誤解を解けば
ラナは結構いける口だった。
楽しげにグラスを傾けるラナを見て、ヴェラもうきうきと普段は出さない酒を奥から引っ張り出してくる。
「こういうのも好きかなと思ったんだけどどうかしら」
カウンターに置かれたグラスを見てラナの目が輝く。淡いピンク色で微かに泡立つそれはいかにも女性が好みそうな酒だった。
ラナは満面の笑みで、ぽとんと落とされたベリーと同じ色の唇をつけた。
「おいしい~っ! ヴェラさん、なんか随分甘いお酒が増えてません?」
「最近常連さんに甘いのが好きな人が増えてね。
あ、でも結構強いから気をつけて」
「帰りはペールに送ってもらうから大丈夫です」
「俺かよ!?」
「女の子一人で帰す気?」
「お前が勝手に来たんじゃねえか」
そんな言い合いの末、ちゃっかり家まで送る約束を取り付けるのだからなかなか強かで気さくな人だった。
「ところでね。あなたたちこんな所でお酒飲んでていいの? 第二連隊ってなんか大変だったんでしょ」
突然ラナが声のトーンを落としたのでペールが身構えた。
「な、なんかってなんだよ」
「ええと、王妃様の輿入れの警備をすると言ってティト君がヨシュア王国に行って、帰って来たらこんなズタボロだったわけでしょ。
ってことはイーカル王家かヨシュア王国に悪意を持つ人から王妃様が襲撃を受けた――んじゃないの?」
「お前、それ機密事項」
「あ。やっぱりそうなの。どうりで誰もそんな噂してないわけだわ。じゃあ詳しい事は聞かないでおくけど……
――大怪我するほど大変な何かがあったのに、バーで油売ってて大丈夫なの?」
「事後処理は俺たち関係ないからな。まあそのうち『大掃除』がありゃ呼ばれるんじゃね?
おっと、これも機密ってやつか」
口を滑らせるペールを見て、ラナが笑いながらペールの背を叩いた。
「後ね。もう一つ聞きたかったことがあるんだけど」
ラナは真顔になってティトの目を覗き込んだ。
「結局ティト君はニナの事好きなの?」
「ぶっ」
ちょうど口に含んだノンアルコールカクテルが気管の変なところに入る。
激しく咳き込んで、ようやく目をあげたら、心配そうに覗き込むラナの目があった。
毒気の抜けたその顔は、どうしようもなく、ニナに似ている。
そっくりな顔でそんな事を言い出すものだから、思わず意地悪を言いたくなってしまった。
「……目が覚めた時に思い出すのが好きな人、らしいですよ」
だが残念なことに意趣返しにはならなかった。
ラナはシグマの心を縛ったあの台詞を知らなかったらしい。きょとんとした顔で首を傾げた。
ヴェラだけが楽そうに笑っている。
「それで、ティトは誰を思い出したの?」
「俺『も』ファラフェルの日替わり定食を食べたいって思いました」
ニナにそっくりな目が軽く見開かれた。ようやく何かを察したらしい。
そして彼女は深く息を吐いた。
「もう、過ぎた事なのよ」
ラナの空いたグラスに新しい酒を注がれた。
ヴェラさんがくすくすと笑う。
「あのね。ティトは気を使いすぎなの。女は意外と未来を見ているものなのよ。
それを言ったらレザーもだけど」
「なんでレザーさん?」
「2年ぶりにここに来たかと思ったら、ラナがティト君の恋路を邪魔するんじゃないかなんて愚痴っていったわ」
ラナが気まずげにそっと目を逸らす。
ヴェラは自分用にもラナと同じグラスを用意して、淡い色の発泡酒を注いだ。
「元々ラナちゃんの店にシグマを連れて行ったのも、4年前にシグマをけしかけたのもレザーだったから、責任感じてるんじゃない?
ティト君の話を聞いてくれって言われちゃったわよ。あらやだ。これ内緒だったかしら。いいわ。口止めはされてなかったし」
「……私は別にニナの邪魔をしたいんじゃないの。ニナが同じ轍を踏むのが嫌なだけ」
ラナはまたグラスを空にした。
「それにもう、シグマの事はなんとも思ってないわ」
空のグラスを弄ぶ横顔は、少しニナには無い色気があった。
「ごめん。やっぱ『なんとも』は言いすぎ。でもよりを戻す気もないの。私は誰かを心配して待つとか無理みたい。
――ねえ。今もシグマはこの店に来てるの?」
ヴェラは悲しそうに首を横に振った。
「ティトのその顔と同じ時に怪我して、傷に障るからお酒を飲んでない……ってことよ」
「この間会った時には気付かなかったわ。そんなに酷いの?」
ラナはペールとティトを交互に見た。
「いいや。単にあいつがクソ真面目なだけだろ。っていうかそれなら俺の事心配してくれよ」
俺が一番酷かったのに、と愚痴りながらペールは穀物酒を唇に触れさせる。目に見える場所に傷は残ってないが、本当に死線をさ迷ったこの男には、実はまだ飲酒について医師の許可が出ていない。だから今日も「一杯だけ」と言い訳して舐めるように味わっているのだ。
その説明を聞いても、ラナはにっこりと微笑んで言った。
「ペールは殺しても死なない」
「いや死ぬ。死ぬから。言っとくけどね。俺は第二連隊最弱なの。剣握ったらそこらの子供より弱いから」
「それでも生き延びてるじゃない」
「運だけは良いんだ」
「じゃあその運で守ってあげてよ」
「誰を」
「ティト君」
ラナはティトを見て言った。
「これ以上ニナを泣かせたら承知しないから」
天使の皮を被った悪魔のような笑顔を浮かべるラナの後ろに、納得いかないようにぶつぶつと文句をいうペールが居た。
「……あれ、さりげなく俺なら死んでも構わない的な事言われてない?」
* * *
約束の日は快晴だった。
といっても、雨の少ない王都にとってはいつもの天気。
雲ひとつ無い空を確認し、帽子を被るかスカーフを巻くか悩んでいると階下から姉の声がした。
「ニナー!ティト君が来たわよー!」
「はあい!」
スカーフを巻く時間は無かったので帽子を選んだ。白くて大きなブリムの帽子。そこに巻かれたリボンは今日のワンピースと同じ萌黄色。サイドには小花を集めたような白と黄色の造花があしらわれているお気に入りの帽子だ。
それを片手に階段を駆け下りると、店の前で親しげに言葉を交わす二人がいた。
「……あれ?」
姉とティトさんはこの間まですごくギスギスしていたと思うんだけど……昨日何かあったのかしら。
ニナは首を傾げた。
昨晩、遅くに帰ってきた姉に父は激怒した。ニナは扉の陰から覗いていただけなのだけれど、それだけでも怖くなるほどの怒り方だった。
それを取り成してくれたのは姉を送ってきた見知らぬ軍人さん。ひょろりとして頼りなさげな風貌なのに交渉は上手で、姉は「もう夜中に出歩かない」事と「行く先を告げてから出かける」という約束だけで解放された。
なんとか部屋に戻ってベッドに入る時、姉はニナの頭を撫でた。
「ティト君の話ね。誤解だって」
「それって――」
「詳しくは、本人にききなさい」
姉からは少し、お酒の匂いがした。
「あら、ニナ」
「おはよう」
仲直りした様子の二人が揃って振り返った。
「おはようございます」
ニナが帽子を被りながら駆け寄ると、姉は親しげにティトさんの背中を叩いた。
「じゃあティト君。ニナの事をよろしくね」
「はい」
「裏通りとかは使っちゃだめよ」
「はい」
「夕飯までに帰すのよ」
「はい」
「それから昨日の――」
「わ、わかってますって!」
どこか母のような言葉を口にする姉に手を振って、二人は市場へ向かった。
「あの、姉と昨日何があったんですか?」
「うん……怒られた」
「え?」
「妹を泣かすなって」
ティトさんは顔の傷に触れた。まだ赤みの残るラインが痛々しいと感じてしまう。
「この間は、心配かけてごめんね。こんな顔見せない方が良いかと思ったから店に行けなかったんだ。
もう怪我しない、とは言えないけど。でもどこへ行っても、王都に戻ったらまずファラフェルに行くよ」
約束する、と言ってくれた。
その言葉は……嬉しかったけど、ちょっと複雑。
まず、ファラフェル――
でも本当はその前にあの人の所へ行くんだろうな、とか……
そんなニナの心を読んだかのようにティトさんが続けた。
「砂嵐の日に俺と一緒に居た人、覚えてる?」
「は、はい!」
まさか今その人のことを考えていたとか言えない。
ティトさんはちらりとニナを見て、それまで真面目だった顔を少し崩した。
「あの人、俺の上官」
「え、っていうことは軍人さん!? 男の人だったんですか!?」
背が高くてすらっとした女の人じゃなくて、背が低くて可愛らしい男の人――!?
ニナは一瞬頭が真っ白になった。
それじゃ誤解も良い所だ。
でも確かにそれなら、あんな砂嵐の日に外を歩いていた訳も髪の毛が短い訳もティトさんと仲が良さげな理由も説明が付く。
やっと巡り始めたニナの頭に追い討ちをかけて更に白くさせたのは、続けて発せられたティトさんの言葉だった。
「あの人は、レオナ・ファル・テートっていうんだ」
「レオナ・ファル・テートって――あ、あの!?」
「イーカル国軍第二連隊連隊長」
連隊の名前とかは良く知らないけど、その人の名前は知っている。超が付くほどの時の人だ。
先だっての国王陛下の婚礼の時には、その人を見るために騎士の行進に物凄い人数が殺到したと聞いている。
実はニナ自身も人垣の後ろの方でジャンプしたりしてみたのだが、全然見れなかった。
その人がまさかティトさんの上司で、その上あんな――
「……ええと……その、イメージが……」
ようやく搾り出した言葉に、ティトさんが苦笑した。
「俺も最初はそう思った」
確かに、噂で聞いていたのは真っ白な騎士服を風に翻す茶色い髪の美丈夫、だったけれど……いや、それなら噂は間違っていない。間違ってはいないのだ。
だけどそこから想像したのは雄雄しくて筋肉質で――あんなに華奢で朴訥そうな人じゃない。
「あの、じゃあ、彼女、じゃなくて」
「ただの上官」
ニナはきちんと確かめもせず取り乱した自分に気がついて、深く息をついた。
ちゃんとティトさんに聞いていればこんなに振り回される事も無かったかもしれないのに。昨晩店を飛び出していった姉にもすごい迷惑をかけた。
――後でお姉ちゃんにはちゃんと謝ろう。
ニナはそう決意した。
隣を歩くティトさんは、その時何故か少し困ったような顔をしていた。
「どうか、しました?」
「うん……あのね。雨の日に中央通りで俺たちを見たって聞いたんだ」
――お、お姉ちゃんそんな事まで言ったの!?
ニナは恥ずかしさで顔が真っ赤になるのを感じた。
思わず遠のきそうになる意識の向こうで、ティトさんの声だけは不思議とはっきりと聞こえていた。
「あの時、あの人熱出しててさ。多分ニナちゃんが通ったのは、あの人が気を失った後だったんだと思う」
非日常な単語が聞こえて、はっと我に変えった。
「気を失ったって――レオナさんが?」
思い出すのは、砂嵐の中、心配そうにニナに声をかけてくれた優しい人の顔。
気を失うほど体調を崩すなんてよっぽどの事だ。
「大丈夫だったんですか?」
「うん。たまたまあの人の友達が馬車で通りかかって、自宅に連れ帰って看病してくれた」
「良かった……あ、あれ?」
ふと気がついた。
馬車で、ということは貴族とかかなりお金持ちの人で……
――当家のお客様が熱を出してしまわれて、熱冷ましが欲しいのです。
不意に脳裏に響いたのは、とても耳に心地よい低い声。
「もしかして、執事さんみたいなお爺さんが薬を買いに来ました?」
ティトさんは付き添わずに帰ったからそこまでは知らないと言った。
でもタイミングを考えるときっとそうだ。
「それで……ええと、きちんと誤解を解きたいから、今度本人を連れて来るね。今はちょっと王都にいないんだけどさ」
「そんな申し訳ないです」
勝手に誤解して騒いだのはこちらの方なのに。
「実はレオナもニナちゃんに謝りたがっていたんだ」
ティトさんが意外なことを言い出した。
「最初に会った時、俺達は君の家族を疑っていた」
突然の言葉に疑問符ばかりが頭を過ぎる。
ニナが頸を傾げて見上げると、ティトさんは軍服の腕につけた腕章をつまんでみせた。
「これ、なんて書いてあるかわかる?」
ニナは首を横に振った。
まず目に入るのは軍の印。それからなんかのマークと、一見意味のなさそうな数字と文字の羅列が10個ほど。それが2行もある。
「俺も軍に入るまで読めなかった。普通知らないよね。でも、ラナさんは、これを読んだんだよ」
「まさか」
「だから、疑って、調べた。……ごめん」
「どうして、お姉ちゃんはそんなのを読めたのかしら……」
「4年位前まで俺の上官の一人がファラフェルの常連だったんだ」
ニナが手伝うようになったのは祖父母が亡くなった3年前からだ。4年前の事は知らない。
「その人がね、教えたらしい」
「その人ってもしかして」
姉が軍人との付き合いを拒絶する理由――?
ティトさんは曖昧に笑った。
そしてもう一度、疑ってごめんね、と謝った。