二
追憶
北一条通りに出て、西野二股を右に進んでしばらく走ると、周囲
はもう山の中だった。緩やかな斜面に出来た住宅地を更に上ると、
平和霊園があり、その奥に平和湖がある。
平和湖に下りていく小さな崖ぎりぎりの場所に、その木造の木肌
をむき出しにしたオンボロ小屋は建っていた。昔は旨い羊肉を食わ
す店として、場所の奇抜さもあり、繁盛していたジンギスカン屋で
あった。春から秋にかけては、平和湖にボートを浮かべて、時間あ
たり幾らで金を取っていた時期もあった。その後、経営者の高齢化
で、「札幌気球有限会社」に工場兼事務所として、貸し出したので
ある。「平和湖畔荘」と赤いペンキで平屋の屋根に載せられた大き
な看板は、ところどころ雪をかぶり、ペンキも剥げて、斜めに傾い
ていた。小屋の中は、板張りの大広間と、一段高い位置に八畳間の
座敷が一室、それだけの造りであった。灯りをつけて、板張りの広
間の真ん中に置かれた、昔風の丸い石油ストーブの元栓をひねった。
電源を入れてしばらくしても点火しないので、いつものように舌打
ちしながら、足元に落ちていた新聞紙をちぎり、ライターで火をつ
けて、ストーブの蓋を開けて炎を放り投げた。
奥の壁一面には、何十個ものカラーボックスが天井近くまで積み
上げられていた。そこに畳んだアドバルーンや、ロープや網等の道
具類が、雑然と押し込められていた。そのすぐ手前には、中古の事
務用机が、縦に六つ並べられており、その上にコンパネを敷き詰め
た細長い作業台が出来ていた。
座敷では健太が敷きっぱなしの布団に坐り、ダンボールから取り
出したカップラーメンの包装を器用に剥がしていた。おれは、広間
の台所で薬缶に水を汲んでストーブの上に載せた。
「待ってろな」
積み上げられたヘリウムガスのボンベに腰を落とした。気がつい
て靴を脱いで座敷に上がった。扇風機に似た円形の大きなハロゲン
ヒーターのスイッチを入れて、健太のヤッケを脱がした。おれもヒ
ーターにあたりながら、ドカジャンを脱いだ。
「まだ寒いか」
健太の肩を抱き寄せた。健太は包装を剥がしたカップラーメンの
蓋を半分開けて、小さな冷蔵庫から、生卵と納豆のパックを、二つ
ずつ取り出していた。布団の横の円い卓袱台に置いた。おれも、ダ
ンボールからカップラーメンを取り出して、包装を剥がして、蓋を
半分開けて健太のカップの横に並べた。
「今日は冷えるな」
ハロゲンヒーターの電圧を上げて、再び健太の横に腰を下ろした。
二人とも、布団の上に坐り、ハロゲンヒーターの熱を受けていた。
赤く反射するハロゲンヒーターの中には、これも、いつものように
老婆の顔の模様があらわれていた。
この小屋に越して来て間もなく、おれは何日捜しても一向に手が
かりの掴めない妻の消息に苛立って、茶箪笥から親方の焼酎の瓶を
取り出して、ジョージアで割って飲んだのだった。何かの拍子にむ
せかえって、おれは口の中のものを思い切り、ハロゲンヒーターの
方向に吹き出してしまった。液体が霧状に空中を舞った。
以来、ハロゲンヒーターの丸い反射板全体には茶色の染みが、無
数に点々と、こびりついていた。いつからか、電源を入れると、染
みの中から人間の顔の模様があらわれるようになっていた。よくみ
ると、それは老婆の顔だった。目を釣りあげ、口を大きく開き、怒
っているとも、悲鳴をあげているとも判別出来ない顔だった。笑っ
ているようにも見えた。時には泣いているようにも見えていた。
健康保険が切れる前、健太が風邪を引いたので近所の内科に連れ
て行った。診察後、ついでのようにして幻覚のことを医師に訊いた。
自分が脳腫瘍であることは黙っていた。
「幻覚には間違いないのでしょうが、おれの頭どうかしているので
しょうか」
すると医師は、
「それはパレイドリアと呼ばれる現象で、よくあることですから、
気にしなくて結構です。幻覚の内にも入りません」と、こともなげ
に不安を一蹴してくれた。そうして「脳疾患などあれば別ですが」
と付け足した。
「脳疾患? たとえば脳腫瘍で幻覚はおこりますか」
「もちろん、出来た部位によっては……。なにか心配なことがある
のですか」
「…………」
日数の経過とともにハロゲンヒーターの中で、老婆の顔は次第に
鮮明になっていった。幻に決まっているのに、健太にまで、
「お婆さんの顔が見えるか」
と、ハロゲンヒーターを指差して尋ねたこともあった。無論、健
太にはなにも見えないらしく、首を横に振っていた。赤く点る丸い
電熱線の背後で、不気味にあぶり出された老婆の顔……。それは目
を凝らして見つめれば見つめる程、鮮明になった。
「ババア、今日も帰ったぞ」
声に出して呟いてみた。今では健太も慣れてしまって、おれがハ
ロゲンヒーターに話しかけると、自分は見えていないはずの老婆に
一緒になって「バ、バ」と声をかけるようになっていた。
二つのカップラーメンにいつも通り、納豆と生卵をそれぞれぶち
込んだ。ストーブから薬缶を持って来て湯を注いだ。茶箪笥の横に
は、ダンボールが二つ置いてあり、一つにはカップラーメン、もう
一つのダンボールにはジョージアが何十本か入っていた。どちらも、
親方が買い置きしている物だったが、好きなだけ食べても飲んでも
いいと言われていた。納豆と生卵は自分で買っていた。
「そろそろかな」
老婆の顔にちらりと目をやってから、カップラーメンの蓋を開い
た。健太は自分の手の大きさには似つかわない金属のフォークを器
用に使って食べ始める。おれも割り箸を割った。
「居所がわかったゾ」
麺に息を吹きかけながら、おれはハロゲンヒーターに話しかけて
いた。
「売春してるんだってよ。たまらないィ」
横からは麺をすする音が気持ち良く響いていた。明日、妻に会っ
て事情を話せば、全て終わると思った。自分は借金でクビが回らな
い上に、不治の病に侵され、幻覚が見える狂人である。ハロゲンヒ
ーターの丸い反射板一杯には、今も老婆の顔が鮮明に見えている。
それは見つめれば見つめる程、不気味に顕在化する確かな映像であ
った。健太が勝手しったる様子でハロゲンヒーターの首振りボタン
を押した。老婆はゆっくりと、左右に首を振り始めた。網のカバー
を外して、汚れを拭き取ってしまえば、もう老婆はあらわれないだ
ろうか。それは無理だというように、老婆はクビを左右に振ってい
た。
「ババア、あんた、おれの中に昔から居なかったか?」
今日、地下の煮込み屋で見たどんぶり談義の好きな女主人の顔と、
ハロゲンヒーターの中の老婆の顔がまた一瞬、重なって見えた。
「医者が駄目だってもんを、あんたの病気は必ず治るだなんて、と
んだオタメゴカシぬかしやがってよォ。クソババア……。んなもん、
お前、治るわけないべや」
今度は、女主人がクビを左右に振っていた。生気に満ちた目が、
心配ない、心配ないと言っていた。おれは、割り箸をハロゲンヒー
ターに思い切り投げつけた。
「馬鹿にすんなや、このキチガイ猫が!」
自分の口から出た、キチガイ猫という表現が可笑しくて、大声で
笑った。煮込み屋の女主人は、確かに、老いさらばえたキチガイ猫
であった。
「年寄りのキチガイ猫が、お姫様に戻るかよ。したらお前、おれだ
って、死ななくてすむべや。お伽話もタイガイにしてくれや」
なぜか無性に腹が立って、おれは卓袱台を持ち上げて、ハロゲン
ヒーターめがけて投げつけた。卓袱台は斜めに転がりながら、ハロ
ゲンヒーターの網の端に当たった。ハロゲンヒーターは、ぐらつい
だけで倒れなかった。カップラーメンの麺と汁が畳にぶちまけられ
ていた。健太が四つん這いで、おれから逃げ出した。その丸い尻を
目で追いながら、
「ごめん、ごめん、びっくりさせたな……」
健太を抱き上げて謝った。無表情で頷いてくれた。
「お前が勝手なことばかり言うから、健太の飯が無くなったではな
いか」
とハロゲンヒーターに向かって叫んだ。老婆は顔の向きを変えな
がらも、それは違うとクビを左右に振りつづけていた。健太が広間
から、新聞紙と雑巾を持って来た。健太と一緒に畳の床を掃除した。
健太のカップラーメンは、カップの中に麺と具だけが、まだ半分ほ
ど残っていた。健太は黙って卓袱台にカップラーメンを置いて、つ
るつると食べ始めていた。
床に脱ぎ捨てられたドカジャンにカップ麺の汁が飛び散っていた。
広間の天井に張り巡らされた物干しの針金から、新しい雑巾を一枚
おろして、薬缶の熱い湯を染み込ませた。ドカジャンをハンガーに
掛けた。ポケットから、青色の紙屑が畳に落ちた。染みにならない
ようにドカジャンの汚れを雑巾で押すように何度も拭いた。ハロゲ
ンヒーターを蹴り倒し、電源を抜いた。
「くたばったか、ババア!」
というなり、ハロゲンヒーターに唾を吐き捨てた。唾は傾いた反
射版に落ちて、しゅっと音をたてた。老婆の顔は消えていた。
「なんだべ」
畳に捨て置かれたクチャクチャの紙屑を拾いあげた。卓袱台に広
げてみると、ワープロで、英文がしたためられていた。その後に和
訳がついていた。「病者の祈り」と題された詩であった。
大きなことを成そうとして
強さを与えて欲しいと求めたのに
謙虚さを学ぶようにと
弱さを授かった
偉大なことができるように
健康を求めたのに
尊いことができるようにと
病弱を与えられた
幸福になろうとして
富を求めたのに
知恵者であるようにと
貧しさを授かった
人々の賞賛を得ようとして
権力を求めたのに
天狗にならないようにと
弱さを授かった
人生を享楽しようと
あらゆるものを求めたのに
あるがままを喜べるようにと
いのちを授かった
求めたものは一つとして与えられなかったが
願いはすべて叶えられた
本当の自分自身の意にそぐわぬ者であったのに
こころの中の言い表せない祈りは
すべて叶えられた
私はあらゆる人々の中で
最も豊かに祝福されたのだ
詩の後に解説がついていた。ニューヨークのリハビリテーション
研究所の壁に書かれた、一患者の詩であり、作者は不明である旨が、
記載されていた。長々と解説の文章がつづいていたが、飛ばして読
んだ。最後に「翻訳・虚無僧」と印字されていた。英文と和訳を見
比べてみた。英語は苦手だったが、最後の、「神の意にそぐわぬ者
であったのに」の「神」の部分を虚無僧は「本当の自分自身の意に
そぐわぬ者であったのに」と置き換えて翻訳しているのが判った。
「意訳にも限度があるぞ」
おれは虚無僧の翻訳に卑怯なものを感じて、用紙を卓袱台に放り
投げた。
「だいたい『本当の自分自身』って何のことよ」
と舌打ちしながら、見覚えのある詩だな、と考えていた。記憶の
糸を手繰り寄せて、卓袱台に頬杖をついた。過去へと感慨を張り巡
らせていた。
母が亡くなった時、病院の廊下に張り出されていた詩であった。
母は、おれが大学四年生の夏、胃癌で死んだ。四十五歳だった。父
はおれが高校一年の冬、やはり癌で死んでいた。今のおれの歳と同
じ、四十歳であった。夜の病院の薄暗い廊下の風景が、胸の痛みと
ともに、青白い光芒を曳いて、脳裏に蘇ってきた。
夕方、病院から電話で母の危篤の知らせを受けて、おれは平和の
自宅から、タクシーを拾い、中央区の病院へと駆けつけた。看護婦
が母の顔に白い布をそっと置いた。おれは詫びながら布をゆっくり
とおろして、母の死に顔を凝視した。痩せて、黒ずんだ骸骨みたい
な死相であった。目は見開いたままであり、口も半分開いていた。
おれは何度も母の瞼を指で撫でて、ぎょろりと空中を見つめたまま
の目玉の入っている二つの眼窩を閉じてやろうと試みた。その作業
は幾度やっても徒労に終わった。
「あと、頼みます」
布を母の顔に戻すなり、頭を下げて、病室を飛び出した。しばら
く、廊下でうずくまっていた。突き当たりの窓ガラスから、向かい
のビルの電飾版の光が、磨きこまれた廊下の床を、黄色く赤く明滅
させていた。廊下に照り返り瞬くその不思議な光を見つめているう
ちに、正気を取り戻して、エレベーターへと歩き始めた。母の死は
覚悟が出来ていた。おれが打撃を受けたのは、むしろ、母の死に顔
の醜さであった。立ち止まり、廊下の壁に何度も頭をぶつけながら、
母の醜悪な死相を反芻していた。目を開くと、貼り紙があり、そこ
に「病者の祈り」があった。消毒液の匂いが鼻をついた。「病者の
祈り」から、おれは何ものも感得すること無く、
「ふざけるな」
と呟いて病院を後にした。
足はススキノの方向へと向かっていた。母の死を知らせねばなら
ない身内が自分には一人もいない事実に愕然としていた。とうてい
自宅に戻る気持ちになれず、歓楽街の雑踏を求めてススキノまで足
早に歩いた。
ヨーク松坂屋の正面玄関の石段に一人で坐っていた。街の光彩に
包まれながら、何人ものチラシ配りが、おれの周囲でうろうろして
いた。歩道に捨てられた無数のチラシが、夏の乾いた風に巻き上げ
られて、砂埃と一緒に宙を舞っていた。豊平川の方向から花火の音
だけが聞こえてきていた。
無性に誰かと話したくなって、目の前の公衆電話のボックスに入
った。ススキノからほど近い、おれの大学と同じ学園の中にある商
業高校の一年生の女の子と知り合ったばかりだった。すでに何度か
デートしていた。彼女は通っている商業高校の裏手にある女子寮に
住んでいた。女子寮に電話すると、管理人のおばさんが出た。喉仏
を押さえて、声色を太く変えて、
「天売島の親類の者だが、長距離なので急いでくれないか」
と嘘をついた。間もなく彼女が電話に出た。
「お兄ちゃんでしょ」
「よく判ったね」
「だって天売に親戚なんて爺ちゃんしかいないもの」
「出てこられないか」
「どこ」
「ヨークの前」
「ランボルギーニで飛ばして行くね」
二十分も経過しないうちに彼女は現れた。ツーリングタイプの自
転車に乗って、長い足をすらりと地面につけていた。
「お兄ちゃん」
うなだれているおれの頭を叩いた。見上げると、白いティーシャ
ツにストレートのジーンズとスニーカーだけのシンプルないでたち
であった。
「そのランボルギーニ、卒業生からのお下がりだろ?」
すると彼女は鼻筋に皺を寄せて笑い、
「お兄ちゃん、このランボルくん、転がしてみる?」
彼女はいたる所、塗料の薄れた自転車から降りた。おれは入れ替
わりにサドルにまたがった。
「このランボルギーニ、ブリヂストンのユーラシアだろ? よく足
とどくな」
「さァ、発進」
手を振り上げて、彼女は荷台に飛び乗った。
「つかまって」
と後ろを振り向くと、彼女の顔は青白く、艶めいて見えた。瞳の
色は、濃い緑色であった。それは光の加減で、青色や黒に変化した。
「飯くった?」
「くった」
「花火観に行くか」
「いくか」
おれはペダルを蹴って走り始めた。車や通行人を縫って、歓楽街
を疾走した。行き交う車の列に映し出されるネオンの光が、濁流の
ように流れていた。
気がつくと、健太が畳にうつ伏せになって、フォークを握りしめ
たまま、寝息を立てていた。力の入ったままの手からフォークを外
して、そっと抱いて布団に寝かせた。電気を消して、おれも布団に
横になった。健太は、闇の中で「ママ」と寝言を言った。あの光り
輝くような少女が、今では蜘蛛男の店で働いている事実に、時の流
れの残酷さと自分の不甲斐なさを感じざるを得なかった。
あれから二人は、ススキノの高いビルの屋上に上り、豊平川の花
火を眺めていた。胸の高さのフェンスにもたれて、彼女は黙って見
ていた。花火の音は、夜空の闇に反響して、温かく心地良い風の流
れを、かすかに振動させているようであった。おれは彼女の横顔ば
かり見ていた。赤い光の花が、緑色の瞳の中で燃え上がり、花弁を
垂らすようにして、消滅しては、また咲いた。その不思議な映像を
見ているうちに、涙が止まらなくなった。先程、病院で散っていっ
た愛しく哀しい命に想いを馳せていた。
健太を抱き寄せた。上向きに寝て、目を見開き、闇の中に意識を
集中させていると、漆黒の空間に遠い昔の花火が再び打ち上がって
いた。鼻づまりを起こしている健太の寝息が、シューシューと耳元
で聞こえていた。それは夜空に咲く寸前の花火の音を連想させた。
小屋の外から、何台かの車の、けたたましいエンジン音が響いて
きた。マフラーを改造しているのか、轟音は部屋の空気の闇を切り
裂き、花火の映像を消した。健太が寝返りを打った。エンジン音が
静まると同時に、大人になりきっていない女の嬌声がいくつも聞こ
えてきた。
――お化け屋敷だ
マジかよ、おい、と若い男の声も聞こえた。声の背後で、何人も
の男女の声がざわついていた。
――お化け屋敷に決まっているわよ。
――したらお前、入ってみれや。
闇の中に、再び花火が打ち上がった。おれは十六歳の少女に涙を
見られまいとして、腕で両目を拭った。飲みかけの缶ビールを口に
含んで、夜空に舞い上がった光の牡丹に向かって思い切り、ビール
を吹きかけた。ビールの飛沫は夜の闇に大きく散った。隣のビルの
電飾に照らされながら、白く薄れて消えていった。
彼女は、驚いておれの顔を見た。涙が再び溢れてきた。涙の理由
も尋ねずに、彼女は真っ直ぐにこちらを見ていた。表情を消してい
た。全てを見通しているような彫りの深い双眸に触れた時、おれは
もしかすると母の死を彼女に告げていたのではないかという錯覚に
囚われた。
彼女の顔が近づいて来た。
――誰か人が住んでるわよ。
――なしてこんな墓場の奥に人が住んでるのよ。
――この建物、きっと昔、何かあったと思うわ。
花火が上がった。
彼女の唇が、おれの唇に触れようとしていた。そうして躊躇する
ように顔を反らせた。思い切ったように顎を引いて、また唇を近づ
け、苦しそうにまた俯いた。
「ファーストキスなのよ。やっぱりお兄ちゃんに決めた」
それまでの動揺が嘘のように、彼女の唇は素早くおれの唇に触れ
た。そうしてくるりと後ろを向いて、両手で顔を覆った。
――幽霊がいるんだ。
――探検するか。
――だれが一番、根性なしか、これで判るわね。
怖い怖いという少女たちの艶めいた声が、少しずつおれの耳から
遠ざかっていった。
花火の音が、夜空の真上から、落ちてきていた。おれにとっても
初めてのキスの体験であった。男子高校から、男子学生ばかりの大
学に入って以来、異性との交際の機会に恵まれていなかった。
おれは経験豊富な年上の男を装って、彼女を後ろから抱きしめた。
高鳴る心臓の鼓動が、手のひらに伝わってきていた。自分の心臓も
また、悲鳴を上げて素早く動いているのが、彼女の温かい背中から、
こちらの胸に伝わってきた。おれは心臓の音を気取られまいとする
かのように、彼女の乳房をティーシャツの上から、揉みしだいた。
柔らかい乳房の中には、何かコリコリとしたしこりがあった。
「お兄ちゃん、…痛い」
「好きだ。結婚したいくらい大好きだ」
彼女は振り向いて、おれの背中に両手を回して、さっきよりずっ
と長く、唇にキスしてくれた。歓喜と悲嘆とが、胸の内で交互に入
れ替わった。夜空に乱舞する光の花を背景にして、唇を寄せ合う二
人のシルエットが闇の中に、いつまでも見えていた。
その映像は、広間の引き戸を無理に開けようとしている音で消え
た。
――鍵がかかってるぞ。
――ガラス割ってみるか?
おれは布団から起き上がり、ハロゲンヒーターのコンセントを挿
してからスイッチを入れて首振りボタンを押した。赤い光が、広間
の闇の中を、移動しながら照らした。
うわあああッという幾人もの悲鳴が外から聞こえて来た。
――火の玉だ。
――家の中飛んでるぞォ。
ばたばたと、逃げ惑う雪道を踏む足音が遠ざかり、たてつづけに
車のドアの閉まる音がした。エンジン音を轟かせながら、改造車の
群れは墓場から去って行った。ハロゲンヒーターの電源を抜いて、
布団の中に戻って眠りについた。
奇妙な夢を見ていた。巨大な円形劇場の観客席の通路に一人、佇
んでいた。見渡すと、札幌ドームの何倍もの容積の空間であった。
劇場全体は薄暗く、中央の舞台にのみ、スポットライトが当てられ
ていた。観客席を見渡すと、何万人か何十万人か知れないほどの観
衆が、ドームの中に満ちていた。満員の状態の観客席の遥か彼方は、
もう人影すら見えないほど、距離がありすぎて霞んでいるだけであ
った。
おれは中央の丸く小さな舞台のスポットライトに目を凝らした。
なにやら人が立っているようであったが、遠すぎて、何を演じてい
るのか、判らなかった。大観衆は、ざわめくでもなく、歓声を上げ
るでもなく、拍手するでもなく、ただスポットライトの中の人物を
暗がりの中から見ているようだった。
気がつくと、大観衆が一瞬にして消えて、ドームの観客席には誰
もいなくなっていた。静けさが漂った。そうしてまた、ぱっと、あ
らわれて、何事も無かったように、観劇をつづけていた。おれは何
の感慨も無く、ただ、瞬く間に消えたり、現れたりする大群衆を見
ていた。おれは通路を中心の舞台へと、歩いて、下り始めた。何が
演じられているのか、確認したかった。通路を歩いて行くにつれて、
舞台の上の様子が鮮明になっていく。円形の舞台の上で、大雪の中
を、背中を丸めて、誰かが歩いていた。さらに近づいて目を凝らし
た。猛吹雪の中をドカジャン姿で、冷気に顔をゆがめ、体を折り曲
げるようにして歩いている、おれ自身の姿であった。そこで夢から
覚めた。
夜が明けかけていた。大広間の道具類の間にぼんやりとした光が
澱んでいた。広間からは薬缶の湯が沸いている音が、かすかに聞こ
えてきていた。布団から半身を起こした。卓袱台を無造作に引き寄
せ、虚無僧から、もらった「病者の祈り」の皺の寄った真っ青な紙
に見入った。「病者の祈り」を、繰り返し繰り返し、読んだ。虚無
僧、翻訳の詩を、夜が明けきるまで眺めていた。
「本当の自分自身って、なんだ?」
同じ言葉を繰り返していた。
健太を揺り起こして、カップラーメンに納豆と生卵を入れて、昨
夜と同じ朝飯を食べ始めた。財布の中身を確認した。今日、カロー
ラにガソリンを入れて、現場で健太にパンでも食わしたら、数百円
しか残らない金額だった。あと数日で給料日だった。それまで、こ
の数百円で、なんとか凌がねばならなかった。給料が入ったところ
で、サラ金への支払いを済ませたら、ほとんど無くなってしまう。
「健太、服着ろ。今日の現場は、早いんだぞォ」
「ママ?」
「夜、会える。きっと会える」
おれはドカジャンを羽織った。健太のヤッケのチャックを上げた。
小屋を出て、カローラのエンジンをかけた。気がついて、小屋に
戻り、台所の流しにバケツを置いて、薄く水を張った。薬缶のお湯
をバケツに注ぎ込んで、頃合いの温度にした。手を伸ばし、天井の
物干しの針金から日本手ぬぐいを取って、バケツの湯に浸して、ぎ
ゅうっと固く絞った。
日本手ぬぐいで健太の顔を拭いて、歯も、ぎゅっ、ぎゅっ、と磨
いた。おれも同じように、顔を拭いて、歯茎や歯の裏まで布ごしに
中指を器用に使って、磨いた。もう二人とも、しばらく風呂に入っ
ていなかった。
カローラの助手席の子供用の椅子に、健太を坐らせた。車は平和
霊園を抜けて、福井から盤渓の山の中に入った。目的地は昨日から
オープンした真駒内の玩具屋であった。アイスアリーナを左手に、
車を走らせた。ほどなく、現場に着いた。三階建ての建物の駐車場
に車を停めた。
「すぐ戻る」
と健太に言って、滑り止めのついた軍手を履いて、車から降りた。
備え付けのタラップで屋上まで上り、網を掛けて青い正方形のテン
トの上に据え置かれてある、赤と青のアドバルーンの様々なロープ
を手慣れた仕草でほどいていった。
アドバルーン全体に掛かっている固定するための止め網は、四隅
をそれぞれ、屋上の床に張り巡らせてある土台のタイガーロープに
固定させている。網の四隅のうちの一カ所だけほどいてやると、直
径ニメートルほどあるアドバルーンは、自らの浮力で、くるくると
回転しながら、止め網をはだけた。アドバルーンの根元をタイガー
ロープからほどき、ロープに看板を取り付けて、するすると空に上
げると、出来上がりである。
おれはこの仕事を、大学一年から卒業するまでつづけた。単純な
ようだが、奥の深い仕事だった。消防条例でアドバルーンには、必
ず見張りがついていなければいけない決まりになっていた。
作業を終えると、カローラに戻り、車の中から空を見上げた。赤
玉と青玉が、高く綺麗に空に上がっていた。赤玉には、にっこり笑
っている女の子の顔が、バルーンいっぱいに描かれていた。青玉に
は、表情のない男の子の顔が、同じように描かれていた。二本のバ
ルーンにはそれぞれ、「オープン おもちゃ館」と縦に看板が付い
ていた。
「なんで男の子の顔も、にっこりさせなかったのだろう」
親方らしくない仕事ぶりを訝しく思い、おれは平和の小屋で、親
方に訊いた。親方は背中をこちらに向けて作業しながら、肩だけで、
くっくっと笑って、
「健太をモデルにしたからだ。笑わせるの、忘れちまった」
「…………」
「母親の恋しい年頃なのだから、早く捜してやらないとな」
健太の顔をモデルにしたという男の子の顔の絵は、無表情なとこ
ろ以外、決して健太に似ていなかった。小学校低学年の年頃に見え
た。顔つきは無表情というより、極めて虚ろで、
「僕はどうして、ここで浮いているのだろう?」
そんな戸惑いの表情であった。困っているわけでは無いのだけれ
ど、ここにいる意味も解らない……。焦点の若干ぶれた両眼からは、
そんな気持ちも見て取れた。感情が無い。突風に打たれても雪に吹
かれても、何のことか解からない。おれは青玉の男の子に、言い知
れない滑稽さと哀しみを感じた。そうして、自分もまた、感情を鈍
摩させ、無表情な生き方をしてきた人間に違いないと思った。泣い
ても笑っても、怒ってみても、それらは所詮、ふりをしているだけ
で、その場その場に応じて、喜怒哀楽の仮面を使い分けてきただけ
の四十年間だったのではないか。そうして、妻もまた、赤玉のアド
バルーンに描かれた女の子のように、はっきりと自分の役割を認識
しているように見せながら、その実、誰に対しても最適な自分を演
じてきただけの、空虚な半生だったのではなかったろうか。アドバ
ルーンと同じように、中身は空っぽで、風に流されてきただけの人
間であったような気がしてならなかった。
昔、そんな二人は恋に落ちた。
昭和六十年の五月、おれは大学三年生だった。
おれの通っていた大学と同じ敷地内には、普通科の男子高校と、
商業科の男子高校があった。大学も含め、どれも同じ学法人が経営
する学園であった。普通科の男子高校は、北海道の私学では最も歴
史が古く、多くの著名人を排出してきたらしかった。そんな著名人
の一人の彫刻家の作品が、母校の創立百周年にあわせ、生徒通用口
の横に設置されるという噂を聞いて、物見遊山で当時のおれは、大
学のキャンパスを抜け出して、除幕式を見物に行った。
晴天だった。
高校の正面の広場には学ラン姿の男子生徒ばかりが、千人以上、
整列していた。ブラスバンドのファンファーレに続いて、数人の手
によって除幕が行われた。見事なブロンス像が現れた。青年の裸体
像であった。校長の挨拶などから、それは「わだつみ像」と呼ばれ
る作品であることが解った。
「男の人ばっかり」
振り向くと、中学生らしい女の子が、制服姿で、横にいる七十過
ぎの無骨な老人に話しかけていた。
「怖いよ、爺ちゃん」
「お前が来年入るのはこの高校じゃねえ。隣の商業高校だァ」
「来年から、共学になるのでしょ」
「共学の一期生になるんだァ」
「女の子、たくさん入学するわよね。女の子、私だけならどうし
よう」
「そんなら、モテモテじゃねえか」
おれは思わず笑ってしまって、「大丈夫ですよ」と話しかけてい
た。「商業は愛校心の強い卒業生が多いですから、卒業生の娘さん
達だけでも、相当、願書を出すらしいですよ」
「本当ですかァ? 良かったァ」
彼女は胸に手を当てて、溜め息をついた。彼女の瞳は不思議な色
をしていた。深い青色で、よくよくみると緑色にも見えた。海藻の
透けてみえる、海の色を連想させた。日本人にしては、彫りの深い
顔だちで、髪の色は深い茶色だった。
「どちらからいらしたのですか」
とおれは小柄な老人に訊いた。
「天売島さァ。俺はそこでタコ漁やっとる。タコ、いいよォ」
「ホテルでしょう。天売島で一番大きなホテル。『ホテル第一』よ
ろしくお願いしまァす」
と彼女は、にっこり笑ってお辞儀をした。
「旅館はカカアに任してるんだ」
校長の話が続いていた。わだつみ像は学徒出陣で戦死した青年達
の慰霊の為に造られた像である旨の説明があった。そうして、
「死んでいった若者達の本来あるべき姿を表現しております」
と言って、演壇を降りた。
それにしても本当に逞しくも綺麗なブロンス像であった。拳を肩
の高さまで振り上げていた。短い髪にはウェーブが、かかっている。
聡明で男らしい顔つきと筋肉の程よく付いた首、肩、胸……。そう
して、よく締まったウエストと腹筋。背中から腰、臀部、太ももに
かけて、綺麗なエス字を描いており、高い位置から伸びている足は、
爪先に向って、緊張感を孕んだ柔軟で美しい流れを描いていた。
応援団の奇声と不気味な踊りにつづいて、全校生徒が校歌を歌い
始めた。千人以上の詰襟の学生服姿が、一定のテンポで右腕をまっ
すぐに、斜め頭上に振り上げて、それを振り下ろし、また振り上げ
て……。一種、異様な光景であった。
「やっぱり怖いよ。なんか普通と違うよ、この学校」
「だから、お前の入るのは、隣の商業だってば」
「商業も、良い高校ですよ」
思わず微笑みかけてしまった。除幕式が終わって、生徒達は校舎
の中に引き上げて行った。おれも大学の校舎に戻ろうとして、歩き
始めた。後ろから肩を叩かれた。振り返ると、さっきの老人と女の
子が立っていた。
「学生食堂に案内してくれんべか。飯、奢るよ」
と老人が言った。
「もちろん」
なぜかおれはこの老人と、頼りなげにキョロキョロと周囲の様子
を窺っている女の子が気に入って、学食に着くまで学園全体を案内
して廻った。大学の校舎に入ると、女の子は辺りを見渡して、
「いやだ、大学生まで男ばっかり」
と嘆息を漏らした。学食では、名物のザンギ定食を勧めた。
「これが一番、安くて美味いんです」
二人は喜んで食べてくれた。
「ここの学食は、学園の高校生ならば、割引があるんですよ」
「当然だわね」
老人が頷いた。おれは女の子に年齢を尋ねた。
「十四歳です。でも、もうすぐ十五歳」
「お兄さんは?」
「二十一歳になったばっかりだよ」
「俺は七十五歳だァ。もうすぐ七十六歳」
「爺ちゃんに、訊いてないってば」
「どうして、お孫さんをこの学園の商業に入れる気になったんです
か」
老人は淡々と話し始めた。
「昔、復員して、天売で商売始めたんだが……。しくじって、借金
まみれになった。島から逃げ出して、札幌を徘徊していたのさ。し
たら、狸小路で、ここの商業の先生が、台に乗って演説しとった。
立派な先生だったね。人間の生きる道を話していた。クリスチャン
だった。入れ墨とか半纏にまで、兄貴とか、先生とか呼ばれとった。
俺は、落ち込んでいたから毎回、話しを聴きに行ったよ。あの先生
の勤めていた学校なら、間違いないと思った」
それに、と老人は味噌汁を飲み干してから、「これからの若いも
んは、井の中の蛙じゃだめだ。一度くらいは本島に暮らしてみない
とな」
おれは本島という言葉にびっくりして、北海道もまた、大きな島
に他ならない事実を、再確認させられた。
学園を出て、平岸街道でタクシーを拾った二人に、頭を下げて食
事の礼を言った。女の子には、
「来年、待っているからね」
と言って、別れを告げた。走り始めた車の窓を開け、老人は身を
乗り出すと、
「天売島に来いや。これからの季節なら、エビ、腹一杯くわせてや
っからなァ」
と嗄れた声で叫んでいた。
それから夏がきて、秋と冬が通り過ていった。おれは将来の進路
を決められないまま、大学にはろくに行かず、アドバルーンの見張
りのアルバイトばかりやりながら、四年生の春を迎えた。
四月、残雪の残る高校のグラウンドを横目に、昼飯を食う為、学
園生協の建物に入った。ロビーでは、学食の入り口あたりに、紺の
ブレザーを着た女子高生が五、六人、不安気に佇んでいた。おれは
女子高生の制服姿にギョッとした。周囲の男子学生にじろじろと観
察されて、それらの視線に戸惑っているようでもあった。その女子
高生の中に、背の高い少女を見つけて、声をかけた。
「ずいぶん、おがったなァ」
「お兄さん」
少女はおれを忘れては、いないようであった。小走りに歩み寄っ
て来て、笑顔を見せた。彼女は、たった一年間で、すっかり子供か
ら美しい娘に変貌を遂げていた。
「爺ちゃんにタコと魚ばかり食べさせられたからね」
「何センチ?」
「百六十五センチ」といった後、「プラス三センチ」ペロリと舌を
出して照れくさそうに俯いて、「それが去年の秋の身長で、またニ
センチ伸びちゃった」
と言って恥ずかしそうに、おれを見上げた。紺のブレザーに可愛
いらしい赤いリボンのネクタイがよく似合っていた。グレーのチェ
ックスカートから伸びている足が、細く長く、可憐であった。去年
会った時より髪の毛の色が黒くなっていた。それをポニーテールに
し、前髪を、濃く長い形のいい眉毛にかかる辺りまで垂らしていた。
おれの視線に気づいて、髪に片手をあてがい、
「入学早々、髪の毛を茶色く染めているクラスメートの男子が体育
の先生に呼び出されて、バリカンで丸坊主にされたの。私も坊主に
されるかと不安になって、変な話だけど私は逆に茶色から黒に染め
たのよ」
「髪、痛めるぞ」
それには答えず、彼女は振り向くと、仲間の女子高生を呼び寄せ
た。
「みんなで食券売り場にいったら、割引出来ないって言われたのよ。
お兄さん嘘つきね」
「高校生は校内の購買で券を買わないと、安くならないんだよ」
おれは女子高生の集団を引き連れて、学食に入った。食券売り場
のおばさんに組合員証を見せた。
「全部おれが食べるから」
と連れの集団に視線を向けた。おばさんは苦笑いして、注文を聞
いて、一人一人に食券を渡してくれた。みんなで席について、食事
を始めた。少女達の雰囲気と笑い声が、男子学生ばかりのホールの
中で、そこだけ、異質な華やぎを形成していた。天売の少女は、み
んなから「オンちゃん」と呼ばれていた。
地元出身の生徒たちに対抗して、天売島やオロロン鳥の自慢話ばか
りするので、最初、「オロリン」と呼ばれていて、それがいつの間
にか「オン」と省略され、「オンちゃん」になったということらし
かった。オンちゃんは、ザンギ定食を食べていた。
「ここの名物なの」と知ったかぶりをして、「一番安くて美味しい
の」と意味ありげに瞬きをしてみせた。「今日はみんなで、学食に
デビューというわけさ」
「友達ができて、よかったな」
おれは食事を終えると、講義の準備があるからと言って、
「ごゆっくり」
と彼女たちに手を振って学食を後にした。講義を終えて、一号館
の学生ロビーで掲示板をしばらく確認してから建物を出た。外は、
小雨が降り始めていた。わだつみ像の前で、立ち尽くしている少女
がいた。
「オンちゃん」
ブロンズ像を見上げている少女がゆっくりこちらを向いた。雨に
濡れた前髪が色白の額にはりついていた。
「人間の本来あるべき姿って、何なのかしら」
おれも去年の校長の言葉を思い出していた。「若者の本来あるべ
き姿」を「人間の本来あるべき姿」と置きかえて言っているのが印
象的であった。
「その言葉、よく覚えていたな」
「爺ちゃん、戦争で死んだの」
「天売の爺ちゃんは、父方? 母方?」
「血は繋がっていないわ。天売の爺ちゃんは、戦争で死んだ実の爺
ちゃんの戦友よ。私、小学生の頃、天売島の爺ちゃんに引き取られ
たの」
「天売島の出身じゃないんだ」
「生まれは平取」
「バイトの移動で通ったこと、あったかな…。名所か何かある?」
すると彼女は、胸を張って、毅然とした口調で挑むように言った。
「二風谷があります」
「にぶたに?」
そんなことも知らないのかと呆れた表情に変わり、
「誇り高い土地です」
「ごめん、さっぱりわからん」
オンちゃんは拍子ぬけしたように肩を落として、雨の中、商業高
校の方向へと、足早に駆けて行った。
大学には、アドバルーンのバイトが休みの日だけ、時々顔を出す
生活がつづいた。夏になり、母を見舞いに行った後、おれは籍だけ
置いている大学の剣道部の部室を訪れた。ポケットから封筒を出し
て、窓際のソファーに座っている四年生の集団に歩み寄り、部長に
差し出した。
「退部届?」
部長は封筒を受け取り、中を確認すると、
「今まで無理を言ってすまなかった。試合の時だけ利用して」
と詫びて、深々と頭を下げた。
母の病状がいよいよ切迫しつつあり、また、アルバイトに明け暮
れなければ学費すら捻出できない窮状を、部長はよく理解してくれ
ていた。
「お前にこれ以上、試合で無様な思いはさせたくなかったんだ」
「稽古、さぼってばかりだった。迷惑かけた。申し訳ない」
体育会のサークル棟を出ると、七月の太陽が西の空に傾き始めて
いた。建物が学園の広場に幾つか長い影をつくっていた。影の中で
警備員が伸びをしていた。おれは、飯を食っていなかったことに気
がついて、学食に向かった。途中、思い立って、商業高校の裏手の
定食屋へと進路を変えた。「一平」は老夫婦が切り盛りする、古び
た食堂であった。耐用年数をとっくに過ぎている木造二階建てを、
騙し騙し、使い込んでいる様子の店であった。
暖簾をくぐり、窓際のテーブルの席に坐った。客はおれ一人だっ
た。窓の外から、ギターの弦を爪弾く音が聞こえてきた。網戸越し
に見た。商業の寮の裏庭で、オンちゃんが、少し前まで高校で使わ
れていたであろう木製の勉強机にすわり、倒れた椅子に組んだ足の
片方のスニーカーを置いて、膝に載せたフォークギターを演奏しな
がら歌い始めていた。透き通った音色でありながら、腹式呼吸のよ
く出来ている、歌声であった。抑揚の少ない曲を、子守歌を歌うよ
うにゆっくりゆっくりと囁くみたいに発声していた。
天地を包む雪の色
その寂寞の冬去りて
緑の大野見るごとく
暗より明けし北海の
空光明のおとずれよ
まるでそのまま、彼女自身が詩の中の風景におかれたような歌い
方だった。彼女の目線は確かに、闇から明けたばかりの厳しい北の
海を見渡していた。おれは網戸を開き、
「オンちゃん」
「お兄さん」
オンちゃんはギターを勉強机に立てかけるや、組んでいた足を跳
ね上げて、こちらに飛んで来た。
「隣の男子校の体育館から、しょっちゅう聞こえてくるのよ。校歌
らしいんだけど、もういい加減おぼえちゃった」
「野郎の声でしか聴いたことなかった。女の子が歌うと、ぜんぜん
雰囲気が違う。実際より、かなりスローテンポだった。聴き惚れて
いたよ」
「去年、初めて聴いた時は、恐ろしさばかりだったけど、こんなに
いい詞だとは思わなかった。信じられる? この歌うたう時、私、
本当に天売島の断崖に立っているのよ」
おれはカツ丼を喉に掻き込み、
「どうしてそんなに歌うまい?」
彼女は遠ざかりながら、声だけで、「爺ちゃんがね……」
足音に続き、自転車をこぐ音が聞こえた。オンちゃんは自転車に
乗ったまま暖簾をくぐり抜け、自転車の前輪を店の中まで侵入させ
て来た。
「天売の爺ちゃんがね、江差追分の名人なのよ。私も爺ちゃんから
習っていたの」
たしなめる店主の言葉に頭を下げながら、自転車を後退させて、
外に停車した。店の中に入ってくるなり、テーブルの向かいの席に
坐って、
「私のランボルギーニで飛ばしてみない?」
「だんだん、男の子じみてきたなァ。卒業する頃には、口髭たくわ
えてるんでないかい?」
老夫婦が店の奥で笑っていた。
どうしても自分がペダルを踏むというオンちゃんを遮って、おれ
はランボルギーニを疾駆させた。荷台にまたがるオンちゃんは、お
れの肩を何度も叩いて、
「もっと飛ばしてよォ」
オンちゃんの大声が、風で切れ切れになって聞こえてきた。中島
公園の方角に、真っ赤なアドバルーンが上がっていた。
おれはアドバルーンを見るや、
「あれはうちのアドバルーンだよ」
「わかるの」
「上げ方でわかる」
「さすが職人」
中島公園では、何かのイベントが行われていた。看板をつけたワ
ゴン車を先頭に、何十人かの若い男女が列を作って、笑顔で練り歩
いていた。アドバルーンに近づいて行くと、案の定、広場にタイガ
ーロープを張り巡らしたテントの上で、親方が胡坐をかいている後
ろ姿が見えてきた。オンちゃんは赤玉を見上げて、アドバルーンの
長さを調節し始めた親方に向かって、
「おじさん、風船と一緒に飛んでかないでよォ!」
と、叫んだ。
赤玉が風に吹かれて、ゆっくりと回転しながら、こちらを向いた。
アドバルーンに笑顔の女の子の顔が現れていた。女の子は、上空を
斜めに流されながらも、あくまで笑顔で、男の子の方向を見て楽し
そうに微笑んでいた。
「風、出てきたな」
助手席では、健太が腹に両手をあてがっていた。小さな爪の先が
黒く汚れていた。目線で、
「お腹すいた」
と合図していた。
駐車場は混雑していた。おれは車と車の間を縫って、タラップに
手をかけた。青玉の上げロープを手繰り寄せて、アドバルーンの高
度を半分ほどまで下げた。赤玉も青玉に合わせて高さを調整した。
電線やアンテナ、隣のマンションの避雷針……。アドバルーンは風
に吹かれて傾くと、様々な障害物に引っかかる危険があった。
カローラに戻った。健太を連れて、近くのコンビニまで歩いて行
った。すれ違いに小学生の集団が駆けて行った。雪道を蹴る長靴の
音が幾つも、きゅっ、きゅっと耳に残った。
食パンを一袋だけ買って、車に戻った。後部座席のシートに置い
てあるカップラーメンや缶コーヒーのたくさん入っているダンボー
ルから、ジョージアだけ、二本取り出した。健太は食パンに白く小
さな歯をあてていた。ジョージアを渡した。
男の子と女の子のアドバルーンは、風の中を前のめりに空中を疾
走していた。男の子は女の子に誘われるままに、意味もわからず走
っているみたいであった。男の子の顎の下についている「オープン
……」の赤い文字が、こちらから見ると裏返しであった。女の子は、
男の子の、きょとんとした態度に業を煮やして、くるりと、あちら
側にそっぽを向いてしまった。女の子はただの赤いアドバルーンと
なった。




