すれ違い
「ラナ、ニナ」
「なあに、パパ?」
「今日はお客さん少ないから先にあがって良いぞ」
「やったあ!」
皿を磨いていたラナは手を叩いて喜んだ。
ニナも机の脚を拭く手を早めながら言った。
「私、ママのお店に行くね」
「それなら今サンドイッチを作るから届けてくれないか」
「はあい!」
全ての机の脚を拭き終えるとエプロンを外し、二階からバスケットを取って駆け戻る。
「ねえ、私の分も入れておいて! ママと食べたいの」
ニナは雨が嫌いではなかった。
雨が降ると、閑古鳥のなく食堂は掃除しかやる事がなくなり、それさえ終われば娘達は自由時間になるからだ。
社交的な姉のラナは友達を招いて家でお茶会をするのを楽しみにしているが、ニナは母の働く店に遊びに行くことが多い。
ニナの母は結婚前からずっと実家の薬局で働いている。中央通りにある大店で、すぐ裏手に医院もあることから雨の日でもそれなりに忙しいが、手の空いている時には一緒に夕飯を食べる事もできるし、仮に母に時間が無くても祖父母が相手をしてくれる。
「仕事の邪魔はするんじゃないぞ」
そう言いながら、父はサンドイッチが4~5人分は入ったバスケットをニナに手渡した。
「もう子供じゃないんだから、わかってるわよ」
頬を膨らませながらバスケットをマントの内側に大事に抱えた。
「それじゃ、パパ。いってきます」
「気をつけてな」
* * *
ティトが訪れた時、テート家の屋敷には誰も居なかった。
使用人くらいいるだろうと思ったのに、誰も出てこない。
周囲をぐるっと回ってみても一つも灯りがともっていないのだから本当に留守なのだろう。
続けて訪れたブラント剣術学校――ブラント家の屋敷には、勿論使用人は居たが、レオナもルティア嬢も居なかった。
しかし、小雨降る中家紋の入った門をわざわざ開けて出てきてくれた使用人が「レオナ様はいらしておりませんねぇ。シグマだったらあちらの方へ行くのを見たんですけど」と言う。
何故貴族の邸宅で働く者が一介の軍人を知っているのかは後で本人に聞くにしても
――最悪シグマでもいい。将軍の所に
前隊長はそう言っていた。
探しに行ってみるべきだろう。
シグマの向かったと言う方向は神殿広場と呼ばれる3柱の女神の神殿が並ぶエリア。
「神殿……」
広場を抜けて更にその先へ向かったということも考えられるが、その先は住宅街でシグマの用事など思いつかない。覗いてみる価値はありそうだ。
雨に煙る神殿を見上げる。中央にはこんな曇空の中にあってもなお白くきらめく愛の女神の神殿。左手には冴える月のような青白磁色の月の女神の神殿。そして右奥――何十段という長い階段の先にある灰白色の重厚な建物が、戦女神の神殿。
この中にあの『鬼の副連隊長』がいるとしたら、勿論戦女神の神殿だろう。
階段を一息に駆け上がるために大きく深呼吸をした。その時
「おい」
背後に急に人の気配が現れた。
「うわああ!」
「なんだよ、おい」
「なんでこんな所に!」
「こっちの台詞だ」
ティトと同じ雨除けマントのフードを深く被っているから表情までは伺えないが呆れたような困ったような声だった。
「そうだ! シグマさん、レオナさん知りませんか!?」
「……知らねえな。昼飯の前に図書棟で話したっきりだ」
「じゃあシグマさんでも良いんです。将軍が呼んでいるそうで――大急ぎで来いって怒鳴っていました」
シグマは苦虫を噛み潰したような顔をした。
「あの作戦の事か」
首をかしげるティトの頭をぽんぽんと叩いて、シグマは先にたって歩き出した。
「――そういや、昼飯食い忘れてたな」
更に強くなってきた雨の中、早足で来た道を戻る。
ブラント剣術学校の門――いや、正確にはブラント家の屋敷の門なのだろう。その家紋の入った門越しに、先ほどの使用人に「見つかって良かったですね」と手を振られた。
シグマも片手を挙げて挨拶を返したようだった。
「シグマさん、あのお屋敷に良く行くんですか?」
「なんで」
「親しそうだったので」
「いや、そんなんじゃ――おい、ティト」
シグマは四辻の真ん中で左の道を見つめていた。
その道を進むと三ブロックほどで城へ続く大通りにぶつかる。そのすぐ手前に……
「レオナ!?」
シグマが駆け出した。
壁に寄りかかるようにして、いつぞやの濃紺のマントに身を包んだレオナらしき人影がある。
様子がおかしい。
ティトも慌てて後を追いかけた。
シグマがその両肩を掴んだ。立たせようとすると力なく崩れ落ちそうになるので、腕にもたれ掛かるようにしてなんとか支える。
「レオナさ――」
「熱がある」
シグマは自分のマントを取ってレオナにかけた。
じっとりと濡れた髪が張り付いた顔は俯いたままだが、色の無い唇が細かく震えているのが見えた。
「まずいんじゃないですか」
「こいつの家までなら遠くないだろ。連れて行こう。
――レオナ、歩けるか?」
「あ、あの! 俺、付き添いますから! シグマさんは将軍の所へ行かないと!」
シグマは目を細くした。
じっと見下すように睨まれて、ティトは口を閉ざした。
元々目つきの悪いシグマは常に誤解されがちで、睨んでいるようでもただ見ているだけだったという事が多い。
ティトはこの所ようやくこの男の表情の違いがわかるようにはなってきたが――この目は本気だ。
野獣に睨まれたかのようにティトが怯んだその時、レオナの頭が動いた。
「……将軍が、呼んでる…のか」
弱弱しい語尾が雨音の中に吸い込まれるように消えた。
「例の、作戦の話…だな……」
レオナは半身を起こすと、フードを振り払い、シグマを正面から睨みつけた。声は未だ震えていたが、目だけは強い意思を持っていた。
「責任者はオレだ……オレが、行く」
「そんな状態じゃ無理だろうが」
「行ける」
「――ちっ」
シグマが舌打ちをした。
「ティト。こいつを家まで送っていってくれ」
ふらつくレオナの体をティトの方へ押しやった。膝に力が入らないのか、肩を支えるともたれるように寄りかかってきた。それでもレオナは身をよじってシグマを睨む。
「おい、シグマ!」
「将軍の所には俺が行く」
「それは、オレの――」
「今日中に報告に行くから、お前は帰ったらすぐにその濡れた服を着替えて薬を飲んで寝るんだ。いいな」
レオナの言葉をさえぎって、シグマは有無を言わさず大通りを軍部のある方へ駆けて行った。
* * *
「え、え――?」
ニナは立ちすくんだ。
水路通りと中央通りの交差点。ここを曲がれば母の店はすぐだ。
なのに、そこから一歩も歩けなくなった。
ニナの視線の先――ほんの2ブロック向こうに、建物の陰に隠れるようにして抱き合うカップルが居た。
男性の方は顔が見える。最近店の常連になったあのティトという名前の軍人さん。
女性の方は――顔が見えない。
イーカル国軍を示す緑色のマントからこの辺りでは珍しい茶色の髪だけが出ている。
ニナの脳裏に、砂嵐の日にティトと一緒に居た濃紺のマントの女性の顔がよぎった。
あの人も、確か茶色の髪――
思い出したとたんに、目が離せなくなった。
雨で人通りが少ないからか、二人は大胆なほど身を寄せ合っていた。
ティトさんがあの人を自分のマントで包んでる……
ティトさんがその人の顔を覗き込むようにして何か囁いた。ううん。よく見えないけど、キスをしているのかも……
それも、随分長いキスを――
二人が身じろぎしたその時、マントの裾からちらりと見覚えのある濃紺のマントが見えた。
「やっぱりあのひとだ……」
仲睦まじい様子の二人に背を向けて、ニナは路地へと逃げ込んだ。




