噂話
傷だらけの両開きの扉。それを押し開ける前に大きく息を吸った。
柄にもなく緊張している。
汗ばんだ掌を扉に当て、覚悟を決めると後は勢いで体重を掛けた。
ギィと音を立てるかと思ったのだが、ボロボロの見た目の割りに手を掛けられているらしいその扉は意外なほど静かに開いた。
その向こうは広い部屋。演習場と呼ばれている。床板はなく、むき出しの地面を板壁で囲っただけの場所である。
ここは彼が昨日から所属する事になったイーカル国軍第二連隊専用の屋内演習場。昨日案内された時には大勢の男たちが居たせいかそうは感じなかったのだが、人気のないその場所は立ち入る事を躊躇うほどに広い。
「誰か来たのか?」
その声はすぐ脇から聞こえた。
『倉庫』と書かれた扉からひょろりとした男が出てくる。
先輩への挨拶は後輩からする。それ位の事、軍隊生活2日目の彼でも知っている。だから慌てて姿勢を正した。
「お、おはようございます!」
裏返った声が飛び出したが、先輩はそれを気にするでもなく、こちらを確認すると手に持った鍵束をくるくると回して弄びながら近づいてきた。
「ああ、昨日第五中隊に入った新入りか――えーと、ティト?」
昨日教えられたばかりの敬礼をし、教えられた通りに所属と姓名を名乗る。緊張の滲んだ表情に気づいたのか、男はにやりと笑った。
年はティトよりも十五は上だろうか。背は低くないのに猫背気味なので小柄なティトと同じくらいの目線になる。その上軍人にしては随分と痩せている。軍服さえ着ていなければ職人か何かだと思うだろう。
「俺は第四中隊長のペールだ。よろしくな」
差し出された手は、やけにかさかさと乾いていた。
「それにしても、お前随分早いんだな」
「昨日は挨拶だけだったので、実質今日が初日ですから」
初日の昨日は他の新兵と共に敬礼だの行進だのという軍隊生活の基礎を教わり、日も暮れてから挨拶に来ただけだった。今日からは――体力トレーニングや乗馬などの基礎訓練を同期の者と共にこなしながらではあるが――この第二連隊の下っ端として演習等に参加させてもらう事になっている。
「なるほどなぁ。最初っくらいは真面目にやらねえとってのはあるよな」
俺にもそんな時期があったっけななど言って、ペールは掌と同様に乾いた声で笑った。
「つっても、今日は皆遅いぜ」
何故かと問う前にその表情で察したらしい。
「ほら、うちの連隊長って一応貴族だろ? で、その連隊長が領地に戻っちまってるから、朝の会議には副連隊長が出てて午前中はいないんだよ。
上の二人がいなけりゃ下っ端は寝坊のチャンスってな」
「ああ、なるほど」
「俺も鍵開け当番じゃなければまだ寝てるんだけどな」
ペールはわざとらしい溜息をつき、演習場の窓を開けていく。
それを見て、ティトも慌てて反対側の窓から開けて回った。
「なんかわかんねえ事はあるか?」
最後に外の演習場と繋がる大きな扉を開け放ちながら、ペールが問う。
「まあ、困った事があったらなんでも声掛けてくれや。
所属は違うけどよ、うちの連隊はあんまりそういうの気にしねえから」
「仲が良いんですね」
「そうだな」
ペールは唇の片端だけを歪めて笑った。
「仲が良いっつーかな。俺達はいつも一緒に戦ってるからな」
「戦で、ですか?」
まだ戦に出た事がない新兵は、顔を強張らせた。が、
「いいや、ここでだ」
ペールは意味ありげに間をおいた。
「お前、副連隊長とは昨日会っただろ」
「はい」
「怖くなかったか?」
ティトは、見下すような冷たい目と、決して荒げていないのに威圧感を与える低い声を思い出した。
上背も肩幅も大きく、軍人らしいがっしりとした体つき。ティトも田舎では喧嘩の強い方であったが、あの副隊長には勝てる気がしない。
そう言うとペールはそうだろうそうだろうと頷いた。そして、だからな、と前置きしてから続ける。
「俺達は、あの副連隊長や連隊長と戦う戦友なんだ」
「戦うんですか?」
「あの二人にゃ俺達ぁ束にならなきゃ勝てねえからな」
「そんなに強いんですか」
「お前本当に何も知らねえのか?」
目を丸くするペールに、ティトは慌てて答える。
「連隊長は、レオナ・ファル・テートですよね」
「知ってんじゃねえか」
「徴兵で入隊してから一気に騎士まで駆け上がったっていう話くらいは、田舎でも聞きました」
荒地ばかりなので決して豊かではないが国土面積だけは大陸で一、二を争う大国。その東の国境地域にもその異例の騎士の噂は届いてきた。
曰く、入隊直後に敵の大将を討ち取って正規兵になった。
曰く、たった一隊で敵軍の進行を阻んだ功で騎士に成り上がった。
曰く、その手腕を評価されて代々将軍を務めるような大貴族の養子になった。
曰く、数ヶ月前に起きた国王暗殺事件は実はこの騎士の起こしたクーデターである。
他にも背丈の数倍の槍を振り回して巨人を倒しただの、魔物を使役しただのといった、彼と同じ名前の英雄レオナ・バルディッヒ公爵の伝説と混同されたらしい物まであった。
勿論ティトとてそんな吟遊詩人の好むような話を全て信じる訳ではないが、かといって何の実力も無くしてできる昇進でないことだけはわかる。
だからこそ、その英雄的な人物の率いる第二連隊に配属されると聞いた時には、喜びと共にとてつもない重圧感に襲われた。
王都へ向かう旅路は毎日ろくに眠ることが出来ず、たまに見る夢では筋骨隆々とした雲をつくような大男が大剣を振り回してティトを追い回した。
だから初めに副連隊長を紹介された時には、この人こそがそのレオナ・ファル・テートなのだと思った。夢にでてきた男にそっくりだったから。
「連隊長には、まだ会った事ないんだな」
ペールはまたにやりと笑う。この合間合間に見られるにやりという笑い方はどうやらこの先輩の癖のようだ。
「俺は奴が徴兵でこの軍に来た時から知ってるけどよ、あいつは殺人人形だな」
「殺人人形――?」
聞きなれない言葉を鸚鵡返しに問う。
「人形だよ。人形。心がねえ。人じゃねえって事だ。
うちの連隊長はな、人を殺す事をためらわねえから、いつも一人で突っ走ってくんだよ。それで気がつくとあいつの後に死体の道が出来てるんだ。俺らなんか出る幕がない」
ペールは怪談を語るような声色で続ける。
「連隊長が人形なら、副連隊長は鬼だ。
物凄え形相で馬鹿みたいに重たい剣を振り回して立ってる物を全てなぎ倒すんだ。あいつが剣を抜いたら仲間の俺達ですら危なくて近寄れねえ程だ。
この数年の第二連隊の功績の殆どはこの二人がたたき出したようなもんだな」
ティトは昨日見上げた副連隊長の横顔を思い出した。有り得る、かもしれない。
「それは――怖いですね」
「だろ?
そんな二人の下に入れられたのが運のつきだ。俺達みたいな凡人は寄り添いあって生きていくしかねえ。だから同じ連隊の仲間は家族みたいなもんだ」
凡人の先輩は、再び「よろしくな」と言ってにやりと笑った。




