唇を開く。切れ長の若い目で、証言席を見据えた。
「それではお尋ねします。証人は生前、被告人とは一緒に暮らしていないのですか」
「‥はい、暮らしてはいなかったですねぇエ」
「それでは、被告人が今回の事件に関わっていたことはいつ知りましたか」
「もちろん、死んでから知りましたよ」
本当に被告人が真面目な生活をしていたのか。深く反省しているのか。別居していて被告人のことをあまり知らないのではないか等、検察官の意地悪な質問が続く。
「被告人は上司の機嫌を損ねないために、被害者へのセクハラ行為に加担したと言っていますが、それ以外の理由に心当たりはありませんか。」
「‥ンー、やっぱり役所の仕事やら人間関係がアカンかったんやと思います。精神的に追い詰めたんだと思いますよ」
「被告人は市役所での仕事が手一杯となり、また母親の病気が再発したことも重なって、徐々にストレスが溜まり、そのストレスを発散するため、部下に対して性的な行為をしたと言っていますが、被告人の母親の病気はそんなに重たいのですか」
「江梨子さんのことですか?」
「はい。」
「知りませんでした。もしかすると、私が死んだあとに江梨子さんが体調崩されたんじゃないでしょうかねぇエ」
「それでは、市役所での仕事について被告人から何か話を聞いたことはありますか」
「いいえ。何も。そういえば生きてるうちに、そんな話もゆっくりできなかったですねぇエ」
検察官はいやらしい感じで揚げ足を取りにくる。うつむく目は(ボソッと呟いた)
…さっきと言ってること違うなぁ。
「…、」
急硬化した相手に緊張してうまく話せない祖母の気持ちが犇々と伝わってくる。すぐに答える場面もあるが、反面、躊躇いや、穴埋めのような言葉も大量発生している。一拍置いての発言からは「迷い」が幽かに表れていた。断定的な発言を避けている。その様子を法壇の上から鏡のような目で見ている人物がいる。ここで、検察官の反対尋問は終わった。
「では、これで証人尋問を終了します。証人は席に戻ってください。」
廷吏が付き添い、傍聴席まで誘導したのを見送ったのち、その声は壇上から降り注ぐ。
「それでは、被告人質問を行います。被告人は証言席に座ってください。」
中央に鎮座する証言台の姿―その存在があっと押し寄せてくる。足腰が分解して、心を操る糸も綺麗に切れた。今までの記憶が一斉に飛び立つ時、胸の筋を、冷たく、なぞってゆく。二人組の看守に挟まれたスペースから抜け出し、一歩前へ出る。
とりまく視線にめくるめく。いくつもの眼球の蠢きの静けさに。周りのそれぞれの視線が同化していく様を見た。裁判官の伏した目は淡く冷めた模様を湛える。女性職員の機械的な動作、検察官の疑りぶかい瞳、角度をつけて見ている高山の、鼈甲柄の眼鏡の奥。
瞬きするたび、断続的に切り替わる景色。ぱちぱちと。闇に、光へ。脚の震えが止まらない。立ち尽くしたまま、ゆっくり瞼を開いた。
まっすぐ見つめる先に壇上の裁判官。目が合う。咄嗟に視線を逸らした。
言葉に出来ないというより、腰が引けた。
底冷たそうな人間たち。
今、裁ち切られる。
ぱちぱちと。
断続的に切り替わる
闇ト、光。
体が揺れて―
ゆったり瞼を開いた。
目の前に、証言台の椅子が、ある。
「―以上が、判決主文となります。量刑理由の要点を、若干説明しますので、被告人は、席に座ってください」
「え、あ‥はい、」
放心状態で聞いていた鴨居の背骨が積み木崩しのように席へ落下した。
判決の日。出番など無く、着席したまま、言い渡された
瞬きするたび、狭い視界が新しくなるのを感じていた。裁き受ける者は衰え、行うものが光りを得る法廷の様子は、全てありのまま包み込んでいるようで、そうでなく、どこか腑に落ちない。真実が、演出されていた。相変わらず、中年の小太りで、おでこから上が少々、寂しい裁判官。そのお膝元で、裁判官と同じ法服に身を包んだ若い女性職員。フレームの細い黒ぶち眼鏡の奥から澱んだ表情を浮かばせている。検察官のふてぶてしい唇、ふっくらした顔の中心から切味鋭い眼差しを突きつけてくる。傍聴席は多分、今日も二人しかいないだろう。祖母の雰囲気もあまり感じられない。来ていない気が、する。目線こそ落としているものの壇上で自分の沙汰が話されている真っ最中のため、振り返ることはできない。台詞のように言い切ったあと、裁判官は舞台袖へ退いてしまった。あっけなく終わり、童顔の傍聴人も、女性職員が退室するのを見計らって、一目散に出ていく。
紫色の風呂敷に包んで、検察官の姿が翻った後、眉尻下げて寛いでいる弁護人席を一瞥する。




