<38>甘い幻影に縋って
どの位、うつ伏せたままカイトの幻影に縋っていたのだろうか。判然としないまま、うつらうつらと睡魔に魅了され舟を漕ぎ出そうとした頃。それを遮るかのように、床に放り投げた鞄から床に伝わる微震動がする。突然、たゆたうような静寂が破られてユウは驚きのあまり飛び起きた。
慌てて壁に掛けてある時計を仰ぎ見る。まだ、そんなに長い時間は経っていなかったようで、安堵の息を吐きながら、床に放り投げた鞄を探り携帯を取り出した。
手に伝わる振動が、暗闇のなかに浮き上がる文字が、ユウの中に微弱の電流を流す。
サクからの着信だ。出ようか出まいか逡巡する。甘い幻想に浸っていたのに、荒波に押し流されるかのように現実へと引き戻されて、ユウの胸の中に苦い細波が広がる。
現実に、この携帯を頻繁に振動させるのはサクであり、カイトじゃない。これが現実。
「はい……」
ユウはなんとなく抑えた声で答える。
『ちゃんと帰ったよね?』
「うん。ありがとう」
『無事に帰りついたならいいんだけどね。今日のユウちゃん、あんま元気なかったからさ。なんか嫌なことあった?』
いつだって優しいサク。ユウがどんな態度で接しても、崩れることのないサクのスタイルにますます裏切りものの烙印を捺されてるようで。ユウは鈍い痛みを堪える。ましてやここはカイトの部屋で。まさかこんなところで電話に出てるなんて、サクはきっと思ってもいないはず。ユウのカイトへの想いを知っていて、それでもいいからと、忘れる為でもいいからとまで言ってくれた人なのに。
どうして素直にこの優しい声、優しい気持ち、優しいサクを受け入れられないのだろう。なんでカイトじゃなければならないのだろう。この、今のやり取りが電話であることがせめてもの救いだった。後ろめたさに、苦渋に満ちた顔を見られなくて済む。
「なんもないよ。心配してくれてありがとう」
『そう? だったらいいんだけどさ。近々、気晴らしにどっか遊びに行こうな』
また、連絡するから。そう言って、サクはあっさりと会話を終わらせた。
無理強いしない優しさで。サクはいつだってユウのことを待っててくれる。ユウが打ち明けるまで何もかも根気強く、時に後ろを振り返りながら、手を差し伸べて待っている。こんなに想ってくれてるのがちゃんと伝わってきてる。昔のサクは、軽くて、付き合っても遊ばれるだけなんて噂もあって。だけど、実際付き合ってみてそんなのが全くの嘘だったとすぐに気が付いた。さり気無い気遣いにさり気無い心配り、時にはそれが軽く見えてしまうのかもしれないけれど。押し付けない優しさが、大事にされているんだと実感する。普通の女ならば、きっとこの上ない幸せを感じてるのだろうとユウは思う。
「サク先輩。普通じゃなくてごめんね」
ユウは握った携帯電話に向かって、掠れた声を出した。今度は、止め処なく溢れる涙を抑えることがどうしても出来なかった。こんなに、人の感情に敏感な人だから。もしかしなくても、きっと気付かれているんだと思う。こんな、ユウの本心に。
この三年もの間、どんな気持ちでいるの?
口にすることの出来ない言葉たちはユウの胸のうちを棘をもって這い回る。全て、自分が選んできた道なのに。どうしてこんなにも傷つけて、傷ついて、望んだ通りに進まないのだろう。
こんな卑怯なことない。いつか、カイトへの想いは時間が掛かっても薄れていくものだと、それだけを支えに、押し寄せる不安に負けないで、サクと過ぎ去る時間にしがみ付いてきたのに。それなのに、秘めたる想いは薄れる気配さえ見せずに、過去の記憶に煌めきを添えてこれでもかというほど膨らんでいく一方で。もう、どうしようもない。
ユウはベットのシーツを強く握り締めた。抑え切れない哀切が止め処なく零れる口を、シーツに強く押し付けて今だけ、縋る。
大罪を抱えて、愛しい幻影にしがみ付いた。