ひまわりの幸福論
(8)月(8)日 (水)曜日 天気(晴れ)
昨日は少し『特別なこと』があった。どうしてその日にあったことを記すはずの日記に昨日のことなんて書くのかといったら、僕は昨日、家に帰ってくるなりぐったりしてすぐに眠ってしまったからだ。(僕が日記を書くことすら出来ないほどにぐったり疲れていた理由も、その『特別なこと』に含まれている)だから、今日は昨日のことを思い出しつつ、贅沢に二週間分くらいのスペースを使って昨日のことを書いてみようと思う。それから、今日は日記を小説形式に書いてみようと思う。小説みたいに書くことで昨日起こったことを客観的に整理できるし、そういうのもたまにはよいだろうから。では、ぼちぼち書き始めようと思う。
高校二年生の僕は、一日で最も暑い昼下がりの中を、自転車を漕いで走っていた。その日は気温が30℃を大きく超え、雲ひとつ無い青空が広がっていた。僕はちょうど学校の夏期講習を午前中で終えて、家に帰ろうとしているところだった。
とあるコンビニを通り過ぎると、目の前の信号が赤に変わり、僕は自転車を交差点で止めると、額の汗を拭った。日差しがガンガンと僕に照りつけてくる。それこそ、肌がヒリヒリすくるくらいに。蝉の鳴き声と自動車の走る音、そして数人の子供の笑い声が聞こえた。信号待ちをしている黒い車のボンネットの上では、陽炎がまるで踊っているかのように、くねくねとうねっていた。
「あつ…。」
右手を額の上にかざしながら、しばらく信号を待っていると、僕の横に小さなピンクの自転車を押した女の子が横に並んだ。六歳か七歳くらいの可愛い女の子だった。肌は真っ白で、黒い髪が腰の辺りまでさらっと伸びていた。向日葵のような黄色い帽子をかぶっていて、白のワンピースを着ていた。彼女は少し俯き気味で信号を待っていた。僕がチラチラと彼女を眺めていると、ふと彼女が顔を上げて僕の方を見たので、一瞬だけ目が合ってしまった。彼女はどうしてか、少しだけ困ったような表情をしていた。僕はさっと彼女から目を逸らすと、もう一度額の汗を拭った。
大きなトラックがブオオと音をたてて通り過ぎると、信号はようやく青になった。僕はいつもより重く感じるペダルを踏んで、再び自転車を走らせた。早く家に帰ってしまおう、と僕は思った。外にいるよりは、家の中の方がいくらか涼しいだろう。ふと隣を見ると、さっきまで横にいた少女は、いつの間にか陽炎のように消えていた。この暑さだ、熱でぼうっとして幻でも見てしまったのではないか、と僕は思った。そのまましばらく自転車を走らせると、僕は川の横の土手道に入った。
誰一人として、目の前の土手道を歩いている人はいなかった。横を見てみると、川が波打つたびに、日光が水面で反射されてキラキラと輝いていた。川はまるで鏡のように、空の青色と同じ色をしていた。道の横に生えている長い緑草が風に吹かれて涼しげに揺れていた。日差しが強く照りつけ、吹きぬける涼風が気持ちよかった。
それからしばらく土手道を走り続けた後、なんとなく後ろを振り返ると、黄色いものがちょこんと見えた。よく見るとそれは帽子で、さっきの交差点で会った女の子が、僕の自転車の後ろに小さく座っていたのだった。あのとき目が合ったのと同じように、女の子はどうしてか困惑したような顔で僕を見つめていた。彼女は、僕が思ったように、陽炎でも幻でもなかった。この白いワンピースを着た少女は僕の自転車の後部座席にじっと座っていたのだ。僕は慌てて自転車を止めた。
「君は…さっきの子、だよね?どうしたの?」
僕はおそるおそる彼女に尋ねてみた。さっきの交差点で走りだすとき、一瞬だけペダルを重く感じたのは、この少女が後ろに座っていたからだということに、僕は今更気づいた。
「つぐの自転車…壊れちゃったの…」
女の子は見るからに元気が無さげだった。さっき目が合ったときに、困ったような顔をしていたのは、彼女の自転車が壊れてしまったからなのだろうか?更に、僕は続けて聞いてみた。
「君の名前はなんていうの?」
「つぐ…」
「そっか、つぐちゃんか。」
彼女のうなだれた顔を見て、僕はどうしてかこの少女を放っておけない気分になっていた。僕は、このつぐという少女に言った。
「自転車、修してあげようか?」
ついさっきまで僕は、さっさと家に帰ろうと思っていたのに、つい勢いで彼女にそう言ってしまった。
「ほんとう?」
彼女はぱっと顔を上げて目を輝かせた。その嬉しそうな顔を見て、つられて僕も微笑んだ。しかし、言い出してしまったからにはしょうがない。なんとか彼女の自転車を修してあげよう、と僕は思った。
「自転車はどこに置いてきたの?」
「さっきの信号のところ」
「よし、分かった。じゃあ、一旦さっきの場所に戻ろう。ちゃんと僕につかまってるんだよ?つぐちゃん。」
「うんっ」
つぐが元気に返事をする。僕は彼女を後ろに乗せたまま、方向を翻して再び自転車のペダルを漕ぎ始めた。今日はいつもとは少し違う、『特別なこと』が起こりそうだな、と僕は思った。
しばらくすると、つぐが自転車を置いてきたさっきの交差点に到着した。ピンクの自転車はコンクリートの塀にもたれかかっていた。彼女はおそらく、信号が青になったときに、自分の自転車を立たせる間もなく、咄嗟に僕の後部座席に飛び乗ったのだろう。当然鍵もしていなかったので、盗まれなくて良かったね、とつぐに言うと、彼女はうん、と頷いた。
ピンクの自転車のタイヤを確認してみると、後輪がパンクをしていた。僕は試しに小さな車体を押してみたが、チェーンが外れていたりしていることはなかった。パンクさえ修せばもう一度乗ることが出来るだろう。僕は彼女にそう伝えると、
「じゃあ、一旦僕のお家に行こうか?」
と言った。僕の家には自転車の修理用の道具が揃っている。それに、僕は何度か自分の自転車のパンクを修したことがあった。彼女は僕に尋ねた。
「お兄ちゃんのおうち?」
「うん、そこで修すからね。」
僕が、さあ行こう、と言うと、彼女はうんっ、と返事をしてついてきた。
僕とつぐは、二人並んでそれぞれの自転車を押しながら、さっきの川の横の土手道まで歩いてきた。
「おにいちゃんはいつもここを通るの?」
隣を歩く少女が目の前に広がる土手道を指差して僕に尋ねる。
「うん。いつも学校帰りに通るんだ。」
僕はそう答えた。実際、この土手道は僕のお気に入りの道だった。いつも生き生きとしているし、人通りが少ないところも好きだった。
「ふーん」
すると、つぐはこう呟いた。
「つぐも、ここの道、たくさん通る…」
「そうなの?」
「うんっ、冬だと、白い鳥がたくさんいる」
そういってつぐは横を流れる川を指差した。僕は何度か、ここの川辺に、飛来してきた白鳥がいるのを見たことがある。
「白鳥は渡り鳥だから、冬に日本に来て、夏には別のところにいるんだよ。」
「別のところってどこ?」
「ああ、ごめん分からないや…涼しいところじゃないかな?」
彼女の問いに答えあぐねた僕は、思わず言葉を濁した。
「どこが涼しいところ?」
「うーん…どこだろう…ロシアとか?」
「ろしあってほっかいどうのところ?」
彼女は小首をひねりながらそう言った。僕はつぐの言葉に笑いながら言った。
「ロシアは外国だよ。北海道も寒いところだけどね。」
「がいこくって、あめりかのこと?」
「あーうん。アメリカも外国だね。」
「ろしあはあめりかの、よこ?」
「横って言われてもな…横って言われれば横なんだけど…。」
子供のこの手の質問には、返答するのにとても苦労する。なぜなら小さな子たちは、いたって真面目にこのような聞き方をするからだ。彼らの純粋な心の中から出たささやかな疑問を正面から否定してしまうのは、僕にはちょっとためらわれた。結局、僕はその話はうやむやにしてしまって、逆につぐにこう質問した。
「そういえば、つぐちゃんは、今何歳なの?」
「5さいくらい…」
「くらい?」
「来週の来週から3日たったらお誕生日なの。」
「うん?」
どういうことだろうか、と僕は思った。つぐは更にこう続けた。
「だから、ぴったり5さいじゃない…ほとんど6さい」
「ああそういうことか…。」
この子はきっと凄く純粋な女の子なのだろう、と僕は思った。彼女と話していると、不思議ととても楽しく感じた。つぐは僕にたくさん質問をしたし、僕も彼女の突飛な回答を期待して、様々な質問した。二人が仲良く会話をしながら歩いている間ずっと、僕たち二人の横を、きらきらと煌く川がゆっくりと流れていた。
家に着くと、僕は早速ガレージから自転車修理キットを持ってきた。
「今から自転車直すからね。」
僕がつぐに言うと、彼女はうんっ、と返事をした。
「おっと、あれを忘れてた」
僕は一旦家の中に入ると、台所で青いバケツに水を半分ほど入れて持ってきた。つぐは、僕の持ってきたものを見て、不思議な顔をして僕に尋ねた。
「それ、なにに使うの?」
僕は出来るだけわかりやすく説明しようと思って、
「チューブっていうのが、タイヤの中に入ってるんだけど、それにあいた穴を探すのに使うんだよ。」
と答えた。しかし、彼女にはほとんど理解できなかったらしく、首をかしげてしまっていた。やっぱり分からなかったか、と僕は苦笑した。僕は、作業が進めばすぐにこのバケツの使い道が分かるだろうと思い、てきぱきと手を動かし始めた。
まず、バルブをタイヤから外し、それからタイヤレバーをタイヤとリムの間に何本か差し込んだ。それからてこを使って、タイヤの片側を外すと、うねうねとしたチューブが姿を現した。つぐは、この蛇の腹のような物体を指差して、
「へびさんみたいっ。これがちゅーぶ?」
と僕に尋ねた。
「うん、そうだよ。」
そう答えると、僕は玄関から空気入れを持ってきた。一旦バルブをチューブに装着し直して空気を入れる。空気入れを手で押すたびに汗が額を流れた。僕とつぐの上で、日は未だ衰えずに、ギラギラと輝いていた。
「お兄ちゃんあつそう…」
大丈夫、と彼女に声をかける。休まずに空気を送り込み続けると、やがてチューブは空気を吸い込んで、パンパンに膨らんだ。これくらい空気を入れれば大丈夫だろう。
「今から穴を探すよ。」
「どうやって?」
まあ見てな、と僕は彼女に合図をした。つぐは僕が今からしようとすることに興味津津のようで、身を乗り出して作業の様子を見守っていた。
僕はチューブを両手で持って、持ってきた青いバケツの中の水に手を突っ込んだ。バケツの中の水は冷たくて気持ちが良かった。僕は、隣で僕の仕事を見守る少女に向かって言った。
「穴があいてる場所があったらね、ぶくぶくって空気が出てくるから分かるんだ。」
「へええ、お兄ちゃん頭いいね」
僕が考え出した方法ではないのだが、つぐはキラキラした目でこちらを見ていた。尊敬の眼差し、というのはこういう目のことを言うのだろうか。僕は、曖昧に、ありがとう、とだけ答えておいた。
チューブを水の中に入れて、気泡が出ていないか確認する。この作業をしばらく続けていると、問題の箇所を見つけた。気泡が漏れているところは一箇所だけだった。
「あ、泡が出てる」
僕の横にしゃがんだつぐが、興奮した様子で言う。そんな彼女に僕は言った。
「よーし、つぐちゃん、ここを指で押さえててね。」
「ここ?」
つぐは言われたとおりに、チューブの泡の出ている部分を指で押さえた。
「そうそう、どこから泡が出てたか、水から出しても分かるようにね。」
僕は修理キットの箱からゴムのりを取り出した。
「つぐちゃん、それ、僕に渡して。」
彼女は穴が開いている部分を小さな指で、ここだよ、と指し示しながら、僕にチューブを手渡した。僕は頷いてそれを受け取った。
「よし、ここだな…」
僕はゴムのりをチューブの穴のあいた部分の周りに塗りつけた。一分ほど待って、ゴムのりが乾くと、パッチを貼り付けた。パッチは強く圧迫されることで、周りのゴムと同化し、穴を塞ぐ。僕はぐりぐりと両手の親指でパッチをチューブに押し付けた。つぐが乗る自転車なのだから、中途半端に直すわけにはいかない。
「あっつぅ…」
作業に夢中になっていて気づかなかったが、いつの間にか日差しは更に強くなっていたようだ。つぐがTシャツの袖を捲くってくれたので、僕はありがとう、と彼女に言った。
「よし、もう大丈夫。」
「なおった?」
「うん、もう穴は塞いだよ。後はチューブを元に戻すだけ。」
僕はチューブを中に入れて、タイヤを元に戻した。自転車を立てて、バルブに空気入れを装着する。僕が再び空気入れを使って空気を入れると、後輪から空気が抜ける様子もなく、元通りに固く膨らんだ。つぐは僕が空気入れを押している間、作業の行方を真剣に見守っていた。僕は顎に垂れてきた汗を肩の袖で拭うと、彼女に言った。
「よし、オッケー。できたよ。」
「本当っ?やったー」
つぐは両手を挙げて笑顔でバンザイをした。彼女が喜んでくれてよかった、と僕は思った。それから、ふとピンクの自転車を見てみると、車体のあちこちに泥汚れがついていることに気がついた。つぐはきっと、毎日これに乗ってあちこちを探検しているのだと思った。それで、自転車もすぐに汚れてしまうのだろう。僕は彼女に言った。
「あ、待って。ちょっと洗車しよう。」
「せんしゃ?」
「うん、たくさん汚れがついてるからね。ついでに僕の自転車もきれいにするよ。」
僕の赤くて大きな自転車とつぐのピンクの小さな自転車。まるで兄妹のような二台の自転車を横に並べると、僕は庭の隅からホースの先を持ってきて、つぐに水道の蛇口をひねるように言った。
「うん、いいよつぐちゃん。水を出して。」
つぐが頷いて蛇口をひねると、勢いよく水が飛び出し、二台の自転車に降りかかる。
「わー虹がみえる」
「あ、本当だ。」
ホースの先から出た水に反射して、きれいな七色の虹が写っていた。小学生の頃、公園の水飲み場の蛇口を使って、よくこうして虹を作ったっけ。僕は少し昔のことを思い出した。
洗車し終わったあとの二台の自転車は、お日様の光を浴びて、つやつやと輝いていた。
「つぐちゃん、自転車が乾くまでにちょっとかかると思うよ。」
「なん分くらい?」
僕は、空を見上げると、未だジリジリと照り続けるお日様を見上げて言った。
「うーん今日は暑いし、日差しも強いから15分くらいで乾くんじゃないかな?」
「…うん?…」
つぐは薄いピンクの唇に人差し指を当てて、何か考えている様子だった。たぶん、15分というのはどれくらいの時間だったか考えているのだろう。そんな彼女の、可愛らしい様子を見て、僕はくすりと笑って、彼女にこう提案した。
「ねえ、つぐちゃん。一緒にアイス食べない?」
彼女はすぐにピクリと反応した。
「食べたいっ」
予想以上の反応に嬉しくなって、僕はにこにこしながら尋ねた。
「甘いのとすっぱいの、どっちがいい?」
「うーん…じゃあ、甘いのっ」
「うん分かった。すぐ持ってくるね。」
つぐを待たせるといけないと思い、僕は急いで家の中に入って、冷凍庫から二本の棒アイスを持ってきた。
「暑いから中で食べよう。」
つぐは言われたとおりに玄関へ入ってくると、こっちのほうが涼しいね、と笑って言った。
二人並んで玄関に座り、バニラのアイスを食べる。アイスが気に入ったのか、つぐは小さな足をばたつかせて喜んでいた。
「おいしいね。」
「うんっ、おいしい」
つぐは目を細めてそう言った。僕は、彼女の黄色い帽子の上に手を置いて優しく撫でた。僕には隣に座るこの小さな少女がとても愛おしく感じた。一人っ子の僕にも、こんな妹がいたら、どれだけ楽しいだろうかとも思った。
「今日はつぐちゃんとたくさん話ができて、とっても楽しかったよ。ありがとう。」
食べ終わったアイスの棒を手に持ったまま、僕は、ふと口を開いてそう言った。
「つぐも、楽しかったよ、お兄ちゃん」
にこりと笑うつぐ。僕は彼女の方を向いて微笑もうとして、途中でやめた。代わりに、僕はこう言った。
「その、つぐちゃんに、聞いて欲しいことがあるんだ…。」
「なあに?お兄ちゃん?」
彼女なら、きっと馬鹿にせず黙って僕の話を聞いてくれる、そう思った。それで、僕は俯いて彼女に言った。
「僕ね、友達がいないんだ…」
「…え?」
つぐは突然の僕の告白に驚き、こちらを向いて尋ねた。僕は地面を見たまま言った。
「前は、僕にも人並みに友達がいたんだ。でも、今はそうじゃない…みんな友達じゃなくなってしまったんだ。」
「どうして?」
こんなこと、こんなに小さな女の子に話して、本当に良いのだろうか…。僕はしばらく戸惑っていたが、つぐの真剣な目を見て、正直に全てを話すことを決めた。僕は独り言のように語り始めた。
「僕のクラスではいじめがあったんだ。それも、クラス全体で、たった一人の男子生徒を標的にして。もちろん僕はそのいじめには加わらなかった。いじめなんて最低だと思ったんだよ、僕は。だから、そのいじめられている奴を助けようとしたんだ。担任の先生なんていじめを見てみぬふりだし、僕が助けるしかないと思ったからね。彼もみんなの仲間に加われればよいと思ったんだ。そうなれば彼は幸せだろ?もちろん、クラスの問題が解決すれば、僕だって幸せだよ。クラスのいじめが解決することは、クラス全体の望むことだと僕は思っていたんだ。」
「お兄ちゃんは、強いんだね」
つぐはそう言ったが、僕は首を振ってそれを否定した。
「強くなんかないよ。だって、僕は彼を助けられなかったんだから。」
僕は弱々しくつぐに微笑んで言った。
「クラスでのいじめはなくならなかった。いや、むしろ、僕が彼を助けようとしたことが火に油を注ぐ結果になったみたいで、いじめはますますひどくなったんだ。結局彼は…つまり…そのいじめられている男子生徒は不登校になって、一切姿を見せなくなってしまったし、僕自身もクラス全体から無視されるようになった。」
僕は拳を握り締めて言った。手の中のアイスの棒がボキッと音を立てて折れる。
「僕、余計なことをしちゃったんじゃないかなって、ずっと悩んでるんだ。いじめられていた男子生徒にとっても、自分にとっても。なんでこんなことになっちゃったんだろう…。彼を助けてあげようとしただけなのに…。僕が間違ってたのかな…?これじゃ、余りにも報われなすぎるよ…。ねえ、僕は幸せにはなれないのかな?ねえ、つぐちゃん?」
「……」
つぐは悲しそうな顔をして、僕の質問に答えてはくれなかった。しばらくの間、二人の間には、ただただずっしりした沈黙だけがあった。
自転車が乾いた頃、つぐは突然立ち上がり、口を開いて意外なことを言った。
「お兄ちゃんにおれいがしたいの」
うなだれていた僕は、その言葉に少し驚いたが、すぐにこう答えた。
「いいよ…。自転車を修したくらいで、お礼なんて。」
僕は彼女に微笑んだ。僕はすでにつぐと一緒に、掛け替えの無い時間を過ごした気でいて、とても充実した気分だったのだ。それに、僕の心の内を何もいわずに聞いてくれた。それだけで十分だ。だから、この申し出は断ろうと思った。しかし、彼女は真剣な眼差しで僕を見つめながらこう言った。
「ううん、どうしてもおれいがしたいの…」
「うーんどうしても…?…分かったよ。」
彼女が意外にもしつこく食い下がるので、僕は結局、彼女の言う『お礼』というのを受けることにした。よく考えてみれば、頑なに彼女の『お礼』を拒む理由なんて、僕は全く持ち合わせていなかったのだから。
「じゃあ、公園にいく」
少し意外な彼女の言葉に、僕はこう答えた。
「公園?『はるまき公園』っていう公園なら近くにあるよ?一緒に行こうか?」
彼女は、うん、と頷いた。『お礼』というのは公園のような場所ですることなのだろうか、と僕は疑問に思ったが、素直に彼女について行ってみることにした。
僕ら二人は、洗車したばかりのピカピカになった自転車に乗って近所の公園へ向かった。二人並んで自転車に乗る僕らは、周りの目からはきっと仲の良い兄妹のように映っただろう。
『はるまき公園』に着くと、つぐと同じくらいの年だと思われる数人の子供たちがブランコに乗って遊んでいた。つぐは自転車を降りると、すぐに何も無い緑の原っぱへと駆け出した。ブランコや他の遊具には目もくれなかった。しょうがないな、と思いつつ、僕は彼女のことを追った。
「あ、あった」
彼女は立ったまま、草むらを見渡すと、しばらくして何かを見つけたようだ。つぐはその場にしゃがみこんで、何かを摘み上げるような仕草をした。
「何を見つけたの?」
僕は彼女に尋ねた。彼女は振り返って僕を見ると、うん、と頷いた。
「これ、お兄ちゃんにあげる」
「うん?」
彼女が僕に向かって握った手を突き出したので、僕はその小さな手の下に開いた手を差し出した。つぐが手を退けると、僕の手のひらの上には、一本の四葉のクローバーがあった。
「これは…。」
僕は驚いた。四葉のクローバーなんて、1日中探し回ったところでせいぜい一つか二つ見つけられるかくらいだろう。それだけ珍しいものであるはずなのに、彼女は公園に着くなり、一目散に原っぱへと駆け出し、1分も経過しないうちに四葉のクローバーを見つけ出したのだ。僕は、信じられないと言う顔をして、つぐにこう尋ねた。
「つぐちゃん、どうしてそんなに早く四葉のクローバーを見つけられるの?」
「お兄ちゃん。お兄ちゃんには聞こえないの?」
彼女は逆に、僕に予想外な質問を投げかけてきたのだった。しかし、聞こえないの、と尋ねられても、僕には何のことかさっぱり分からなかった。
「何が聞こえないのかって?」
「よつばの、こえ」
「えっ?」
彼女の言う『よつば』とは、四葉のクローバーのことだろう。ならば、彼女は四葉のクローバーの声が聞こえるとでも言うのだろうか…。信じられないような話ではあるが、つぐのような純粋な心を持つ少女が、僕に嘘をつくとは思えなかった。彼女は平然とこう続けた。
「つぐには聞こえるよ。よつばがつぐのことを呼んでるの。こっちだよって」
「四葉のクローバーの、声が?」
「うん、他の人にもきこえてるのかとおもってたけど…」
僕は首を振って彼女に言った。四葉のクローバーの声が聞こえる、なんて話は、他に聞いたことがない。もちろん、僕にだって聞こえたことはない。
「いや、普通は聞こえないよ。つぐちゃんにしか聞こえないんだよ、きっと。」
僕は彼女にこう言った。
「つぐちゃん、もっとたくさん見つけられる?」
彼女は、うん、と頷くと、再び草むらの中へと走っていった。
5分ほど経っただろうか、彼女は僕のもとに二十本もの四葉のクローバーを手に持って戻ってきた。もはや、つぐの四葉の声を聞くことができるという能力の存在は、疑いようもなかった。僕は彼女に言った。
「すごいよ、つぐちゃん。つぐちゃんは特別なんだね。」
四葉のクローバーを探し出す能力を持つ少女。彼女は照れたような顔をして言った。
「そんなことないの…」
「ううん、つぐちゃんは特別なんだよ、きっと。」
僕が彼女の黄色い帽子頭を撫でてあげると、彼女は嬉しそうにえへへと笑った。
「お兄ちゃんもいっしょに探そうっ?」
「えっ?僕も?」
意外な申し出だった。彼女は僕に言った。
「うん、きっとお兄ちゃんも、すぐにみつけられる…」
僕に見つけられるだろうか。彼女のように、四葉のクローバーを。僕は少しはにかみながら彼女に頷くと、
「うん…じゃあ、僕も探してみるよ」
と、言った。僕はつぐからもらった四葉のクローバーをポケットにしまうと、自分でもそれと同じものを探し始めた。
それから一時間ほど経ち、辺りが段々とオレンジ色に染まり始めると、少しずつ公園で遊んでいた子供たちも帰っていった。日が落ちてきたとはいえ、長い間四葉のクローバーを探していると、気づかぬうちにだらだらと汗を流していた。結局僕は、未だに一本も四葉を探し出せずにいた。草むらにはぎっしりとクローバーが生えていて、ほとんどが三葉なのだが、その中から数本しかない四葉を探し出すのは、僕には到底不可能に感じた。つぐはというと、最初は順調に四葉のクローバーを見つけ出していたのだが、いつまで経っても見つけられない僕のことを気の毒に思ったのか、途中からは僕のことを心配そうに見つめているだけだった。
四葉のクローバーを見つけることが出来ない僕。それは、いつまでたっても不器用で、幸せを手に入れられずにいる僕自身を明らかに示唆していた。これ以上探し続けたところで、結局四葉のクローバーは見つからない…。そう思った僕は、つぐに向かってこう言った。
「もういいよ、つぐちゃん…。僕は、もうやめる…」
僕はため息をついて彼女に言った。
「えっ、どうして?」
つぐが眉をひそめて僕に尋ねた。そんな彼女に、僕はこう言った。
「僕には、つぐちゃんみたいに四葉のクローバーを上手に探せないんだ…」
僕は俯きながら、更にこう続けた。
「ただ、三葉のクローバーを踏み潰してしまうだけで…」
そう、僕が幸せを手に入れようとすると、他の何かを傷つけてしまうのだ。ちょうど、いじめに遭っているクラスメイトを救おうとして、結果的に彼を不登校にしてしまったように。なら、四葉のクローバーなんて、幸せなんて、最初からの探さなければ良い、手に入れようとしなければ良いのだ。
「お兄ちゃん…」
つぐは近寄ってくると、心配そうに僕を見上げた。そして、小さな手で僕の手を握った。暖かくて細い指が僕に触れる。彼女は僕を慰めてくれているようだった。
「お兄ちゃん、どうしてよつばができるのか、知ってる?」
四葉のクローバーがどうしてできるのかだって?この少女は、一体僕に何を伝えようとしているのだろうか、と僕は思った。
「…知らないよ…」
僕がそう答えると、つぐは、それはね、と言葉を続けた。
「みつばが踏まれたり、蹴られたりして、きずつけられるからなの」
「そうなの?」
彼女は僕の頬に手を当てたまま言った。つぐの白い頬が、オレンジ色の夕日に照らされていた。つぐは僕の目を見つめながら言った。
「うん、だからね、お兄ちゃん。みつばを踏んじゃうことを、こわがらなくてもいいんだよ。みつばは、踏まれたり、蹴られたりすることで、『負けるもんか』っておもって、新しい葉をつけるの。そしたら、葉っぱは四枚になるでしょ?そうやって、みつばはよつばになるの」
「つぐちゃん…。でも…」
この少女が、自分なりに、一生懸命僕を元気づけようとしてくれていることはよく分かった。しかし、僕にはそれでも腑に落ちないことがあったのだ。
「つぐちゃん。それでも、僕が三葉を傷つけてしまっていることに変わりはない…。変わりはないんだ…」
僕がそう言うと、つぐは、お兄ちゃん、と僕に語りかけた。
「よつばは、探そうとしないかぎり、みつからないの。それに、お兄ちゃんがよつばを探そうとしなければ、みつばが踏まれることはない。そしたら、よつばができることはないの。」
つぐは、僕の目を真っ直ぐに見て言葉を必死に続けていった。
「お兄ちゃんがよつばをさがそうとして踏んだみつばが、いつかは誰かが見つけるよつばになるかもしれないの。だから、お兄ちゃん、みつばを踏んじゃうことをこわがらないで。よつばをさがそうとしてみなくちゃね、なにも始まらないの」
彼女は一呼吸置くと、僕の方を見て更に一言、こう言った。
「いじめられている人を助けようとしたお兄ちゃんは、何も間違ってないよ…?」
つぐは、泣き出しそうな顔で僕を見つめていた。言う僕の言葉を待っているのだ。たどたどしい言葉。しかし、そのつぐの言葉は、僕の胸を打つのには十分だった。僕は言った。
「あと、一時間だけ…」
「えっ?」
僕は彼女に向かって言った。
「つぐちゃん、僕ね、あと一時間だけ探してみるよ。」
彼女は僕の言葉を聞くと、すぐにぱあっと笑顔になった。それで、僕は再び四葉のクローバーを探し始めた。これが最後のチャンスだ、と僕は思った。
それから、まもなく一時間が経つ頃。辺りは薄暗くなり、さっきまで公園に残っていたわずかばかりの子供たちも、とっくに全員帰ってしまっていた。少しだけ涼しくなったので、僕のTシャツに染みていた汗はすっかり乾いてしまった。しかし、これ以上暗くなってしまうと、四葉のクローバーを見つけ出すことは困難になるだろう。ただでさえ四葉を探すことは難しいのに、暗い中で探すとしたらなおさらだ。それは、ほとんど不可能に近いだろう。それに何より、つぐが帰って来ないことで、つぐの家の人を心配させたくはなかった。いつまで経っても四葉のクローバーは見つからず、そろそろ潮時かな、と僕が思いかけた時のことだ。僕はたくさんの三葉のクローバーに埋もれた中に、四枚の葉のついた一本のクローバーを見つけた。
「あっ。見つけたっ。」
「ほんとうっ?」
つぐが嬉しそうな顔をしてこちらを向く。僕はその四葉のクローバーを、すっかり土だらけになってしまった手でぷちっと摘み上げた。
「やった…」
嬉しさの余り、少し涙が出てしまった。四葉のクローバーを見つけたのは、いつ以来だろうか…。確か、僕がつぐくらい小さかった時に、一度だけ見つけたきりだ。
「お兄ちゃんっ、よかったね」
まるで自分のことのように喜び、僕を祝福してくれるつぐ。僕は軽く指で涙を拭うと、彼女に言った。
「つぐちゃん、これ、あげるよ」
「え?」
僕はつまんだ四葉のクローバーを、つぐの小さな手のひらに置いた。つぐはわけも分からずにそれを受け取った。
「つぐちゃんには、大切なことを、たくさんっ、教えてもらったよ。これは僕からの『お礼』。」
呆然と僕を見上げるつぐに今度は僕が微笑んだ。そして、彼女にこう尋ねた。
「つぐちゃん、僕はまた四葉のクローバーを見つけられるかな?」
彼女はなんと答えるだろうか…。僕ら二人の間に、一瞬の沈黙が流れた。
「…おっ、お兄ちゃん…」
つぐは目を丸くして僕の目を見た。真っ直ぐで、純粋な二つの瞳が、僕の方を向いている。僕は微笑んだまま、彼女の返答を待った。彼女はきっと僕の期待通りの回答をしてくれるだろう…。やがて、つぐは僕に、その日一番の笑顔を見せてくれた。
「もちろんっ」
僕とつぐが『はるまき公園』を出る頃には、辺りはすっかり暗くなってしまっていた。僕はつぐを彼女の家へ送ると、やっとのことで自分の家へと帰ってきた。ただいまも言わずに家に入る。その日一日はいろいろなことがありすぎたので、僕は、まるで泥のように疲れていたのだ。自分の部屋に入るなり、電池が切れたおもちゃのように、すぐにベッドに倒れこんでしまった。しばらくの間、そのままベッドに倒れこんだ姿勢で、今日僕に起こった様々なことを思い返した。土手道を自転車で走ったこと。そこで四葉のクローバーを見つける能力を持つ、不思議な女の子と出会ったこと。彼女とたくさんお話をしたこと。その子のピンクの自転車を修理してあげたこと。そして…。
僕はふと、ポケットにしまっていたあるものの存在を思い出した。急いでポケットに手を入れて確かめてみる。すると、何かが指先に触れた。ああよかった、ちゃんとあったのだ。
時間が経って少しよれよれになってしまった『それ』を、ポケットから慎重に取り出して眺める。大切に取っておかなくてはいけないものだ、と僕は思った。
「あ、そうだ。」
僕はあることを思いつくと、本棚から適当に一冊の本を取り出した。
僕はその本の真ん中の辺りを開くと、ポケットの中にあった『それ』をページの間に挟みこんだ。僕がいつかこの本のこのページを開いたときには、また今日のことを思い出せるように。僕は呟いた。
「ありがとう…つぐ…」
僕は本のページをパタンと閉じ、本棚にしまうと、ドスンとベッドに倒れこみ、やがて、すやすやと寝息を立てて眠ってしまった。
(8)月(23)日 (木)曜日 天気(晴れ)
日記を書くのは久しぶりだ。前に日記を書いたときに、8月22日の分までのスペースを使ってしまってたからだ。それで、日にちがずれたまま日記を続けるのもなんだか嫌で、そのまま二週間も日記を放ったらかしにしてしまった。
ところで、今日はよいことがあった。今日は新学期の始業式があったんだけど、不登校だったはずの吉田君がなんと学校に登校してきたのだ。彼が僕に向かって、助けようとしてくれてありがとう、なんて言ったので、なんだかこっちまで泣きそうな気分になってしまった。頑張ろうね、と僕が言うと彼は嬉しそうに微笑んだ。
僕がつぐから教えてもらった大切なこと。それは、『幸せ』を手に入れようとすることを恐れないことだ。僕はもう何も恐れない。だって、『四葉のクローバー』を探そうとするだけ、それだけで、幸せは簡単に手に入れることが出来るのだから。僕はこの先も何とかやっていけると思う。
とか書いているうちに、また今日も二日分のスペースを使ってしまった。最近は書きたいことが多すぎて困る。でも、こんなに嬉しいことがあったのはつぐちゃんのおかげだ。つぐちゃんには今度改めてお礼をしようと思う。日記はまた明後日から再開することにしよう。では、今日はここら辺で日記を閉じることにする。