疑惑
視界が悪いので少しづつ進むしかなかった。
ティトは手で覆っても目に入ってくる砂に顔をしかめながら、先を行くレオナの濃紺のマントを見失わないように必死に歩いていた。
突然、レオナが立ち止まった。
何気なくその視線を追うと、すぐ近くの民家の陰に大きな赤い塊がある。
「人――?」
ティトは認識すると同時にそこへ駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
女性らしい。多分若い。赤い服――恐らくワンピースだろう。その裾にレースの飾りがついている所からしたら少女かもしれない。
背中に垂らした三つ編みが強風に巻き上げられ、翻弄される。その姿があまりに痛々しくて胸が痛んだ。
ティトが再度声をかけると、ようやく顔を半分あげた。大きな黒い瞳が揺れる。だが、返事はない。
「ティト。替わって」
レオナが娘の横に膝をつき、その顔を覗き込むようにする。
目も開けていられないような猛烈な砂嵐の中、上司はやおらフードとマスクを取った。
「大丈夫?」
ティトと同じ言葉を口にしただけだが、娘は今度は蚊の鳴くような声で返事をした。
「……はい……」
愕然とするティトを余所にレオナは言葉を重ねた。
「家はこの近く?」
「そこの、角……」
「食堂があった気がするな」
「父の店、です」
「わかった。送るよ」
レオナがフードとマスクをつけなおすのを見て、ティトは自分のマントを脱いだ。
「これ、使って」
遠慮しようとしているのか、何か言おうとする少女に有無を言わさず被せ、肩を抱くようにして砂嵐の中へ踏み出した。
少女を挟むようにして反対側にレオナが立つ。
普段の速度なら数十秒であろうその距離を、何倍もの時間をかけて進んだ。
最初に砂嵐の向こうに見えたのは少女の纏う服と同じ赤い色の屋根。
「あそこ?」
腕の中で少女が頷くのを感じた。
扉をダンダンと叩くと、すぐにガタゴトと音がした。強風対策につっかえ棒などをしているらしい。
しばらく時間が掛かって、人がようやく通れるだけの隙間が開いた。体を滑らせるようにしてそこを潜り抜ける。
安堵の溜息をつく三人の後ろで、強風にあおられた扉がバタンと大きな音を立てて閉まった。
「ニナ!」
つっかえ棒を戻し終えた体の大きな男性が、小柄な娘に抱きついた。
「無事で良かった――」
「パパ……」
父を見つめる大きな目から涙があふれた。
初めて見ることのできたその横顔は、やはりまだ14、5の少女だった。
懸命に礼を言い、嵐が収まるまでここに居るようにと説得する二人を押しとどめて店を後にした。
その頃には、風が少し弱まり、混じる砂の量もだいぶ落ち着いてきたように感じられた。
「窓打ち付けてあったね」
先を歩くレオナがぽつりと呟いた。
そういえばやけに薄暗かった。入り口近くのテーブルと厨房へ繋がるカウンターの二箇所にランプが置かれていたのをおぼろげながら思い出せた。
「でも扉は打ち付けてなかった。すぐに開いたし、あのおじさん、ずっと入り口の側でニナちゃんを待ってたんだろうね」
「あ――そうか」
ティトはまったく気がついていなかった。
今日は気がつかない事だらけだ。
「……あの子、最初嵐だけじゃなくて俺にも怯えてたんですよね。
砂嵐に襲われた時、俺だってパニックになったのに、そんな時に突然知らない男に話しかけられたら、怖いよな。きっと」
はじめは返事すらできなかった少女のあの大きな眼。恐怖の色に気付いてやれなかった。
「だからレオナさんは落ち着くように目を見て話してあげた……んです……よね?」
レオナは何も言わなかった。
「あの時、レオナさんが座ったのは彼女が目を開けやすい風下だったし。やっぱりなんか全部敵わない」
悔しくて出てきた涙は砂に塗れてジャリジャリしていた。
幸いだったのはその涙が目に砂塵が入ったせいにできた事だ。
「オレは自分のマントを脱いで渡す方がすごいと思うよ」
穏やかな声と同時にぽんぽんと肩を叩かれた。
「……レオナさんみたいな事、できませんでしたから」
自分に出来るのはそれだけだと思って少女にマントを渡したが、後で考えるとレオナならもっとうまく彼女を守ってやれたのかもしれない。
そんなティトの心中を察したのか、レオナは「それより」と言って話を変えた。
「オレが気になったのはさ」
不意に声のトーンが落とされた。
ティトも気にはなっていたのだ。どう触れて良いかわからなかっただけで。
「あのお姉さん、ですよね」
そういうと、レオナはこくりと頷いた。
それはニナの帰宅に気づいて奥から出てきた娘だった。
二十歳前後だろうか。ニナとよく似ていてニナよりも少し意志の強そうな目をしていたが、多分敵意は無かった。
泣きじゃくる妹を気遣い、髪や服についた砂を払ってやったりする姿は微笑ましいものだった。
父から状況を説明され、最初にこちらを向いた時にはきっと礼を言おうとしていたのだろう。しかし、半分開いたその口は途中でぴたりと動きをとめ、苦しそうにゆがんだ。
娘はティトの腕に巻かれた腕章を凝視していた。
「……第二連隊……」
苦々しげにそう呟くと、ティトを強く睨みつけて背を向けた。
そして父の叱咤も聞かず、奥の部屋に閉じこもった。
この件で一瞬にして空気が悪くなってしまったので、ニナの説得を断って店から出たようなものだった。
こんな砂の中を歩くより、好意に甘えて風がやむまで店の隅に座らせてもらった方が遥かに良かった。そうは思うのだけれど……
「あの人、ウチの連中と何かあったのかな」
レオナがぽつりと呟いた。
「レオナさんでも知らないんですか?」
「うーん……あの店に入ったのも初めてだったし……そもそも、普通腕章の読み方なんて知ってる?」
「そうですよね。俺も必死に覚えたばかりだからすごくわかります」
イーカル国軍をあらわす印は軍旗と一緒だからすぐに判る。しかしその横に刺繍された所属や階級を表す文字は全て略称でどれが何を表すのかは内部のものでも判りづらい。そもそも文字すら碌に読めない者が多いこの国で、ただの町娘が知っている事としては不自然な気がしなくもない。
「普通なら間諜とかを疑うんだろうけど、ニナちゃんとあのお父さんを見てるとそうは思いたくないなあ」
それにはティトも同意する。あの二人はとても犯罪などに手を染めるようには思えない。店内の家具や雑貨を見ても慎ましく暮らしている様子で、良くも悪くも身の回りの事を最も大切にしている家族。国家だのなんだのという自分のスケールに合わない大きな存在など普段意識する事はなさそうだ。
そんな中であのお姉さんの反応だけが浮いているように思えるのだ。だから――
「それが手かもしれないですよ」
「一応、探ってみるか」




