約束
あの日を境に、ティトさんは店に来なくなった。
残りの二人――レザーさんとカイさんは時々来店しては日替わり定食を食べていく。
ニナは近くのテーブルの片付けをしたり他のお客さんと話す合間に二人の会話をこっそり聞いていたが、二人が店でティトさんの事を話題に出す事はなく、どうして彼が店に来ないのかは杳として知れない。
今日も日替わり定食は二人前。
ティトさんが最後に来店した時に、輿入れ行列の警備がどうとか話していたので隣国へ旅立ったのだろうと思っていた。けれどもその新しい王妃様がこの国にお着きになったのは半月前。婚礼だってもう一週間前に終わっている。
それなのに一度も店に来てくれていないという事は、それが理由じゃなかったっていう事――?
気になる。
気にならない訳がない。
だってティトさんは――常連さん、だもの。
彼は常連さん。だからもし私達が何か失礼な事をして怒っているなら、謝らないといけない。
そう思い至って、ニナは意を決した。
「あ、あの」
会計を終えて店を出ようとする二人を呼び止めた。
「その……最近ティトさん、どうしたんですか?」
二人は顔を見合わせた。
やっぱり何かしてしまったんだろうか。すぐに応えは無かった。
ニナは視線を落とし、エプロンの前で握り合わせた手を見つめた。
「……どうして?」
頭上から降ってきた声は、年嵩のレザーさんだった。
「ず、ずっとお見かけしないので――」
「会いたい?」
何かを含んだように問われ、戸惑った。
そろりと顔をあげると、真っ黒な目がじっとニナを見下ろしていた。
「冗談だよ」
冗談とは言うけれど、からかっている訳ではないらしい。目がちっとも笑ってない。
どう応えて良いか分らず、ただ見つめ返すばかりのニナを見て、レザーさんは更に言葉を重ねた。
「いつも誘ってるんだけどね。君に会いたくないみたいだ」
「――え?」
「冗談」
突然の言葉の意味がわからなくてしばし放心した。
冗談?それとも本当?
やっぱり彼に何か失礼な事をした?
あの日、ティトさんはいつも通り「また来るね」と言って帰って行ったと思うけど……
実はあの時怒っていたの?
どうして?
「レザーさん、やめてください! 悪趣味です!」
カイさんがレザーさんの袖をひいた。
その声を聞きつけて姉が奥から駆けて来る。
「ちょっと、ニナに何したの!」
姉は怒っていた。
ニナを背中にかばうようにして大きなレザーさんを睨みつけた。
しばらく姉の横顔を見つめ、再びレザーさんに視線を戻した時には、レザーさんはいつもと同じ優しげな目でこちらを見ていた。
「ちょっと冗談を言っただけだよ。ごめんね。ニナちゃん」
あの試すような目はなんだったんだろう。
レザーさんは何事も無かったかのように扉を開けて去って行った。その後をカイさんが追いかけようする。
でも、カイさんはすぐに出て行こうとはせず、扉に手を掛けた所で動きを止めた。
そして踵を返すと真っ直ぐにニナの元へ戻ってきた。
「ティトは、俺が今度連れて来ます」
そう、真剣な目をして言った。
カイさんはぺこりと頭を下げて今度こそ店から出て行った。
二人が去った扉を呆然と見ていると、姉がニナの肩に手を回した。
細くしなやかな腕に背後からぎゅっと抱きしめられる。
「お姉ちゃん?」
呼びかけると、感情を押し殺したような抑揚の無い声が囁いた。
「軍人は辞めておきなさい」
「……え?」
「あの第二連隊の男のためなんかに泣くなっていったの」
はっとして頬に触れると、指先が――濡れた。
* * *
不意に空気が揺れた。
同室の友人が帰って来たらしい。
荷物を放り投げる音の後にシュッとマッチをする音がする。壁にぼんやりと人影が映って、カイが机の上の蝋燭に火をつけた事が分った。
「ティト。寝てんの」
何かあったのか、不機嫌そうな声がした。
ティトは布団に半分顔を埋めたまま返事をする。
「起きてるよ」
いつもならカイはすぐに着替え始めるのに、今日は違うようだ。
ティトの背後――ベッドの脇に立っている気配がした。
「今日の日替わり定食はお前の好きな香草焼きだった」
「そう」
それは残念だ、とでも言えば良いんだろうか。
会話が弾まなくて悪い、とは思う。そういう気持ちはあるのだ。
けれど、ティトには頷く以上の返事は出来なかった。
黙って背を向けたままのティトを見て、カイはどう思ったのか。
互いに表情が見えないままではどうしようもない。
必然的に訪れた沈黙を破ったのはカイの方だった。
「俺ね。ニナちゃんと約束したんだ」
出てきたのは意外な言葉だった。
だからティトは思わず素で聞き返してしまった。
「約束って、何の?」
「来週の非番の日。デートして来て良い?」
カイは淡々と告げた。
それこそ、ティトには返事のしようも無い。
「……なんで俺に許可求めるんだよ。約束したなら行けば良いだろ」
閉じていた目をゆっくり開けると、壁に映ったカイの影がゆらゆら揺れていた。
「あの子、顔真っ赤にしてたよ」
それは惚気か。それとも自慢か。
そう言うのも子供染みている気がして憚られた。
大人の対応というやつでは、こういう時どうしたら良いんだろう。
例えばペールだったら「おめでとう」というだろうか。それともからかうのか。
けれどどちらもなんだか少し――面白くない。
だからティトは黙って枕の位置を直した。
カイが溜息をつく気配がした。
「ニナちゃんは、顔を真っ赤にして、泣いてた」
「は?」
目だけをそっとカイの方に向けた。
左目に、珍しく真面目な顔をした友人がうつった。
「レザーさんが、言ったんだ。
お前がニナちゃんに会いたく無いって言ってるって」
思わず布団を跳ね除けた。
「そんな事言ってないだろ!?」
「言ったよな」
カイの細い目に怒りが滲んでいる。
「お前がそう言うのを、俺も聞いた」
「言ったけど、そういう意味じゃな――」
「意味なんてどうでもいい!」
普段は大人しいカイが、珍しく声を荒げた。
「ニナちゃんは泣いてた。だから俺は次はお前を連れて行くって約束した。それだけだ」
ティトは唾を飲んだ。
「……嫌だ」
ようやく吐き出した言葉は、たったそれだけ。
しかしカイが聞く耳を持つ事はなかった。
「お前の意見は聞いてない」
そして、次はティトを同行させると宣言すると、明日は早番だからと言って着替えもせずさっさと自分の布団に潜り込んでしまった。
その背中は完全にティトを拒否していた。




