<37>甘い幻想を抱いて
自分以外の誰もいなくなった空間は、真っ白な静寂で波のない湖のように閑散としている。
カイトは行ってしまった。
誰と食事をするの? 行かないで。傍にいて欲しい。思っても、口にすることは出来なくて。だって、もうそんな権利も立場もないってちゃんと分かってる。
頭ではきちんと理解して、態度でも示せた。なのに、感情だけがついて来ない。
独りきりのこの空間が、重くのし掛かってきて、弱気になる。隠して、隠してきた弱い気持ちをさらけ出して、カイトに全てを晒してしまえたら。そんなこと思っても、全てを壊して誰かを傷つけて、自分勝手になんて出来ない。そんな勇気あるわけがなかった。
自分の踏み締める足音だけが、静寂を壊し現実となって響く。ユウはリビングの明かりを消して、二階に上がる。
手前の自室のノブに手を掛けて、一瞬躊躇った。そして、徐に隣室へと視線を移す。
いろんな意味で、いけないことだとは分かってる。でも、少しだけ。少しだけでいいから、カイトを感じたい。
ユウは閉じられたカイトの部屋の前に立った。心臓が耳にあるんじゃないかと思うほどの高鳴り。一瞬、サクの無邪気な笑顔が脳裏を過ぎった。高鳴る心音に、軋む音が加わったかのように、ユウの眉尻は下がる。こうやって、カイトのことを想うだけで充分な裏切り行為。
卑怯だって自分を罵っても、止められないのが本能だ。理性を上回る事なんてよくある話だから。だから、言い訳はしない。ユウはそっとカイトの部屋に入った。
物凄く久し振りに踏み込んだカイトの部屋は、以前より整理整頓が行き届いていて、妙に空寂しい感情が顔を擡げる。ユウがよく訪れていた頃はもっと、雑多な感じで物が至るところに散らばっていたのに。だから、それが歳月の流れを痛いほど感じさせて、ユウは唇をぎゅっと噛み締める。
泣く為に入ったんじゃない。ただ、少し頼りたくて、カイトの幻影に慰めて欲しかっただけ。
ユウは鞄を床に放り出し、部屋の明かりも灯さないまま、カイトのベットへふらりと転がった。
「カイトの匂いだ。懐かしい……」
うつ伏せた顔の下、シーツの香り。懐かしい香りに、昔の記憶がふうわりと蘇る。あの頃は、こんなに近くにカイトがいて、それがいつまでも続けばと願っていたのに。自分の本心に気が付いて、それに耐え切れなくなって、壊れる関係に恐怖を覚えて、逃げ出したのは紛れもない自分だ。
冬が差し掛かる秋風の中。カイトの自転車の後ろに乗って、この匂いに癒された。あれから、どれだけの月日が流れても、一つ一つの記憶の破片ですら薄れることはなくって。月日が流れれば流れるだけ、輝きを増して、彩を強める。より、色彩に香りを伴って胸を締め上げて。こんなに切ない気持ちは誰にも理解できないと思う。
「好きだよ。今でも、きっとこれからもね」
笑おうと思ったのに、無理に取り繕うとした笑顔はぐにゃりと歪み、込み上げる涙を思わず堪える。止め処なく溢れ出した感情は、瞳から溢れる雫となって、ユウの心中を代弁するかのよう。声を張り上げて、子供のように泣きたかった。
だけど、自分の罪科を思うと、そんなこと出来なくって、必死に涙を堪えて零れ出そうになる声を両手で押さえる。夏なのに、押さえた手はひんやりと冷たくなってしまっていた。
どうして、カイトに想いを打ち明けて縋らなかったのだろう。今、こうして、溺れるような苦しみに呼吸の仕方を忘れ、溢れ出そうな感情に振り回されて、ボロボロに擦り切れた自制心を抱えて、自分の感情もサクの優しさもカイトへの想いも裏切って、得たかったのはこんな未来だったか。違う。そんな筈じゃなかった。
だけどもう、後悔したって、何もかもが手遅れだから。
この血を全部抜き取って、誰かの血と総入れ替えが出来るのならば、なんてそんな甘い夢に浸る。幻想のなかでしかもう生きれない。そうやって自分を守って。これからも時をやり過ごしていくのだから。
ユウはそっと瞳を閉じた。