四
完結話
夕方から突風が断続的に吹き荒れていた。女の子の顔の描かれた
赤いアドバルーンは突風の切れ目を縫って下ろした。網をかけて固
定した。男の子の青玉に取りかかった頃には既に夜であった。
青玉は風に吹かれて水平以下まで落ちていた。上げロープが、電
線すれすれにまで接近していた。ロープを握りしめたまま、じっと
我慢して、風の切れた瞬間、一気にアドバルーンの根元まで、青玉
を手繰り寄せた。看板の網が右足に絡まっていた。強烈な突風がや
って来て、軍手の中でロープが滑った。右足首を網に取られて、お
れの身体は瞬間、空中に浮き、左肩から落下して後頭部をヒーター
の入ったコンクリに打ちつけた。
尻をついた姿勢のまま、ロープを握りしめ、再び風の切れ目を待
った。右手を見ると、遠くで、地下鉄のシェルターの中を風の流れ
と逆方向に、電車の光が走っていた。それは強風にも闇の深さにも
左右されない、一直線にひた走る不思議な光だった。ようやくアド
バルーンの根元をタイガーロープに縛って網を掛けて固定した時、
後頭部の生温い感覚に気がついた。コンクリに、ぽたぽた血液が滴
り落ちていた。おれは急いで、首に巻いていた日本手拭いを、頭に
巻きつけた。
カローラに戻った。健太が心配して、日本手拭いに手を当てて、
いたい、いたい、と言った。
カローラを発進させて、平岸街道を北上した。フロントガラスに
大きな鳥がぶつかりそうになり、羽を広げてばたつかせながら車を
避けて闇に消えた。おれは急ブレーキを踏んで、路肩に車を停めた。
ハザードを点灯させた。
「鳥、見えたか?」
健太は何のことやら解らないらしく、首を横に振った。
「来たか、ついに」
車に衝突しそうになった大きな鳥は、カモメの幻覚であった。
平岸街道を真っ直ぐ進むと、左手に出身の学園の建物が見えて来
た。正門に左折して、警備員に挨拶してから、わだつみ像の手前の
駐車スペースに車を停めた。雪は降っていなかったが風が強かった。
全裸のわだつみ像は緑色の全身の肌に冷気を帯びながら、震えもせ
ず、台座の上に佇立していた。
寒風の中、手袋もつけずに、わだつみ像に手を合わせている老女
がいた。今にも風で飛んでいってしまいそうな、小柄で痩せた老婆
であった。頭には茶色の頭巾を巻いていた。見たところ、八十歳を
とうに超えていた。皺くちゃの顔の中で眼鏡ごしの両眼は聡明であ
り、力の抜けた優しい雰囲気を醸し出していた。二人でしばらく、
わだつみ像を黙って見上げていた。老婆はおれに話しかけるでも、
わだつみ像に話しかけるでもなく、独り言のように、
「去年、副腎を一つ取ってしまって、もう一つの副腎も、ほとんど
動かなくなってきているようです」
と呟いて、ハンドバックから、のど飴を取り出して健太の口に含
ませた。
「この学園のご出身ですか」
「はい」
「主人もこの学校の出身でした。平岸のお寺の次男だったのですが、
南方に出征して間もなく、……骨だけになって帰ってきました。籍
を入れて、一緒にいられたのは、ほんの二週間でした」
老婆とわだつみ像の間を小さな鳥の幻が冷気を裂いて空中を通り
過ぎていった。
「戦後間もなく、後を継ぐ筈だった主人の兄が結核で逝ってしまっ
て、帰る所も無く、三男夫婦にお世話になりましたが、主人に、も
うじき再会出来そうです」
おれは一方的に話す老婆が幻覚か亡霊に思えてきて、健太を抱き
上げ、婆ちゃん、いるか、と耳元で囁いた。
「いる、いる」
健太は飴を頬張りながら何度も首を縦に振った。
「働き詰めの人生でしたが、その分、精進だけは人一倍させて頂き
ました。弟夫婦に感謝しております」
そうしておれの頭に巻いた日本手ぬぐいとドカジャンの肩につい
た血液の染みに気づいたのか、
「ただならぬ、ご様子ですが」
「これは……こんなのは大したことではありません。おれは、借金
と助からない病気とで気がおかしくなっています。幻覚さえ、見え
るのです」
わだつみ像を見ながら、昨日の虚無僧が勝手な意訳をした「病者
の祈り」を思い出していた。老婆にその内容をかいつまんで説明を
し、
「本当の自分自身って何だと思いますか」
と訊いてみた。
老婆はしばらく考えた後、
「いのち、そのものだと思います」
「いのちって、何なのでしょうね」
「水のように流れていく、それがいのちです。どこに流れても、ど
こにあっても形は変われど水は水なのです。それが解れば、今、あ
なたがどんな苦境に立っていようが、苦しみは無くなると思います。
わかる、と、かわる、は等しいのですよ」
「わかる、と、かわるは等しい……」
老婆の言葉を反芻してみた。
「実は悪性の脳腫瘍で医師から余命を告げられています。わかれば、
かわる……わかれば、治りますか」
行きどころの無い感情が湧いてきて、おれは老婆にすがった。
「治っても治らなくても命のことがわからなければ、かわらないの
です。死んでいても生きていても、命はいのちです」
カモメが老婆の頭上を旋回し、舞い降りておれと健太の間を走り
過ぎて行った。その羽音を聞いた時、無性に怒りがこみ上げてきて、
「みんなして、わけのわからないことばっかり言うのはやめてくだ
い。望んでいない死を迎える人間の気持ちなんか解ってたまるか、
おれは死にたくない、死ぬのが恐いんだ」
おれは踵を返してススキノへと歩を進めた。金は無いし、頭には
血だらけの日本手ぬぐいを巻いていた。顔は腫れ上がり、青アザが
出来ていた。地下鉄に乗らず、健太を抱いて徒歩で歓楽街へと向か
った。
南九条大橋にさしかかった。
橋の欄干には、両側に何百羽ものカモメが停まっていた。
豊平川の向こうのススキノは、ここから見ると、まるで極彩色の
デコレーションを施された光を放つ孤島であった。孤島の上空を、
何千羽もの鳥が、様々な光を放ちつつ旋回していた。健太を降ろし
て孤島の彩色の中へと足を踏み入れた。
駅前通りを北に向かって歩いた。
鴨かも川の橋にさしかかった頃から、雪がちらつき始めた。おれ
は橋の欄干に背中をもたせかけて、川を見た。鴨かも川はススキノ
の南方面を、南西から北東へと斜めに流れる、コンクリートで固め
られた、細く浅い川だった。川面は凍りついて、四メートル幅の黒
い凍りついた道を粉雪が渦を巻きながら走っていた。その上空を飛
んでいるのは、夏場に見かける鴨とは別の数百羽の鳥であった。
「二回目からは慣れる」
おれは昔の天売島での妻の言葉を頼りに、燐光じみた青い光を引
きずる川の鳥から目を逸らせた。とりどりのネオンの採光を目にし
た健太が条件反射のように口に手を当てて、
「ぞうさん」
と、ねだった。
おれは習慣みたいに歌い始めた。目の前を猛スピードで横切って
行った鳥は、瞬きするだけで無視できた。おれの容貌と、大声で歌
う「ぞうさん」に、通行人が道を空けて、露骨に避けているのが解
った。おれは萎えて崩れそうになる意識に鞭を振るうように、さら
に声を張り上げて歌いつづけた。
ぞうさん
ぞうさん
だれが すきなの
あのね
かあさんが すきなのよ
目的地のビルが見えてきた。通りを挟んで向かい側の喫茶店から、
ヒキガエルが姿を現した。
「また喧嘩でもしたのかい?」
「現場で転んだんだ」
「それにしてもひどい顔だぞ、随分めかし込んでるし、びっくりし
たでや」
「とうとう、最期らしい」
「どうした?」
遠くの通りを虚無僧が歩く姿が見えた。編みがさを前に傾け、足
踏みしながら過ぎて行った。おれはヒキガエルに尋ねた。
「虚無僧、見えるか」
「虚無僧? 見えたぞ。そう言えば最近よく見かける。あいつら、
普段は普通の勤め人で、週末だけ虚無僧になるんだよ。それにして
も真冬の虚無僧はあいつだけだ。一人で何やってんだべ?」
おれは、虚無僧が通り過ぎて行った道の上空を指差した。数十万
羽の海鳥が、金色や銀色に発色しながら、降って来る雪の中を飛び
交って、ススキノ全体を覆っていた。ネオンの光に照らされていな
いにもかかわらず、雪の見えない高度にも無限の光は乱舞していた。
「空を鳥の大群が舞っているのが見える。幻覚が酷くなっている」
「ぞうさん、気を確かにもて」
「それが案外、平気なんだ。天売島で鍛えたからな。もう慣れたよ」
「ぞうさん……」
おれの肩を抱えようとするヒキガエルを制して、
「幻覚が見える以外はいたって普通だ。大丈夫」
Suger倶楽部の受付けには、今日は蜘蛛男だけが坐っていた。
ビルの中には鳥は一羽も見えなかった。
「待ってましたよ」
おれは蜘蛛男に頭を下げて、表情だけで入ってもいいかと尋ねた。
「すみません。あんまり電話が鳴らないし客も来ないので、ちさと
さん怒ってジカビキにいっちゃいました」
蜘蛛男は手早くメモ用紙に地図を書きながら、
「タチンボの時の彼女のシマがこの通り。使うホテルはいつもここ。
どっちかにいます」
外に出ると雪が本降りになっていた。風はあいかわらず強かった。
道を挟んで向かいの電信柱のてっぺんから、雪の塊が落ちて、それ
が電柱を伝い落ちて、中途で柱にバウンドした。
雪の飛沫がコートの襟を立てて歩いているホステスの顔を直撃し
た。
「いやだ」
と、うずくまったホステスの足元をウトウが奇声を上げながら駆
け抜けていった。通行人や走り過ぎる車の上ではいたるところ何百
ものカモメが舞っていた。地面では凍った路面を、無数のウトウが
忙しげに翼をばたつかせて乱雑に動きまわっていた。
「ぞうさん、もう少しだ」
尋常ではない様子を察知したらしく、ヒキガエルはおれの肩を叩
いた。
「まだ大丈夫。幻覚はひどくなっているが……」
「俺の背中だけ見てついて来い。何が見えても無視すれや」
ホテル街に向かって路地を折れながら南下した。上空の闇の中で、
海鳥の群れが発色して火の粉のように舞っていた。火の粉が一斉に
降下してきてウトウの群れに変わった。それがおれたちを直撃する
ように迫ってきた。ウトウの大群は三人の身体を通り過ぎて、地面
に着地する前に、次々と消滅した。
蜘蛛男の教えてくれたホテル街の通りに妻の姿はなかった。妻が
使っているというホテルの前で待機することにした。赤く大きなハ
ートマークが光っていた。その下で「Love hotel」の電
飾文字が吹雪に透けて黄色く瞬いていた。通りには、オレンジや赤、
黄色や青の派手な外壁のラブホテルが何十軒も軒を連ねていた。極
彩色の様々な立ち看板や外壁に備え付けられたネオンの看板が、雪
に包まれておぼろに道を照らしていた。どの看板にもカモメが停ま
っていた。
おれたちはハート型の看板のついているラブホテルの向かいの、
建物と建物の間隙に入って吹雪を避けた。
「ここで待っていれば出てくるぞ」
とヒキガエルは言った。
健太を抱き上げて、健太の頬に自分の頬を合わせた。そして建物
の壁に背中をもたせかけた。ヒキガエルも反対側の壁に背中をもた
せかけて、パンチパーマに積もった雪を片手で払っていた。落ち着
かないのか、片手を垂らしてブラブラさせていた。吹雪が二つの建
物に遮られて、頭上からも、両端からも、ひゅうひゅうと音を立て
ていた。
「ぞうさん、目を瞑っていればどうだ? 人が出てきたら声かける
ぞ」
ヒキガエルの勧めには答えず、
「それにしてもあんた、なんでここまで親切にしてくれるんだ?」
と訊いた。
「…………」
ヒキガエルは黙ってジャンパーの内ポケットから、財布を出して
それを開いておれに差し出した。ビニールのカバーの中に写真が入
っていた。三十歳くらいの精悍な印象の青年が、公園のブランコに
乗りながら、三歳くらいの女の子を膝に載せていた。
「あんたか」
おれは驚いて写真の青年とヒキガエルの顔を見比べた。
「ああ、もとはゲーム屋よ。昔、ユーフォーキャッチャーのブーム
に乗って一儲けした。でかい本屋のチェーン店に全部、機械を置か
してもらってな。何十人も人、使っていたよ」
「青年実業家だな」
「三十くらいの時、一人娘が俺の目の前で交通事故で死んだ。まだ
四歳だぞ。俺はそばにいたのに何もしてやれなかったんだ、なんも。
俺はそれから、何もかもやる気が失せて、取引先からもみはなされ
てな」
「そうだったのか……」
ハート型の看板の下の出入り口から、口論する声と共に人影が見
えた。妻であった。髪はショートカットにして、ワイン色のロング
コートを着ていた。道路に出ようとするおれを制して、ヒキガエル
は、
「ホテルの従業員と、もめている」
と言った。
「あんたがどんな仕事したっていうのさ。こっちは身体はって客か
らお金もらってるんだ。なんでフロントに立ってるだけのあんたが
客からチップもらうのさ」
「チップ、たって五百円玉一枚だぞ。子供の駄賃みたいなもんだべ
や」
「いいから、よこしなさいよォ!」
「なんだい、五百円ぽっちでムキになって……。くれてやるよ」
従業員は歩道の雪の中に硬貨を投げ捨てて、ホテルの中に引き返
して行った。飢餓に耐えかねた人間が食べ物の切れ端を拾うような
勢いで妻は四つん這いになって雪を両手で掻き分けた。
ようやく見つけたのか五百円玉を中腰の姿勢で眺める妻の双眸が、
通り過ぎて行く車のヘッドライトをもろに受けて、一瞬、緑色に光
った。
「オン……」
おれは健太を抱いたまま道路に飛び出した。妻は歩道に膝をつい
たまま、恐れるようにこちらを向いた。妖艶な娼婦の表情が、清純
な少女の驚愕に変わった。
「いやあッ」
と叫びながら、妻は駆け出した。おれは健太を抱いたまま追いか
けた。後ろからヒキガエルが身体を揺すって走ってきた。
ホテル街を抜けて、鴨かも川沿いの道を一心不乱に走る妻によ
うやく追いついた。
「こっちから連絡するって言ったでしょうッ」
妻はおれの腕を振りほどき、更に走った。吹雪の中、数百の鳥が
発色しながらおれと妻の間を舞っていた。
人気のない川沿いまで来て、ようやく妻をつかまえた。
「全部おれが悪いんだ。お前をこんなふうにさせてしまったのもお
れの責任だ」
「もう遅いのよ。こんな姿を見られて、どうしたらお兄ちゃんの顔
みられるっていうの!」
彼女はおれを突き飛ばして橋を渡ろうとした。おれはふらつき、
川沿いの除雪車が残した雪山に背中を着いた。眼前を鳥が羽ばたい
て通り過ぎて行った。おれは健太を雪山に坐らせて、橋を渡りきろ
うとする妻の肩に両手を当てて、
「脳腫瘍なんだ。おれはもうじき死ぬんだ」
妻は驚いて振り向いた。
「ママッ」
健太が鼻水と涙でぐちゃぐちゃになった顔で母を求めていた。赤
ぎれた頬がそれに悲壮感を加え、表情の無い健太に表情をつくった。
健太は危うい足取りで雪山の上を歩き、橋に近づいて来た。そして
足を滑らせて凍りついた川に落ちてしまった。
おれは橋の欄干を乗り越え、川に飛びこんだ。健太は凍りついた
川面の下に入り込んでしまっていた。氷を力の限り、叩き割ってみ
たが健太の姿はなかった。妻も川に飛びこんで来た。そうして飛び
散る水飛沫の中、獣声じみた叫び声を上げるおれの横で、
「ああああぁ!」
妻は狂ったように氷を割りつづけた。ヒキガエルも川に飛びこん
で来た。おれと妻より三メートルほど川下の氷を割って、氷の下から
健太を見つけ出して抱き上げてから立ち上がった。氷結した川面は、
ヒキガエルの腰の高さにまで達していた。
「生きてるぞォ」
その声は力強く、おれの頭の中で何度も反響した。
最初に健太を抱いた妻がヒキガエルの肩を借りて、橋に戻った。
つづいておれも橋に戻ると、ヒキガエルの手を取って、引き上げた。
確かに健太には意識があった。何が起こったか判らぬ様子で、橋
の上で膝をついている妻に抱かれていた。
「温めないと」
おれも膝をついて、ドカジャンのチャックを下ろして、健太を抱
きしめた。妻も必死で健太を抱きしめていた。いつしかおれは妻の
背中に手を回して、健太と妻の両方を抱きしめていた。妻とおれの
濡れた頬と頬が触れ合った。健太を挟んで互いが互いにしがみつい
ているうちに、妻の唇が偶然、おれの唇に触れた。吹雪の中で二人
は、いつまでも唇を重ね合わせていた。川面から一斉に鳥の集団が
舞い上がった。オロロン鳥だった。数千羽ものオロロン鳥は、青く
光りながら、上空を乱舞し始めた。
「救急車じゃ間にあわねえ。ついて来い」
ヒキガエルに導かれるまま、駅前通りに出た。四人の様子を見て
乗車拒否するタクシーが次々と通り過ぎて行った。ヒキガエルはタ
クシーに蹴りを入れる仕草をしながら、
「とみさんの店に行こう」
そう言えば昨日の老婆の煮込み屋はここから近い距離にあった。
駅前通りを北に向かって皆で懸命に急いだ。
ふと、駅前通りを挟んで反対側の歩道に虚無僧の立っている姿が
見えた。乱舞する海鳥と吹雪を透かして、虚無僧の編み笠はおれた
ちの方を向いていた。息を切らせて立ち止まったヒキガエルに、お
れは虚無僧を指差して、
「虚無僧、見えるか」
と訊いてみた。
「虚無僧だァ?」
ヒキガエルは目を凝らして反対側の歩道を見た。
「虚無僧なんて、どこにもいないべや」
虚無僧は、おれたちにむかって手を振っていた。そうしてゆっく
りと編み笠を外した。その顔をよくよく凝視すると、虚無僧の顔は、
おれ自身の顔だった。腹の底から湧いた歓喜が強い痺れとなって断
続的に頭蓋骨へと伝わった。頭の中が何度も真っ白になった。失神
しそうになる光りと痺れであった。
「すぐそこだ」
とおれの腕を引くヒキガエルに、
「少しだけ、おれは……わかったのかもしれない」
と言った。
地下の煮込み屋には今日も客は一人もいなかった。ヒキガエルは
財布から、取りずらそうに濡れた万札を出して老婆に渡したが老婆
は黙ってそれを手で押し返した。妻は急いで健太の服を脱がせると、
老婆から受け取った大きなタオルで健太の体を包み、やさしく摩り
ながら、毛糸のカーディガンを着せた。老婆は急いで、店内の暖房
の温度を上げた。
「こんな季節に子供を泳がせでもしたのかい? 本当に悪い大人達
だね。もう大丈夫。水も飲んでないようだし、あとはあったかくし
てりゃあ、落ち着くよ。あんたがたも、早く濡れた服乾かしな」
老婆の言葉でヒキガエルは上半身、裸になってカウンターに坐っ
た。妻はコートだけ脱いで、座敷で寝ている健太の体を摩りつづけ
ていた。
「あんたが奥さんだね? これで身体を温めな」
老婆はカウンターの中から出て、妻に小ドンブリを差し出した。
「ありがとう」
妻は礼を言いながら小ドンブリの一カ所だけ小さく欠けた部分に
口を当てて、汁を啜っていた。老婆はヒキガエルの横に坐った、お
れを見て、意味あり気に微笑んだ。そうして、
「客が来たら困るね」
店の外に出て、暖簾を下げている影が、引き戸のガラスに映って
いた。
間もなく暖簾を持って店に戻って来たのは桜色のロングコートを
着た美しい若い女であった。昨日の夜、道端で健太に手を振りつづ
けてくれた三日月目の女だった。
「母さんは?」
ヒキガエルは女を見知った様子で、老婆の居所を尋ねた。
「ちょうど入れ違いで、近所に煙草を買いに行きました」
おれは驚いて立ち上がり、店中に飾ってある女優の写真を見た。
女優の顔は今、カウンターに入ったばかりの女に瓜二つだった。
「娘さんだったんですか」
「美人だべ」
と言うヒキガエルに、女は照れたように瞬きして、
「昨日で仕事やめたのよ。いい経験だったけど、ホステスは性にあ
わなかったみたい」
「よく五年も頑張ったなァ」
ヒキガエルに褒められ、
「前から言ってたでしょう? 地下の店はもう卒業、今度は地上で
店を出すのよ、それが私の子供の頃からの夢だった」
「夢は叶いそうかい?」
「前から気に入っていた物件があったの。今日、不動産屋さんと契
約してきたわ。小さい店だけど、母と二人でやるにはちょうどいい
お店になります」
「オープンはいつさ」
「桜の花の咲く頃には……」
溌剌として語る美しい女の顔が、ぐにゃぐにゃと歪んで見えてき
た。平行感覚が全く無くなって、おれは真正面に倒れた。顔面を床
に叩きつけていた。
「救急車!」
「お兄ちゃん」
ヒキガエルと妻の声が遠ざかっていった。
わかっていたこととは言え、おれの寿命は尽きたようだった。病
院のベッドで顔に白い布をかけられた死体の横で、オンちゃんはう
ずくまって慟哭していた。
葬式は母と同じ平和の町内会館で行われた。母の時と同じように、
アドバルーン親方がコピーした、経をたどたどしく読んで、口ごも
りながら何か言っていた。そうして情けなさそうに頭を下げていた。
学生時代の仲間や、妻がススキノにいることを教えてくれた会社の
元同僚、それから、ヒキガエルまで参列してくれていた。皆にお辞
儀する妻の横では、健太が子供用の礼服を着て行儀よく坐っていた。
健太と妻が一緒にいる姿を見るだけでおれは嬉しかった。
参列してくれた一人ひとりの肩を叩いて、おれは心から、
「ありがとう」
と言った。
飾ってある写真は花に囲まれていた。借金まみれになる前の元気
なおれが白い花の中で笑っていた。ヒキガエルは礼服を着て、かし
こまり、正座して腹を突き出し、無理に顎を引いて息苦しそうに両
手を畳に垂らして揺らしていた。
「その癖、なおらんべなァ……、あんたには本当に世話になった」
ヒキガエルは火葬場にまで来てくれた。白くなったおれを見て、
「強い骨だなあ。まだ、形が残ってる。ぞうさんらしいよ」
箸で骨を拾いながら言った。
骨は骨壷に入りきらなかった。妻に代わり、骨壺に棒を差し込ん
で乱暴に骨を砕いている葬儀屋がいた。
「丁寧にやってください」
とオンちゃんは、食ってかかっていた。
それから……、
ヒキガエルは相変わらず背中を丸めて毎晩ススキノで客引きをやっていた。妻も蜘蛛男の店で売春して毎日をしのぎつづけていた。薄暗いホテルの一室で、妻の体にのしかかり、背中や尻の筋肉を波打たせている見知らぬ男の映像が見えた。生きていてくれればいい。生きてさえいてくれれば……。おれは中有を漂いつづけた。
巨大な筒状の空間を急降下していた。鬱金色の光の中を煩悶しながら落ちていった。意識は混濁し、暗黒の澱みに引きずり込まれていった。煮えたぎるコールタールの海に溶けていき、コールタールの海は頭蓋におおわれた。存在しない筈の頭に激痛が走った。黒い
液体が頭の中で沸騰していた。手足の感覚が、痙攣とともに蘇り、おれは重たい瞼を見開いた。光の洪水が押し寄せて来て、すぐに去った。
上体を起こして、両手で頭蓋を抱えて叫んだ。点滴の管が腕から外れて床に飛んだ。若い看護婦が慌てて近づいて来た。
「おれ、生きているんですか」
「当たり前です」
「自分の骨をみたような……」
「夢を見てたんですね」
「生きているのは間違いないようです」
とおれは頭を抱えて看護婦に言った。この激痛と痺れは紛れもなく、現実のものだった。
「痛み止めの注射しますね」
ようやく痛みが薄らぎかけた頃、病室に見知らぬ女と幼児があら
われた。
背の高い緑色の瞳を持った美しい女と色白の男の子だった。太っ
た中年男もやって来た。人相の悪い中年男は作業服を着ていた。胸
に「札幌気球 有限会社」と刺繍が施されてあった。腹を突き出し
て両手を手持ち無沙汰に揺らせていた。顔の印象や立ち姿はヒキガ
エルを連想させた。
「ぞうさん、やっと話せるようになったか」
「ぞうさん? あんた、誰だ?」
「なにィ?」
医者がやってきた。四十代後半の女医だった。眼差しや眉間に刻
まれた縦皺から、威厳のようなものが漂っていた。
「昔、天売島でお世話になったわね。あなたに命を救われてから、
間もなくアメリカに修行に発ったのよ。恩返し出来たわ」
「…………」
「この方がミラクルハンドの名医だよ。前にプリントわたしたべ?
覚えてないのか」
とヒキガエルに言われ、
「自分が誰かも、解らない」
ほんとうに、おれは誰なのだろう?
女医は悔しそうに顔をしかめて片目を閉じた。
「やはり記憶喪失ね」
そうして額を自分の指で何度もつついて歩き回った。
「アポトーシス……。腫瘍が自然に小さくなる現象が起こっていた
のよ。それで手術が可能になった。脳腫瘍のアポトーシスは稀に報
告されている。今回は場所が場所だけに苦労したのだけれど……」
「記憶は戻るんですよね」
と緑色の瞳の女が涙声で女医に尋ねた。
「残念ながら、……奇跡でも起こらない限りは……」
女医は言葉を濁して俯いた。
女は低く唸り、ハンカチ片手で子供を連れて、病室から飛び出し
て行った。
「誰ですか、彼女」
女を追って起き上がろとするおれをヒキガエルが止めた。それを
女医が制して、
「何度か意識だけは戻ったのよ。それも覚えてないのね」
と言った。
ヒキガエルの肩を借りて窓外を眺めた。一面にタンポポの咲いて
いる中庭に、緑色の瞳の女がうずくまっていた。さっきの三、四歳
の男の子がタンポポを取って女に渡していた。女はタンポポを受け
取り、男の子の頭を優しく撫でていた。男の子の顔に満面の笑みが
溢れた。
「あんたの女房と子供だよ」
と言いながらヒキガエルは二人に手を振った。おれも手を振って
みた。男の子がこちらに気づいて笑顔で見上げていた。母子は病院
の建物に引き返した。
ヒキガエルは陽光を浴びて輝くタンポポの庭を見渡しながら、
「みんな夢だったんだよ。今年の冬のことは。ぜんぶ夢だった。そ
れで決まり」
と笑った。
母子が病室に戻って来た。
おれをベッドに戻して、ヒキガエルは、
「命あっての、ものだねさ。なんせかんせ、助かったことだけでも
感謝しないと罰当たるぞ」
ウインクしておどけてみせる言葉を受けて緑色の瞳が呟いた。
「そうよ。お兄ちゃん……。本当は死ぬところを先生に助けてもら
ったのよ」
と初めて表情を崩して笑顔になった。その女と、男の子、人相の
悪いヒキガエル……。笑みを湛える見知らぬ人々をおれは真剣な眼
差しで見つめて、
「おれはまだ、冬の中にいるらしい」
と言った。皆の顔から笑いが消えた。神妙な面持ちになった彼ら
を見て、女医は窓辺に歩み寄って窓外を眺めた。
「でもね……」
と呟いたきり、黙り込んで、しばらく外を見ていた。
男の子がポケットからタンポポを一輪取り出して、笑顔でおれに
手渡してくれた。
女医は皆の方に振り向いた。悪戯っぽい顔をして、息をのんで彼
女の言葉を待つおれたちにこう言った。
「でもね。冬は必ず春になるものよ」
完




