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数年前に同サイトで総合1位になった作品です。

    一  


街が凍りついていた。

編み笠姿の虚無僧が、アカシア通りを右に折れて、ススキノ通り

のネオンの光の中を歩いていた。

その肩越しに、いつものように背中を丸めて客引きをしている顔

見知りの姿があった。粉雪に紛れ、輪郭だけ遠くに見えていた。も

うすぐ四歳になるのにママとパパ以外、ほとんど話せない健太が周

囲を頼りなげに眺めていた。

路面はブラックアイスバーンだった。冷気が霞のようになって、

うねるように路面を這っていた。黒い水面を煙が漂っているようだ

った。足元の霞を掻き分けておれたちはゆっくりと歩いた。熊の縫

いぐるみばかりが何十体も並んでいるゲームセンターのショーウイ

ンドウの前でしばらく佇んだ。そのガラスにボサボサ頭で無精髭の

伸びきったドカジャン姿の男が色白の子供の手を取り、立っている

姿が映っていた。体格のいい中年男だった。この男は、間もなく死

ぬらしかった。悪性の脳腫瘍で、医師から余命を告げられていた。

再び健太の手を取って二人で漂うように歩き始めた。

粉雪が夜の闇から降りてきていた。ロードヒーティングの入って

いる回転寿司の前の路面の上方では暖気で舞い上がっていく雪と落

ちてくる雪が絡み合って幾つもの白く光る雪の環をつくっていた。

回転寿司の看板についているスポットライトが、くるくると回る幾

つもの環の運動をいっそう白く浮き立たせていた。その向こうに空

は見えない。遠くのビルは影絵のようにぼんやりと見えた。電飾版

の灯りも、ぼうっと霞んで、自分の周りだけがリアルな架空の影絵

の街を歩いているような錯覚に陥っていた。影絵の中を互いに手を

繋いだ大きい人間と小さな人間が粉雪の中を歩いていた。

「ママッ?」

突然、健太が叫ぶと、三十前後とおぼしきホステス風の背の高い

女がすれ違いざま健太を見下ろした。健太はヤッケのフードを自分

で外して

「ママッ」

と再び叫んだ。

女は去って行きながら斜めに身をひねって振り向き、左手で桜色

のロングコートの襟を立てながら、右手をその肩先あたりで軽く振

った。コートの裾が割れて、形の良い足が覗いた。

長い指を軽く波打たせながら、健太にバイバイと言っていた。背

が高く目鼻立ちがはっきりしていた。全体に怜悧な印象なのに三日

月の目には愛嬌がこぼれていた。泥臭さは全く無かった。サウナの

灯りに照らされ、何度も振り向く健太に同じ姿勢で指を動かしつづ

けていた。

おれは嫌がる健太の手を引いて歩き始めた。振り返ると女はまだ

こちらを見ていた。光が当たった女は影絵の中で唯一の艶めいた生

身の人間に見えた。

「本当に綺麗なお姉さんだ。ママにもちょっと似ている。ママ、ど

こにいったのかなァ、早く会えるといいね」

こうした光景の繰り返しがこの一ヶ月であった。気がつくと通行

人の数は増え、周囲が明るくなっていた。大きな通りに出ていた。

「よっ、ぞうさん」

さっきの中年の客引きが背中を丸め白い息を吐いて近付づいて来

た。太ったヒキガエルといった印象のパンチパーマの男だった。顔

中に隈と染みが幾つもできていた。話す時、腹を突き出して、両手

を垂らして腕をぶらぶらと揺らす癖があった。

「奥さん、見つかったかい?」

「それが、ぜんぜんなんだわ。手がかりもつかめないよ」

「写真みせてんだべ?」

「これな」

ドカジャンの胸ポケットからサランラップに包んだ写真を取り出

した。

「商売人で親切なのはあんたぐらいだァ。みんな余裕ないのかな」

「ひでェ不景気でな。殺気だってるのよ」

「随分前からだろ」

「ひと頃の半分も稼げないィ」と語尾を伸ばした。下を向いて手袋

を履いた両手をぶらぶらさせている。「そう、そう」ヒキガエルは

黒い革ジャンのポケットから、印刷物を取り出した。「若い奴にイ

ンターネットで調べさせたんだぜ。凄腕の脳外科の医者がアメリカ

から帰って来て、今、札幌の病院にいるみたいだぞ」

ヒキガエルから貰った紙にちらっと目をやった。「ミラクルハン

ド」という文字だけを見て、

「心配してくれてありがとう」

と礼を言った。

「さて」

ヒキガエルは健太の頭をゴツゴツした手で撫でると、「はいお兄

さん、今日のエッチのご予定は?」と二人組の若い男達に声をかけ

ていた。

「無駄なんだ」

そう呟いてヒキガエルから貰った紙切れをろくに見ないで丸めて

ゴミ箱に捨てた。

ススキノの街で失踪した妻を探し始めた頃、しつこく妻の写真を

見せるおれに、若い客引きが業を煮やして、

「子連れの浮浪者のとこなんかに、誰が戻ってくるかよ」

と言った。

おれは浮浪者という言葉に反応して、髪の毛を鷲づかみにして、

引きずり倒した。手首をつかみ、腕を後ろにねじ上げ、

「浮浪者じゃない」

と尻を蹴って突き飛ばした。客引きは数メートル走って雪の中に

倒れた。しばらくして、同じ客引きが仲間を四、五人連れてあらわ

れた。別の若い男の、拳が飛んできた。鼻に当たらないように顔を

ずらして拳を黙って頬に受けながら、

「あっちに行ってろ」

と健太に言って、何か棒きれのようなものを探した。道端に何も

見つからないので、

「言っておくが、おれは空手五段だぞォ」

と嘘をついた。数人が殴りかかってきた時、

「警察だあッ!」

と誰かが叫びながら走り寄って来た。ヒキガエルであった。

「嘘、うそ、警察うそ」と笑いながら白い息を吐いた。「どうした

のよ」

「この子連れの汚い浮浪者が……」

と若い男が言った途端、ヒキガエルは男の頭を軽く叩いて、健太

を手招きした。

「もう大丈夫だ。父ちゃん強いから」

 ヒキガエルは健太を抱き上げて、

「客との喧嘩は金輪際……、お前らも言われてるべや」

 若い客引き達はヒキガエルに黙礼するとそそくさと去って行った。

「助かった。ありがとう」

「おうっ」

と腹を突き出して、両手を垂らして腕をぶらぶらと揺らし、意味

あり気に笑って消えていった。それから数日後、観光客風の一団に

囲まれているヒキガエルを見つけた。

「信用して、お前の案内した店に行ったら、酷い目にあったんだぞ」

 おれは観光客の中に分け入って、怒鳴った。みんな驚いてこちら

を見た。

「そうだ、こいつだ! この野郎、なけなしの金、まきあげやがっ

てェ。交番に突き出してやる」おれはヒキガエルの腕を強引につか

んで観光客の集団から離した。「こっちに来い」と蹴りを入れてい

るように見せながら、足早に引きずった。ヒキガエルの耳元で「逃

げろ」と囁いた。

ヒキガエルはおれの手を力一杯振りほどくふりをしながら、走っ

て路地へと消えて行った。

それから、何かにつけてヒキガエルは親切にしてくれるようにな

っていた。今日も、わざわざ脳腫瘍に関する情報をプリントして持

って来てくれた。その気持ちはありがたかった。

「おおい、ぞうさん」

ヒキガエルは客引きに失敗したのだろう、交差点の反対側から道

路を挟んでこちらに手を振っていた。

「写真コピーしておけや。仲間に配ってやるからよ」

ふいに、大きな白い鳥が舞い降りてきて、おれとヒキガエルの間

を走る車のすれすれを、飛んだ。そして舞い上がり闇の中に消えた。

「カモメ?」おれは訝しげに呟きながらも、ヒキガエルに向かって

大声で、「ありがとう」と言った。

ヒキガエルはまた軽く手を振って観光客風の一団を見つけると追

いかけて去って行った。

二ヶ月程前、妻が失踪してしばらく経った頃、会社の健康診断で、

医師に寝起きの頭痛が酷いと訴えた。他にも色々と質問され、脳の

画像検査を勧められた。間もなくMRIを含む精密検査が行われた。

悪性の脳腫瘍であった。腫瘍の大きさや、周囲の組織に染み込む

ように広がっている様子などを画像で見せられた。手術は不可能で

あり、抗がん剤の投与や放射線治療を勧められたが、治療というよ

り進行させないようにするだけのものだった。命は持って三ヶ月と

医師は淡々と告げた。

「どうせ無駄なんでしょ?」

と言って説明をつづける医師の話の腰を折り、席を立った。今で

も到底自分に起こっている事態とは認め難い。だがそれは現実らし

かった。

おれは既に両親を亡くし、妻と健太の他に身内はいなかった。一

年半程前に立ち行かなくなった不動産仲介業を廃業して、すぐに小

さな不動産会社に就職した。自分名義、妻名義の消費者金融の借金

を整理出来ぬまま、逃げ込むように勤め人に戻った。妻も近所のス

ーパーでレジの仕事を見つけ、健太にも無認可だが良心的な託児所

が見つかり、一家は再出発をきるかに見えた。親子三人、月に一度

はファミリーレストランで食事する余裕ができ、テーブルには永ら

く絶えていた家族の笑顔が戻った。

そんなある日、おれはファミリーレストランでの食事を終えると

コーヒー片手に妻に言った。

「弁護士を入れて整理しよう。あいつらの金利はべらぼう過ぎる」

妻は弁護士という言葉にビクッと反応して、健太の口に運んでい

たスプーンの動きを止めた。身体をすぼめておれを下から覗き込み、

「弁護士って高いっしょ。ブラックリストにも載るんでしょ? 払

えて無いわけじゃないんだから、もうちょっと頑張ってみようよ」

「払えているのは金利だけだが……」

おれ自体、毎日の督促に疲れきっていた。前向きな行動に出よう

とする命の力すら、萎えてしまいつつあったのである。いわゆる闇

金融に妻が手を出してしまったのを知ったのは妻の失踪後であった。

十日で二割も金利のつく業者からの督促は苛烈であった。サラキン

の金利すら払いきれなくなって妻は金利を払うためにだけ、馬鹿げ

た利率の業者に金を借り、そうして消えた。

――ごめんなさい。逃げるわけでは無いけれどこのままじゃ、ど

うしようも無いから……。少し時間を下さい。必ず連絡します。

急いだのだろうか、チラシの裏紙にバランス悪く文字が乱暴に並

んでいた。それが居間のテーブルに、そっと置かれておれの帰りを

待っていた。

気がつくと、コンビニエンストアの店内の明かりが歩道を照らし

ていた。十代後半の男女が街路樹にもたれかかり、身を寄せ合って

いた。髪を金色に染めた少年が少女の髪を撫でていた。少女の目は

麻薬患者の如く落ち窪み、頬はこけ、虚ろな目線は自分の吐く煙草

の煙と反対の方向を向いていた。手前では裏表同じ模様の看板の棒

を両手で持った男が寒そうに足踏みしていた。

前方からやってくる通行人の彩色は徐々に強さをまして、ストア

の前に生気に満ちた人間の集団があられては、過ぎて行った。人通

りが多いから今日は土曜日であろうか。そんなことも思い出せなく

なっている自分を哀しく思った。光はそこだけ現実的な空間を作り

出して、粉雪の白、コートの黒、青、赤、緑……、笑い声などを鮮

明にした。自分もまた、こうした光の壁をくぐり抜けては、今夜も

また、あてなく妻を探し回らなければならない。健太を抱き寄せて、

フードの顎紐を結び直した。無表情に足踏みする男の看板には大き

く「カジノ」と書かれており、細かい宣伝文句が並んでいた。文字

の背後には様々な色を刷毛で乱雑に交錯させただけの模様が描かれ

ていた。

「大変ですね、立ちっぱなしで…」

カジノの男は軽く頷いただけで何も言わなかった。おれは手のひ

らにハァッと息を吹きかけて健太の頬に当てた。

「ぞうさん……」

健太がおれの口に手を当てた。歌ってくれとの合図であった。健

太の手を取りゆっくりと歩きながら、周囲をはばかること無く歌い

始めた。


ぞうさん

ぞうさん

おはなが ながいのね

そうよ

かあさんも ながいのよ


サラリーマンの一団がびっくりしたように道を開けた。ロビンソ

ン百貨店前の交差点を渡り、おれは駅前通りを南下することにした。

「悪いんだけど」

美松ビルを過ぎた辺りで若い客引きに声をかけた。サランラップ

の写真を差し出して、

「この女、見たことあったら教えて欲しい」

全くの無視だった。商売しか眼中に無いらしい。ひところの客引

きはカモにならない人間にも道を教えてくれる程度の親切心はあっ

たように思う。歩き慣れたこの街が、どこにも行き場のない殺伐と

した景観へと変わっていく。それは街が変わったのか、こちらの心

が変わってしまったためなのか。きっと両方なのだろう。

ドラックストアの前で健太を抱き上げた。いつの間にか、健太は

笑わない子になってしまった。世間の四歳児はどれくらい話せるも

のなのだろう。焦点のずれた視線から、障害という言葉が連想され

た。いつか、ちゃんとした医者に診てもらわねばなるまい。それが

いつか。少なくとも妻を見つけ出して健太を託す前でなければなら

ない。

「いつかは、無いのかもしれない」

健太の頬に唇をあてて口に出して呟いてみた。胸の芯が痛んだ。

「喧嘩だァ」

ヒャッホーと喚きながら、酔っぱらいの集団が南方向へと駈けて

行った。雪煙がうねった。足音が耳に残った。その後ろから数人が

足早に過ぎて行った。一人が真うしろに転んで、

「いってェ!」

と呻いた。

東宝公楽会館を過ぎ、ゼロ番地に差しかかる交差点を囲んで人だ

かりが出来始めていた。交差点の中心には改造された黒いスカイラ

インが斜めに停車されていた。外国人三人と金髪の日本人一人が、

パンチパーマの太った中年男と向かい合っていた。中年男はヒキガ

エルであった。

ヒキガエルは左眼を腫れ上がらせていた。ジャンパーをたくし上

げ、ズボンをまさぐり、どこかから短刀を取り出すと鞘を投げた。

腰を引いて、両手で前にかざした。微かに青みを帯びた雪煙が、彼

等の足元を走り抜けていく。痩せた黒人が雪煙を飛び越えてジャン

プした。短刀を持つ手を蹴った。上手く着地出来ずに転んだ。残り

の仲間が奇声を上げて笑った。転がってきた短刀を拾い上げたのは

リーダー格の太ったイタリア系の男だった。短刀を持った手でヒキ

ガエルを車の中に入れるよう指図した。小柄だが力の強そうな白人

と金髪の日本人がヒキガエルを引き倒した。罵声を上げる彼の両腕

を二人で片方ずつ持ち、車の方向に滑らせていく。バタバタと暴れ

る足が遠ざかっていく。日本人が滑って尻餅をついた。

これだけの観衆がいるのに拉致されようとしている人間を誰も助

けようとはしない。おれは正義漢ではない。ヒキガエルは親切にし

てくれただけの男だ。腹の底で苦い怒りの束が震えて呻き声となっ

て喉へと漏れた。健太を残して小柄な白人に近づいて行き、

「離さないか」

と彼の腕を強く握った。白人は英語ではないらしい言葉で何やら

叫んだ。おれの胸ぐらをつかんでわけのわからない言葉で威嚇しな

がら歩道に押し返す。そうして……、視界が一瞬、白くなった。凄

い力で殴られた。ススキノ市場の壁に頭をしたたか打ちつけた。白

人は引き返して行く。健太が駆け寄って来て、おれの頬に手を当て

た。

ビルの壁に据え付けられた屋台の饅頭屋があった。店の中が見え

ない程の大量の水蒸気が路外に溢れ出ていた。おれは健太を抱き上

げた。水蒸気の中に入って行き、積み上げられた蒸籠と蒸籠の間に

健太を押し入れて、

「しばらく預かってくれ」

女店員に無理やり健太を抱かせた。「てづくりまんじゅう」と大

きく印字されたのぼり棒をコンクリートの土台から抜いた。先端は

弱い作りだが根元は太く、両端にプラスチックの蓋がついているの

を確認した。ヒキガエルは袋叩きにあっていた。

「馬鹿野郎!」

倒されながらも、車のタイヤを蹴って拉致されまいと、懸命に抵

抗していた。バカヤロウの前後に混ざっている言葉が聞き取れず、

動物の吠え声に聞こえた。イタリア系が短刀をヒキガエルの顔の上

で、軽く振りながら何か言っていた。おれは真っ直ぐに近づいて行

き、のぼり棒の先端を上段から、短刀を持つ手に軽く振り落とした。

イタリア系は短刀を落とさず、

「何だ?」

と顔だけで尋ねながら、こちらを向いた。おれは棒の根元を幾分

手加減しながら、喉にたたき込んだ。イタリア系は首を押さえて後

ずさり、地面に尻をついて、車にもたれかかった。振り向きざまに

のぼり棒を大きく横に振った。残りの三人がのけぞった。白人が左

手でのぼり棒を払う仕草で、正面から殴りかかって来た。同時に黒

人がボクシングの構えで、側面から迫って来た。白人の左手首を棒

の先端で打って、棒を引き戻し背後に回った。こちらを向いた白人

の喉を突いた。片手を喉に当てながら、のぼり旗を握りしめている

白人の髪の毛を鷲づかみにして、顔面に膝を入れた。鼻血を出して

地面でもがいている。黒人の拳がおれの顔面を襲った。もう本当に

気を失いそうになる。ふらついて焦点が合わない。これまでかと観

念した時、

「ぞうさん」

ヒキガエルが黒人の後ろからいざり寄って、抱きついて、太腿を

短刀で刺す構えをしていた。

「ぞうさんか」

両目が腫れてほとんど見えないらしい。切れた唇だけ歪ませて不

気味に笑った。ヒキガエルが本当に足を刺そうとしているのを察し

て目を見開いている黒人の顔を思いきり殴った。膝をついて崩れ折

れた。

「てづくりまんじゅう!」

観衆の中から歓声が響いた。おれはおろおろするだけの金髪の日

本人の髪を鷲づかみにした。卑屈に笑っている癖に目に涙を溜めて

いた。頬を平手打ちして、

「はやく仲間を片付けてェ……消えろ」

五、六人の男が人混みをかき分けて走ってくるなりおれを羽交い

締めにした。殴りかかろうとする男をヒキガエルが制して、

「違うちがう。助けてくれたんだ」

息を切らせて走り寄って来た革ジャンパーが暗号めいた言葉を短

く叫んで、また走り抜けて行った。ヒキガエルの仲間が一斉に散っ

た。のぼり棒を返して健太を抱くおれに、

「こっちに来い」

と、ヒキガエルが招いた。

すすきの市場の裏の細い通りを走った。路地を右に左に折れた。

大きな通りを南に渡った。そうしてまた路地に入って通路を折れた。

「焼き肉」「おでん」「蔵酒」「ジンギスカン」……、様々な赤提

灯や看板の並ぶ、いっそう狭い通りであった。ヒキガエルは誰も見

ていないと確認するや、

「ついて来い」

蔵酒のあるビルの地下に潜った。「煮込み とみ」と暖簾の掛か

った引き戸を開けると、

「とみさん、ワリィ……」

「今日は子連れかい? 珍しい」

髪の毛を茶色く染めた老婆であった。

「しばらく店、閉めてくれないか」

ヒキガエルは財布から万札を二枚抜き取り、カウンター越しに握

らせた。老婆はいったん外に出てから暖簾を持って戻って来た。鍵

をかけて灯りを消した。豆電球だけになる。

「この時間帯はどうせ、暇だからね」

煙草に火をつけて、煙を吐いた。

「二人して、大分やられたもんだねェ。ダンプカーにでも轢かれた

かい? 座敷に横になった方がいいよ」

小さなカウンターと狭い座敷だけの店であった。ヒキガエルは座

敷に上がるなりテーブルを壁に立てた。上着を脱いで上半身裸にな

った。

「いやあ、肋骨やられたわ」

辛そうに深呼吸する度に突き出た腹の肉が上下にプルプル動いて

いる。手招きしながら、

「あんたの顔も腫れているぞ、ぞうさん、顔をやられたな」

おれの頬、顎を両手でまさぐった。痛みが走った。

「早めに冷やすのがコツだァ」

「おれの名前はぞうさんではないぞォ」

「ぞうさん、歌ってる人だからぞうさんだ」

「あんたはヒキガエルだ」

「ひでえなおい。見たまんまだべや」

座敷に横たわりながら二人とも腹をおさえて笑った。座布団を折

って枕代わりにした。寝たまま、健太のジャンパーと手袋を脱がせ

て、隣に座らせた。薄暗い店内には味噌と生姜の匂いが充満してい

た。

「タオルと洗面器がいるね。待ってなさい」

カウンターで煙草をふかす老婆は七十歳をとうに過ぎているだろ

うか。骨と皮だけなのに頭だけ大きい。皺だらけである。見開かれ

た目ばかりが精気に満ちており、力があった。老いさらばえたドラ

猫。そんな印象を薄灯りと周囲の匂いがいっそう際立たせており、

古くから、この地下に巣くっている妖怪といった風情を醸し出して

いた。

「とみさん、あれで昔は女優だったんだ」

「言わなくていいっての」

嬉しそうに立ち上がり、いたる所にかけてある若い頃の写真の説

明を始めた。

二人に無視されて、

「そうそう、冷やすんだったね」

カウンターの中に戻り、準備を始めた。水を張った洗面器を持っ

て来て、タオルをぎゅうっと絞って、二人の脇腹と顔に当ててくれ

た。

「おにいちゃんにはジュースだね」

と健太に話しかけた。健太は首を横に振った。

「こうやってしばらく横になっていれば楽になる。ポリも消える」

ヒキガエルが言った。

「カミさんの写真出しとけや。本気で捜してやる。もうじき仲間が

来るからよ。コピーでもしてばらまけば」少し間を置き、「二時間

……。本当にススキノで働いているなら、二時間で割り出せる」

「おれは一ヶ月歩きまわった」

「蛇の道はヘビだ。客引きのネットワークをなめるんでないぞ」

「助かる」

「ぞうさん」

「なんだ」

「なんで俺を助けた? 体、張ってよ」

「もう、助からない命なんだ」

「はあっ?」

「医者にも見離されている。どうせ亡くす命なら、人の為にって、

おれみたいなものでも最期が近いとな、……そんな心境にもなるも

のさ。あんたは、生きていけるんだ。命は大切にしろよ」

「ぞうさん」

店の扉を外から叩く音と同時に、暗号めいた早口言葉が聞こえた。

老婆が鍵を開け、ヒキガエルはおれから写真を受け取り、若い男に

短く説明してから、また苦しそうに横たわった。

「少し、寝ろ。俺は寝る」

ほどなく、寝息が聞こえ始めた。

「健太も寝な。パパも寝るから」

と頭を撫でた。夢を見た。幼い頃から繰り返し見ている夢のパタ

ーンであった。

南国だった。青く澄んだ空の下、おれは家族と談笑していた。ホ

テルか何かのバルコニーであった。一部分が海面まで突き出した、

木材で組んだ造りだった。足下には、波打っている海面が見えてい

た。妻も健太も果物を口にしながら、うれしそうに笑っていた。お

れもまた、家族そろっての食事に、うきうきするほど気持ちを踊ら

せていた。ふと下をみると木と木の隙間から海の底に人間が上向き

に沈んでいる姿が見えた。腐乱した女の死体だった。顔は原始人の

ような印象だった。鼻が低く、鼻孔が異常に膨らんでいる。髪の長

い死体であった。不気味に思って、おれは二人を連れて海の上に架

けられた細く長い橋を渡って、その場を去ろうとする。橋を渡れば、

別の街があるような気がした。橋を歩いて行くと前方に大きな蛇が

とぐろを巻いて顔だけこちらを向いて睨んでいた。黒ずんだ嫌らし

い顔をしていた。大きな蛇の周囲には無数の小さな蛇がうねってい

る。おれたちは橋を渡れずに引き返した。

場面は変わり、妻の故郷におれたちはいた。妻は天売島出身だっ

た。天売島は日本海側の小さな島である。幾十万もの海鳥が頭上を

飛び交っていた。夕暮れ時であった。おれたちはウトウの巣穴を避

けながら断崖縁を歩いて行く。気がついたら、妻はいなくなってお

り、おれと健太は、ススキノの街をいつものように、手を繋いで歩

きつづけていた。空だけは相変わらず天売島のままだった。夕暮れ

のススキノの上空に、無限の海鳥が溢れていた。空を覆っていた鳥

達は光を発し始め、夜の空を狂おうしく乱舞した。それがいつの間

にかビルのネオンとひとつになり、海鳥は夜の光となった。

「ぞうさん」

夢から覚めた。老婆がおれを揺り動かしていた。老婆の顔が夢の

中の死体の顔と重なり、思わず息をのんだ。幼い頃から、地下室に

死体を隠して、いつ発見されるかと、びくびくしている夢を繰り返

し見てきた。地下室は、時に地中になったり、屋根裏部屋や海の底

にもなった。死体を隠して戦慄しているパターンは、いつも同じだ

った。おれは一体誰の死体を隠していたのだろう。その自分が今、

死んで逝こうとしている。そして夢の中に出てくる死体イメージと

そっくりな老婆と向かい合っている。これは偶然なのだろうか。

「起きたようだね」

「妙な夢を見た」

「どんな?」

「あんたが出てきた。おばさん、……どうして地下室なんかで店を

やってるんだ」

「地下室? ここは地下の店だけど、地下室なんかじゃないよ」

「悪い、ねぼけてた」

起き上がった。カウンターでは、ヒキガエルが既に起きていて、

若い男と話をしていた。

「随分ぐっすり、ねむっていたな」こちらを向いて笑った。「奥さ

ん、みっかったぞ」

「本当か」

「ここで働いている」座っているおれに紙切れを手渡した。

「女が身を売る店だ」

「売春してるのか」

こちらの眼を真っ直ぐ見つめながら、

「そうだ」

と低く呟いて灰皿に視線を落とした。

カウンターの内側の大きな鉄鍋から、蒸気が天井へと膨れ上がっ

ていた。老婆が換気扇をつけると、蒸気は渦を描いて吸い込まれて

いく。もの静かな店内に換気扇の音だけが、せり上がるように響い

ていた。ヒキガエルの吸う、煙草の煙が目に沁みた。おれは自分の

死、すら受け入れようとはしない人間だ。妻が売春している? 話

としては呑みこめても、怒りの感情も羞恥の念もわいて来なかった。

ただ、想いは換気扇に吸い込まれていく蒸気のように、あてどなく

流れていくばかりだった。健太が寄って来て、横にそうっと坐った。

不思議そうに大量に湯気の上がっている鉄鍋を見つめていた。

「食べるかい」

老婆は鉄鍋の中の煮込みを小ドンブリに浅く盛って、カウンター

越しに差し出した。

おれがドンブリに口を当てて汁を飲み込もうとすると、

「そこまで」と、老婆はドンブリに目を凝らした。「脳腫瘍なんだ

って?」

「もって三ヶ月といわれてやつでェ……」

「死ぬんだね」

「はい」

とみさん、いい加減にせいや、と止めるヒキガエルを制して、

「あたしは、だてに何十年も地下でホルモンを煮込んできたわけで

はないよ。今、あんたが口をつけたドンブリの、ほら、そこ、欠け

ているだろ? あたしが食器をケチって、そんな欠けた碗をつかっ

てると思ってるかい?」

よく見ると確かにドンブリの縁には一箇所、小さく欠けた部分が

あった。おれはそこに、無意識に口をつけて汁を啜ろうとしていた。

「また、とみさんのドンブリ談義だァ。それどころでないべさ」

ヒキガエルが苛立たしげにタバコを灰皿に揉み消した。

いいから、いいからと、なだめながら老婆はつづけた。

「世の中、景気の良い年、悪い年、色々あったけどね、五年、十年

って通ってくれた常連もいてね、そうなりゃアンタ、もう身内みた

いもんよ。仕事のことやら、夫婦仲のこと、ヤバイ話もあったね。

何でも人生相談屋のとみさんさ」

「地下にあるから何でも吐き出しやすかったんだろう」

ヒキガエルがぽつんと言った。

「長い間には成功した人もいたし、反対に運に見離されて落ちてっ

た人もいた。高慢で意地悪な人間は、いっとき成功しても長続きし

ない。あたしは悟ったね。人間の根性ちゅうか、心、ハートが善い

か悪いかで人生つくられていくってね。あたしは、お客さんに教え

られたね」

「とみさん、どんぶりの話はどうした」

ヒキガエルを見る老婆の眼が光った。

「例えば商売も健康も何もかもうまくいっていて本人もそんなふう

に思い込んでいるお客さんが来る。欠けた所に無意識に口をやる。

あたしはピーンとくるんだよ。そんなお客さんに限って、しばらく

店に来ないと思ってたらあんた、自殺しただの、保証人になって破

産しただの、実は癌だっただの……」

「おれは口をあてる前から脳腫瘍だって知っていた」

「順番は関係ない。病気も関係ない。心の奥に欠けている部分があ

ると、そこにどんぶりの欠けている部分が引き寄せられる。そうし

て不幸を予告するんだ。ところがその反対のこともあるから世の中、

面白いのさ。逆に不幸のどん底にいるホステスなんかがそこに口を

つけるだろ? ああこの人はもう大丈夫。心配無いって確信するわ

けさ。不思議なことに実際、その通りになる。幸運に変わる予告も

するんだな。あたしはだてに何十年も人を見てきたわけじゃないん

だよ。あんたの病気はきっと治る」

後ろの壁に飾ってある写真を指差した。

「昔の絶世の美女も年取ったら婆さんになる。ところがあんた、あ

る日やって来たらカウンターに立っている皺くちゃババアがもとの

お姫様に戻っているようなお伽話が実際起こるから面白い」

意味あり気に笑った。

「この女優、おばさんなんだな。いつか見たような気がする」

「古い映画で観たんだろ」昔の美女は自慢気に胸を張って「困った

らいつでもおいで。早い時間帯はお客さんいないから」

ヒキガエルが立ち上がった。

「いくべ」

「つきあってくれるのか」

「ぞうさんひとりじゃ、ちょっとヤべエ場所でな」

そう言うなり店を後にした。老婆に礼を言ってから健太を連れて

地上に出た。

一カ月ほど、歩きまわって見つけられなかった妻の消息が、一人

の客引きとの不思議な邂逅によって、開けつつある事実に、おれは

戸惑いを隠せなかった。もとをただせば、不動産会社の元同僚から

住まいに電話があったことが発端であった。

――あんたの女房がホステスみたいな派手な格好でススキノを歩

いていた。

たったそれだけの言葉をよりどころとして、この一カ月余り、健

太とともに、ススキノを彷徨いつづけてきた。暦は二月から三月に

変わり、夜の空気に春の訪れを感じ始めていた。冬と春との攻防は

一進一退を繰り返し、今夜はいっそう、酷く冷え込んでいた。

ヒキガエルは手をブラブラさせて歩きながら、「ぞうさん、仕事

辞めたって言っていたけど、ゼンコはどうしてんのさ」と訊いてき

た。

「昔、世話になった広告屋で使ってもらってる」

「広告屋?」

「スーパーなんかでよくアドバルーン上がっているっしょ? アドバ

ルーンの見張りをやってるんだ」

「妙な仕事だな。健太はどうしてんのさ」

「預け先が無いから、親方の許可もらって、現場に連れていってる

のさ」

「して、夜は毎晩ススキノかい。ねぐらは、どうしてんのよ」

「平和の滝の方に平和湖っていう湖ちゅうか、でかい池があるの知

ってるかい?」

「平和の滝なら行ったことある」

「平和湖のすぐ手前に廃業したジンギスカン屋の古い建物があるん

だわ。家というより小屋みたいなもんだけど、そこをアドバルーン

の親方が工場として借りてんのさ。そこに住まわせてもらってる」

言葉を交わしながら、健太の手を取りつつ、暗い胸の内ではこ

の一カ月の様々な場面が走り過ぎていった。コンビニでカップラー

メンを買って湯を注ぎ、ビルとビルの隙間で二人で麺を啜った夜。

暖をとるために入って、何もしないでいて店員から「出て行ってく

れ」と言われたパチンコ店での夜。寒さに耐えかねて、ビルの地下

の便所に入り、ドアを閉めて便器の横でうずくまり抱き合って過ご

した夜。夜夜夜。

「病院にはかかってんだべなァ? 健康保険なんかはどうしてんの

よ」

ヒキガエルの言葉で我に返り、

「会社の継続のやつ入っていたけど、保険料、払わなかったら切ら

れた」

「したら、病院に行ってないのかい。まあ、わやだなァ、おい」

「死ぬ時は死ぬ。もう、近いんでないかい」

しょれはないっしょやァ、と呟きヒキガエルは両手をポケットに

入れて立ち止まった。「奥さんに健太手渡したら、死んでもいいっ

てかァ」と怒気を含んだ声で言った。

「妻に健太わたして、仕事も出来無くなったら、そりゃ、死ぬしか

ないさ」

歩き始めたヒキガエルを追って肩に手を置き、

「あんただって何時かは必ず死ぬんだぞォ。現にさっき死にかけて

いたべさ」

「おう、下手こいたら大浜で海水浴してたべな」そうしてポケット

に手を入れたまま凍った歩道で危うく転びそうになりながら一回転

して見せ、振り向きざま気取った表情で、「それもこれも、商売の

うちだでや」と微笑んだ。

風俗店の群集する通りに差しかかった。それぞれの店の前では、

呼び込みたちが、防寒着で身を包み、通行人に声をかけては無視さ

れ、無視されてはまた声をかけていた。呼び込みに成功して、二名

様ご案内、と体を揺すって小さく叫んでいる男もいた。

粉雪はネオンの光を受けて、通りの中をねじれながら渦巻いでい

た。この通りだけアスファルトにロードヒーティングが入っており、

黒い路面の所々に薄い水溜りが出来て、色とりどりの光を映しては

変化していた。歩いていくにつれ、ネオンの光は水溜りの中で、ま

た別の光の配色を幻のように映していた。それは、こちらの動きで

自在に移り変わる眩く妖しい光の流れであった。おれは何か不思議

な映像でも見るように立ち止っては、また歩いた。健太が前方の水

溜りで、軽く跳ねて遊んだ。煌めく映像が、長靴の波紋で揺れて、

変化した。

「こっちだ」

ヒキガエルの太った猫背が、通りを左に折れた。路地を何度も曲

がった。ヒキガエルは古い三階建ての細長い小さなビルを指差して、

両手をポケットに入れて、足踏みしながら、

「ここ」

と顎だけで指し示した。確かに鉄筋造りのビルの筈なのに、木造

の建物の外壁だけコンクリートを打ちつけて、騙しあげたような、

薄汚れたビルであった。うながされるまま、二階に上がった。廊下

で「Suger倶楽部」という電飾の看板が、赤く青く点滅を繰り

返している店であった。ドアは開け放たれており、中から何かボサ

ノバらしい音楽が響いてきた。艶めいた声の女性ボーカルであった。

「連絡した者だ」

ヒキガエルは受け付けの若い男に手短かに告げると、男は食いか

けのコンビニの弁当を電話の横に置いて口尻を指で拭いつつ、

「黒川さんとこの方ですね」とだけ言って、「こっちでお待ちくだ

さい」と薄暗い店内に案内した。

男は音楽を消し、照明を調整して店内を明るくした。ミラーボー

ルの光と真っ赤な布を壁一面に張り巡らせているだけの狭い店であ

った。赤い布は所々、破れたり穴があいたりしていた。店内には誰

もいなかった。カウンターは無く、ただテーブルと椅子が幾組か置

かれているだけの造作であった。――そんな印象なのに幾重にも重

なって一つになった香水の匂いばかりが鼻についた。それは、古臭

く小さいミラーボールや、穴のあいた赤い布を、いっそう頼りなげ

に貧相な様相として映し出していた。

「客が来たらどうすんのよ。照明落とせや。弁当食ってる暇があっ

たら一人でも客連れてこいや」

受付の奥から異様に背の高い痩せた男があらわれた。同時に女た

ちの嬌声も聞こえて来た。

「やまぐちィ」

と怒鳴られて、受付けの男は慌ててジャンパーを羽織ると、店の

外に出て行った。割り箸が床に落ちた。

背の高い男は照明を薄暗く調整し、再び有線放送らしいボサノバ

を低い音量でかけ、スイッチを入れてミラーボールを回し始めた。

店内の雰囲気が一変した。さっきまで単純で貧相な造りであった筈

の店内が、その単純さ故に、ミラーボールの回転する光に照らされ

て、奇妙な扇情的な空間へと変貌を遂げた。

「いやあ、久し振りです。黒川の兄さんには何時も世話になりっぱ

なしで」

男は笑顔に媚びを込めつつ、細い体を折り曲げて頭を下げた。

「なんもだ。こっちこそ、最近、収穫無くて迷惑かけてるさ」

ヒキガエルが立ち上がったので、おれも席を立って異様な男に頭

を下げた。

男の目線は、おれやヒキガエルより十センチは上にあった。百九

十センチはあろうかと思えた。

自分の手足の長さを意識するかのように、ヒキガエルと話しなが

ら大袈裟な動作をスローテンポで繰り返していた。ミラーボールに

照らされて、男の影がぼんやりと赤い床に映し出されていた。その

影から、人間のものではない、奇怪な生き物の姿が連想された。

蜘蛛男。

確かに、床に映る極彩色に回転する光の中に映し出された不気味

な影は、手足の長い大きな蜘蛛のような形をしていた。愛想よく笑

う男の横顔と、不気味に蠢く影の形を見比べながら、ひょっとする

と床に映し出された蜘蛛の姿こそが、この男の本性なのではないか

と考えていた。

おれは懐からサランラップの写真を取り出してテーブルの上に置

いた。

同時に蜘蛛男の胸から携帯電話の呼び出し音が響いた。厳しい表

情へと豹変し、

「なにィ。泣いているだァ。そんなの話にならんべや。自分で選ん

だ仕事だべ」そうしておれの顔をふいに見て気がついたようにヒキ

ガエルにウィンクして、「インターフェロン打っとけや。最初が肝

心だからよ」携帯電話を切り、写真を手に取った。

「ゾウさんの前でインターフェロンは洒落にならんぞ」

ヒキガエルが笑った。

蜘蛛男は首を傾け、「なんだ、ちさとさんだ」と写真をテーブル

に戻した。「ちさとさんなら今日は珍しくお休みしてます。明日は

出てくる筈ですけど……」

「ここではちさとと名乗っているのですか」

「本名で仕事している子なんて稀にしかいませんよ」

Suger倶楽部のビルを後にして、駅前通りの方向へとヒキガ

エルは歩き始めた。

「ほとぼりさめるまで一週間は商売にならん」

と言って歩調を早めた。

客引き殺すにゃ刃物はいらね、ポリの三日も出ばりゃあいい、…

…てかァ、と叫んで、路面に大量の唾をはいた。唾は雪の中で赤み

を帯びていた。

「俺はここで消える。明日、同じ時間にさっきのビルの前で待って

てや」

「親切だな」

「商売になんないしな。この際、あんたに付き合うわ」

パチンコ店の自動ドアが開いたり閉じたりしていた。暖気がその

度に、路外に溢れだしては、風に吹かれて消えていった。手を上げ

て爪先立ちで伸びをして暖気をつかみ取る仕草をしながら、ヒキガ

エルは、

「平和の滝の方だったらお前、もうバスないべや」

と寒気に片目を閉じて顔をゆがませた。

「車だァ」

と答えるおれを残してヒキガエルは群衆の中へと消えていった。

去って行くヒキガエルの肩先あたりに、虚無僧の編み笠姿が見受

けられた。虚無僧は、何やら、ビラを配りながら、パチンコ店の前

まで歩いてきた。羽織っている黒い防寒着の前は開け放たれており、

帯には尺八が挟まれていた。尺八の先端が「明暗」の文字と重なり

合って揺れていた。

虚無僧は、青い大きなビラをおれに差し出した。受け取ろうとし

ないので、無視して通り過ぎて行こうとした。思い立ったように立

ち止まり、編み笠を傾げて健太の頭に手を置いた。そうして、ビラ

を受け取ろうとしないおれに、さらに青い紙を差し出した。ほれっ、

と顎を突き出しているのが編み笠の動きで判った。不気味なものを

感じて、おれは怖くなって仕方なくビラを受け取り、無造作に丸め

てドカジャンのポケットに入れた。

雑踏の中、明日の妻との再会だけを頼りに歩きつづけた。期待と

焦りが、粉雪にまみれる街のネオンのように、胸の内でも、点灯し

ていた。それが明日、終止符を打たれる。こみ上げてくる深い安堵

の念を、青い雪煙が更に包みこんでくれるようであった。

地下鉄を乗り継いで、地下鉄学園前駅で下車した。エスカレータ

ーを上って行くと、そのまま、ある学園の構内に出た。学園内の高

校の教員をやっている同級生が、夜は使わないからと、自分の駐車

スペースを、空けておいてくれていた。

高校の生徒通用口の横に、大きなブロンズ像が置かれており、そ

れは名のある彫刻家の手によるものらしかった。おれはいつものよ

うに、頭や肩に雪をかぶって腕を肩まで振りかざした、縮れ毛のブ

ロンズ像を見上げた。それから、カローラのドアに鍵を挿し込んだ。

「わだつみ像」は、台座を入れるとニメートル以上、高さのある、

全裸の、若く逞しい青年の像であった。筋骨隆々でありながら、若

さ故のしなやかさをも内に秘めた繊細な印象を醸し出していた。

「君は、生きるという一点だけを見つめて、そこに立っているんだ

なァ」

と、呟いてみた。わだつみ像は、何も応じ返してこなかった。


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