救いの手と薬草茶
シグマの背を見送ってから、ティトは腕に抱えたままのレオナに声をかけた。
「ええと――肩貸すんで、家までちょっと頑張って下さい。……レオナさん?」
返事は無かった。
顔を覗き込んで何度か名前を呼んでみるが、身じろぎひとつしない。
ティトにもたれたまま意識を失ってしまったようだ。
「ど、どうしよう……」
酔っ払いならともかく、体調を崩して意識を失った人間は初めてだ。とりあえず新兵教育で習った緊急時対応に従って、意識が無く呼吸がある事までは確認したが、軍で習うのはあくまで戦闘に拠る負傷の対応。病気が原因で意識を失った場合は想定されていないのでそれ以上の対処法など知らない。
――とにかく、早く医者に見せなければ。
問題はどうやって運ぶかだ。確かに、その軍の緊急時対応では効率よく担いで運ぶ方法を習った。しかしバランスが悪かったのか持つ場所を間違えたのか、訓練の時は相手を落として一緒に転倒してしまったのだ。だから実際に意識を失った人間を前にして、また落とすかもしれないと思うと腰が引ける。
協力者も居ないこの状況では、引きずるのが最善だろうか。
しかし、力の抜けた成人男性の重さは相当なものだろう。酔い潰れた同僚を連れ帰るのはいつも二人がかりの大仕事だ。一人でできるだろうか。
ティトは目算した。身長はティトとほとんど変わらない。しかし、胸囲は今抱えている腕が回ってだいぶ余る程度だ。他の軍人たちに比べれば細いからなんとか運ぶ事はできるかもしれない。
むしろ問題はこの辺りの医者を知らない事だ。
軍の医務室まで運ぶのはどう考えても無謀。そこらの店へ助けを求めて医院がないか聞くのが早いか――
思案していると、目の前に馬車が止まった。
「レオナ!」
悲痛な声で扉を開けたのは、ふわふわした巻き髪の令嬢だった。
「どうしたの、こんな所で!」
「お嬢様。濡れてしまいます。お下がりください」
飛び出して来ようとする令嬢を御者が制し、こちらに駆けてくる。
「レオナ様――レオナ様?」
先ほどティトがそうしたように、御者も頬を軽く叩いた。そして反応が無いのを見ると、さっと顔色を変えて令嬢の元へと戻った。
「酷い熱で、意識が無いようです」
「どうしましょう。とにかくレオナの家に――ああ、そうだわ! 今週、レオナの屋敷は誰も居ないそうなの。レオナったら全員領地に帰してしまって……
とにかく、軍人さん! レオナを連れてこの馬車に乗って!」
なんだかわからないが、知り合いらしいし運んで貰えるなら越したことは無い。
御者の手も貸りてなんとかレオナを馬車へ乗せた。
「看病する人もいない家に届けても仕方が無いから、レオナは私の家に連れて行くわ。貴方も乗って」
「お、俺――」
こんな立派な馬車には乗ったことがない。こんな全身ずぶ濡れで乗るのは問題があるのではないか。
しかし相手は貴族のようだ。貴族の世界は面倒な確執があって、特に成り上がりのレオナは睨まれているような話も聞いたことがある。この弱りきったレオナなら謀殺することも容易だろう。
ほんの一瞬の間だったが、ティトは思考をめぐらした。
顔をあげると、潤んだ瞳の令嬢と目が合った。
本気で心配している顔だ。大きな丸い瞳に涙が浮かんで、今にも泣き出しそうな顔をしている。
謀殺など疑った疚しさから思わず目を逸らした。その視線の先。令嬢の乗る馬車の腹に今日何度も目にした紋章がついていた。
この人にならレオナを託しても大丈夫。
「――私は、軍へ報告に戻ります」
怪訝な顔をする令嬢に、敬礼とともに所属と姓名を名乗った。
「失礼ですが、ルティア・ファル・ブラント様とお見受けいたしました。
連隊長を、どうぞよろしくお願いいたします!」
* * *
「あらまあ、ニナ。どうしたの」
作業の手を止めて顔を上げた母の前に、びしょ濡れの娘が居た。
雨除けのマントをつけているというのに、何故かフードをかぶっておらず、長い三つ編みからはぽたぽたと雫が落ちている。
「取り合えず頭を拭きなさい」
仕事柄いつも側に備えてあるタオルを手に駆け寄り、ごしごしと拭くと、俯いたままだった娘がぴくりと肩を震わせた。
「ふえぇぇぇ……」
口から漏れる情けない声に驚いて娘の顔を覗き込んだ。
きゅっと閉じられた瞼の隙間から、涙がぽろぽろとこぼれ落ちて行く。
「何?どうしたの?」
「わかんない……わかんないけど、悲しいの……」
「とりあえず、座りなさい」
母は小さな子供にするように、娘のマントを取ってやり、椅子へと導いた。
胸に抱えたバスケットを握る手は、血色を失い真っ白になっていた。
「体を温めるにはシャンザビールルート。心を温めるにはシャイールの実とナランジの実――」
母は呪文のように唱えながら、沸騰した小鍋の中に次々に材料を投じた。
湯気にのってふんわりと、すっきりした薬草の香りが広がる。
しばらく煮てから、茶漉しを使ってカップに注ぎいれると、ニナが安心したように呟いた。
「……ママの匂い」
カップを持つ手に少しづつ血色が戻ってきていた。
母は自分の分のカップを手に、ニナの向かいに腰掛けた。
「パパと喧嘩でもしたの?」
ニナは首を振った。
「じゃあラナと?」
更に首を振る。
「誰とも、喧嘩、してない……」
「そうなの? じゃあ――」
母の言葉は途中で遮られた。店の扉が開いた音がする。
「いらっしゃいませー!」
母は店の入り口に向かって声を張った。
「お客様が来たみたいだからちょっと待っててね」
「お待たせしてすみません。今日は雨でスタッフが少なくて――」
パーテーションの向こうで、非礼を詫びる母の声がした。
どうやら相手は初老の男性らしい。下町の食堂では聞けないような落ち着いて品の良い声を聞いていると、やはり中央通りは客筋が良いんだなあなんて思ってしまう。
「当家のお客様が熱を出してしまわれて、熱冷ましが欲しいのです」
「お医者様には?」
「お診せしておりません。その方がどうしても嫌だと固辞なさるので……」
「ただの風邪なら熱冷ましでも良いんですけど、怖い病気が隠れている事もあるのでお診せした方が良いですよ」
「なんとか説得を試みます」
「子供さんじゃないですよね」
「成人男性です」
「熱だけですか? 咳や嘔吐は?」
「息苦しそうになさっていますが……特には無いようです」
「発疹は?」
「さて……顔や手には見受けられませんでした」
「診断が無いのでは効果があるかはわかりませんが――とりあえず、熱冷ましを用意します。
とにかく、容態が変わったり朝になっても熱が下がらない時には必ずお医者様に診せてくださいね?」
薬草の入った瓶を開け閉めする音が続いた。
ニナは包み込むように持ったカップに口をつけた。
これも、子供の頃に母が飲ませてくれた風邪薬と少し味が似ている。
揺れる淡い茶色の水面に、先ほどの光景が写って見えた。




