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色欲
目が覚めると、車の後部座席にいた。瞬きをする。ぱちぱちと。断続的に切り替わる、闇と、光。体が揺れて、ゆったり瞼を開いた。まっすぐ伸びゆく道を、どこまでも、走りつづけている。両脇にスーツ姿の見知らぬ男がいて、表情も乏しかった。会話さえ無く、助手席の男も、進行方向ばかり気にしていた。
地平線の向こう側まで、田園は広がっている。
そこで、瞳を閉じた。闇に切り替わる。揺られて、目を開けた。ぱちぱち瞬きを繰り返すたび、現実なのか、密閉された光と、交互に放たれる闇のなか、さ迷った。見えては隠れる、現実と虚像。されど、なぜか。沸き上がる主張もない。腹立たしさもない。連行されている道中だと、なんとなく車窓を眺めた
締め付けられるような圧迫感を抱えたまま、どくどくと、浮き出る血管。ひんやり冷たいものが手首にふれるたび、汗は伝う。晴れ渡る空の下、辺り一面の平野に人はいない。街が見えてきた。中心部にたたずむ灰色の建造物、それが警察署。車は当たり前のように、門をくぐった。
沈みこんだ渡り廊下を警察官とともに突っ切る。誘導する丸い闇に浮かぶ、瞳。奥にいけば行くほど、吸い込まれるような静けさは、しばらくして自分が留置されることをひっそり教えてくれた。
時の流れがわからないまま、窓のない鉄格子の中で冷たい息を潜めた。沈んでは、昇る世の常に、ここはいつまでも仄暗い。留置施設を仕切る職員に叩き起こされ―
間もなく“ケンサツチョウ”へ向かう。
眠りから覚めたら、出発する旨が言い渡され、駐車場に連行された。影に犯されし地下ピロティは、外へと通じる出入口のみ、日差しの濃厚な朝が、降り注いでいる。待機している車が口を大きく開いて、この身体は吸い込まれた。
遠のく街と引き替えに、現れたのは、蒼く繁る杜だった。官公庁の集う一帯に、ひと際、年季の入った二階建ての白い建物が見えてくる。看板には検察庁と書かれているが、人の気配を全く感じさせない。堀に囲まれ、閉鎖的だった。車は、敷地内に入る。古くから棲み着いているだろう、立派な巨木や緑の景色を、後にした。車一台が入れる砂利道を通り抜け、建物内にある車庫のような場所で停車した。重たい雰囲気の中、窓ガラスに映る、不自由な景色。理解できない用語を使われ、少しの会話があったのち、ぴたりと静まり返る。黒ずくめの職員に挟まれながら、車から降り立った。奥にある通用口へと、歩かされた。
専用エレベーターは急上昇し、連れてこられた、銀色の世界。その一室から待ち構えている、見えにくい光。入ってすぐ、出入口に横顔を向け、座っていた、若そうな女の体躯。上座に、禿げた中年男が腰かけて、険しい横顔を見せながら、書類と相対している。その中年男に対面する形で座席へ連行されたら、手続が始まった。ちらり窺うと、実際、女は、かなり若かかったが、冷たい目でパソコンを直視している。
照りつける、グラインドから射す光は、中年の男を後光のように演出する。瞼の隙間から、目を凝らすと、息苦しくなった。殺風景な雰囲気をさらに白く、近寄りがたく、しようとしている。
こじんまりした部屋は、その整理整頓された几帳面さを浮き彫りにし―光、いよいよ濃くなる。
〈鴨居玲二サンですね。副検事の布施院です。さっそくですが、これまでの経緯を見させていただいたところ、特に、人の道に外れたこともしてないし、家族のために、立派にお勤めされてきたようですね。今まで、お疲れ様でした。〉
布施院は人なつっこい笑みを浮かべながら、稲穂が垂れるように一礼した。熊のごとき大柄の禿げ頭に、精悍な顔立ち故、つい目が頭の方へ行ってしまうこともある。ただ、不思議と気にならない。白いカッターシャツと黒い背広を合わせたら、余計、肩幅や胸板のぶ厚さ、その剛健さが全面に押し出されていた。
書類に目を落とし、ちらちら捲ったあと、考え込む仕草。元の目線に戻したとき、表情が移り変わる。
〈‥まぁ、強いて言えば、その一方で、あなたが若いとき、上司の非常識な言動から奥さんを守らなかったり、最近に至っては、部下との浮気があったと聞いていますが、―いかがですか?〉
もう一度、聞き直した。思わず、相手のペースに流されそうだった。それでも割と心の揺れ幅が小さい。何を言ってるんだ、この人は。正面からの真っ直ぐな光は、男の後頭部をジリジリ照らす。
鋭い切っ先を感じ、首筋は固まった。真横からは冷たい視線を突き付けられ、背筋がはりつめる。
「‥いかがですかと、言われても。…ちゃんと話し合いましたし。浮気なんてしてないですよ」
―そんな事を…淡々と、しかも大袈裟に言われても。気がつけば、副検事は怪訝な顔をして聞い入っていた。ちなみに、少ない髪を優しく掻きながら、うっすら笑ってもいた。
「‥確かにダメな部分もあったかもしれませんが、アレは妻の一方的なもので誤解なんです。大体、なんで、そんな理由で拘束されたり…取調を受けたりしなければならないんですか?…私が―」
ただ、奥さんは非常に強い恨みをお持ちのようですよ。
「えっ?」
〈ご存知なかったんですね。まぁ人間だれしも過ちはありますよ。数ある過ちのうち、特に被害感情が強かったのが、この二件でした。重要な話ですので、もう一度被疑事実を確認しておきますね。読み上げますと、まず〉
第一に―
貴方は、鴨居京子(当時30歳)と婚姻関係にあったが、平成13年11月16日午後5時ころから同日午後10時ころまでの間、兵庫県神戸市の沢村博和宅において、前記沢村が前記鴨居京子に対し、『めっちゃ巨乳ですね。何カップあるの』、『いまのうち、もっと子供作らないと。年とったら、大変やから。』などと申し向けて、もって、人を著しくしゅう恥させ、かつ、人に不安を覚えさせるような卑わいな行為をした際、前記鴨居京子が、著しくしゅう恥し、かつ、不安を覚えさせるような卑わいな行為を受けていることを知りながら、同日同所において、前記鴨居京子に対し『今日帰ったら、ヤっちゃう?』などと申し向けて羞恥心を煽るなどし、もって、前記沢村の前記犯行を幇助した。
「次に、第二事実―」
貴方は、鴨居京子(当時44歳)と婚姻関係にあったが、正当な理由がないのに、平成27年7月9日午後12時ころ、兵庫県神戸市内で入院中の大迫真悠子(当時28歳)を情緒不安定と認めるや、同女を誘惑しようと企て、インターネットアプリケーション「LINE」において、所携の携帯電話機から、「愛してる」「好きやで」などの文言を内容とするメッセージを同女の携帯電話機に送信し、やにわに自己の社会的地位を利用して、同女の意思に反して不快な状態に追い込む性的な行為を加えて、その反抗を抑圧し、強いて同女から淫靡な文言を上記「LINE」に送信させ、携帯電話機から閲読しようとしたが、前記鴨居京子に閲読されたため、その目的を遂げず、その際、上記行為により、前記鴨居京子に加療約1か月を要する精神的ストレスを負わせた。
「ちょっと!待ってください」
「ン?」
さくさく前に進めていこうとする布施院を鴨居は制した。
「…犯行て大袈裟じゃないですか」
「被害に遭われた奥さんからしてみれば、これは大袈裟ではないかもしれませんよね。ここでは大小問わず、ルール上、犯行と読んでいます」
布施院は、目の下にしわが寄って、包容力ある笑みを浮かべた。鴨居の訴えも、ウンウンと、耳を傾ける、だけ。その仕草がまるで囀りを聴くかのようだった。
「沢村サンの時だって!何罪ですか?なんの罪に当たるんですか?」
止まることのない、それは衝動だった
「では、今、述べた事実について、認めないということでよろしいか。」
「いや…そういう訳じゃなくて」
急に語気が鋭く感じ、副検事の穏やかな表情をまじまじと見た。決して多くを語らないその微笑みに対し、気味悪くさえ感じる。自分の態度が縮小して、方向性すら見えない。有無を言わさず、法や規則の説明のために、時間が割かれたが、結局なんのことか、さっぱりよくわからなかった「鴨居さん、時効は適用されないんですよ。だいぶ、前の事だとは思いますが。今から犯行に至る経緯を説明しますのでよく聞いておいてくださいね。」
「はぁ…」
副検事は一呼吸置いた。
〈犯行に至る経緯〉
貴方は、高校を卒業してアルバイトや電話工事の仕事などを経た後、平成3年4月ころから運送会社で働き始め、平成8年の初めころ、配送先の会社に勤務していた女性と交際を始めて、間もなく同棲するに至った(平成10年12月に入籍)。貴方は、平成11年5月ころに勤めていた運送会社が倒産したことから、同年6月上旬ころ、公務員試験対策等の予備校に通う等して、就職活動を始めた。
その後、貴方は、平成13年4月から神戸市に採用され、会計事務をするようになり、平成17年4月には、係長に昇進したものの、相談者からの度重なるクレーム対応や担当している業務のトラブル対応など、全てを1人でやらなければならなくなったために仕事で手一杯となり、徐々にそのストレスを蓄積させていった。平成26年8月に貴方の母親の病気が再発したことなども重なって、貴方は、その欲求不満といらいらした気持ちを発散させるために、好みの女性に対し、わいせつな行為をすることを考えるようになっていった。
「―」
しんと静まりかえる。終わった後の、最後の声から漂う余韻が剥がれ落ちる。日がちらちら集中力を遮って、座席から自分の存在感はふわっと浮きあがる。背骨が空中分解しそうだった。肉体はすべて溶け出し、ここに、骨と目と僅かな脳ミソだけが唯一残された。
ただ、生きた心地がしない。手に汗にぎる不安や血流が、かきなるはずの鼓動さえ、何一つ感じさせない。
眼球の中を瞳はさ迷う。にじんだ血のようにめらめら黒い太陽は燃え盛る。小刻みに震え、じろりっと視界の先端をとらえる。
「 」
『鴨居さん…あなたは死んだんですよ』
頂に生える、しぶとく残った髪の毛を布施院は気にしていた。ときたま頭を傾げながら、脂の浮いた頭皮に対して、指先でとんとん、と。低刺激を与えている
時間の傾きは、前方から差し込む光の白さで、元に戻ろうと蠢いている。不気味な事に、なにも感じない。胸は。
ただ、時計回りに、玲二の瞳が動いていた。椅子に張り付いたまま、背中が、べったり、離れない。なめるように秒針が進んでいる。副検事の慈悲深い顔がだんだんと大きくなり、横から聞こえていたはずのパソコンを打つ音は止む。
出られなかった。胸の奥の、自分自身は。声にもならない、胃液まじりの、酸味のきいた言葉。飲み込もうとすれば、するほど、後味悪いのが更に食道を逆流する。肉体と精神が連動してない。壊れかけのマリオネットの糸が切れた。ぷつり、と。無声映画を見ている、気分。弾けるように副検事の次の質問は、はっきりと聞こえた。…あ・はい、
「間違いありません。」
いつもの俺なら、笑っちまうところだろうか。
光から転がるように闇へ、と再び舞い戻ってきた
鴨居の顔は鉄格子に分断された。




