三
息子
「風、でてきたわね」
赤いアドバルーンのロープを引っ張りつづけるおれに、オンちゃ
んは弁当の箸をとめて、言った。西岡の分譲地であった。「分譲住
宅販売中!」と看板の網に貼られた黒いシートの文字が読めた。そ
の向こうは青空であった。文字の影が青いテントの上を左に右に走
っていた。影の文字は裏返しであった。オンちゃんはテントに坐り、
眩しそうに目を細めて作業を見ていた。
「ぎりぎりまで下ろして、宣伝効果ある?」
分譲されてしばらく経過した宅地には雑草が膝の高さまで生い茂
っていた。鉄の杭を四つ地面に打ち込み、杭から杭へとタイガーロ
ープを四角く張り巡らしていた。ロープの中の雑草を足で踏み潰し
て、一辺がニメートル強の正方形の青テントをアドバルーンの寝床
として作ってあった。おれはオンちゃんの隣に足をかかえて坐り、
「上げてないより、ましなんだ」
ススキノのビルの屋上で二人で花火を見た日以来、夏休みに入っ
てから、オンちゃんは毎日のようにランボルギーニを飛ばして、西
岡のアドバルーンの現場に弁当を作って持って来てくれていた。
「こないだは、ありがとう」
オンちゃんが母の葬儀に出席してくれた礼を、言い忘れていたこ
とに気づいて、おれは頭を下げた。
「香典までいただいて…」
「あれは爺ちゃんからよ」
母の葬儀は密葬に近い形で町内会の役員や、親しかった近所の住
民など十人程で行われた。平和の町内会館を使用した。町内会や葬
儀屋との打ち合わせや段取りは、全てアドバルーンの親方が取り仕
切ってくれた。金のないおれの要望を聞いた親方が僧侶がわりにな
った。どこからコピーしてきたのか、用紙に印字された短いお経を
読んで、二言三言、申し訳なさそうにお悔やみを述べた。オンちゃ
んは、制服姿で涙を流していた。
「私、親の記憶がないの」
すすけた畳に伏して泣いていた。黒く長い髪が、斜めに曲がりく
ねりながら、古い畳に這っていた。肩が震えていた。
「葬式を出せるお兄ちゃんは幸せなんだ」
と、励ますでも羨むでもない言葉に出席者は半ば呆れていた。
はげしい陽光を浴びながらテントの上で弁当箱の蓋を閉める彼女
に、
「本当に親の記憶ないのか」
と尋ねてみた。
「うん、物心つく前に両親が死んでいたの。だから記憶が無いの。
その後、近い親戚がいなくて、最初は同じ町の遠縁の親戚に引き取
られたらしいんだけど」
「らしい?」
「学校のことも、友達のことも、自然の風景も、故郷のことは全部
おぼえているわ。ただ、最初に引き取られた家の記憶がないの」
「…………」
彼女は邪魔くさそうに虫を手で払いながら、
「不思議でしょう?」
と無感動に、口尻だけで笑った。
「ただね、私には足長じいちゃんがいた」
「天売の爺ちゃんか」
「いつだったか、泣きながら天売にいる爺ちゃんに電話したことは
覚えてる。次の日、爺ちゃんが来た。夜、林の中の道を、爺ちゃん
について行った。なぜか爺ちゃん、手に日本刀を持っていたの」
「日本刀だァ!」
「あいつ……あいつを追いかけていたの。飯場についたら、何人か
がスコップで襲って来た。スコップの先が取れて柄だけになった…
…。そこに警察が来たのよ」
「どうなったんだ」
「事情が事情だったらしくて、爺ちゃん、執行猶予がついたみたい。
間もなく、私は天売に引き取られた。小学校五年生の時のこと……」
彼女は他人事のように話していた。
「それからは楽しかった。学校に通いながら、ホテルの手伝いした
り、爺ちゃんの船に乗って、タコ漁をやってみたり……」
彼女はテントにうつ伏せになって、海底を覗く仕草をしながら、
「こうしてタコを探しながら、体を斜めに反らしてね」ブルージー
ンズ姿の長い右足を、くいっ、くいっと器用に折りまげて、「こう、
足で櫂を操作するの。そうして右手でもね……」
海底を覗きこみながら、右手を後ろに回して、もう一方の櫂を握
る仕草をした。青いテントを海面にみたてて、片足と片手だけで磯
船を操縦していた。看板の文字の影がタコを探している彼女の白い
ティーシャツの背中を横切って行った。その機敏な体のくねらせ方
があまりにも愉快で、おれは立ち上がり、腹をかかえて笑った。
「面白いでしょ」
と振り向いた横顔を見た時、彼女の上におれもうつ伏せになって
重なった。耳元で、
「結婚してくれ」
と囁いた。オンちゃんは、おれを跳ね退け、体を横むきにして、
「本気?」
「嘘は言わない」
横たわったまま、彼女を抱き寄せた。
「爺ちゃんに挨拶に行くよ。今は、学生だから無理だけど、大学を
卒業したら、君をお嫁さんにする」
「私でいいの?」
彼女の吐く息は炎天下の空気よりも熱かった。それを頬にうけて、
全身に漲る血のたぎりを力ずくでいさめながら、
「来週、二人で天売に行こう。来週はアドバルーン、二日休める。
オンちゃんも夏休みだし」
彼女は半身を起こして、
「いいよ」と言って、髪の毛を直した。あっけらかんとした口調で、
「お兄ちゃんとなら結婚したい。それに……」鼻筋に皺を寄せてい
たずらっぽく笑った。「結婚ってしたことないから、前からしてみ
たかったの」
両手を広げておれに覆い被さってきた。生まれて初めて女性の口
と舌を吸った。車が通り過ぎて行った。雑草は二人の姿を隠してく
れていた。
「はやく街に馴染めるように、夏休みは帰って来なくていいって言
われていたのに……」
「爺ちゃん、びっくりするかなァ」
「お兄ちゃんなら大丈夫。爺ちゃんに気に入られているみたいだか
らね」
翌週、同じ現場で、アドバルーンの仕事の終わる時刻、ランボル
ギーニに乗ったオンちゃんが姿を現した。いつもの白いティーシャ
ツとブルージーンズだった。背中にリュックを背負っていた。
「ユーラシア?」
彼女はおれの自転車を見て、尋ねた。
「ブリヂストンのアトランティス……ユーラシアの兄貴分だよ。中
古だけどね」
「ランボルと似てるね」
「名前つけてくれ。カウンタックでもポルシェでも、何でもいいか
ら、好きなようにつけてくれ」
「じゃぁ……オンボロギーニ」
「オンボロギーニだァ」
オンちゃんはおれの言葉を無視して、
「昨日、お風呂場で鏡を見たら、お尻が赤くなっていたの。お兄ち
ゃんが荷台にばかり乗せるから……。オンボロギーニが来てくれて
助かったァ」
ジーンズの尻を突き出してここ、と手を当てた。そのあまりの形
の良さに目を逸らしてしまった。おれは無言で自分のリュックを背
負って、オンボロギーニに飛び乗った。
「行くぞ」
札幌市を出て、望来にたどり着いた頃、左手に夜の海が見え始め
ていた。厚田の公園で遅い夕食の握り飯を食べた。
「休んだら、かえって苦しくなるから、適当に飛ばして行こう」
「…………」
それから二人は日本海の海岸線を夜通し走り続けた。羽幌のフェ
リーターミナルに到着した頃には朝になっていた。自転車を停めて、
近くの草原で荒い息を吐きながら、大の字になって二人はしばらく
休んだ。フェリーターミナルは小さな建物であった。二十人も坐れ
ば満席になる数の椅子だけが並べてあり、切符売りの女性が、ガラ
スのあちら側で欠伸をしていた。室内には切符売りの他には、身な
りの良いショートカットの女性が一人、椅子に坐っているだけだっ
た。二十代後半に見えた。女性は、二人の尋常ではない雰囲気を察
したらしく、
「どこからいらしたの?」
と声をかけてきた。
「札幌です」
「札幌から、どうやっていらしたの?」
「夜通し二人で自転車をこいで来ました」
なあ、とオンちゃんに声をかけたら、おれの胸にしなだれかかっ
て寝息をたてていた。
「可愛い子ね? 年はいくつ?」
「十六です。同じ学園の後輩です」
「交際しているのね」
笑いかけたが、淋しそうに顔を逸らせて俯いた。おれは彼女の言
葉づかいや、柔らかく上品な印象に親しみを覚えて、
「来年、結婚するんです」
彼女は少し驚いた様子で
「そうなの、おめでとう」
「お姉さんは、どこからいらしたんですか」
「川崎……。街全体が下町みたいな所よ」
オンちゃんをそっと椅子に横たえて、頭の下に枕代わりのリュッ
クを置いた。切符を二枚買った。席に戻りながら、
「今回の旅行の目的は、やっぱり天売のオロロン鳥見物ですか」
「天売に来るのは四回目。知らなかった? オロロン鳥はもうほと
んどいないのよ。でも他の海鳥の数は全部で約百万羽」
「百万羽? 政令指定都市の人口じゃないですか」
「百万羽が、歩いて一周しても、一時間足らずの小さな島に住んで
いるのよ」
「本当に?」
それきり二人は黙り込んでいた。彼女がふいに、札幌、札幌……
と呟き始め、
「札幌は、いい所なんでしょう? 札幌で暮らしてみたいな」
「失礼ですが仕事は何をされているんですか」
「今は無職なの。前は東京の病院で働いていました」
「看護婦さんでしたか。看護婦さんなら、どこでも良い勤め先ある
でしょう?」
「…………」
オンちゃんの寝息を聞いているうちに、耐え難い程の睡魔が訪れ
て来た。オンちゃんの枕を半分借りて、おれも椅子に上半身を下ろ
した。どれくらい時間が過ぎただろう。女性の声で目が覚めた。気
がつくと、看護婦がおれを揺すっていた。
「フェリーの到着よ」
おれはオンちゃんの肩をつかんで軽く揺すった。
「島に着いたのね」
とねぼける彼女の背中を叩いて無理に起こした。
二人は自転車を肩に抱えて、小型のフェリーに乗り込んだ。甲板
に二台の自転車を倒して寝かせた。二等の広間に辿り着いた。他に
二等の乗客は十人ほどいた。二人は床に横たわり、それぞれのリュ
ックを枕にして、再び眠りについた。乗務員に起こされた時には広
間に誰もいなくなっていた。おれたちは急いで、自転車を担いで島
に上陸した。天売島のフェリーターミナルの前では、旅館やホテル
のそれぞれに趣向を凝らした宣伝用看板を手にした人達が、観光客
を勧誘していた。
「お姉さん」
勧誘されているさっきの看護婦に声をかけた。
「知り合い?」
オンちゃんは問答無用で看護婦の腕をつかむと、こちらに連れて
来た。そうして停車している白い小型バスの運転手に手を振った。
小型バスには塗料の剥げた文字で、「ホテル 第一」と黒く書かれ
ていた。みんなでバスに乗り込んでから、オンちゃんは看護婦にお
辞儀した。
「『ホテル 第一』の娘です。この度はご利用ありがとうございま
す」
初めて看護婦の表情に笑顔がわいた。
「オンちゃん、ススキノの客引きでも、こんな無茶な勧誘しないぞ」
「天売は人も生き物も生存競争の厳しい島なの。野生の生存競争は、
後で見せてあげる」
看護婦にはその言葉の意味が解ったらしく、
「楽しみね」
運転手がバスに自転車を積んでいた。乗客はおれとオンちゃんと
看護婦、そして二台の自転車だけだった。五分も走らないうちに、
ホテル第一に到着した。ホテルは海を見渡せる高台に位置していた。
建物は鉄筋コンクリート三階建てであり、確かに旅館というよりも
小型のホテルと言えた。ロビーに入ると爺ちゃんがおれを見つけて、
「ご苦労」
とフロントから出て来た。
オンちゃんは一階の一室まで案内してくれた。
「シングルでは、うちで一番いい客室だからね。内装工事、終わっ
たばかりの部屋」
都市部ではありふれたベッドとテレビが設置されている部屋であ
った。微かに塗料のにおいが漂っていた。窓を開けると一面の海だ
った。塗料のにおいは消えた。波の音と潮風が心地良かった。
「午後、迎えにくる」
オンちゃんが部屋から出て行った。おれは全裸になって、着てい
たティーシャツで全身の汗を拭き、リュックから着替え用のティー
シャツとブリーフを取り出して、身につけた。ベッドに仰向けとな
り、目を閉じて波の音を聴いているうちに眠ったようであった。
「けもの臭いよ」
オンちゃんの甲高い声で目が覚めた。慌てた様子で床に脱ぎ捨て
られたブリーフとティーシャツをビニール袋に入れていた。
「パンツもシャツもまだ濡れていたじゃないの」
「おれは獣か。汗臭いと言うのなら解る」
「お兄ちゃんは獣に近い人でしょう? そんなことより早くジーパ
ン、はいてよ。お昼ご飯の後は、ランボル対オンボロギーニで、天
売のサーキットを競争しましょッ」
質素な造りの食堂だった。小規模な学生食堂を思わせた。大皿に
魚介類の刺身が盛られていた。味噌汁は、信じられないほど芳醇な
磯の香りを発していた。味噌汁を一口飲んで、
「なんだこれはァ」
と声が出た。オンちゃんも嬉しそうに刺身を口に運んでいた。大
皿に盛った殻つきの生ウニを指差して、
「天売のバフンウニやムラサキウニは日本一なのよ」
「形容しようのない味だ。こんなに美味いもの食ったことない」
「海のダイヤって呼ばれているの」
おれは何度もご飯茶碗を空にした。ウニや刺身を貪るように食べ
た。味噌汁を飲んだ。途中、出てきた焼き魚を頭まで食べた。
「ウニは爺ちゃんが今朝、獲ってきたのよ」
「タコ専門じゃないのか」
「いま時期はウニなの。タコと同じ要領で獲るのよ。こう、メガネ
を口にくわえて」
「メガネ?」
「解るでしょ。海底を覗くためのガラスのついた大きな筒。ここい
らではみんなメガネって呼んでる」
早くレースをしようとオンちゃんに急かされて、おれは食休みも
ろくに取らずにオンボロギーニのペダルに足をかけた。オンちゃん
はすでに発車していた。
「待てよ、おい」
「ついといで。サーキットに案内するから」
オンちゃんの言うサーキットとは、島を一周り出来る車一台通る
のがやっとの狭い道路であった。そこを、二人で競争した。最初の
一本はオンちゃんに取られた。あまりにも広大な海と空に見とれて
いた。断崖の形状やスケールに圧倒され、空から海へと落ちて来て、
海底に突き刺さったような刃物を思わせる巨大な岩の高さにも驚い
ていた。
「お兄ちゃんらしくないわねェ。次はこの看板がスタートでゴール
だからね。三本勝負。あと二本!」
激しくせめぎ合いながら、林を抜け、坂道を曲がりくねりながら
走った。住宅地や漁港付近では、住民や漁師姿が大らかな様子で、
二人のつばぜり合いを楽しそうに見物していた。再び眼前に巨大な
岩の刃物があらわれた。
「赤岩っていうのよッ」
彼女が追い越していきながら、スピードを緩めたオンボロギーニ
の前輪を思いきり蹴った。転倒して路外の草原に投げ出されてしま
った。
「汚すぎるぞォ」
「札幌での恨みは天売で晴らすのさァ」
あははっと笑ってさっきの看板めがけて背中を丸める彼女の後を
追った。今度は道を覚えていたので、ゴール寸前で彼女を抜いた。
看板には「カブト岩」と赤いペンキで書かれていた。
「二本目はおれが取ったぞ」
「今のはまぐれよ。最後は逆回りで行くわよ」
今度はさすがに本気にならざるを得なかった。断崖の切り立つ岩
肌にもカモメの大群にも、赤岩にも目をくれなかった。漁港を過ぎ
たあたりから、オンちゃんとの距離が開き、そのうち彼女が見えな
くなった。
「勝った」
と呟き、駄目押しをかけるようにペダルを強く蹴った。右手の視
野の片隅に浜辺を感じていた。天売港沿いを矢になって進み、再び
断崖が見え始めた時、遥か前方の野原から、オンちゃんが道路に飛
び出して来たのが見えた。彼女は縦長のこの島を横切って渡って、
サーキットに戻ったのだった。
「汚いのにも限度があるぞォ」
腰をサドルから浮かせて、前のめりになってランボルを揺らす彼
女の後ろに追いついて行き、
「もう少し」
と唸った時、大きなカモメが一羽、オンボロギーニのすぐ前を通
り過ぎようとして、びっくりしたみたいに空中で羽をばたつかせた。
驚いたのはこちらも一緒だった。カモメに激突されるか襲われるの
かと思った。ブレーキをかけた。カモメは低空を旋回した後、断崖
の斜面を海面へと滑空して群れの中に消えた。
気を取り直して彼女を追いかけた。ゴール間近かで、なんとか追
いつきそうになった時、オンちゃんはランボルギーニのブレーキを
絞って斜めに傾きながら後輪を滑らせた。土煙が舞った。真横にな
って道をふさいでいた。危うく彼女に衝突しそうになって、急停車
した。おれに向かって、ペダルを一気に蹴って前輪を空中に高く跳
ね上げて威嚇した。回転する前輪から土が飛んできた。
「うわッ」
驚愕して、オンボロギーニごと横倒しになってしまった。
「この野郎」
ようやく追いついてランボルギーニの荷台を指で捕まえた時、カ
ブト岩の看板を通りぎていた。
「正義は勝つ」
オンちゃんは、ランボルに乗ったまま、断崖の斜面のカモメの群
れを観衆に見立てて、ありがとう、ありがとう、と手を振っていた。
「そんな正義があるかァ!」
ブレーキをかけて荷台を引っ張って停止させた。彼女を捕まえよ
うと飛びかかった。彼女は自転車を倒したまま、野原の方角に逃げ
出した。おれは何度も、奇妙な穴に足を引っ掛けて転んでしまった。
「こっちにおいでェ」
オンちゃんに挑発されて全速力で走った。また、穴に足を取られ
て転んだ。立ち上がり、数メートルも走らないうちに性懲りもなく
倒れてしまった。同じことを幾度か繰り返しているうちに、疲れ果
て、
「やめたやめたァ!」
と仰向けになって空を見た。すると、なんという空だろう。空の
青には一点の混じりっ気もなく、ただただ青かった。その下を、何
百、いや、何千ものカモメが、遠く近く、空に舞っていた。こんな
にも多くのカモメが上空を飛んでいたことに、おれはレースに夢中
で気がついていなかった。オンちゃんが近づいて来た。
「完敗ね、お兄ちゃん。学園の山猿も天売の自然には勝てなかった」
「負けた」
「解ればよろしい」
「偉そうに言うな」
おれは彼女に抱きついて押し倒した。
「あの穴はなんの仕掛けだァ?」
彼女は仰向けの姿勢でおれに両肩を抑えつけられたまま、顎だけ
で後方の空を示した。振り向くと西の方向に巨大な雲が青空の下、
浮かんでいた。地球上には絶対に存在しえない、あまりにも大きな
滝であった。水面部分の雲はどこまでも白く水平であり、そこから
大量の水が海に流れ落ちて、白い水しぶきを無限に飛散させている
ように見えた。
「滝だ」
「どう見ても滝ね」
二人とも草原に胡坐をかいて、不思議な滝を黙って見つめていた。
流れ落ちる巨大な水しぶきの中から、数千のカモメが現れては消え、
同時に数千が吸い込まれていった。水しぶきは、この瞬間にも、刻
々と海に落下しつづけていた。
野原にチューリップに似た黄色い花が咲いていた。おれは花を一
輪、摘んだ。雲の滝を眺めているオンちゃんの前髪に挿した。オン
ちゃんはこちらを向いてうつ伏せになり、野原に肘を立て、物憂げ
に頬杖をついた。頭に黄色い花をさしている癖に、眉間に皺を寄せ
て憂鬱そうに思い悩んでいる顔がアンバランスでおかしく、可愛ら
しかった。
「爺ちゃん、何て言うかしら」
「結婚のこと?」
「手紙には書いて送ってあるんだけど……」
彼女は頭から花を抜いて、
「エゾカンゾウ……」
「女性に花をあげたのは二歳か三歳の頃、母親に庭に咲いているタ
ンポポを摘んでプレゼントして以来だ」
「私も親にタンポポをあげたのかしら……」
「子供は親に花をあげるものだよ。それが子供なりの精一杯の感謝
の表現なんだ。子供はそれが嬉しいんだ」
「お兄ちゃんは幸せね。妬ましい」
彼女の頬杖をつく顔と、おれの胡坐の膝の間の地面の穴に手を入
れた。
「気になるんだけど、この島、穴だらけだなァ。まるで蜂の巣だ」
「それはウトウの巣。穴の数はおよそ三十万個」
「ウトウって、鳥か」
「明け方、猟に出て夕暮れ時、コウナゴを長い嘴に沢山くわえて巣
に戻る。家で、奥さんと子供が待っている。人間より勤勉なのさ」
「この中に奥さんと子供がいるのか」
「腕を入れてごらん」
おれもうつ伏せになって、斜めに傾斜している穴に腕を入れてみ
た。肩まで差し込んでも指先には何も触れていなかった。オンちゃ
んは乾燥した細長い植物の茎を野原から拾ってきて、
「これで突いてごらん。優しくね」
茎を持って改めて肩まで腕を穴にいれた。柔らかい羽毛の感触と
茎を押し返してくる微妙な感覚が指先に伝わった。
「いる」
それからオンちゃんは上空を飛び回る数千のカモメの爆発的な舞
いを指差した。
「カモメは自分では猟ができないから、夕方、帰宅途中のウトウの
お父さんから、コウナゴを奪うの。ウトウも餌を奪われまいと必死
で逃げる」
「カモメって悪いやつだったんだなァ」
「それがカモメの仕事なの。ちゃんと仕事して、卵や雛を育ててい
るの。カモメって表情ないように思うでしょ? 雛を見ている時の
カモメって、からだ全体で喜んでいるよ」
「ウトウもカモメも親なんだな」
「お兄ちゃん、私、親になる自信がないよ」
「…………」
おれは自転車に乗った。彼女を手招きした。
「最後の決戦だ。ゴールはホテル」
「お兄ちゃんずるい!」
息せききって、ランボルギーニが後ろから追いかけてきた。オン
ちゃんからは、さっきまでの闘志が消え失せていた。
太陽が傾いて、海面は暮色に染まり始めていた。ホテルに戻って
窓外の海を眺めた。一羽のカモメが逆風にのって、海面すれすれを
羽ばたきもせず、ふわっと浮かぶように飛んでいた。空中で羽を広
げ、ゆらゆらと静止しているようにも見えた。おんちゃんが部屋に
入って来た。
「オンボロギーニの出番よ。早く外に出て来て」
二人の自転車は狭い道を、ゆるゆると走っているホテルのバスを
軽く抜いた。赤岩が見える崖までたどり着いた。長い階段を下りて
いくと、展望台が、崖から突き出るように設置されていた。その周
辺には既に何十人かの観光客が集まっていた。風が強く、滝の形の
雲は、既に形を崩していた。展望台に下りて行こうとするおれを制
して、
「通はここから眺めるの」
二人は展望台から少し離れた断崖の草の上に自転車を停めた。崖
の急斜面で待機しているカモメの集団や群舞を始めているカモメが
ざわめき、声を張りあげていた。西の空から、鳩ほどの大きさの腹
の部分だけ白い鳥が、次々と飛んで来て、着地するや、羽をばたつ
かせ素早く走って巣穴に戻って行った。体は黒っぽく、薄紅色とも
黄色ともつかない嘴の色であった。その嘴の付け根まで、口いっぱ
いに銀色に光るコウナゴの束をくわえていた。
「ウトウか。もの凄い数だ」
「序の口よ」
太陽が海に沈み終わる頃には、うすら赤く染まった暮色の中から
ウトウの群れが現れて、空一面を覆いつくした。おれはイナゴの大
群に襲われる錯覚を覚えた。体に比して小ぶりな羽を、見えないほ
ど速く、上に下に動かしていた。着地してはカモメに追われ、コウ
ナゴを奪われていた。首尾よく食事をくわえたまま、巣穴に消える
ウトウもいた。落下してくるウトウの羽音が空気を裂いて、いたる
所に落ちてきていた。攻防を繰り返すカモメとウトウの奇声、無限
の羽音、草の中でのぶつかり合い……。上空ではいまだに何万、何
十万羽のウトウに島全体が覆い尽くされていた。ウトウは島に落下
を続けていた。数万の鞭が、同時に風を切って激しく回転している
ような音音音。おれは驚嘆のあまり蹲ってしまった。
「だいじょうぶ」
オンちゃんに肩を叩かれ、展望台へと二人で歩き始めた。赤岩が
輪郭だけになって、夕闇の中にぼんやりと聳えていた。海の中に巨
人が佇んでいる様に見えた。階段で見ている人々も、展望台の人々
も、誰もが呆気にとられて無口になっていた。階段を上がって来た
看護婦に、
「どうも」
と頭を下げた。返事は無かった。三人は並んで鳥を見ていた。階
段の下の草原でも、草をかき分け、ジグザグに曲がりくねりながら
ウトウとカモメが羽と足で走っていた。ついに餌を取り上げたカモ
メに向かって、看護婦が、
「人のものとるなんて、ひどい女!」
と吐き捨てるように言った。
おんな? おれはびっくりして看護婦の横顔を見た。看護婦は我
を忘れたように、カモメとウトウの戦いを、顎を引いて目を見開き、
食い入るように凝視していた。オンちゃんを連れて自転車に戻り、
オンボロギーニにまたがった。
「キャパシティーを超えたものを見ると、人間は思考が停止するの
か」
「最初はみんなそうよ。私、小学校の時、初めてこの光景をみて大
声で泣いたわ。それまで一度も泣いた記憶は無かったのに。きっと
何かを思い出したのね」
「あの看護婦さんは、四回目だと言っていたが」
「何かあったんでしょ? 女性のことは詮索するものじゃないわ」
数百羽のウトウとカモメが二人を避けて、野原の方向へと消えて
いった。耳元すれすれに過ぎて行ったウトウの爆音のような羽音に
仰天して、サドルを跨いだまま自転車を傾けて、片膝をついた。平
然としているオンちゃんに、
「よく平気だなァ」
「二回目からは、そう驚かなくなる」
「この島に、ウトウだけで何羽いるんだ?」
「ざっと六十万羽。雛を入れると、それ以上」
「…………」
二人はホテルに向かって夜の坂道をペダルもこがずに無言で下っ
た。ウトウの数が急速に減って、街の灯りが見えてきた。自転車を
停めてホテルのロビーに戻った。爺ちゃんがソファーに坐り、新聞
を読んでいた。ロビーにはいたる所にカラスに似た鳥の剥製が飾ら
れていた。カラスよりも野性味に欠けた優しい外貌であった。カラ
スと違い、胸と腹だけ白い羽毛であった。立ち姿がペンギンにも似
ていた。
「触ってもいいよ」
爺ちゃんが新聞越しに言った。
「全部おなじ鳥にみえますが、カラスですか」
「ウミガラス。……オロロン鳥だァ」
「オロロン鳥とは、遇えないと思っていました。まさかこんな形で
……」
「剥製ならば、島中にいっぱい、いるよォ。持ってくかァ。」
「…………」
「二人でこっちに来い」
爺ちゃんに手招きされて、オンちゃんと一階の廊下を歩いていっ
た。突き当たりにカーテンが掛けられており、その向こうが、住居
になっているようだった。十畳ほどの小綺麗な和室に案内された。
畳から、張り替えて間もない匂いがした。テーブルには、魚貝類中
心の豪華な食事が用意されていた。
爺ちゃんは二人に坐るように促した。
それからオンちゃんの最初に引き取られた家でのこと、それ故に
日本刀事件があったことなどを説明された。
「それでもいいのか」
と爺ちゃんに訊かれ、
「全て、引き受けます」
とおれは応えた。オンちゃんは泣いていた。
そうして、畳に置いてあった木箱の中から、不思議な形の青い器
を三つ取りだしてテーブルに置いた。よく見ると彫刻が施された木
製の小さな台座に、半分に切断された鶏の卵ほどの大きさの殻が据
え付けられていた。殻は外側が鮮やかなコバルトブルーで、内側に
は漆が塗られていた。
「オロロン鳥の卵を加工したものだァ。家宝にしている」
三つの器に少量ずつ清酒を注ぎ、おれとオンちゃんに手渡した。
「何もかも我流で申し訳ない。婚約の杯だ。これで決めよう」
うながされるままに酒を飲み干した。オンちゃんも眉根に皺を寄
せながら喉に流し込んでいた
「仮祝言はあんたの母親の喪が開けてから。入籍はこいつが高校を
卒業するまで待てるか」
「待ちます」
それから和室には、笑い声が溢れた。爺ちゃんは酒で目の周囲を
赤らめていた。興にのって、
「追分なんぞを、ひとつ」
胡坐をかいたまま、江差追分を歌い始めた。瞼を閉じて、船に揺
られるように上体をゆっくりと前後させていた。そうして半眼とな
り声を絞った。誰かに耳打ちするように小声で、身体の力を抜いて、
ゆったりと歌っていた。それはいつかのオンちゃんの歌い方にも似
ていた。
部屋に戻って灯りを消した。ベッドに寝ていても、爺ちゃんの追
分は、耳の奥に微かに残り、いつまでも響いていた。瞼の内側の深
いところでカモメが飛んでいた。薄れゆく意識の中、そこだけ鮮明
な一角に夕暮れの空の色とカモメの飛翔を見ていた。
「お兄ちゃん」
目覚めて起き上がった。網戸を開けてオンちゃんが片手にスニー
カーをぶら下げて、窓から入って来た。
「わかったでしょう? 初めてじゃないのよ。平取でね、酔っぱら
いの義理の父親に、何度も……。それでもいい?」
素早くジーンズとティーシャツを脱ぎ捨てて、全裸になった。彼
女の肢体は、窓から漏れる月明かりに照らされた美しい輪郭だけの
黒い影であった。そして影がベッドに忍び込んで来た。覆い被さっ
てきた、彼女の汗ばんだ背中から盛り上がった尻にかけての曲線を、
月明かりが、うっすらと浮かびあがらせていた。白い肌が艶めいて
いた。それから二人は波の音と一つになった。おれが果てようとし
た時、彼女はふいに、激しい息づかいで、
「首を絞めて」
と言った。
訝りつつも、彼女の首に両手を掛けた。
「もっと強く。お願い……、殺すつもりで」
汗ばんだ首筋に両手をぬめらせながら、おれは達した。彼女の抑
えた喘ぎ声が瞬間、大きく波立った。オンちゃんは両手を顔に当て
て、
「やっぱり見えた」
「何が?」
「自分が……犯されている映像が、一瞬、ぱっと見えた。私が天売
に来て間もない頃、上級生の男の子と喧嘩して、馬乗りになって首
を思いっきり絞められた。殺されるかと思った。その時も見えたけ
ど、今はその時より、はっきり見えた」
「首を絞められたら苦しいだろう?」
「苦しいし、痛い。頭の中が真っ白になって、閃光が走る。その時、
光と一緒に映像が見えるのよ」
「辛いだけだろう」
「苦しいんだけど、妙に気持ちがいい。解き放たれる感じ。不思議
ね。不謹慎だけどお兄ちゃんになら何でも言えちゃう」
「その感覚、おれも、少し解るよ」
シーツまでびしょ濡れであった。服を着て、二人で窓から飛び降
りて外気に触れた。
前浜まで走ろうと急かすオンちゃんに手を引かれた。音を立てな
いように自転車に乗って出発した。月明かりの下、自転車を飛ばし
た。前浜は小さな浜辺であった。右手の沖合に遠く、幾つもの集魚
燈の灯りが小さくほのめいていた。
二人は当然のように着衣を砂浜に脱ぎ捨てた。全裸で海へと駆け
た。オンちゃんの後ろ姿の美しさと全身に漲る躍動感におれは息を
のんで少しの間、立ち止まってしまった。火照った身体に真夏の海
水は心地良かった。沖合までクロールで競争した。遅れてついて来
たオンちゃんが立ち泳ぎしながら、
「悔しい! 山猿に負けた」
「石狩の大浜に通っていたんだよ。夜の海は特に好きだ」
立ち泳ぎの姿勢のまま口づけをして身体の動きを止めた。二人の
身体は海底へと沈んでいった。闇の中で抱き合い互いに足を絡めた。
二人は上に下に回転しながら沈みつづけた。平らな岩礁に彼女を横
たえた。彼女はおれの両手をつかんで自分の首に運んだ。意図を察
して足で海水を蹴りながら、首を絞めつけた。それは彼女がおれの
両腕に手を掛けるまでつづいた。海面に顔を出した彼女は、涙声で、
「ありがとう」と言うなり、砂浜へと戻って行った。おれもゆっく
りと後を追った。
砂浜に上がると、オンちゃんは既にジーンズを履いていた。背中
に腕をまわして、白いブラジャーのホックを繋げながら、振り向い
た。ティーシャツを着て、砂浜に腰をおろすと、何も身に着けてい
ない、おれをつくづくと眺めて、
「お兄ちゃん、わだつみ像にそっくり。今頃気づいた」
「山猿って言ったろ?」
「男ばかりの中にいたから気づかなかったのね。それに……」
「なんだ」
「お兄ちゃんって、もしかして私が初めてだったの?」
「そんなにぎこちなかったか」
「すごく嬉しい。さっき、海の中で首を絞めてくれたことも……。
部屋では一つしか見えなかった光と映像が、細切れに幾つも見えた
んだよ」
おれは照れ隠しするように、再び海に向かった。
「一時間くらいで戻る」
「そんなに?」
「自分の中に潜るんだよ。色々あったのは君だけじゃない」
潜ってみると、石狩の海も天売の海も、夜の海に変わりはなかっ
た。天売港を防波堤沿いに泳ぎ、沖に出てカブト岩を遠く月下に望
んだ。海底を目指し、足で激しく水を蹴った。思いのほか深い海だ
った。海底にはたどり着けなかった。海面に戻り、また深く、潜っ
た。もう完全な暗黒であり、方向感覚もなくなっていた。手足の動
きを止めて、海中、闇の中に浮かんだ。
カブト岩を通り過ぎ、島の西側の断崖沿いを泳いだ。突き出した
断崖の先端部に人間が立っているシルエットを月明かりが映し出し
ていた。
同じホテルに宿泊している看護婦であった。髪型や身のこなしか
らそれとしれた。看護婦は断崖を行ったり来たりしていた。そうし
て、靴を脱いで、断崖から海へと投げ捨てて、いよいよ身投げしよ
うとしていた。
おれは急いで海面に顔を出している小さな岩に立ち、伸びをして、
看護婦を見上げた。
「おーい!」と大きく腕を振った。「ここいらの海は深いですから、
飛び込んでも死ねませんよォ! 泳げなくてもおれが助けちゃうか
ら無駄ですよォ!」と声を張り上げて叫んだ。
看護婦はびっくりしたみたいに断崖に尻をついて、這うようにし
て去っていった。
大急ぎで前浜まで泳いだ。オンちゃんはおれの姿を認めると、
「慌てているけど、何かあったの?」
と心配そうにおれの顔を覗き込んだ。
おれは事情を話しながら服を着て、自転車にまたがった。オンち
ゃんと島全体を一周して看護婦の姿を探した。息が切れていた。
「遅かったか」
二人はうなだれたまま、ホテルのロビーに戻った。するとさっき
の看護婦が、ソファーに坐って、足の裏に薬を塗っていた。おれた
ちは看護婦の向かいのソファーに腰を落とし、しばらく黙っていた。
看護婦は足を組み、頬杖をついて、無言で何やら考えを巡らせてい
るようだった。
廊下の奥から爺ちゃんがサンダルと包帯を持ってきて、
「羽幌に着いたら、新しい靴を買うといい」
「ご迷惑かけてすみません」
と初めておれたちに頭を下げて、また黙り込んでしまった。古い
柱時計の時を刻む音が耳をついていた。看護婦は組んでいた足を入
れ替えて、堰を切ったように話し始めた。
話の内容はこんなふうだった。
彼女は七ヶ月前、婚約者と別れた。高校時代から交際をつづけて
いた、最愛の男性だったそうだ。彼に好きな女性が出来て、……世
間ではよくある、ありふれた話に過ぎなかった。しかし打撃は相当
なものだったらしい。
その後、不眠がつづき、勤務先の病院でもらった抗鬱剤など服用し
たが無駄だった。仕事を辞めて、彼女は自宅のマンションで、深夜、
睡眠薬を大量に飲んで、自殺を計った。錠剤をウイスキーの水割り
で無理やり流し込んで、ベッドに横たわった。その時、チャイムが
何度も鳴って、乱暴に玄関のドアを叩く音と、男性の怒鳴り声が聞
こえてきた。あまりにしつこいので、彼女はふらふらと起き上がっ
て玄関のドアを開けた。怒鳴っていたのは、彼女の部屋の真下に住
んでいる見覚えのある中年の男性だった。
「うちの部屋の天井から水が漏れている。この夜中に何を考えてい
るんだ! 風呂の水でも出しっぱなしにしているんじゃないか」
ちょうど薬が回ってきて、怒鳴っている男性の姿が、ゆがんで見
えたところまでは覚えていた。男性の通報で病院に運ばれた。胃洗
浄をされて、一命をとりとめた。水漏れの件も、あとから大家が調
べたら、下の住人の屋根裏を通っていた水道管が古くなって破れて
いたとの話であった。
今度こそ確実に死のうと思い、真夜中、マンションの近くの線路
へと歩き始めた。遮断機が上がった線路沿いで、もうすっかり心を
固めて、電車が通るのを待っていた。
「真奈美ちゃんじゃない?」
振り向くと、もう十年近く会っていなかった中学校の頃の親友の
女性が車から降りてきた。
「やっぱりマナヤンだ。懐かしい! こんな夜中に会うなんて」
それから強引に車に乗せられて、二人は近所のファミリーレスト
ランで中学校時代の思い出ばなしに花を咲かせた。彼女の冗談に思
わず笑っているうちに、死のうという決心がすっかり萎えてしまっ
た。
彼女は学生時代から何度か訪れていた北海道の天売島を思い出し
た。天売には、切り立った断崖が幾つもあること回想して、断崖か
ら飛び降りたら本当に間違いないだろうと信じた。それが今夜……、
なんと、海の中の岩に、全裸の青年が立っていた。「死ねませんよ
ォ」とだけ切れ切れに聞こえてきた。彼女は驚いてしまって、今度
もやっぱり、死ねなかった。
三度、死のうとして三回とも、妨害が入って目的を果たすことが
出来なかった。三回つづけて邪魔が入ったのは、とうてい偶然とは
思えないと彼女は言った。この世には科学では計り知れない何かの
働きがある。人間を殺そうとする働きもあれば、生かそうという見
えない力も断じて存在するんだと、今夜、確信したそうである。
「きっと私には、よく解らないけれど、大切な役割があって、それ
れをまだ果たしていないのでしょう。不思議なことが三回もつづい
て、ああ、見えない何かに導かれているんだなァと、ひどく感動し
ています。私は非科学的なものを信じてはおりません。ただ、目に
は見えない、たくさんの働きが日々、こんな私のことを常に見てい
てくれている。それを今夜、実感しました。もう自殺を計ることは
二度とありません。皆さん、ご心配をかけて申し訳ございませんで
した」
看護婦は話を終えるとおれを見て、
「あなたは命の恩人ね。忘れないわ」
決然として立ち上がり、
「これから、生まれてきた役割を探します」
というなり頭を下げて自分の部屋へと戻っていった。柱時計の時
を刻む音が再び聞こえ始めた。しばらくみんな黙り込んでいた。爺
ちゃんが、
「俺にも体験がある。人の生き死にが、かかった場面では、不思議
な偶然が重なることが多い」
おれは部屋に戻った。窓が開いてオンちゃんがまた入ってきた。
二人は朝まで、裸で抱き合って眠った。
朝食と昼食を兼ねた食事をとってから、またベッドに潜り込んだ。
疲労が溜まっていた。夕方まで、ぐっすりと眠った。
「行くよ」
オンちゃんに起こされて、窓外を見た。空が赤く染まり始めてい
た。自転車で赤岩展望台近くの崖に向かった。到着すると、既にウ
トウの帰還は始まっていた。西の空が遠く、ウトウとカモメの群れ
で黒ずんでいた。
「結婚してからも、夏は毎年、会いに来るからね」
と、オンちゃんは海鳥の群れに呟いた。
オンちゃんの立ち姿がスロモーションのように見えてきた。年々、
幼さがその表情から消えて、少女から大人へと変身しつつあった。
ピンクのブラウスと白いキュロットスカート姿の二十歳のオンち
ゃんが、虚ろに遠くを見渡す視線でウトウの乱舞を追いながら、前
髪をかきあげた。
弾けるような希望に溢れた肢体と眼孔に少しずつ、妖光が差し始
め、体型は成熟した女のものとなった。
胸元の開いた薄紫のワンピースに身を包んだ二十五歳の彼女は顎
を引いて、覗きこむようにウトウとカモメの攻防を見ていた。
瞼の下に隈が出来始め、ふっとこちらに振り向いた。
艶めいた妖しい表情に、ぱっと昔の清潔さが蘇った時、彼女は三
十歳を超えていた。
折にふれて、複雑な感情を内包しながら、いくつもの表情を使い
分けることのできる大人の女へと変貌を遂げていた。
「爺ちゃん、春から夏に向かう一番いい季節に死にたいって言って
いたわ。夢が叶って良かった」
喪服姿の女が言った。三十歳を超えているのに二十代後半にしか
見えなかった。貞淑でありながらも妖艶な色香を同時に兼ね備えた
妻は、まさに女盛りを迎えようとしていた。もうじき三歳になる健
太がエゾカンゾウの黄色い花を一輪持って、走り寄って来た。彼女
は花を受け取るとお愛想程度に健太をあしらい、邪魔くさそうに、
夕空の断崖へと投げた。花を追いかけようとする健太を、おれは慌
てて抱き上げ、
「まさか抵当に入っていたとはな、あのホテル」
「爺ちゃん人がいいから、いろんな人の保証人になって……。困っ
たことになったわ、うちも苦しいのに……借金は相続してあげられ
ないわねえ」
と言った。
それから親子三人は、海鳥の消えた天売の夜の空を眺めた。




