想いは、桜の季節へと
昔の稚拙作。
夢は夢に終わり、その破片すら掴めない。
なにか一欠片さえあればきっと、覚えていられるのに。
でも、その一欠片を拾おうとする努力をしない自分は、きっと本当には望んでいないのかもしれない。
夢を、現実に見ることを。
++想いは、桜の季節へと++
今日もいつもと同じ、目覚まし時計よりも随分早く、ノロノロと身体を起こした。
目が覚めたのは三時間前。もう寝ることもできないので仕方なくといった感じだ。
芽は目覚ましを拾い上げ、セットを解除する。
そろそろ、寝る前のセットもしなくていいかもしれない、と思い始める。
ゆっくりと、服を着替えて台所へ向かう。
朝の食卓につくと、父と、流しに立っている母がいる。
そして今しがた犬の散歩をし終えて帰ってきた祖母が入ってくる。
いつも通りの朝のメニューを食べて、少しゴロゴロしてから出かける準備をする。
午前十一時に中学時代の同窓会がある。
二年ぶりに会える中学のクラスメートは変わっているだろうかと胸躍らせながら、午前10時に支度を開始した。
はずだったのだが。
「ちょっとーぉ!遅刻しちゃうわよ!」
家が近所で、小、中、高と同じ学校の遠藤千佳と待ち合わせをしてから同窓会へいく予定だった。
だが、集合時間より10分遅れで芽は到着した。
「ごっ、ごめん!ちょっと支度に手間取って・・・・・」
膝に手をついて荒い息をつく。
どうしたことか、当日のために用意していた服を、なんとクリーニングに出されてしまい、慌てて急ごしらえの服と髪型をセットし直したのだった。
待っていた千佳は憤慨した表情で腰に手をあてて急かしている。
「ここまで走ってきた努力は認めるけど、休憩してたら同じことよ?」
「ご、ごめ・・・ケホッ」
呼吸を落ち着かせて再度謝罪する。
「よし、じゃあさっさと近道通って行こう」
途中までは高校と同じルートで行けるでしょ、と千佳が言う。
「あ、そういえばそうだね、普通に行こうと思ってた」
高校に入ってからよく使うようになった、あまり知られていない近道を使っていくことにした。
学校と、今日の同窓会会場はそんなに離れておらず、その道で行けば、普通の歩道よりは時間短縮できるはずだ。
遅刻をしてきた芽にとってはいい提案に思えたので、頷いてそれに従った。
グネグネとした道を少し通ると、鬱蒼とした林が目につく。
芽たちの住んでいる街は比較的大きい、しかも都会化があまり進んでいないので田畑や果樹園も普通に見かけるが、ここまでの規模のものは珍しい部類だ。
そして本来ならば、近道などに使うものではない、神社の敷地だったりする。
芽と千佳は迷うことなくそちらへ進んでいく。
「夏だったら遠慮したいとこなんだけどね。今はまだ春になったばっかりだからやぶ蚊もいないだろうし」
「だねー。夏場のあそこは地獄」
と、木々を避けつつ進む途中、千佳が「あっ」と声を上げる。
今まさに思いついた、そして「しまった」という顔をしていた。
急に足を止めた千佳を怪訝に見て、芽が「どうしたの?」と聞く。
「あ~っと。芽!こっち!こっちから行こ!ねっ」
千佳は芽の腕を掴んで方向転換を促した。言うまでもないが、「真っ直ぐの近道」からは遠ざかってしまう。
「・・なんで?」
「まぁ、いいじゃない。この道でも、十分間に合うわよ」
「はぁ・・・」
腕を組まれた形で、引かれるほうに芽は大人しくついていった。
遅刻したのは芽当人だし、急がないと悪いと申し訳なく思っている相手の千佳本人がそうしたいというならそうしようと思ったのだった。
三月の終わりの午前の時間、冬の名残でまだ少し冷たい風が二人の背中を撫でていく。
木漏れ日がかすかに暖かく、緑の匂いが気持ち良い。
ガサガサと踏みしめる木の葉の間には春の野草がちらほらと咲いている。
今日は朝から桜の木が3部咲きの体であったのも芽は見ている。
春の息吹を随所に感じられる光景に暖かいものを胸に抱く。
もともと、春は一等好きな季節である芽だ。
心地よい小道を歩いていると拓けた場所に出た。
すぐ先にはまた林が続いているのだが、その手前に
「へぇー。こんなところにも立派な木があったんだねぇ」
千佳が感心した風に言った。
そこには丸裸の大木が一本聳え立っていた。
大人の身長の三倍かそれ以上かというくらいの高さと、腕を広げた二人が囲めるか囲めないかくらいの太さの大樹。
その周囲四方に木製の柵が立ててある。
柵の根元には赤や黄や青の野花が咲き乱れていた。
だがどういうわけか、柵の内側には花はおろか雑草さえ生えてはいなかった。
まるで、柵を境界として春が遮断されている、そんな気配だ。
軽く見上げながら先を進む千佳は何とは無しに言った。
「この木、なんの木なのかしら。この季節に葉っぱの一つすらついてないなんて」
「・・・・・・・・・」
「・・・どうしたの?」
突然黙りこみ、足を止めた芽を振り返る。
「・・・・・・・・・・ん。なん・・でもない・・・よ?」
言いつつ、呆然としたまま、芽はずっとその大木を眺めていた。
だんだんと遠い目をしていく芽を見て、千佳が腕を少しきついくらいに握って引きとめた。
千佳は目を伏せて、芽に気付かれないようにしながら唇をかみしめる。
なにか大きな失敗をしてしまった、そんな表情だった。
「芽!急ごう!本当に遅れちゃう」
いつの間にか止まっていた足を動かして、芽は千佳に引っ張られるような格好で林の中を通り、足早にその場を後にした。
「あ~っ、千佳っちとメーちゃんだ!」
店内に入るとすぐにこっち、と手招かれた。
ゲームスペースで飲み物を手にして思い思い雑談している最中だったようだ。
芽達がその輪の中へ入ると
「来れる人は全員来たわね~?」と幹事の女子が人数を数えて言った。
どうやら芽達は一番到着が遅くなってしまったみたいだ。
懐かしい面々に囲まれて、早速とばかりにホッケーやクレーンゲームに導かれて遊ぶ。
思い出話をあれこれ話しながら、今日来ていないあの人はどーした、担任の先生はこーしただのと人のうわさに花を咲かせる。
そうした楽しい時間が過ぎ、芽は中学時代に戻ったような感覚を味わっていた。
そして
「おっ、おおおおお、大澤っ?!お前も来てたのかっ?」
「? あっ、矢島くん?あ~、結構変わったねぇ」
そろそろ昼食でも取るかと総意で食事スペースに移動していた時、入り口のベルが鳴ったと思った瞬間大声がした。
ちょうど戸の目の前にいた芽が驚きつつもそちらを向くと、中学時代よく話した矢島が立っていた。
すぐに気付けなかったのは、彼が当時とは髪型が変わったせいだ。
無理もない、いつまでも中学野球部時代の丸坊主でいる者などほぼ皆無なのだから。
そして芽はその野球部のマネージャーを務めていた。
「矢島くん、途中出席完了、と」
と、やはり幹事が出席を記入する。
「ちょっと遅れるだけって言ってたのに一時間近く過ぎてるから来ないのかと思ったよ~」
安堵の息をつく幹事。
出席者人数が一人違うだけで予算やなんやと調子狂いが出てくるので心配だったのだろう。
遅れてきた矢島を混ぜて、皆でテーブルにつくと、あらかじめ頼んであった料理が運ばれてくる。
大体がジャンクフード系だが、この店オリジナルのさっぱりとした料理もあった。
芽が座ったテーブルは6人掛けで、隣に千佳、正面に矢島、他三人はそれぞれ矢島と芽、千佳の旧友が座っている。
おいしい食事に会話も弾んでいた頃、ふいに矢島がこう切り出した。
「大澤、俺、ずっと心配だったんだ。・・・大丈夫なのか?」
騒がしい中だったのだが、矢島のその言葉にその隣の席の女子、その正面の千佳が黙る。
それにつられるようにして他のテーブルの声量も少しだけボリュームが落ちた。
先程より幾分か静まった中で、芽が聞き返す。
「え、何が?」
「や、大丈夫ならそれで・・・いいんだけどさ。お前、べったりだったじゃんか?マネージャーの仕事ほっといて陸上部の練習見てたりさ」
芽はなんのことか全くわからず首を傾げる。
「だから、何のこと?べったり?陸上部?」
「・・・できればあんまり言いたくなかったんだけど、おお・・・」
「っわ~~~~っっっと!!!矢島くん、食べてる?飲んでる!?こういう会ではより多く飲み食いしたもん勝ちなのよ!!」
それまで、おしゃべりを中断して黙って聞いていた、矢島の隣の席に座っていた女子が、彼の前に次々と料理を盛っていく。
「いや、あの、実はバイト先でちょっと食ってきちまって、そんなには」
食べれない、と言おうとしただろう口に、
「はい、いいから飲め~っ」とめちゃくちゃ言いながらグラスを矢島の口に突っ込む、隣のテーブルからわざわざ来た男子。
何故か二人とも妙に焦った様子で矢島の言を無視している。
「ぶっ!?なんだこれ、酒ぇっ??!」
半分噎せながら涙目でグラスを置く矢島に一斉にヤジが飛ぶ。
「なんだ矢島ぁ!シラケる事すんなって」
「そーだっ、一気いけ一気!」
「酒飲んだくらいで泣くなっ」
などなど・・・と。
真に受けた矢島は反抗しつつ酒のグラスを次々空けていき、後には、昼間っからできあがった矢島と、どういうわけか疲れ顔の面々、あきれた様子の千佳その他数名女子、それと、突然始まった大騒ぎについていけず呆けた芽が残った。
挙句、悪酔いした矢島が叫び始める始末。
「俺は、大澤芽が好きだぁっ!」
「・・・・・・はぁっ!?」
芽は瞠目してあとじさる。
「だから、心配なんだ!もしよかったら俺が、さモガッ、モガ、モガガッッ!!?」
数人に口を塞がれ、酔いつぶれていた矢島は失言にも気付かないうちにテーブルに突っ伏してしまった。
鼻も一緒に抑えられていたのだから、当たり前だろうが。
「・・・矢島くん?大丈夫?」
慌てて手をはずした面々が確かめると、穏やかな寝息が聞こえてきた。
「・・・・・・・・・・・え~、じゃあ、これは、勝手に矢島が酒を飲みまくって勝手に酔いつぶれて勝手に爆睡してしまった、ってことで」
一人が言うと、同意の声が方々から上がった。
「ちょっとみんな、それはないんじゃあ」
「大丈夫大丈夫、ちゃんと家には送るし、なっ、みんな」
芽が一人だけ心配をするが、流されて結局は矢島放置で穏やかな同窓会が再開したのだった。
***
楽しかった同窓会終了後、一週間が過ぎ、新学期が始まった。
朝、芽は遅刻ギリギリで門をすり抜け、予鈴がなり終わるまでに教室に入るべく全力疾走していた。
階段を上りきったところで向かいの廊下から歩いてくる教師陣と目が合い、すばやく目礼をして左の廊下に入る。
幸いクラスは階段に一番近い所であったので急いで入り、埋っていない席を探して座った。
その時予鈴がちょうど鳴り終わり、ほう、と芽は呼吸を整えつつ息をついた。
しばらくすると女性教師が入室し、始業式が始まる時間になるまで諸連絡を伝えだした。
最後の締めくくりに
「始業式から遅刻ギリギリに登校する馬鹿者が悲しいことに沢山いました。明日からは二日間の実力テストもあるので、春休みボケは早く終わらせてしっかりと勉強するように。特にさっき走ってきた大澤さん」
「は、はーい・・」
ジロリと軽くねめつけられ芽は細く返事をした。
廊下で目があったのは運悪く今日から担任の先生だったようだ。
「では、体育館へ静かに移動するように」
SHRが終了の号令が終わると、皆一様におしゃべりを開始して移動をしていく。
「ちょっと芽、髪の毛ぐちゃぐちゃだよ?」
そう言って芽の髪を撫でつけ話しかけてきたのは千佳だった。
「あ、ごめん、ありがと」
「いえいえ、ちょっと歩きながら整えたげるわ」
千佳自らはショートヘアであるが、ピンなどを使って綺麗に髪を飾っている。
体育館に向かいながら、どこからか取り出した櫛を使い芽のセミロングの髪をあっという間に軽く結い上げてしまった。
「ありがとー」
「ん。で、どしたの、寝坊?」
「ううん、私、寝坊だけはしないんだ。けど、」
「おはよー!!」
体育館内に入って、言おうとしたところで別のところから声がかかった。
見れば去年のクラスで仲がよかったメンバーが揃っていた。
「結局二人は三年間一緒だねー」
「うん、いーでしょ」
芽が千佳に抱きつく振りをして軽く笑い声が起きる。
「もし**が******ら**も含めて三年間一緒だったかもしれないね・・・・・・・・・・」
「ん?なんて?」
聞き取りづらくて芽が聞き返して見ると、それを言った加奈は隣の京子に頬をつねられていた。
「なにしてんの?」
「いやほら、この子ほっぺた柔らかいからさ、遊んでんの」
京子がニコリと笑い、昔流行った『たこやき』を作ってみせた。
「あー、たしかにー、やわらかいねー」
更に両隣に居た二人が加奈をもみくちゃにして悲鳴が上がった。
芽も千佳も笑って参加しようとして
「早く並びなさい!!」
生徒指導の教諭の一喝がマイクを通して下り、しぶしぶと言った様子で生徒たちが並んだ。
式開始の礼をしてからずっと、新学年になったのですから改めて気を引き締めて・・・、など云々のことを舞台に上がった教師たちが長口上している。
先ほどよりは抑え目で場はざわざわしているが、もはやこれ以上静かにさせるのは無理だろう。
長く立たされたままで眠くなり、加奈が先程何を言ったのか気になっていたのを、芽はうやむやのまま無意識に頭の隅へ追いやっていた。
クラスの内五分の一程のメンバーは大体知っているので、趣向を凝らして名前や得意科目、趣味のほか、必須項目に家族構成を交えての自己紹介がHRで始まった。
芽の順番が回って来て、
「大澤芽です。植物の芽、一文字でめぐみって読みます。去年は5組所属で得意科目は国語、です。出身中学は東中。えっと、家族構成は、祖母、父、母、私の5人です。一年間よろしくお願いしまーす」
ガタン、と椅子に座ってから、ヒソヒソと声が聞こえ、なにか変なところがあったかと芽が心配になると、ドッと笑い声が起こった。
「え?え?」
軽くパニックになりつつ前の席に座る千佳に身を乗り出して助けを求めると、千佳は苦笑いをしていた。
それでも何がおかしかったのか言ってくれないので近くに居た先生を見ると、
「大澤、受験生なのに算数ができなくてどうする。おばあさんとおとうさんとおかあさんとお前なら4人だろうが」
「え、今私なんて言いました?」
「5人って言ったぞ、たしかにー」
よそから声が飛んできた。
途端に芽は焦り、「あっ、そ、そう、犬がいるから反射的に五人って言っちゃったのかな~?」
とごまかした。
またしばらく爆笑が続いて、その後滞りなく自己紹介が進んでいった。
「びっくりしたぁ~、私なんであんなこと言ったんだろ」
その最中千佳に話しかけて顔のほてりを冷ます。
「恥ずかしいから即行で忘れてね。なんだろ。ちょっとここ最近調子おかしいんだよね。ボーっとするっていうか」
「最近って・・・・・もしかして、同窓会の時、くらいから?」
「んー。確かに、そのくらいかも。なんでわかるの?」
芽が不思議そうに振り返ると、千佳は口ごもってごまかすように笑った。
「なんとなく、かしら」
そう言う千佳の顔はこわばっていて、どちらかと言うと『苦笑い』と言ったほうがしっくりくる表現だった。
「ふーん?」
それ以上追求されなかったことに安堵した千佳には気付かず芽は椅子に深く座りなおした。
「ねぇねぇ、よろしく、大澤さん?さっきの紹介面白かったよ」
右隣の方から初めてクラスメートになる人が話しかけてきた。
「あ、うん、よろしくー。えーっと」
「田沼さんだよね。私もよろしく」
名前を聞いていなかった芽に変わって千佳がそう言った。
「名前でいいよ。絵里って呼んで。千佳と芽でいい?」
割とおしゃべりな子だったようで、その後は芽も千佳も口を開くことなく絵里の話を聞くだけでいたらHRの時間が終わってしまった。
「明日はテスト日程だからなー。間違えるなよー。では、解散」
まだ居残って新しいメンバーと話しをする人たちと、さっさと帰って勉強する人、テスト前だというのに遊びにいく人たちなどが一斉にざわめきだす。
芽はどうするか一瞬迷って、千佳が帰ろうとするのを見るとそれに倣うことにした。
「千佳、途中まで・・・」
「ねぇ、芽!確か出身中、東だったよね?一緒に帰らない?」
「え、あ、うん。いいよー」
そのうちに、「ばいばーい」と千佳が帰ってしまった。
あ、あの顔は彼氏と帰る約束でもしてるな、と芽は推測し、呼び止めるのは控えておいた。
「絵里はどこなの?」
「電車で三駅先なんだ。今日遅刻しそうで送ってきてもらったから、自転車なくて歩いて駅まで行かなきゃなんだ。東中ってことは駅の方でしょ?」
「うん。そっか、遅刻しそうだった仲間だね」
「あ、芽、朝注意されてたもんね」
談笑しながら帰路につく。
地元人しかなかなか通らない道を歩いたので、絵里はしばしば寄り道をしたがったが、「明日はテスト」と言い聞かせてまっすぐ帰る。
15分ほど歩いた所で絵里がまた立ち止まった。
芽もとりあえず止まり、「あと10分くらいあるんだから急がないとお昼だいぶ遅くなっちゃうんじゃない?」と諭した。
「これが最後だからちょっと寄らせて?私神社って好きなんだー」
絵里が眺めていたのは、あの林に囲まれた神社だった。
芽の家はこの神社の向こう5分行った閑静な住宅街のうちの一戸である。
いつものルートで帰るのならばここは別に通らなくてもよかったのだが、駅へ真っ直ぐの道と言うとこの場所は通過点なのだった。
それでも意図しない間に自然と足がこちらを向いたことに、芽は驚いていた。
すでに神主はいない――芽が知らないだけで本当はまだいるかもしれないが――この神社にも、芽が遊びに来ていた十年前ほどには管理者がいて、古い遊びや伝統行事を教えてもらったりしていた記憶がある。
もっともそれは一人でではなく・・・そう、誰かといつも一緒だった。
「誰だっけ」
「え?なにが?」
「え、ううん。気に入ったんなら入ってみる?小さいころ遊んだから結構覚えてるよ」
千佳だったろうか、そう思って少しだけ、自分に向かって同意を示す。
きっとそうだ、と。
振り返った絵里に案内役を買って出る。
古くても、敷地だけは異常に広い神社なのだ。案内人がいなければ少々出てくるのに時間がかかるかもしれないほどに。
今立っている入り口より奥へ行けば林が広がっていたりもする。
「小学生の頃は『秘密の近道』とか言ってよく使ってたんだよ。こっちじゃなくて反対側は、今でも学校行く時に使うんだけどね」
「秘密って、よくクラスの男の子とかが言ってた。秘密基地とか」
絵里が笑っていうと、そういわれてみればそうかもしれないと芽も思った。
男の子がよく使う言葉。憧れはあったけど、実際に言い始めたのは果たして本当に自分だったのだろうか。
「私の家はこの向こうで、別の道通ってもうちょっと絵里と一緒に行こうと思ってたんだけど、探索が終わったらこのまま帰っていい?結構おなかすいてきちゃって」
「うんいいよー。ごめんね」
芽は心なしか早口でまくし立てて許可を問うた。
一体誰が、と考えて、なぜか焦った。
千佳でないことは確かだ。あの子は昔からとても女の子らしかった。
「これって中入っていいのかな?あれ、鍵かかってる」
「さすがに中はやめときなよ。管理人さんがいないと開かないだろうし」
「そだね、じゃあ外周だけ」
神社の建物を見ながら絵里が歩き出す。
この間の同窓会の時も、社以外は見るとも無しに見たけれど、やはり改めて社を歩いてみると懐かしさが胸に去来した。
昔はここらへんを走っていた、いつも同じところで転んだりして、馬鹿にされた。
(「でもあそこ、へこんでるから、しょうがなかったんだよ」)
林があるところまでは電線もなくて空が開けていて、凧揚げもよくした。竹とんぼも。でもあんまり巧くできなかったことを覚えている。
(『下手くそー』「うるさいっ」)
小学校の夏休み課題、縄跳びが出て、練習にここにきたり、学校の友達も呼んで一緒に遊んでいた。
(「わー、**ちゃんすごーい。ねっ、めぐちゃん。でもめぐちゃんは私と同じくらいしか跳べないよね。**なのに。**ちゃんと**は*****なのに*************」)
「っ?」
芽は頭を抱えてしゃがみこんだ。
少し前方で絵里が気付いて声をかける。
「どうしたの!?」
「・・ううん。なんでもない」
頭を振って芽は立ち上がった。あまりにも雑音が激しくて驚いただけで、別段頭や耳に異常はなかったので、また歩きだした絵里に、やや後ろからついていく。
外壁に沿って歩いているだけなので、案内も不要そうだ。
気を張らずにいると、またなにかが浮かんだり消えたりする。
これといった形のない断片。誰かの声や、どこかの場面。その中でたまに起こる、声を遮る雑音。声だけじゃない。ぼんやりとした闇が回想の中の芽の傍にいつもある。
「・・なに、これ、・・・・気持ち悪い」
そう、気持ち悪かった。
傍に近づけば喰われてしまうような気持ち悪さだ。
雑音は、その闇に関する事から芽を守っているように思えた。
これ以上は頭が痛くなりそうだったので、芽は再度かぶりを振ってしっかりと足を動かすことに集中した。
「ぇ、ねぇ、芽ちゃん?」
「あ、あ、うん何?」
「どうしたのさっきから、大丈夫なの?」
「あ~っと・・おなか空きすぎちゃって胃がちょっと痛いみたい」
「え!そうなの?ごめん、じゃあこれで最後」
相当連れまわしてしまったのかと絵里が焦って、謝りつつ質問をしてきた。
「ここっておみくじないの?あそこにおみくじを結ぶ紐があるからあると思ったんだけど、見つからないんだ」
あそこ、と絵里が前方に見える林の入り口付近を指差す。
確かに樹と樹の間に紐が何本か渡してあって、何年間かほったらかしにされたおみくじたちが結ばれていた。
ああ、と芽は思い当たって言う。
「確か、・・・ここらへんに・・・・・」
社の外壁を見て、木材に取っ手がついているところを見つける。
ガタン、と上に引き上げると2つ、おみくじ箱が置いてあった。
やはり管理者はもういないのか、少々埃がかぶっていた。
はい、と絵里に一つ渡して、それを念入りに振っている間に、今度は運勢が細かに書かれている紙を収納した箪笥のもとへ行く。
が、おみくじ箱と同じく引き上げる式のはずだったそれは、釘で打ち付けられて開けられなくなっていた。
「あ~あ。これじゃだめだね」
ついてきていた絵里が残念そうに言う。
「うん。もうこの神社も寂れていっちゃうんだね・・・・」
懐かしの場所が廃れていくのは悲しくて、寂しいと芽は思った。
「あ、でも。わかるかもしんない。絵里、今何番引いた?」
「え?・・えーと5番、だけど?」
「5番・・・・5番、は確か、凶!!」
しばし悩んでから思い出して、うれしそうに芽が宣言した。
「・・・って、凶ですか」
絵里は少し沈んでみせる。
「あ、ごめんっ、でも確かそうだったよ。私もよくひいたから」
「すごいね、覚えてるなんて」
「ねーほんとー。私もそう思う。よく争ったんだよね。どっちがいいやつをひくかーって」
(『どっちがいいやつを・・・・』)
「・・・どっち?」
言ってから、おかしな言葉だと思った。どっちっていうと。
「へぇー。だれと?」
絵里が尋ねてくる。
(・・・そんなの、私が、知りたい・・・)
芽は胸に渦巻く奇妙な感覚に怖気だった。
(『どっちがいいやつひくか競争ねー!絶対勝つから!』「今日は私が勝つよ!っていうか、今のとこ私のが勝ってるし!**なんか凶ひいちゃえ~」『言ったなーこのっ』)
幼い芽は確かに闇の空間と話をして、その名前を呼んで、喧嘩して、勝負して、笑いあっていた、確かに。
(なにこれ、キモチワルイ・・)
誰なの?と問いを繰り返す。千佳?それは違う。だって、千佳はその隣に確かに立っている。
芽は瞬きを繰り返して幻想を追いやろうとする。でも目の前には小さな芽と同じ大きさの闇が一向に消えない。
回想は回想ではなくなり、目の前に幻覚として現れていた。
「やだ・・・」
腕を宙にさ迷わせて、近くにいるはずの絵里を探す。
視線は固定されたまま動かせないのでまさに手探りで。
見つけて、腕を掴むことができると、やっと現実感が戻ってきた。
「大丈夫・・じゃないよね?」
芽は俯いて、少しだけ頷く。
「ごめんね、ちゃんと家まで送るから。えーっと。家こっちでいいの?道言える?」
また頷いて、その方向へ足を踏み出した。
「ごめん、手、取るね?」
絵里の腕から芽の手がはがされ、今度は逆に腕を支えられて歩く。
さっきまでは、懐かしいとまで感じていたのに、今では早くここから出たい、家に帰って休みたい、と芽は切望し出した。
身体は疲労などしていないのに、心が疲弊していた。
早く、逃げ出したかった。
それなのに。
「うわー立派な桜の樹。でもこの季節なのに咲いてない。・・・枯れちゃってるのかな?」
沈黙に耐えられなくなってか、それとも素直に感心したのか、絵里が喋った。
芽に、というよりは独り言のような呟きだった。
が、それを聞いたら、芽は顔が上げなければならない気がした。
いやだ、と思いながら上目で樹を見上げる。
同窓会の時に見た、あの木が立っていた。
あの時は道をよく見ておらず、千佳についていっただけだったため、ここにこの木が立っていることは全くの予想外だった。
あの時と同じ、大人の胸元辺りまでの高さの柵に四方を囲まれ、大きな桜の樹が君臨するように立っていた。
桜、と絵里が自分で気がつき言ったから、ああそうだったのかと理解した訳ではない。
本当は、先日千佳が聞いてきた時にはすでに気付いていたのだった。
その枝の先には蕾一つついておらず、冬のまま時が止まっているかのように冷たそうだった。
冷たそう、とは芽が感じただけで、ただ一般に見ればただ裸なだけだろうが。
絵里は、「枯れてるのかな?」と半信半疑で言ったが、いまいちその見解は確信が持てない。
樹全体で言えば、その全容はとても逞しく、亀裂が一箇所あるものの、あとはいたって健康な樹のように見えるからだ。
年をとった貫禄はありこそすれ、枯れているなど思えない。
「前からこうなの?」
返事はあまり期待していない様子で微かに芽に問いかける絵里。
「・・・ううん・・・、前は・・たしか、綺麗に、咲いてたと・・・」
(前、前って・・・いつ・・・・?)
疑問に思いながらも、浮かんでくるのは、その桜の樹の花が咲き誇っている様子だった。
(『きれいだね』「うん、きれいー。私、桜が一番好き」『あれっ**もだよ』「やっぱり****だから********」)
(「久しぶりに来たけど変わってないね」『よかった』「明日、応援してもらおうね」『うん。どうか*******に』)
(「う~・・・受かるかな~。怖いよ・・」『大丈夫、そのためにお祈りしにきたんだから』「そうだね**。一緒に行こうね」)
(『なつかし~、近道っ』「ここ通って行くのが夢だったもんねっ」『うんうん』「三年間がんばろうね」『うん、**も***********を目指す』「応援するからっ」『ありがとう』)
(「・・・・・・・・・・・・・・・・・ど、して。っく・・うっ・・**。**。**。**。**。**、**、**、**、********************っっっ!やだよぉっ!」)
一気に景色が変わって、桜は、満開だったり、蕾だったり、裸だったり、散り際だったり、・・・・・・・雨の中、濡れて、花が、桜の樹が泣いているようだったり。
闇は、ずっと一緒だったのに、最後はいなくなっていた。
(「この桜、どうして咲いてないんだろう。・・・・・・・・・?」)
これは先日の同窓会の朝。芽は沈黙の間、放心していた。そして多分、千佳に腕を掴まれるまではそのままでいただろうことは想像できる。
「いやだ、いやだ、いやだ、」
急に叫びだした芽を前に、絵里はおろおろして立ち尽くすしかできない様子だった。
なにかはわからなかったけれど、なにかが怖かった。ただひたすらに、芽は恐怖した。
その内に、恐怖が臨界点を突破して、ぷつん、と何かが切れたような音がし、目の前が暗転した。
***
いつも、とても辛い夢を見ても、目を覚ました瞬間には忘れてしまう。
だから別に悲しくもないし、涙もすぐに引く。
当たり前の、普通のことだったと思う。
けれどいつからか、気がつけばそれが毎晩になっていた。
そして、涙は止まらなくなった。
朝、絶対寝坊しないのは本当だ。
毎晩、毎晩、嫌な、辛い、悲しい夢を見て、とても早く起きてしまう。
前までなら、すぐにもう一度眠れるのだけれど、それができない。
悲しくて、寂しくて、でも思い出せない夢の内容に、ただ涙する。もう一度眠ることなんてできない。
前までなら、泣くのはすぐに止められた。
前までなら、前までなら、前までなら、・・・・前っていつだろう?
あぁ、また悲しい、もう見たくない夢がやってくる。
この深夜も、涙を止められず、一人泣くのだろう。
原因もわからず、止めることもできずに、時間が経過してくれるのを待つだけの夢が来る。
ただ泣いて、ひたすらに泣いて、その夢が終わると、芽は目を覚ます。
耳元が濡れて冷たくて、それを拭こうと枕元のティッシュ箱へ伸ばした手が掴み取られる。
「芽、起きた?」
「あれ、お母さん。・・・私、寝坊でもした?」
母が起こしに来るなんてよっぽど寝過ごしでもしたのだろうか、珍しい。
芽は身体を起こして、ようやく違和感に気付く。
ティッシュの代わりに涙を右腕の袖で拭こうとしたのだが、その腕には点滴をつなげられ、白いベッドに寝かされていたのだ。
ここは病院で、何故か自分が病人になっている事実に驚き、記憶をさかのぼって自分が何をやらかしたのかを思い出してみる。
「・・・あっ、絵里!ねぇっ、お母さん、田沼絵里さんはっ?どうしよう、今日友達になったばかりなのにすごい迷惑かけちゃった・・!」
「大丈夫よ。救急車呼んでくれたのも田沼さんだし、お母さんがちゃんと事情を話しておいたから。お大事に、って。明日来れたら学校でまたお話しましょうね、って言ってたわ」
「・・・そう。よかった・・」
でも、『事情』とは?
芽は母の言葉に何か引っかかるものを感じた。
「お母さん、事情って、なに?私別に貧血持ちとかじゃないし、怪我もしてないし、倒れたことなんか初めてでしょ?事情っていったって・・・」
「・・・・・・・・・・・・そうね。でも大丈夫よ。田沼さん、別に気にしてないっておっしゃってくれたから」
(気にしてない・・・。そういえば、私、叫んでおかしくなってたような)
「母さん、・・・そろそろちゃんと教えてやる時期なんじゃないのか?人様にまで迷惑かけて」
「でも、教えても、同じことよ。前だってこういうことはあったでしょう・・だったら知らないままでいたほうが」
こそこそと、父と母が話し出す。
声を潜めてはいるが、静かな病室内では芽にも全て聞こえてしまう。
「なに、本当のことって。前もあったって。どういうこと?」
「なんでもないわ。さぁ、もう少し寝なさい。お母さんここにいるから」
そう言って、母はまだ何か言いたげな父を部屋から押し出した。
もう一度寝転がったとき、点滴の針が少しだけ傷んだ。
「私、入院するの?なんで?」
「入院なんて大げさよ。今日と明日だけ。明後日には退院よ」
見ると時計は夜の8時をさしていた。
「寝不足による体調不良ですって。まったく、こんなになるまで夜更かしなんかしちゃだめよ。わかった?」
「・・・うん」
本当は夜更かしではなく、朝明かしなのだけれど、とは言わないでおいた。
だんだんと眠気が襲ってくる。多分点滴にはそういうものが含まれているのだろう。
覚醒と睡眠の合間のグニャグニャとした感覚の中で、芽は一言だけ呟いた。
「・・・・・・お母さん、私、何を忘れてるんだろう・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
芽自身にすら認識できていないこの言葉は、しかしはっきりと母には聞き取られ、彼女は静かに涙した。
***
その明朝、5時。
おそらく病院の起床時間は6時半から7時くらいだが、いつもよりは少し遅い時間に、芽は起きることができた。
習慣で目の辺りに手をやって、涙が流れていないことに気がつく。
久しぶりに、夢も見ずゆっくり眠れたようだ。
点滴は既にはずされ、傍らには点滴をつるすキャスターがあるだけだった。
全く薬の力はすばらしい、睡眠薬でも貰って退院しようかと思ったが、すぐにその考えを打ち消す。
それは、何故だか脱力している自分がいるのに気付いたからだった。
芽は、夢を見なかったこと、一滴の涙も流さなかったことに、脱力していた。
そんなことはおかしい、いつもより爽快な朝を迎えられたはずなのだ。
瞼は重くないし頭も痛くない、ついでに言えば涙による目尻のヒリヒリ感だってなかった。
だというのに、『あの夢は終わった』と一瞬認識しただけで、胸が締め付けられるように痛くなった。
悲しい夢だったはずなのに、あの夢は必要なものだったのだと、それで思い知らされた。
「どうして?」
個室であるのをいいことに呟きを漏らす。
思ったより弱い声だった。
「・・・・・・・・・・・・・・・い」
掠れて出なかった言葉をもう一度口にする。
自分の声で聞かないと、それはなんなのかわからなかった感情。
「・・・さびしい」
寂寥感。とでも言うのか。
芽は両の腕で自身を掻き抱いた。
両親でも、祖母でも、友人でも、先生でも、医師や看護士でもない。
今ここにいて欲しい、たった一人の人がいない。
「寂しいよ。なんで、いないの・・・?あなたは誰なの?」
わからなくて怖いけれど、その不明感すらなくなれば、きっと自分はおかしくなるだろうことは直感できる。
まだまだ暗い室内。
月明かりか、浅い陽の光かが忍び入ってくる薄暗さの中で一人、芽は誰かを求めていた。
布団を被って、密かに涙を流す。
せっかくの鎮静剤も、あまり役に立たなかったみたいだと少し嘲笑った(わらった)。
その日の午後、学校帰りの千佳が病院に見舞いに来た。
昨日一緒に帰らなかったことを悔やんで謝ってきたのと、絵里はなにも気にしていないということを伝えてくれた。
「・・・・・・・・・・・ねぇ、千佳」
「ん?」
お見舞いの定番である果物を持ってきてくれていたので、母に頼んでリンゴを切ってもらってそれを二人で食べている時に、芽は切り出した。
今日の授業ではなにがあった、誰がなにを言っていたと、楽しい話をしていたので、雰囲気を壊して悪いとためらいもしたが。
「千佳も、そんなに驚かないんだね」
千佳は、いつも通りだった。
気遣ってくれたのかとも推測できるが、それでもわかる、なにせ幼馴染なのだから。
普通だったら、どうして倒れたの、とでも、なにがあったの、とでも聞きようはあったはずだ。
だが千佳はいつも通り、普通すぎた。
母がそんなに驚かなかったことも思い出される。千佳も、何かを知っているのだ。
曰く、『事情』というやつを。
「・・・えっと、驚いてるよ?」
「いいの。わかるから。誤魔化さないで」
シャリ、とリンゴを齧る音だけが室内に響いた。
芽は淡々とそれを食べ、硬直してしまった千佳を流し見る。
「千佳は、お母さん派、か」
「・・・・・・・?」
怪訝そうな表情で見返してくる千佳に、芽はぎこちなく笑った。
「いいよ。千佳の判断で。・・・千佳はお母さんと同じ、『黙っている方が私の為になる』って側なんだよね」
「芽・・・。私は」
コンコン、ノックが鳴って、母の声がした。
「芽、お話中悪いけど、面会時間がもうそろそろらしいわ」
「うん。わかったー。あとちょっとだけ」
ドアの外に返事をして、母の影が去るのを待ってから千佳に言う。
「心配かけてるみたいで、ごめんね。私はまだなんにもわからないんだけど、・・・がんばろうと思う。・・賛成かどうかは聞かないでおく、けど、応援して?」
なにかが掴めるという確証もなく、なにかが本当にあるという事実も曖昧なまま、地に足がつかないままこれから漂う自分を励ましてほしかった。
賛成でないのはわかっていたけれど、芽は千佳に頼んだ。
「・・・がんばって、芽。私は何も言わない。そう決めたから。だけど、芽がそう言うなら、がんばって。本当に、心から、応援する」
「うん、ありがとう」
千佳はバッグを持って、重い扉を横にスライドさせて出て行った。
その間際、
「多分私は、芽がそう言うのを期待してたと思うわ。期待を裏切らないでくれて、私も、ありがとう」
千佳のお礼の言葉は、芽の胸にじんわりとひろがった。
それから滞りなく検査などが終わり、異常もなし、睡眠不足ならば少量の睡眠促進剤を処方しようかとも聞かれたが、芽は母の薦めも振り切って、首を横に振った。
入院着のパジャマから私服に着替え、髪を整えてくると、タクシーを頼んでいた母が戻ってきた。
「あと10分くらいで来るそうよ。大丈夫?」
「うん。・・・お母さん」
「なに?」
「・・・・ん。やっぱいい」
「なぁに、気になるじゃないの」
「なんでもなーい。あっ、そこのタオル取って。忘れるとこだった」
恐らくだが、母にこの時点でなにかを言うのは早計だと芽は判断した。
いらぬ心配をかけても仕様がないし、なにより、母の顔が曇るのは見たくなかった。
帰り支度を終わらせて、喉が渇いたのでジュースを買ってくると母に伝えて先にロビーで待っててくれるよう頼んだ。
芽が病院に運ばれた時は、まず外科にかかったと聞いた。
その後外傷や、皮膚などにも異常がなにもなかったので内科、脳外科と回された。
結局どこでも倒れた原因は見つからなかったので、またなにかあれば再度通院してくれという形で収まった。
芽に知らされたのは、そういうことだった。
しかし、それは少し違うようだった。
今日の昼間、千佳が来る前の話だ、医師と看護士が、定期見回りにやってきた。
芽は起きていたが目を開けなかったので、眠っていると思われていたのか、しばらく頭上で交わされた言葉を無言で聞いていたのだ。
起こしてしまわないようにと配慮された小さな声のやり取りだったが、芽は医師がチラと言った言葉を聞き逃さなかった。
「精神科にも一度・・・」
同時に、母が「いいえ」と首を振って、医師と連れ立って廊下へ行ったのも知っている。
そして戻ってきたのは母だけで、その後、そんな事はなにもなかったように振舞っていたことから、『精神科』にはなにかあるのだろうと芽は確信した。
宣言どおりに自動販売機でジュースを買って、案内板を見て精神科のある方へ向かった。
幸いというか、下の階へ下りるだけで、なんなく到着はできた。
できたのだが、どうにも気後れして、精神科のゲートから先を、芽はそれ以上進むことはできなかった。
なんというか、イメージ的に、あまりいいものを持っていなかったのもある。
勇気がなく、ゲートのすぐ脇に冊子が並んでいたので、適当に2,3見繕って取り、足早に母が待つ階下へ下りていった。
***
味気なかった病院食は、たった2食と言えど、できればもうあまり食べたくないと思う部類であった。
ので、家に帰ってから食べた夕食はいつもより断然おいしく、また家族と食べることの喜びを味わいつつ、芽はそれを平らげた。
そして、その食事をしている最中にも
(まただ、この感じ・・・)
病室の中で味わった、軽い寂寥感。
やはり、足りない。それだけは、今芽の中で確かな唯一の事柄だった。
入浴を済ませて、ベッドに倒れ込む。
しばらくそのままの姿勢で留まり、勢い込んだようにベッドから下りて、家に帰ってきた時から放置したままだったバッグを開ける。
母が目をそらしている間に潜り込ませた3枚の冊子を取り出して、またベッドに上がる。
「『脳と心』、『感情のメカニズム』『精神ストレスによって生じる症状』」
芽は声に出してそれらを読み、いかにもそれっぽいな、と自嘲した。
まさかこんな類の本を読むことになろうとは、つい朝までは考えもしなかったことだ。
ハーッと息を思い切り吐いて、吸う。
小冊子を読むだけなのだが、それだけでなにかが違うと思うことにして、深呼吸を何度か続けていく。
思い切って、一冊目を開く。
なるほど、そうなのか。くらいの事が書いてあった。
そんなに面白くもない、脳の断面図の絵と、大まかな名称、それから心臓をハートの形に見立ててある絵。
この二つは連動しているのだろうか、とか、そんな具合。
違うな、とそれを閉じて、二冊目を開く。
今度はまぁまぁ面白かった。
トリビアで出せば(採用されれば)70へぇくらい行くのじゃないだろうかというくらいの内容だった。
哲学的なものが少しだけあり、「人が泣くときは、自分が可哀想で泣く」という部分が少々面白かった。
それでも違う、とまた閉じ、最後の三冊目。
求める答えはあるのだろうかと首を傾げた直後、
「・・・・・・・これ、かな」
それらしい見出し文章が目に飛び込んできた。
「人は、許容を超えるほどの強いショックを与えられた時、記憶喪失を引き起こすケースがある」
外的衝撃、内的衝撃問わず、ショックというものは、脳の記憶を司る部分になんらかの働きを起こし、記憶の混濁、消失、あるいは性格まで変わってしまったりすることがあるらしい。
例えば交通事故や、いじめに遭っていた児童などの自殺未遂後などに、稀にあるのだと書いてある。
「記憶喪失、混濁」
間違いない。
なにかが足りない、と思ったのは、忘れているからなのだ。
わかりそうでわからなかった簡単な事が、一つ解明された。
そしてそれは、『誰か』なのだ。
幼い頃、神社の傍で、一緒に遊んでいた『誰か』。
芽はなんらかのショックにより、誰かを忘れている。
そしてその人物は今近くにいない、それがわかっただけで、今日は十分な収穫だろう。
幸先のいい出発だ。
三冊目の冊子をさっさと閉じて、三冊まとめて机の、普段は開かない引き出しの奥にしまい入れた。
そして、ゆるゆると訪れた睡魔に身を任せ、芽はベッドに潜り込んだ。
***
「・・・・・っ!!」
芽は、声にならない悲鳴を喉の奥から絞りだしながら目を開けた。
嫌だ、と顔を覆って目の前の衝撃的な映像から視線をはずした瞬間の出来事だった。
「・・・ぁ・・はぁ・・・」
今までとは少し違うパターンの夢だったようだ。
一瞬で、頭に残っていたはずの夢の中の映像が掻き消えたが、胸に残った余韻がいつもとは違った。
悲しくて、というよりは恐怖の感情が強いものだった。
なんにしろ、夢が終わっていなかったことに、不思議と安堵した。
全身汗を掻いているのに気がついて、涼しい風を入れようと窓を開けた。
ヒンヤリとした外気がすぐに部屋の中を満たす。
時計を見ると午前4時半。真夜中と明け方の境目の時刻と言えるだろう。
このままでは風邪をひいてしまうので汗を拭こうと一旦部屋を出てタオルを取りに階下へ行った。
ついでにお茶を小さなペットボトルに入れて自室に持ち込む。
部屋に戻って来た時、電気を点けていなかったので、月の輝きがよく見えた。
丸い、満月だった。
そういえば、月にはウサギが住んでいると小さい頃大人に言われていた。
子供騙しだったのだけれど、それには随分とワクワクしたことを思い出した。
今でもウサギがいるように見えるだろうかと月の表面を見つめるが、やはりクレーターの集合体ということを認識した今ではなかなかそういう視点では見ることができない。
諦めてベッドに腰かける。月の光を左から受けて座る姿勢だ。
目の前には勉強机が位置している。開く透明の扉に自分の姿がやや小さく映し出されている。
見るともなしにそれを見つめる。
鏡よりははっきりしないが、十分身を整えられる程度の鮮明さはある。
芽の部屋には鏡がない。一つもだ。
だから時たま、鏡代わりにしている節もあった。
「・・・・・・・ぁ」
夢の断片を掴んだような気がした。
月明かりと、不鮮明な鏡、そこに映る自分と、近くに落ちた影、その正体は・・・?
「・・、痛ぅ・・」
急に眩暈と頭痛が襲ってきた。
「重要な部分を思い出そうとすれば頭痛などの諸症状、自分の無意識の部分で防衛線を張っている。思い出したくないものを封印している場合のケース」
ツラツラと、寝る前に読んだ文面を適当に思いつくまま連ねる。
なるほど、それは当たっているみたいだ。
芽は、震えていることに今更気がついた。
ガラスに映った自分を見ないために後ろ側に倒れ込む。
「無意識の防衛線、か。そんなに辛いことがあったのかな」
他人事のように呟いてみる。実際、自分自身に、記憶を失うほどの凄絶なショックが与えられる悲劇が起こったなんて信じられないのが実状だ。
いっそこの、寂寥感を元からのものとして、何かが起こったことすらなかったことにして終わりにしてしまいたい甘えた心が疼きだす。
すぐに、そんなことはいけない、と思い直して、芽の頭にふとあることが掠める。
「私が、忘れちゃった人は、私が忘れたことを怒ってないのかな・・・・?」
と。
その日は珍しく、もう一度眠ることができた。
***
ピピピピピピピピピピ・・・
芽は目覚ましに起こされたことに驚いた。
今まで寝ていたという認識が薄いせいだ。
いつもより多く睡眠を取れたというのに、頭はあまり冴えていない。
緩慢な動作で制服を着込み、芽は学校へ行く支度を整えて階下へ下りた。
「おはよう」
「はい、おはよう。今日は珍しくいつもより遅いわね」
「うん。ぐっすり寝てた」
母に返した言葉には少し違和感があったけれど別にいいだろうと芽は食卓につく。
すぐにトーストが出されて、ジャムを塗って齧りつき、ぐるりと首を巡らす。
「あれ、お父さんは?」
「言ってなかった?昨日の夜から出張で一週間くらいそちらで過ごすそうよ」
「え?えーっと、聞いてなかったー、かな?」
「もう、本当最近ボーっとしてるんだから。もう倒れないでちょうだいね」
すでにケロッとしている状態の私を見て母はそう言った。
元気だと思うからこその嫌味がかった台詞だ。
「は~・・い」
『・・・地方には夕方から夜にかけて大粒の雨が降るでしょう』
「あれ、今ここらへんって言った?」
「そうね、傘持っていきなさいね」
「夕方までかかんないと思うけど、学校」
「念のため、って言葉があるでしょ」
「はーい。じゃ、行ってきます」
いってらっしゃい、と背中に受けて台所を後にした。
学校につくと、門へ入っていく自転車に乗っている絵里の姿が遠目に見えた。
「あっ」
すぐに昇降口へ向かわず、自転車置き場まで走った。
「絵里!」
丁度自転車を置き終えて出てきた絵里と鉢合わせして、声をかける。
「あ、芽。もう大丈夫なの?」
心配そうな顔をして聞いてくる絵里に、歩きながら「大丈夫」と返す。
「そう。なら、いいんだけど・・・」
途端、絵里が気まずそうな表情をした。
「絵里?どうかした?本当、大丈夫だって」
「ううん。違くて・・」
絵里はそこで黙ったが、すぐに違う話題を出した。
「あっ、昨日のノート見れた?千佳が持っていったんだよね?」
「うん。ありがとう。千佳と分担してやってくれたんだったね。助かった」
「どういたしまして。でもその代わり、私が休んだ時はお願いね。これでも私病弱で、結構休むんだぁ」
「うそ、見えないっ」
「よく言われる~!ははっ」
そうこう言っている間に教室に到着した。
するとすぐに他のクラスメートから声がかかる。
どうも、新学期早々から救急車に運ばれたのは話題性十分だったようだ。
芽はどうして倒れたと聞かれ、貧血と偽り、大丈夫かと聞かれれば、もう全然平気、ぴんぴんしていると答えた。
この知れ渡り様ではきっと他クラスの友人にも知られているだろうという予想は当たり、テストが終わった後、授業の合間の休み時間に、ひっきりなしに同中学の旧友や、元クラスメートの訪問を受けて、その日の学校は終わった。
SHRが終わると、千佳が「一緒に帰ろう」と息巻いて言ってきた。
やはり、彼女と一緒に帰らなかった時に起きた事態に責任を多々感じているようだった。
「うん」と多少気圧されながら芽は返事をした。
絵里や、その他数人の友人に別れを告げて、徒歩の二人組みは早々と帰途についた。
「あっ、しまった」
「え?なに、どうしたの」
芽が突然声を上げたので、今まさに校門をくぐろうとしていた千佳は芽ともども立ち止まり、自転車で横を通り過ぎた生徒に「あぶねーだろ」と注意されてしまった。
慌てて二人して横に避けて口を開く。
「なんなの?」
「ごめん、ちょっと待ってて。傘忘れちゃって」
母の言うとおりに持ってはきていたものの、やはり降り出す前の下校となった為昇降口から持ってくるのを芽は忘れてしまっていた。
校門を出た後に戻ってくるのは面倒くさいことなので、出る前に気付いてよかったと胸を撫で下ろす。
「一緒に行こうか?」
「いや、いいよ、ダッシュで行ってくるから待ってて」
言って、芽は門へと向かってくる生徒たちの流れに逆らって走った。
「ほっ、よかったよかった」
目的の傘を取り出し一人ごちて、また踵を返そうとした所、絵里が目に入った。
向こうも気付いたらしく足早に駆けてくる。
「どうしたの、帰ったんじゃなかったの?」
「ちょっと、傘忘れちゃってて」
「そうなんだ。・・・あのさ、今、ヒマ、じゃない?」
歯切れの悪そうな許可の取り方をする絵里に、芽は気づかず即答した。
「今千佳が外で待ってるから急がないといけないんだ、けど?」
「そっか。・・・千佳、か。あのさ、千佳って、芽と帰る方向一緒なの?」
「同じ学区だから途中までは一緒だけど、結構早めに別れるよ」
「あっ、じゃあさ、一緒に帰っていいかな?自転車引いて歩くよ。芽に話があるんだ」
「ふーん?多分いいと思うけど。なんの話?」
靴を急いで履き替え始めた絵里に芽は問うた。
「まぁ、それはあとで二人になってからってことで」
その表情は朝、絵里がしていたような気まずそうな其れだった。
千佳にも許可を取って、自転車を引いてきた絵里と一緒に芽は歩いた。
桜並木に差し掛かって、絵里がポツリと言った。
「今日、雨降るんだったら、もうこの桜も見納めかもね」
「そうねぇ。それで明日の朝、汚い花びらが地面にいっぱい落ちてることになるのよね。ちょっとイヤだわ」
今までの経験から思い出したのか、ウッと顔をしかめた千佳がそう返した。
今見上げている桜はもう満開はとっくにすぎ、散り際に入っていた。
これでは強い雨にかかればひとたまりもないだろうと芽も同意した。
「桜って、早く散るのも風流の一つだと思うけど、なんか寂しいよね」
その言葉を聞いて、芽は身体がこわばるのを感じた。
桜。寂しい。
その二つがキーワードだったように芽は感じた。
やがて、並木道が終わると千佳が「じゃあ」と手を挙げた。
千佳の家はここから右折で3分のところにある。
逆に、芽は左折でおよそ7分くらいの場所である。
「また明日ねー」
「ばいばい」
「うん、明日ー」
千佳とは逆方向へと芽と絵里は方向転換した。
「絵里、こっち来ちゃって大丈夫?」
「ダイジョブダイジョブ。今日自転車だし、道もそんなに複雑でなければ帰れるよ」
「そう?」
「うん。・・で、話あるって言ったじゃん。どっか落ち着けるとことかない?家がいいならそれでも構わないけど」
「あー・・・・っと」
芽は少し思案すると、
「じゃあ、ウチの近くの公園でいい?ちょっと今部屋散らかってるし、恥ずかしいから」
「オッケー」
その公園までの道程ではとりあえず差し障りのない話をした。
話とはどういうものかと芽は頭をひねるが、何も出てきはしなかった。
大体が、知り合って実質まで二日目なのだ。
芽だったらそんな短期間で相談相手を選ぶことはしないし、さして重要な話題も浮かばないのだが。
「とーちゃく。空いてることだしブランコにでも座る?」
「うん。賛成。童心に返りつつね」
笑って、小さなブランコに連れ立って腰かけた。
金属の部分が錆びて少しイヤな匂いがし、なにかよくない予感のように芽は思った。
「余計なお世話な事言うと思うんだけど、とりあえず聞いて」
「・・うん?」
すぐに切り出してきた絵里に、構えるともなしに聞く姿勢を芽は取った。
「・・・・・・・・・」
「?」
なかなか言い出せないのか、しばしの沈黙があった。
芽が促そうかと思い始めた頃、ようやく絵里が口を開いた。
「カウンセリングとか、受けたほうがいいと思うんだ」
「へ?」
「その、なんていうか、芽のお母さんから聞いて・・・悩んだんだけど、やっぱり、カウンセリングは受けたほうがいいんじゃないかなって。だって、なにか不具合が起きてからじゃ遅いし・・・」
最初、なにを唐突に言うのだろうと、芽はいぶかしんだ。
けれど、母が、『田沼さんにはちゃんと事情を話しておいたから』と言っていたのを思い出し、病院に運ばれた時のことについて言っているのだとわかった。
「カウンセリング・・・」
「多分なんのことかわかんないよね。お母様からもそう聞いてるし、わかってたんだけど。でもやっぱり心配で。こういうのは、心だけじゃなくて身体にも異常が現れたりするから早めにと思ったの」
「なんのことか、さっぱりわからない、訳じゃないんだけど。でも」
「やっぱりちょっと異変はあるんだよね?だったらなおさら、カウンセリング、受けたほうがいいよ!!絶対!!」
やけに力を入れているなと思い、絵里の方を見ると、ものすごく真剣な顔で芽の目を射抜いているのに遭った。
「いきなりこんなこと言うのもアレなんだけど、私、いじめられてたことがあるの。そのとき、カウンセリングを受けて、回復もした」
芽は正直、かなり驚いた。
一見して、おしゃべりで、気さくな様子の絵里がいじめに遭っていたなんて、言われても信じがたい事実と言えた。
「ちょっとあんまり真実味がわかないのはわかる。私もだいぶ変わったから。私はカウンセリングを受けて変われたの。だから効果はあるはずなんだ。芽もカウンセリング、受けてみたらどうかな?」
芽がなにも言えないまま黙っていると、絵里はさらに言い募る。
「カウンセリングなんて・・・って思うのはわかる。私の時もそうだったから。けど、ずっと自分の殻に閉じこもってるわけにもいかないんだよ」
絵里の最後の言葉に、芽は少し反応した。
「閉じこもってる・・?私が、自分の殻に?」
「そうだよ。記憶喪失も、自分が自分を守るために殻の中に閉じこもってるだけだと思うの」
言われたことを再確認して、芽は呟く。
「・・・・う。違う」
「違わない。大丈夫、私は同じだった、わかるから」
「・・っ、わかんないでしょ?!絵里と私は違うよ!絵里にはわかるの!?私が今どれだけ辛いか。得体の知れない何かが渦巻いてる恐怖が!」
区切って、激昂した心を落ち着けるように冷静に語りだす。
「明け方、夢を見るの。繰り返し見る夢。それが、忘れてる内容だと思うのに、どれだけがんばっても思い出せないの。なのに、寂しいのだけはわかる。私は、私が私である為の肝心な部分を忘れてる、そうだという確信がある。でも、・・・・思い出せない」
怒鳴りつけられた絵里はしばし、言葉を失って、でも、と今度は控えめに進言する。
「・・ごめん。わかったつもりになってたのは謝る。だけど、そういう治療もあるんだよ。教えてもらったの、過去に戻る催眠療法とかそういうもの。記憶喪失の人でも、できた例は沢山あるって」
「・・・・・・・・・・・・・・・こっちも、ごめん。怒鳴ったのは謝るけど、そういうのは・・・やりたくないんだ」
怒鳴って、冷静に詰って、それから覇気を無くしたように芽はうな垂れた。
改めて、「寂しい」と発音して、「思い出せない」とこれも再認識して、何度繰り返せばいいのだろうと芽は自問する。
けれど。
「私は、自分で思い出したい。じゃないと意味がない気がする。そんな、カウンセリングとかに頼ったら、思い出してもきっと後悔すると思う」
寂しいと初めて認識した時から、芽は人に聞くのではなく、自分の記憶を頼りにして思いだす方法を選んだのだ。
強制的に思い出させられたのでは、自力でやったことにはならず、自分の覚悟も、今まで心配しながら見守ってきてくれた千佳の期待も、裏切ることになると思われた。
「・・・・そ、う、・・。ごめんね、なんか本当、余計なお世話だったみたいで」
クシャっと顔を歪ませて、絵里はタハハーと笑った。
「ううん。ありがとう。心配してくれてるっていうのは、わかるよ。本当に、ありがとう」
千佳や、母にも、心の中で礼を言う。
それから恐らく、同窓会で会ったメンバーや、始業式に話をした元クラスメートたちも、みんな心配しているのだろうと、芽はもう気付いていた。
いよいよ自分ひとりの問題ではないのかもしれないと思いはじめる。
(早く、思い出さないと・・・)
芽は、絵里と明るく別れて、そう心を固めた。
***
だんだんと雨模様になるのも構わず、芽は家とは反対方向の神社へやってきた。
先日とは違い、目の前から入る。
赤い鳥居をくぐって、社の裏手へ回る。
絵里と来た時のように、おみくじのある辺りまで来て、記憶を辿る。
この場所に来れば、きっといつもよりは思い出しやすいはずだ。
そして一昨日と同じように倒れないとも限らなかったが、他に手段はない、気合で乗り切ろうと芽は思った。
(よく思い出して。私は誰と、ここで遊んでいたの?)
幼い時の記憶を総動員する。
神社に祭られているであろう神様にまで縋ってしまいたいくらいの必死さで。
記憶の中で、芽に対しているのは、千佳、それから、もう引っ越してしまって居ないけれど隣の家のしょうくん。
名前は忘れたけれど顔だけは浮かぶ、小学校のクラスメートであった他数名。
そして、以前も見た、黒い影。
よくよく思い出せば、どの場面にもそれはいた。
付かず離れずずっと、中学生の時にも、高校の半ばまで居たのではないだろうか。
もっと脳を稼動させて、暗い靄を飛ばしたい。
そうすればきっとその正体が明らかになるのに。
すでに神社に到着した頃からしていた頭痛が更にひどくなるのを堪えて、芽は壁に手をつきつつも移動する。
(思い出せ、思い出せ、思い出せ・・・・!)
クラリと視界が歪んで、立ちくらみがする。
それでも今度は、あの桜の樹まで行こうと、芽は足を進めた。
桜の大木まで辿りついて、その枝を見上げる。
(こうして、見上げていた。二人で。相手は・・・誰なの)
また、深い記憶の淵を探るようにして目を伏せた芽は、愕然とした。
あの影が、ぼんやりと薄くなっているように感じたのだ。
かと言って、その正体を明かすためというわけではなく、存在そのものごと消えていく、そんな様子だった。
(そんな、どうして・・・)
今から思い出そうというのに、消えるなんて、残酷という表現が見事に当てはまる事態に拳を握る。
芽は不安に駆られ、ただ唯一の手かがリかもしれないそれが消えないことを一心に願う。
そして、そんな風に歯噛みすることしかできない自分を情けなく思った。
それから、雨が降り出し、芽は茫然自失といった状態のまま幽鬼のような足取りで家に帰った。
桜をすべて散らせても、その雨脚は弱まることなく、次の日までを使って、滂沱の雨が降り続いた。
***
「・・み、めぐみ!芽ってば!!」
「っえ、あ、な、なに?」
降り続いた雨が止み、一週間が過ぎようとしていた。
桜の木には、花はもうなく、緑の葉が付き始めようかという具合だ。
返事をしつつもぼうっとしたままの芽に半ば呆れつつ、一緒に昼食を食べていたメンバーが嘆息する。
「なに、恋の悩みかなんかなの?日に日に呆けてる時間が増えてる気がするんだけど」
一人が言うと、残りの者も頷く。
「もうすぐテスト週間だよ、大丈夫?」
その言葉には他の数名もイヤそうな顔をした。
テスト~・・・と肩を落としてやる気のなさをアピールしている。
芽はそれにも、大丈夫、とも、否、とも言わずまた視線をどこかへ彷徨わせてしまった。
こりゃだめだ、とそれぞれが放っておく指針を取り、昼食を再開した。
その中、芽の隣に座っていた千佳が、いつまでも彼女を心配そうに眺めていた。
帰途の時刻になってもずっと相変わらずの芽の肩を叩いたのは、やはり千佳だった。
芽はフッと、眸に色を戻して、千佳の顔を見つめた。
「千佳は・・・いつも、ちゃんとわかるんだよ。だけど、あの『誰か』は、もう・・・見えなくなる寸前で、」
千佳の方に頭を乗せる。
もう疲労が限界に近く、そのまま座り込んでしまいそうだった。
「ねぇ、やっぱり、ちゃんと眠れていないの?」
千佳の言葉に、芽はコクンと頷いた。
あの影は薄くなって、見えなくなるくせに、反比例して夢の方はどんどん悪化していくのだ。
雨の日よりこちら、睡眠時間は徐々に削られていき、今では三時間眠れればいい方となりつつある。
あれだけ思い出したいと思っていても、無抵抗な夢では恐怖の方が強く、眠り自体を自ら避けたいと思うようにまでなってしまった。
おかげで芽は毎日フラフラだし、授業中は夢を見ない為、寝てばかりいる。
完全に生活リズムが狂ってしまっていた。
千佳に腕を引かれて、芽は保健室へ連れていかれた。
保険医に聞くと、最終下校時刻までは使わせてくれるということだった。
頭痛薬を貰って飲み干し、芽はのそのそとベッドに潜り込んだ。
正直、ベッドで寝ればまたあの夢があるかもしれなかったが、千佳の命令で仕方なく目を瞑る。
「ちゃんとここでついてるから、安心して寝るのよ。わかった?」
小さく頷いて、芽はすぐに意識を手放した。
『っ・・なんで、なんでなの・・!』
芽は泣きながら、冷たい体に縋りつく。
パニックに陥って叫び、喚き、喉を枯らす。
誰もいない、何もできない、暗い室内で、温かいものと言えば、自身の頬を伝う涙だけだった。
冷酷な水音と、荒い吐息しか聞こえない空間で、芽は何度も、狂気と正気を行ったり来たりと繰り返す。
場面は切り替わっても、芽はずっと泣いていた。
青い空を見ても、綺麗な歌を聴いても、可愛い花を触っても、面白い出来事を聞かされても、なにをしても芽は呆然として、周期的に狂って、また泣いて。
そして唐突に、骸が目の前に横たわっている場になる。
エンドレスだ。
目が覚めるまで、ずっとこの繰り返し。
芽は夢の中でも、現実でも涙を流す。
下校時刻のメロディーが校内に流れ出した。
芽は千佳に起こされるまでもなく、その音で目を覚ました。
ほとんど自動的に、腕で目元を拭い、身を起こす。
「芽・・・、どうしたい?私、言った方がいい?」
『誰』かを。
千佳は辛そうな芽を見て、自分から折れようとしていた。
中途半端なままよりはいくらかマシだろうという気持ちになっているのが芽には見て取れた。
「駄目だよ、千佳。頑張るから、あとちょっと待ってて」
ぎこちなく笑う芽。
無理をしているのがわかって、千佳はいっそうどうしようもない心地になった。
「ね?」
言わなくていい、と念を押されて、千佳は神妙に頷いた。
芽はこの頃、今の記憶がよく飛ぶ。
過去のことを探っている為の弊害か、現実が疎かになっている状態が長く続くことが多くなっている。
今は、保健室から、家まで帰ってくる間の記憶がすっぽりと抜け落ちていた。
相当のろまなペースで歩いたのか、すでに日は暮れて、学校を出てから通常20分のところを、倍以上掛けてしまったことを物語っていた。
連絡もなしにここまで遅くなったのは久しぶりだったので、怒られるだろうかと心配しながら芽は家に入った。
「ただいまー」
「おかえり、遅かったわね。早く手、洗っていらっしゃい。ご飯できてるから」
「・・うん」
軽く拍子抜けした。
言われた通り、手を洗って、一度自室で着替えてから台所に戻ると、謎が解けた。
帰ってくるのが遅いと、怒るのは厳格な父の役目だ。
その父がいないのだから、おおらかな母が多少の帰宅時間の遅延で怒るわけがないのだった。
「お父さん、今日遅いの?」
「ええ、なんだか長引くみたいよ」
母が祖母を呼んで来て、女三人で食卓を囲む。
「芽、最近夜更かしでもずっとしてるの?ちょっと疲れてるんじゃない?」
指摘され、どう言い訳するか少し悩んでから芽は告げる。
「ちょっと、勉強に目覚めたかなーなんて・・・」
どうせテスト結果ですぐにこの言い訳はバレるのだけれど・・・と芽は密かにため息をついた。
「そうなの?でも程ほどにしてよく寝ないと、学校休んじゃったら勉強どころじゃないんだからね?」
「うん。わかってます」
そう返事をして、最後の一口を口に入れると芽は立ち上がり、食器を運んでから階段を上った。
気を張っていない間は、本当に、面白いくらい何も覚えていない。
ベッドの上に座ったままの瞑想状態から開放されたのは、母が入浴を薦める声を辛うじて捉えたからだった。
一式持って浴室へ行き、湯船の中で気を放さないように顔を叩いた。
髪を洗っている時、玄関の方で音がした。
父が帰ってきたのだと芽はそう気にも留めず、ワシワシと頭皮をマッサージした。
風呂から上がり、一直線に自室へ引き返そうとして踵を返す。
どうせまた夜中に喉が渇くなら、最初から置いておこうと思い立ってのことだった。
「・・最近は、授業も身に入ってないそうじゃないか。潮時だろう、そろそろ」
台所続きの居間に入る戸の手前、手を取っ手に掛けようとしていた丁度その直前だった。
立ち聞きはいけないと知りつつも、今入れば怒られるのは必至だと、芽は入室を躊躇った。
「もう少し様子を見ましょうよ。あの頃にみすみす戻したりしたらまた大変なことになるかもしれないわ」
「そんなことを今まで何度繰り返してきた。学業に支障が出るなら同じことだ。もうこんな一時しのぎは止めにしよう」
「でも!・・・・あの時は、一人で部屋に居させたりしただけで暴れたりしたじゃない。鏡を素手で割って、病院へ行って手当てしてもらったこと、忘れたの?」
芽は思わず右手の甲を見る。
自分では何をやったか覚えていなくて不思議だったのだが、そこには2,3針縫ったあとが確かに見えた。
(暴れて、自分で鏡を割った・・・?)
他人事のようにそれを聞いていた。
「・・・それはそうだが、でもいつか同じことを繰り返すなら、早めに知らせて、病院にでも通わせればよかろう」
「あなた!!・・・・・・私はもう、あんなやつれた芽は見たくないんです。・・・どうか・・」
「・・駄目だ」
何故か、それ以上聞きたくなくなり、芽は扉に手を掛けた。
自分が入れば自然とその話も終わるだろうと思っての無意識の行動だった。
「これ以上、莢のことを隠し立てしても、芽のためにはならんだろう。ここはどうにか芽には堪えてもらって思」
「さ、や・・・・?」
キィ、と戸の金具が錆びた音を立てて開かれた。
取っ手の上には芽の手が乗っているだけで、押したという風でもなく、重みで開いてしまったのだった。
芽の、心ここにあらずな声が、両親を動揺させた。
「め、芽・・?」
シンと静まり返った室内に、芽の絶叫が響き渡った。
夢が、現実となって下りてきた。
莢。大澤莢。
大澤芽の双子の姉。
幼い頃から活発で、スポーツが得意だった。
同じ顔、同じ体型、同じ声をしている一卵性双生児だったというのに、芽とは性格や運動の才までは似ても似つかなかった。
だが二人はとても仲がよく、何をするにも一緒だった。
中学時代には、莢は運動神経のよさを生かして陸上部に入り、芽は野球部のマネージャーになり、同じグラウンドで走る莢を見守る、といった風に。
莢はあれよあれよという間に力をつけ、中学の大会で非常に良い成績を残し、高校には一芸推薦で入学した。
芽も、一芸ではないけれど、まじめな成績を買われ、同じく推薦で現在の高校へ入学を果たした。
男勝りな莢と、どちらかといえば大人しめだった芽は、足りない部分を補い合いながら、生まれてから、幼・小・中・高とともに過ごしてきた。
しかし、ある時片割れに異変が起きた。
莢が、不慮の事故に遭い、足を負傷してしまったのだ。
その当時も陸上部で期待のホープとして新人戦に向けて練習をしていた莢は、意気消沈し、誰が何を言っても生返事しか返せない状態になってしまった。
手術をして、それでも莢の足は陸上選手としての生命を絶たれてしまった。
芽はあらゆる手段で莢を励ますが、その甲斐もなく、莢は・・・・・・
『莢っ?!莢、なんで!!莢ぁっ!!』
開け放たれた窓から煌々と光る月が覗いている、暗い浴室内。
湯船に凭れ掛かり、力を失っている姉の姿に、芽は戦慄した。
抱き起こして、その冷たさに目を瞠り、あるかないかの吐息に必死に耳を傾けた。
『イヤ、イヤだよ、莢?』
薄暗い室内で、温かいものは、いつの間にか溢れ出している己の涙と、莢の腕から絶え間なく流れる赤い血だけ。
呆然として頭を上げると、莢の血に彩られた鏡がそこにあった。点々とついた血の跡が、映った芽の顔にもついているような錯覚を起こさせる。
視界の端には、隅に転がった、剃刀。
その刃の鋭利さと、冴え冴えとした形を、芽は生涯忘れることはないだろうと思った。
莢を横たえて、誰もいない家の中を駆けて119番をした。
すぐに戻って、莢に呼びかけ続ける。
芽は、あれほど悲しく、必死で、そして不毛な呼びかけを他に知らない。
声が掠れても、ただひたすらに名前を呼んだ。
双子のテレパシーというものはそういういらない所で敏感で、もう、姉は助からないことを知りつつ、芽は呼んだ。
ほどなく救急隊員が駆けつけ、莢と芽は病院へと運ばれた。
葬式中、片割れを失った芽は、息を継ぐこともままならないほどの号泣ぶりを見せ、親族や友人たち、父の仕事関係の列席者等の同情を誘った。
そしてそれからの芽は、壊れたと言っていいほどの変化を遂げた。
四六時中、どこを見つめているのかわからない眼をし、放っておけばなにも飲まず食わず、友人が訪れても、空気がそこにあるだけとばかりに無関心だった。
だが、そんな無気力な芽も、鏡にだけは敏感に反応した。
自分の姿が映ると、その中に莢を描いてしまって、知らず狂気に陥り、それを叩き割る。
そんな調子なものだから、家にある鏡という鏡は、とりはずし不可能なもの以外すべて破棄された。
莢に関連する物、事、人物を意識しようものなら錯乱状態になり、気を失う。
動きもせず、瞬きの回数さえ日ごと少なくなっていく芽。
その内、呼吸さえも億劫になって、莢の後を追ってしまうのではないかと、両親は懸念していた。
そんな折、芽は40度を越える高熱を出した。
ひきつけを起こすほどの病状に、両親は半ば覚悟をして、芽を病院へ連れていった。
そして、・・・・蓋を開けてみれば。
熱から開放された芽は、莢のことだけをすっかり忘れていた。
人間の最低限の生存本能が働き、芽は自身の身体に異常をきたす原因である最愛の姉を、記憶からカットしたのだった。
これが、昨年の春の出来事だった。
芽は次いで、脱兎の如く家を飛び出した。
背後で両親の呼び止める声も聞こえた気がしたが、そんなことには構わない。
もつれる足を叱咤しながら、弱った体で走る。
真っ先に向かうは、桜の大樹。
あの樹は、芽と莢にとって特別な樹だ。
神社の近くには、由緒ある御神木と池もあるが、それとは違うただの立派な樹。
けれど幼かった姉妹にはそんな区別がつくはずもなく、きっと霊験あらたかな樹なのだろうと、事ある毎に祈りを捧げてきた。
日常の小さな勝負事、大きなことでは、莢の大会成功、芽の高校入試の祈願。
小学生の時に発見してから、あそこは莢と芽の秘密の溜まり場となっていた。
千佳にも「秘密」だと、教えていなかった。
だからあの場所へ行った時、芽の異変を見て千佳は己のしたことを失敗だと確信しただろう。
きっと千佳はあの神社のあたりに、『例の、二人にとっての神さま』があるのだろうということは知っていて、それは御神木か湖だと勘違いしていたに違いない。
が、それは謝った認識で、あの時の芽の反応で初めて判明したのだから仕方がないのだが、よりによってきっかけを与えたのが自分だということに、千佳は責任を感じたはずだ。
今頃も気に病んでいるであろう千佳に、芽は感謝の情が溢れた。
こうして思い出す一片に協力してくれたのだから。
少し走っただけで、体は不調を訴え始める。
睡眠不足のせいで著しい運動はすぐに過労へと変化する。
だが不思議と、もう頭痛は止んでいた。
ストッパーがなくなったとばかりに、芽の脳裏には幼少期からの莢に関する思い出が次々と湧いて出てくる。
闇の靄は完全に晴れ、そこには莢の姿がぴったりと納まった。
二人とも同じ顔で、だが運動神経の差異をよく友達に指摘された。
性格の凸凹さもそれと同等ほどには言われただろう。
それが見分け易くて楽で良い、とも。
夜の九時半ば、家々の明かりはついてはいるものの、喧騒は聞こえない。
体の異常のために、早歩き程度に抑えた芽の目の前には林が見えていた。
林立する木の間を縫って桜の場所へ急ぐ。
最早どのルートから入ろうとも、その場所は覚えている。
開けた原に出ると、相変わらずの荘厳さで桜は立っていた。
月の明かりを煌々と受け、葉一つない肌も光っているように芽の目に映った。
近寄って、その桜を囲った柵に手をつく。
木の真下から月を透かし見るようにして顔を上げ、芽は徐に口を開く。
「莢に、会わせてください。私に、謝らせて、ください・・・・」
いつもの願掛けと同じように、けれど今回ばかりは無謀と言える願いを口にする。
「私、莢のこと忘れるなんて、すごく酷いことをしました。謝りたいんです。・・・それで、許してもらいたい」
夜半の月の光が眩しすぎて、芽は目を細める。
その目尻から一筋、涙がこぼれた。
「莢、に、あ、・・会いたい、ん、です。会わせて・・・・・お願いです」
眩しさに耐え切れず俯いて、透明な雫を零し顔を濡らす。
嗚咽を何とか堪えて、祈りが届くように「お願いです」と続けた。
涙を止めようと力を込めて柵に両腕を乗せてしがみつく。
けれど膝は崩れ、柵にもたれたまま地面に座り込む。
「さや・・・、ごめんなさい。・・ごめんなさい・・・・」
祈りが届かなかった絶望が芽の意識を満たしていく。
所詮、無理な願いだったのだと、柵から手を離そうとした時。
濡れた頬に何かがそっと張り付いた。
指で取ると、それはピンクの花びらだった。
続いて何度も。
つられるように見上げた桜から・・・・・花が散っていた。
ハラハラと優しく、暖かく、咲いていないはずの桜の花が。
満開に咲き誇り、ひしめきあう桜の花たち。
余ったと云わんばかりに降ってくる花弁。
そして上の方、一本の太い枝の上に、誰かが座っているのが見えた。
ピンクの、桜の花そのもののような色のワンピースを着た、女の子。
芽は直感する、あれは莢だ、と。
そう思うと、だんだんと輪郭が露わになっていった。
芽と同じ顔をした、ショートの髪型。
記憶と寸分違わない、元は同じなのに、何故か少し吊り目ぎみの双眸。
(・・・ありがとう・・)
芽は人知れず、桜に礼を言った。
やはり、今までずっと見守ってくれていたのだ、この大樹は。
「うん、そうだったみたい。この樹が力を貸してくれて、あたしは今日まで留まっていられたんだ。その代わり、今年の春は花が咲く力が少なくなっちゃって・・・・どうやら、温存してたみたい」
芽の感じたことに答えるように莢がそう言った。
一種、狂い咲きしているかと思えるが、本当に咲いているのかどうか、芽には判断がつかなかった。
「莢!!」
芽が衝動的に精一杯手を伸ばすと、その手に降ってくるように莢が下りてきた。
「芽」
柔らかい声で言って、包むように芽を抱きしめる。
「思い出してくれてありがとう」
「・・・っ、ううん。私が自分の力で思い出せた訳じゃ・・・・ないの」
「それでもいいんだよ。こうして芽は来てくれた。それであたしは満足」
耳元で、莢の声がすることに、芽は感極まって嗚咽を零す。
その様子に、莢は芽の背をさすりながら自らも謝罪をする。
「ごめんね・・・あたしには芽がいたのに。・・・馬鹿だったよね。ごめんね。本当にごめんね、芽」
それは早まって自分の命を粗末にしたことと、一人にさせて孤独を味わわせた芽への言葉だった。
「っく・・・さ、やの馬鹿ぁ・・ぅっく。怖かったんだからぁ!!一人で・・・、いつも、夢、を見るの。慰め、てくれ、る莢は、もう、ど、こにもいな、いの・・・」
「ごめん、芽。本当に。どうしても辛いなら、また忘れても」
「嫌!・・・・そのほうが、・・・・・・・もっと怖かった・・」
莢は口を噤んで芽の頭を撫でる。
「・・これからは、思い出して。傍にはいられないけど、いつも見守ってるから。怖い夢を見てもへっちゃらだよ」
「・・・・ん。・・うん」
グズグズと鼻をすすって、芽は返事をする。
なんとか涙と嗚咽を止めようとしているが、莢の優しい眼差しを見るとまたすぐに新しい涙がこみ上げてきてしまう。
花びらは二人を取り巻いて、舞い続ける。
しばらく泣いて、落ち着いた芽に、莢はこんな提案をした。
「競争しよっか。ちっちゃい頃みたいに」
つま先を地面にコツコツと打って調子を確かめている。
こんなところにも莢の仕草だということが感じられる。
「ヤだ。だっていつも莢の圧勝なんだもん。一卵性の双子なのに不公平だよね」
わずかに口を尖らせて、以前そうしていたようにすねたように笑う。
「だってあたしは影ながら鍛えてたもん。当然」
「・・・うん、知ってた。応援、してたよ?」
「うん。知ってた」
二人で額を小突きあわせて笑う。
「ね、競争、しよ?」
「・・・うん。いいよ。手加減してね」
「オッケ。じゃあ、ここから、鳥居までね」
『レディ・・・』
二人でタイミングを合わせる
双子の呼吸で、同時にスタートをきる。
『GO!!』
走り出して、芽は驚いた。
不思議と体が軽く、体調不良が消し飛んだ感があったのだ。
芽と肩を並べて走る。
こんなことは、初めてと言ってよかった。
お社と、その先にある鳥居が見えてきて、芽は隣の莢に注意を向けた。
それからギョッとする。
莢はわずかに芽より遅れてきていた。
「ちょっと、手加減、しすぎじゃ」
後ろへ下がっていく莢へ戸惑いながら声をかける
「走って、前だけ向いて」
言われてその通りにする芽。
「走って、走って、走って。もっと、ずっと」
声に従い、前を見据えて速度を変えることなく足を動かした。
「その足で、あたしの分まで。精一杯。走りぬいて」
莢の声がどんどんと後方に遠ざかる。
けれども芽は振り返れないでいた。怖かったのだ。
『ずっと、ずっと見守ってるから・・・・・・・』
最後、頭に響いて、トン、と背中を押された。
勢いがついて、門のところまで一気に走りついた
意を決して振り返ると、そこにはただお社が寂しげに佇んでいるだけで、求める姿はどこにもなかった。
「・・・・・・・・・・莢?」
息を吸い込む。
「さやぁっ!!」
一声だけ、叫ぶ。
これで終わりだ。応えがないのはわかっていた。
踵を返して、芽は夜の闇の中を駆ける。
走って、走って、走って走って走って。
息が乱れるのも構わず、我を忘れたように走り続けた。
「莢・・・・」
家の前まで帰りついたとき、本当に自然に声が出た。
「今みたいに、ずっと、走るよ。・・・・・・・・・・・・莢、大好きだよ」
『あたしもだよ。芽』
ふわりと、抱きしめられたのは錯覚ではないのだろう。
芽はその場でくずおれ、その物音に気付いて慌てて出てきた両親に支えられて、家に入った。
〇エピローグ○
桜の蕾がほころぶごとに思い出す。
春の陽気にそぐわない、暗く悲しい気持ち。
それでも、あるだけましだった。
大切な人を忘れてしまうなんて恐ろしいこと、すぐに終わってよかったと、いつも芽は思う。
「あ、芽!久しぶり~」
「ひさしぶり。千佳元気だった?」
涼しげな格好で、帽子を被っている千佳に、芽は気遣わしげな言葉をかけた。
「元気よー。全く、芽がいきなり県外の大学行くって言った時はびっくりしたわよ。それに全然帰ってこないしで、おかげで二年も会えなかったじゃない」
「あー、ごめんね。ちゃんと走れるとこ探したら、こんな遠いとこだっただけなんだけどね」
「それにしたって限度があるわよ。なんで本州じゃないのよ・・・船まで使っちゃったわ」
「それもごめん」
「いいけどね。ついでに観光して帰るからー」
明るく笑って、「それより」と切り出す。
新聞を切り取った紙片を出して言う。
「芽、すごい。本当にこんな成績だったのね」
「嘘ついてるとでも思ってたの?」
すでに知らせてはあったのに、今さら本日に開催される大会のシードが芽だということに感心する千佳。
「そんなことないけど・・・。信じられない。だって、運痴とは言わないまでも、普通くらいだったのに」
そうだねー。と二人で笑う。
千佳はギリギリの時間に到着してしまったようで、すぐにアナウンスが聞こえた。
『15番。大澤芽さん。16番、水無瀬和子さん。17番、及川千里さん。18番、・・・・』
芽のゼッケンと名前が高々に挙げられた。
「じゃ、行ってくるね」
千佳は笑顔で送り出し、
「本当、すごいよ」と呟いた。
順調と勝ち残って、最後のレース。
芽が、他の追随を許さないようにトップを走り抜けていく様は、当時の莢の姿に生き写しだった。
千佳は大きな声で応援する。
芽、莢、と。二人分、走っている彼女に向かって。
そのまま、ゴールテープを切った芽は、表彰台の天辺に上ってお礼を述べてから、インタビューを受けたりした。
それが終わってから千佳がそちらに走り寄っていく。
「すご~い、すごい、すごい、すごいっ!!」
表彰台から下りてきた芽に千佳が抱きついて興奮した声を上げる。
芽は笑みを深めて、とびっきりの明るい顔で宣言する。
「当たり前じゃない。私は、莢の妹なんだから」
空高く、すべるように流れていく雲を見上げ、芽は姉にブイサインを送った。
感想あると作者が喜びますm(_ _)m