寝ても覚めても?
「ティト君。営業妨害」
「う……」
「あのねぇ。ここはお酒飲むところなんだからさ、飲めないなら食堂にでも行きなさい」
「食堂は……」
ストローのささったグラスがカウンターに当ってコツンと軽い音を立てた。
中身は果実シロップを水で割ったもの。酸味のある果汁も少し加えてあるそうだ。本当はアルコールで割ってカクテルにするのに、これは酒類が一切入っていない。すぐに顔を真っ赤にして倒れるティト専用裏メニューだ。アルコール入りの物の半分の価格で提供されている。
ヴェラは頼めばすぐこのノンアルコールカクテルを出してくれるが、いつも原価率がどうのとぶつぶつ言う。気を使って「お酒を頼みましょうか」と言えば「介抱する人が居ない時は駄目」というのだから、今日みたいに一人で来店した日はやり辛い。
かといって……他に行く店も知らないのだけれど。
「聞いてあげよっか」
不意にヴェラが言った。
「聞くって何を?」
「あれ?愚痴りたかったんじゃないの?」
「愚痴るほど嫌なこともないんです」
「へーえ」
自分の分だろうか。ヴェラは注文も入っていないのに酒瓶に手を伸ばした。
「いろいろ悩みとか抱えちゃう年頃じゃないのー?」
そう言って、グラスに果汁とシロップと蒸留酒を注ぎ、軽くかき混ぜる。あっという間にティトの飲んでいるのと見た目が同じカクテルができた。
「ティトくらいの頃、毎日母さんと喧嘩してたわよ、私。
うまくいかないことばっかりで、イライラしてたし」
「例えば?」
「そうね。その頃、幼馴染の事が好きだったんだけどね。告白できない以前に、友達っていうか姉弟みたいな関係で女扱いもされてなかった……とか」
ヴェラはグラスをちろりと舐めてティトの瞳を覗き込む。
「そういう話、ないの?」
「そういう?」
「恋、とか」
「ないなあ」
正直に応えるとすごく詰まらなそうな顔が返ってきた。
本当は一瞬、昨晩カイが口にした謎かけのような言葉を思い出したのだけれど、そういうのはなんか違う気がした。
酒の肴にならなくて申し訳ない。だけど、恋という気持ちは無いんだから仕方ない。
そもそも――
「恋ってどういう感覚なんですか」
「え、そこから」
ヴェラは、ぽかんと口をあけた。
そして少し考えてからにっこり微笑んた。
「なんでもない時に勃――」
「それ絶対違いますよね」
最後まで言わせてなるものかとヴェラの言葉をさえぎった。
ちょっと冗談を言ってみただけじゃない、と拗ねて見せるのは卑怯だと思う。その冗談の内容は全然可愛くないのに、仕草にだけはぐっと来てしまう。
ただ、この「ぐっ」と言うのと「恋」というのが違うという事くらいはティトだってわかる。恋の経験は無いが、今までに相談という名の惚気話を聞く機会はあったから。でもあの時幼馴染が語っていたのはもっとこう――
「そうねえ。寝ても覚めてもその人の事ばかり思い出すとか、会えない夜に胸がきゅっと締め付けられるとか。そういうのって無い?」
ヴェラが、幼馴染が言っていたのと同じような事を言った。
会っている時だけではなくて本人が居ない時にまで振り回されるなんて随分と忙しい話だ。そんなのあいつだけだろうなんて思っていたけれど、幼馴染だけが特別なのではなくて、誰にとってもそういう物なのだろうか。
だとしたら……思い当たる節がまるでない。
ティトは首を横に振った。
「全然ないですねー。
あ、でも、シグマに睨まれた時の事を思い出すと動悸がします」
居た堪れなくなって冗談で話の矛先を変えたのだが、ヴェラは軽く乗ってくれた。
「あはははは。彼を怒らせるなんて何やったのよ」
「あの人は過保護なんですよ。本人は絶対認めないと思いますけど」
「それは思うわー。一度懐に入れた人間には命かけちゃうタイプよね」
その言葉に深く頷いた。
「俺もかけられちゃいました」
「ティトまで? シグマったら命安売りしすぎ。『命を賭けて貴女を守る』とかもう錆びてるのよってあんなに言ったのに」
「なんですかそれ」
「演劇でね、騎士や王子が求愛する時の定番の台詞。使い古されてもう揶揄にしか使わないようなね。
シグマの古臭さもそのレベルだわ。そんなので死なれたって、残された方は嬉しい訳ないじゃない」
……確かに。
口先だけの人がそういう事を言うのはいい。けれどそれを実行に移すタイプは――時に、迷惑かもしれない。
ティトは意味も無くストローでグラスの中をかき回した。
手を離しても、ストローは渦を巻いた液体に押し流されてグラスの縁を数周回る。
「――泣いた子がいるんだそうです」
「うん」
「俺が会うのを避けているから」
「うん」
「それって、そういう事なんですかね」
口をついて出たのは、そんな言葉。
ヴェラさんはカクテルのグラスを置いてティトの顔を覗き込んだ。
「だったら……嬉しい? 迷惑?」
「……よくわかりません」
あの子の泣き顔を思い浮かべた。初めて会った日の、砂嵐に怯える顔と、安堵で泣き崩れた顔と――でも、カイの言っていたのは、そのどちらとも違うんだろうか。
何故か胸の奥がずくりと疼いた。
「その子は可愛くて、優しい子です。でも、さっきヴェラさんが言っていたように……寝ても覚めてもなんて、そんな風に誰かを思ったことも無い俺が、簡単に嬉しいとか迷惑だとか言っちゃいけない気がするんです」
「あら、いい子ちゃんね」
そう言ってヴェラさんはティトの頭を撫でた。
「でも、可愛いとか優しいとかそういうのじゃなくて、その子だから良いって思ったらきっとそれが恋なのよ」
「その子だから……」
理由がなくても、という事だろうか。
それともどんなに不細工でも性格が悪くても良いと思ってしまう、という事だろうか。
朧げながらわかっていたつもりの「恋」という物が更によくわからなくなった。
しかし、自分ではさっぱりわからなくても、ニナがティトにその訳の分らない感情を持っているのかもしれない。少なくとも、カイがデートだなんだと煽るような言葉を口にしたのはカイがそういう風に捉えていたからだろう。
――カイがニナとデートすると聞いた時、自分は……あまり、面白くなかった?
面白くない、という気持ちとヴェラの言うそれとはやはり違う――のだろうけれど、いつもの自分とは違うという違和感は覚えていた。
黙りこくるティトの耳に、深い溜息が届いた。
「とにかく、会ってみれば?」
「はい?」
「会わなきゃ進まないじゃない」
ヴェラは飲みかけのカクテルをあおると、ティトの手元のグラスを取り上げた。
「だーかーら、何いつまでもちびちびジュースなんて飲んでいるのよ。ここはお酒を飲む所。飲めない子は食堂で定食でも食べてきなさいって言ってるの」
「ちょっと、ヴェラさん!?」
この人はどこまで知っているんだ。
慌てるティトを尻目に、ヴェラはカウンターから出てくると勝手にティトの荷物をまとめ、手を引いて立ち上がらせた。
ぐいぐいと背中を押して出口に追いやる。
「あ、あの!」
「お代はつけておくわ」
「いえ、そうじゃなくて!
……ありがとうございました。話、きいてくれて」
ヴェラはきょとんとした後、「やっぱりいい子だわ」と笑い出した。
「そういえば、さっきの話。シグマに敬語を使うのやめたのね。前は『シグマさん』とか言ってたじゃない」
「はい。――いつの間にか」
ティトは右頬をかいた。
すると、ヴェラはそこに手を重ね、にっこりと微笑む。
「じゃあ、私にもそうやって話してよ。いつの間にかでいいから」




