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魔術・神秘・怪異

テマラカカシ雑考

作者: 沼津幸茸

 てまらかかしよ、てまらかかしよ、せんせいのたいめいなるぞよ、とくまいれ、とくまいれ、とくまいりてふしおがめ、まいらずばひとうちするぞよ、ふたうちするぞよ、うてどもうてどもくだらずば、ゆるしておかぬぞ、ゆるしておかぬぞ、やくぞよ、にるぞよ、きるぞよ、さくぞよ、やきて、にて、きりて、さきて、そのみ、つじつじにうちすつるぞよ。


 テマラカカシに関して若干の説明と考察を改めて纏める。題は「テマラカカシ雑考」とでもしておく。なおテマラカカシ等の用語は原文では平仮名書きや奇妙な当て字が為されていたが、書きやすさの問題から鉤括弧で括らない場合は片仮名書きや漢字書きとする。


 テマラカカシ。古くから伝わる極めて強力な呪術体系である。宗教的及び技芸的色彩が強く、近現代の整理された魔術体系とは違い、さほど学究的な性質はない。元々は「てまらかかしのしき」と呼ばれていたらしい。テンマラカカホシ、テマカカ、テンマカカ、マラホシ、テンマラ、テマラ、カカホシ、テムホシなどの異称もあるようである。「さん」や「さま」などの敬称をつけた形も何例か見かけた。実在すらも疑わしい今は亡き葛城清吉先生(※1)――俺は法天文明の説明中でしかこの人を知らない――は、継承した「ひめことつたへかき」(※2)の数々を変形も含めて忠実に書き写したようである。


※1 師から「みなゆるし」(※3)を受けた一人前の術者の称号。

※2 読みはヒメゴトツタエガキ。テマラカカシの門外不出の秘伝書の総称。漢字表記はおそらく「秘事伝書」。考えを巡らしつつノート百冊分にもなろうかというこれを書き写すことがテマラカカシの主要な修行であり、先生による「ゆるし」(※4)と口伝を受けた上で観想しつつ筆写することで霊力が身につく。テマラカカシの秘奥を記した文書全てが該当。記した先生かその直接の師匠以上に当たる先生のユルシを受けた者の他はどこかでミナユルシを受けた先生しか閲覧できず、複写は筆写に限られ、印刷も撮影も許されない。筆者の死後は弟子がいなければ師匠が管理し、手ずから「やきたき」する(※5)。なお、管理者はヤキタキの前に文書を無断で複写してもよい。これら諸々の禁を破った者は呪詛を受ける。

※3 おそらく「皆許し」。師の知識を全て伝授されたことの承認。いわゆる皆伝のこと。近代西洋魔術の制度に照らせばアデプトに相当。あくまでも知識の伝承が中心であり、技能は概ね不問。余談ながら、かく記す俺自身、先生としての技倆は並み以下である。葛城先生からミナユルシを受けた法天文明が俺の形式上の師に当たるが、俺はこの男を含めた幾人もの魔術師や霊能者から、魔術師適性なしの烙印を捺されている。

※4 おそらく「許し」。テマラカカシの修行を認める一種の入門許可、秘儀参入、通過儀礼。

※5 おそらく「焼き焚き」。焼却すること。「どんど焼き」や「護摩焚き」が混淆して伝わったものと推定。


 現在、この呪術体系はほぼ忘れ去られ、一般には知られていない。俺にしても、葛城先生と偶然知り合ったという法天から伝えられ、教えを受ける中で、「ひめことつたへかき」と題された手稿を見せられて初めて知ったのである。それまではテマラカカシのテの字も耳にしたことがなかった。俺にしろ法天にしろ友人知人には魔術師や霊能者も結構いるため、ミナユルシを受けて秘伝の口外を解禁されてからそのうちの何人かに当たってみたのだが、最も詳しく知っていた者でも名前を聞いたことがあるだけの上、実在を疑ってすらいた。ひょっとすると最早俺達しか知らない体系なのかもしれない。また――このようなことは考えたくはないが――寂しい独居老人或いは独り暮らしの魔術師による手の込んだ悪戯である可能性もある。テマラカカシの名前だけを聞いた老人がそれらしいものを捏造したか、それを捏造して流布した集団の関係者であったかもしれないか、法天が俺を担ごうとしただけかもしれないということである。ただし、俺の知る限りでは、法天に動機らしい動機はない。

 ともあれ、民俗学や宗教学といった学術的観点を度外視すれば、これが誰かのでっち上げであろうと古から連綿と受け継がれてきた秘伝であろうと、大した問題はない。たとえば、歴史的には少なくともディーやメイザースまで遡ることのできるエノク言語とエノク魔術が創作であろうと真実天使に由来するものであろうと、またウエストコットが発見したという暗号文書が偽物乃至架空のものであろうと古代密儀の伝統を引き継ぐ本物であろうと、タロットがエジプト以前にまで遡れるトートの書であろうと中世ヨーロッパに生まれた遊び道具であろうと、そこから派生した魔術体系が実効を持つ以上、その手段としての価値が損なわれることはないのと同じことである。テマラカカシもまたそうした性質を持つ。この呪術もまた明確な――そして強大な――効力を有するのである。

 テマラカカシの効力は多岐に亘る。その一つ一つを列挙するのは現実的ではない。ゆえにここでは術理の概要説明に留める。

 俺と法天、それと後から研究に加わった長月の三人で調べたのだが、俺はともかく法天や長月でさえ、テマラカカシの成立時期は突き止められなかった。最低でも仏教、修験道、神道、陰陽道の影響が窺えることから、おそらく奈良或いは平安以降であろうと推測することしかできない。ただし、この推測もどこまで的を射ているかは甚だ怪しい。テマラカカシが常に他の呪術体系の影響を受けてきた流動的な体系であることが問題なのである。遥か古代から少しずつ変化しながら伝わってきたとも考えられるので難しい。知識の継承法が口伝と筆写のみに限られること、受け継がれた解釈の踏襲ではなく独自の解釈を推奨されること、師匠の死後はその手稿の破棄が定められていることなどが、調査の困難性に拍車をかける。師の色のついた情報以外を入手しにくいこと、伝承途中で当たり前のように改変が為されること、文書の複写を含む記録方法が誤りを起こしやすい肉筆と記憶に限られること、記録者の死とともに記録が破棄されることが、大量の異聞と分派を生み出すとともに古い知識の忘却を惹き起こしているのである。事実、俺が目にした秘事伝書はあくまでも法天の手稿であり、法天手稿よりも古い文書は既に破棄されており真実の内容は法天以外にはわからない。また、一部の文書を複写したこの俺にしても、興味のある部分だけを抜粋したり、勝手に内容を要約したり、作文技術の観点から文章を書き改めたり、絵心がないばかりに図画を割愛したり、解釈に西洋魔術の思想を援用したりするなど、やりたい放題に多くの先生達の遺産を弄り倒している次第である。

 法天の秘事伝書によれば、この呪術体系の基礎は、異国から来訪した「てまらかかし」なる二身一体の神によってもたらされた。「てまらかかし」神が土地の者に教えた自らを祀るための作法が原形なのである。これがかつて相模国の一隅にひっそりと存在した知られざるテマラカカシ信仰である。ところが、時代が下るにつれて、人と神の関係は変化を見せた。当初は神が上に置かれていたものが次第に対等に近づき、ついには人が神に仕えるのではなく人が神を使うようになってしまった。この逆転を成し遂げて神を使役した最初の人物が「てんかくさま」或いは「えんかくさま」(※6)という巫覡である。テンカクがそのために編み出して伝えた邪法こそが、時を経て「てんまらかかほしのしき」と呼ばれることとなった呪術体系である。この呼び名は次第に簡略化され、今の呼び名である「テマラカカシ」以外にも、冒頭で述べた様々な異称を生んだ。


※6 テマラカカシの開祖とされる伝説的人物。額に角があったため生まれてすぐ実の親に捨てられ、テマラカカシ信仰の祭司の家に引き取られたという。法天文書収録の原著者不明の写本に、漢字表記は「天角」または「猿角」であろうとの推測あり。性別は男性説、女性説、半陰陽説いずれもあるため不明だが、「身の丈六尺に迫る強力の鬼人」との記述は概ね共通のため、性別を問わず常人離れした体躯と身体能力の持ち主であったことは確かな模様。没したという記述はなく、生年及び活躍年代は平安中期から室町中期頃まで文書の系統によって記述が異なるため特定不能。個人的な手応えとしては鎌倉期ではないかと推測。


 ここで気になるのはテマラカカシとは何者であるかということである。先生達の伝承によれば、テマラカカシは「テマラ」神と「カカシ」神の習合である。このことは異称の変形からも窺える。しかしながら、起源が信仰であるためか、元々の教理がテンカク以降半ば失伝したためか、はたまたその解明に実益がないと見たためか、不思議なことに代々の先生達は全くと言ってよいほどこれ以上のことを考察しなかったようである。また、法天も長月もその関心は専ら自身の技術と理論を磨くことに向いているためか、あまりこの問題を熱心に考えようとはしていなかった。連中の関心は歴史ではなく術理に向いている。連中にとって魔術と学問は窮極的には技芸なのである。魔術や学問に限らず大抵のものを単なる知的娯楽として消費する俺とは様々な意味で対照的と言える。

 閑話休題。このため、法天が保有する断片的な資料を土台とし、俺が主導となって独自に考えを組み立てる他なかった。その果てに一応は正体らしきものを見出しはしたものの、専門の学者でない身である上、ろくにフィールドワークもしないフレイザーさながらの机上研究であるため、今一つ自信が持てずにいる。本気で取り組むとすれば一生ものの仕事となるであろうが、俺にはそこまでの熱意も覚悟もないので、俺が完全なる解明に至ることはおそらくない。

 全くの独自研究となるが、俺の見たところ「テマラカカシ」の正確な名前は「テンマラカカホシ」である。ただし、法天は葛城先生の教えを受けた身として、俺と長月は特段の思い入れのない身として、以後も必要がなければ「テマラカカシ」と呼ぶつもりでいる。

 これに漢字を当てるならば「天魔羅香香星」であろうと思う。天魔羅と香香星で天魔羅香香星である。これらの内、前者は仏教における魔王の別称である「天魔」と「魔羅」が、後者は「天に悪しき神あり」の説明とともに『日本書紀』に登場する「天津甕星」またの名を「天香香背男」が、それぞれ歪んだ形で伝わったものと思われる。つまりテマラカカシ神とは、天竺伝来の魔王と日本土着の悪神の「二身」が「一体」となった神である可能性がある。少々先走りの過ぎる仮説かもしれないが、神仏習合による仏教と神道その他土着信仰の融合は古くから見られたため、あながち的外れなものではあるまい。かつて第六天魔王を祀ったとされる第六天神社が関東によく見られ、天津甕星をかつての東国の支配者とする異説が存在する点は興味深い符合である。

 片や魔そのものの具象化である魔羅にして六欲天の頂点である天魔。片や呪術や金星との関係を窺わせる星の神であり、高天原の武神二柱を一度は退けたとも言われるほどの強さを持ち、対を成すかのように記紀のうち『古事記』にのみ顔を出す国津神屈指の武神建御名方との関連も囁かれる随一の叛逆神。もしこの推測が的中しているのならば大変なことである。天魔と天津甕星の合体。世界の神話における「悪」の勢力の大物達――さすがにここでアーリマンやルシファー、蚩尤、モート、セト等を引き合いに出すのは贔屓の度が過ぎるかもしれないが――に伍しうるであろう。

 先述の通り、テマラカカシとはこの凄まじい悪神を私利私欲のために使役する技術体系である。傾向としてはいわゆる召喚と喚起或いは神降ろしと式打ちへの特化が見える。神の使役という点では陰陽道や修験道に近いものを含むが、前提が私利私欲である点が一線を画する。まさに邪法以外の何物でもない。

 ただし、このテマラカカシ神が曲者である。俺たちが調査研究したところでは、この神は二重の定義を持つ。まず、先生達の伝承においては、ある場合はテマラカカシという一柱の神を指し、ある場合は拡大された使役対象としての超自然的存在全般を指す。

 しかし俺は――テマラカカシが天魔羅香香星であるとの仮定において――こうしたテマラカカシ神の解釈に何点か異論がある。

 先人達には申し訳ないが、まず、天魔と天津甕星の「二身一体」というあまりにも我田引水な捉え方を否定したい。素材となった神――の信仰――が双方とも健在であり、かつ両者がほぼ対等の融合を為している点を見れば、到底両柱自身ではありえない。むしろそれらの側面や化身の独立した接触面と呼ぶべきである。それはある面において素材となった神性との繋がりを持つものの、やはりよすがに過ぎず、厳密にそれそのものではない。

 言うなれば、ヤハウェとアッラーは同一視でき、バアルとベルゼブブは同一神の異なる側面或いは変化と、イナンナとイシュタル他は各側面が独自に異なる神を取り込んで変化したものと、朱鷺の姿を取ったトートと狒々の姿を取ったトートはヘジュウルを取り込む以前と以後の同一神と、それぞれ捉えうるのに対し、アルダーナーリーシュヴァラはシヴァとパールヴァティの要素を引き継ぎながらもそのどちらでもない。天魔羅香香星やアルダーナーリーシュヴァラは、合体した二神の魔術的な意味における「子」か、二神の接触面が独り歩きしたものと見做すべき存在である。或いは、唐突に現れたのち、まるで自身の存在基盤を確立するかのように大黒天や荼枳尼天などとの繋がりを持ち始めた摩多羅神のように、急拵えの信仰が力を求めて既存の信仰と接点を持った存在である可能性も考える。いずれにせよ、古い神々の変化した姿ではなく、新たな――それでいて古い神々との繋がりを保つ――神性である。

 ゆえに独断に陥ることを恐れずに論を進めれば、テマラカカシとは天魔でも天津甕星でもなく、それら――或いはそう見做される何か――から力を引き出すための経路や媒介であるとも言える。そうなると他の神々にも増して機関的であり、自我らしい自我も持たない単なる力の塊である可能性さえも見えてくる。それは人工精霊の一般的特徴にも合致する。もしかすると、テマラカカシ信仰が行なわれた事実も含めた全てが、壮大な人工精霊「てまらかかし」を作り出すために先生達の手で捏造された「設定」であるのかもしれない。この仮説は割合現実的であるように感じる。

 テマラカカシの正体の見直しに引き続き、今度はテマラカカシの第三の定義を提示したい。これはテマラカカシと言うよりは「てんまらかかほしのしき」そのものが連綿と繋いできた思想への挑戦となるかもしれないが、現代魔術の理論に照らせば妥当な意見ではないかと思う。この観点には、テマラカカシを純然たる技芸と見做す法天もいたく関心を持っており、伝授を受けた当初から考察を巡らせていたらしい。ゆえにこの部分の考察はその大部分が法天の見解が基となっている。

 法天の見解によれば、特定の神格と霊的存在全般に次ぐ第三の定義とは、他ならぬ術者自身である。これには俺も概ね同意する。

 かつてアレイスター・クロウリーは「悪魔は人間の頭の中にいる」と述べた。実在の霊的存在としての悪魔とは別に、人の精神的要素の擬人化としての悪魔が存在すると言うのである。経験と思索と霊感の総合された卓見と言える。悪魔を心裡に求める場合、それは感情や才能、欲望、技能、性格、知識などの象徴となる。事実、ソロモンの七十二柱をそうしたものの典型として論じる風潮も現代魔術には見られる。たとえば、未来を予見し、隠された物事や戦争について語るエリゴールは勝負事に纏わる洞察力の象徴であり、その喚起は儀式による魔術的意識変性を経た術者の洞察力の鋭敏化である、といった具合である。

 クロウリーらの主張に一定の真実を認めるのであれば、テマラカカシもまたそういった性質の存在であってもおかしくない。テマラカカシ神なる神性がおり、式打ちのためにテマラカカシ神に見立てられたその他の霊的存在がおり、そしてまさに力の行使のためにテマラカカシ神に擬される精神の必要部分がある。これがテマラカカシ体系の本質的世界観ではなかろうか。

 そしてこれが世界観であるとすれば、必然、術理にも変化が起こる。通常の魔術がまず自身の精神を揺り動かすのと同様、まず己の中のテマラカカシを動かすことにより、直接的に霊的効験を顕し、或いはテマラカカシ神やその他の霊的存在を動かす。テマラカカシ体系とは実にこのような理屈で効力を発するものなのではないであろうか。法天は研究の価値、必要共に大なる観点であると考えているようである。

 俺達の知る限り、こういった考察はテマラカカシの体系では初めてのものである。テマラカカシ体系にとってテマラカカシ神はある意味聖域であった上、近現代の魔術――即ち西洋魔術由来のもの――は全く眼中になかった。しかし、こういった禁忌を踏み越え、外来思想で純粋性を穢し、疑念と興味から成る科学精神に立脚した考察によって神秘を破壊する者の登場は、常に他の体系の影響を受けて変化してきたテマラカカシにとっての必然的終着点である。変化に頼って拡大し、生存してきたものは、常に癌細胞に侵される危険を孕む。俺達こそがテマラカカシの百年目である。

 法天文明先生や長月典太郎先生にとっての今後の課題はテマラカカシをいかに自分にとって役に立つものに仕立て上げるかであり、俺こと真田康一先生にとってはテマラカカシをいかに娯楽に役立てるかである。

 今は亡き顔も見たことのない先人達に対して後ろめたいものがないと言えば嘘になる。

 だが、それこそがテマラカカシなのだから仕方がない。テマラカカシは我欲のために生まれ、我欲のために使われ、我欲のために変えられ、我欲のために受け継がれてきた。一人一流一代限りのテマラカカシとは実にそういうものであり、歴代の先生は誰もがそうしてきた。俺達がそれに続いたところで誰に文句を言われる筋合いもなく、むしろテマラカカシの本質に最も忠実な先生として讃えられてよいくらいである。たとえ、俺達の行為によってテマラカカシの神秘性や信仰性を破壊する結果に繋がろうとも。

 冒頭の呪文の引用の対として最後に掲げる片手落ちの引用を以て、俺の取る立場の表明とする。即ち、テマラカカシの先生でありながらも疑いなくクロウリーに主要部分を負う現代魔術の思想を持ち込み、それでいながら自身はあくまでも文人を以て任じてどちらにも属さない、という端的な意思表示である。一見するとむしろ混沌魔術師である法天や長月の意志表明にこそふさわしく思えるが、もし連中がこの種のつまらない言葉遊びをするとしたら、「汝の欲するところを為せ、それが汝の法と成らん。」を冒頭に掲げた次に「てまらかかしめしよするしき」を挿入し、最後を例の文句で閉じて自身が近代西洋魔術を源流とする現代魔術寄りの魔術師であることを示すであろう。


 愛こそ法なり、意志下の愛こそが。

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