二人分の紅茶を淹れるのは、今日でおしまい
第一日曜日の午後二時を少し過ぎたころ、オデット・ルヴェールは湯を沸かし直した。
この時間に婚約者のアドリアンとふたりで紅茶を飲むのは、婚約する前からの習慣だった。今日は彼が帰ってくる予定の日でもある。
小ぶりな陶器のポットを温め、乾いた茶葉を匙で二杯すくって落とす。深い青の縁取りがある揃いのカップも、あらかじめ二つ並べてあった。
婚約した三年前の春、アドリアンが最初の測量から戻った際に持ち帰ったものだ。
熱湯を注いで砂時計をひっくり返すと、細い硝子のくびれを赤い砂がさらさらと落ち始めた。
その途中で、呼び鈴が鳴る。
玄関の扉を開けると、立っていたのは旅外套姿のアドリアンではなく、郵便配達人だった。
「ルヴェール様宛ての手紙です。王立測量院の便符がついています」
「……ありがとうございます。ご苦労様でした」
銅貨を渡し、革袋から差し出された封筒を受け取る。
ずっしりとした封筒は上質紙で、測量院の印章を押した封蝋が綺麗に施されていた。
食堂へ戻ってペーパーナイフを差し込む。
中から出てきたのは、折り目の揃った二枚の手紙と、四つ折りにされた小さな測量図の控えだった。
見慣れたアドリアンの筆跡は、定規で引いたように整然としていて、滲みひとつない。
『オデット。手紙を出すのが遅れてすまない。
予定していた第三区画の測量は無事に終了した。しかし先週、測量院本部から急遽通達があり、隣接する峡谷部の測量区域を当初の予定より西へ二里ほど広げることになった。
秋雨が本格化する前にこの街道全体の基礎図を完成させておきたい。非常に重要で、やりがいのある仕事だ。院長からも私に最後まで担当してほしいと強く要請された。
そのため、帰還は三か月ほど延びることになる。
突然の変更で本当に申し訳ない。だが、君なら今回も分かってくれると思う』
二枚目には、新しい測量区域の地質や宿場の様子、宿で出されたパンが驚くほど固かったことなどが簡潔に記されている。
同封の小さな図面には、険しい等高線の合間に湧き水の記号と、荷馬車がすれ違える幅の待避所が丁寧に書き込まれていた。
顔を上げたときには、砂時計の砂はとっくに落ちきっていた。
手紙を机の端へ置き、引き出しから便箋とインク壺を出す。
いつものように返事を書くつもりで、ガラスペンを取った。
『お手紙拝見しました。お仕事が順調そうで何よりです。急な予定変更とのこと、季節の変わり目ですからどうかお体に気をつけて。もちろんです。お仕事を――』
「――お仕事を」のところで、ペン先が止まった。
黒いインクが紙の上で小さく膨らんでいく。
向かい側のカップからは、もうほとんど湯気が上がっていなかった。
三度目だった。
最初は「春には戻る」。
次は「夏には戻る」。
そして今度は、さらに三か月。
どの手紙にも、彼が担当する測量が街道の整備や荷運び人たちの安全にどれほど重要なのか、きちんと説明されていた。
最後に添えられる言葉も、いつもよく似ている。
『君なら分かってくれると思う』
ガラスペンを置き、羽箒で机の紙粉を払った。
定規を机の縁と平行に揃え、インク壺の蓋を閉める。引き出しの中で斜めになっていた封蝋の棒も、指先でまっすぐに直した。
そこまで済ませてから、冷めた二つ目のカップを持ち上げる。
台所へ運び、琥珀色の紅茶を流しへ捨てた。
内側を丁寧に洗って水気を拭い、一番上の戸棚を開ける。
普段は客用の銀器をしまっている段の奥へ、青い縁取りのカップを置いた。
食堂へ戻れば、テーブルに残っているのは自分の一杯だけだ。
口をつけると、すでにぬるく、茶葉の渋みばかりが強かった。
机の右隅には、もう一通の手紙がある。
隣の都市リューディカにある中央公文書院からの書簡だった。
地方貴族の古文書や地誌を再編纂するため、一年間の整理助手として働かないかという打診で、返答期限は今日になっている。
これまでにも二度、同じ話があった。
伯爵家の図書室で古い記録を整理していたオデットの仕事を見た書院長からの誘いだったが、どちらも断っている。
アドリアンが、もうすぐ帰ってくるはずだったからだ。
彼が戻れば結婚の準備をする。
住む家を決める。
必要なものを揃える。
手帳には、アドリアンの帰還予定日を起点に、その先の予定が並んでいた。
そして帰還の日が動くたび、後ろに続く予定もすべて書き直してきた。
しばらく手帳を眺めたあと、しおり紐を今週の頁から抜く。
公文書院からの通知を引き寄せ、さきほど閉めたばかりのインク壺をもう一度開けた。
『謹んでお受けいたします。指定の期日までに、リューディカの書院へ出頭いたします』
書き始めてから、最後の署名まで手は止まらなかった。
手紙を三つ折りにして封筒へ収め、蝋で封をする。
それから手帳を開いた。
消したのは、アドリアンの帰還予定日ではない。
その後ろへ並べていた、自分の一年分の予定だった。
新しい頁に、ひとつだけ書く。
『リューディカへ』
その日のうちに、オデットは公文書院への封書を郵便局へ持っていった。
*
引っ越しの準備は、思ったより早く進んだ。
戸棚の中身を用途別に分け、本を年代順に並べ替え、不要な古紙を紐で縛っていく。
手を動かしているあいだは、余計なことを考えずに済んだ。
大きな木箱の底へ、アドリアンから三年間にわたって届いた手紙と図面を収める。
三十通を超える手紙には、彼が訪れた土地の風土や土質、川の深さ、橋の強度が克明に記されていた。
彼が送ってくる図面を見るのが、オデットは好きだった。
王都の宮廷地図師が描くような、金箔や紋章で飾られた地図ではない。
アドリアンの街道図には、いつも小さな記号がびっしりと書き込まれている。
旅人が喉を潤せる共同井戸。
突然の雷雨から荷物を守れる岩の庇。
急な坂の前で馬を休ませられる木陰。
「あなたはいつも、人が素通りしてしまうような場所ばかり見つけるのね」
婚約が決まったばかりのころ、下図を覗き込んでそう言うと、アドリアンは鼻の頭を掻いた。
「荷車を引く人間にとっては、城の高さより、途中で車輪が落ちない窪みの位置のほうが重要だからな」
そんな地図を描く彼が、オデットは好きだった。
箱の中の手紙を指先で揃える。
捨てようとは思わない。
嫌いになったわけでもなかった。
ただ、今は枕元に置いておく必要がない。
蓋を閉めて麻紐を十字に掛け、最後に戸棚の一番上へ手を伸ばした。
青い縁取りのカップを取り出し、普段使っていたもう一つと重ねないよう、一つずつ布で包む。
二つとも、小さな食器箱へ収めた。
出発の三日前、午後の日差しが傾き始めたころ、玄関の扉がノックされた。
郵便配達人にしては、叩き方が荒い。
エプロンで手を拭きながら扉を開けると、埃まみれの旅行鞄を足元に置いたアドリアンが立っていた。
青灰色の外套には街道の白土がこびりつき、頬も以前より少し痩せている。
「アドリアン……?」
「オデット」
「どうしてここに?」
「驚かせただろう。次の測量地へ移る途中で、今日だけ自由行動の許可が取れた。馬を乗り継いで戻ってきたんだ」
「……入って。先に埃を払って」
「ああ」
外套を玄関へ掛けて居間へ入ったアドリアンは、丸テーブルの周囲に積まれた木箱を見て足を止めた。
「……これは何だ?」
「荷造りよ」
「誰の?」
「私の」
「どこへ行くんだ」
「リューディカ。中央公文書院よ」
「公文書院?」
「一年間、整理助手として働くの」
「一年?」
オデットは台所へ向かった。
「喉が渇いているでしょう。お茶を――」
「待ってくれ」
後ろから追ってきたアドリアンが、居間と台所の境で止まる。
「そんな話は聞いていない。伯爵家の文庫整理はどうした?」
「あちらは一段落したわ。公文書院からは前にも誘われていたの」
「なら、どうして今回は断らなかった?」
やかんの取っ手に触れた指が止まった。
「冬には戻れると手紙にも書いただろう。帰ったら結婚の準備をする予定だったじゃないか」
「いつ帰るの?」
「だから、今回の測量が終われば――」
「それ、前にも聞いたわ」
「前とは事情が違う。今回は測量区域が広がっただけだ。正式な業務だし、私の実績にもなる。主任の地位が固まれば手当も増える。二人の生活だって安定する」
「ええ。あなたの仕事が立派なのは知っているわ。実績になることも、手当が増えることも分かる」
「なら、どうしてだ」
オデットはエプロンの皺を指で伸ばした。
「私が嫌だったのは、あなたが仕事へ行くことじゃないの」
「じゃあ、何だ?」
「私が待つことまで、二人で決めたことになっていたのが嫌だった」
しばらく返事はなかった。
「でも君は、いつも大丈夫だと書いていたじゃないか。仕事を頑張ってくれ、こちらは心配ないって」
「書いたわ。だから、あなた一人が悪いとは思っていない」
「私一人?」
「私も悪かったのよ。本当は帰ってきてほしかった。予定が延びるたびに寂しかった。でも一度もそう書かなかった」
アドリアンが何か言いかけたが、オデットはその前に続けた。
「仕事を邪魔しないのが良い婚約者だと思っていたの。『大丈夫』って書きながら、本当は大丈夫じゃなかった。それなのに、どこかで気づいてほしいと思っていた」
「……そんなこと、私は」
「分からないわよね。言わなかったんだから」
やかんから手を離した。
「でも三度目の手紙に、『君なら今回も分かってくれると思う』って書いてあったでしょう」
「あれは、君への信頼のつもりだった」
「分かってる」
オデットはアドリアンの顔を見た。
「でも私には、自分の予定まであなたが決めているように読めたの」
アドリアンは積まれた木箱へ手を置き、親指で木目を何度かなぞった。
「私は君を軽んじていたわけじゃない」
「知っているわ」
「旅先で景色を見るたび、君にも見せたいと思っていた。良い宿を見つければ、いつか連れてこようと思った。手紙だって、君との未来を考えて書いていた」
「それも知ってる」
オデットは少しだけ困ったように笑った。
「だから難しかったのよ。あなたが私を大事にしてくれているのは分かっていたから」
アドリアンは木箱から手を離した。
「……分かった。なら、次の測量を断る」
「え?」
「明日の朝、本部へ早馬を出す。代役を立ててもらう。このままここへ残る。それなら――」
「待って」
今度はオデットが遮った。
「それでは何も変わらないわ」
「だが、君はもう待ちたくないんだろう?」
「だからって、今度はあなたが私のために仕事を止めるの?」
「今までは私があなたの予定に合わせていた。今度はあなたが私に合わせて仕事を捨てる。それで本当にいいと思う?」
「なら、どうすればいいんだ」
アドリアンが額へ手を当てる。
「待つな。仕事も辞めるな。それなら私はどうすればいい?」
「相談するのよ」
顔を上げた彼へ、オデットは続けた。
「最初から、それをすればよかったんだと思う」
オデットは積まれた木箱へ目をやった。
「私は一年間、リューディカへ行く。ずっとやってみたかった仕事なの」
「……そうか」
「あなたは峡谷の測量を最後までやって。あなたの地図は、そこを歩く人の役に立つものだから」
時計の振り子が往復する音が聞こえた。
アドリアンはいつもの革手帳へ手を伸ばしたものの、結局開かずに手を引いた。
「……婚約を解きたいのか」
「今すぐ解くつもりはないわ。でも、結婚の日取りも決めない。あなたが帰ってくる日を基準に、私の予定を組むのもやめる」
「じゃあ、一年後は?」
「その時に、話しましょう」
アドリアンは少し考えてから口を開いた。
「帰ってくるまで待ってくれ、とはもう言わない」
そこで言葉を切る。
「一年後、君の仕事が一区切りつくころに……会って、もう一度話してもいいか」
オデットもすぐには答えなかった。
「ええ。その時は、私もあなたを選ぶかどうか、ちゃんと考えるわ」
「分かった」
「……今日は、お茶はやめておこう。隊との合流に遅れる」
「馬に水は?」
「駅舎で頼んできた」
アドリアンは外套を羽織り、玄関へ向かった。
扉を開ける前に足を止める。
「オデット」
「何?」
「手紙は送っていいか」
「仕事の報告?」
「いや。宿の飯がまずかったとか、雨がひどかったとか。そういうので」
「ええ。私も、書院で見つけた変な記録の話を書くわ」
「それは読みたいな」
「じゃあ、元気で」
「君も」
扉が閉じ、馬の蹄の音が遠ざかっていった。
オデットは台所へ戻り、火にかけなかったやかんを元の場所へ置く。
出発の荷物をもう一度確認した。
食器箱の中では、布に包まれた青いカップが二つ、並んでいる。
*
リューディカの公文書院での日々は、オデットが想像していたより忙しかった。
仕事は、過去百五十年分の地方行政文書の目録作成と、虫食いや湿気で傷んだ羊皮紙の補修。
特別扱いされることも、いきなり重要な仕事を任されることもない。
他の整理助手たちと一緒に薄暗い書架を脚立で上り下りし、年代の分からない文書を仕分けては、破れた頁へ薄紙を当てる。最後に処理した番号を日誌へ書き込めば、また次の束だ。
それでも退屈しなかった。
古い商人の旅程表の余白には、
『今年の麦は不作。峠の茶屋にて塩漬け肉を求む』
などという走り書きが残っている。
街道の改修を巡って二つの村が十七年も揉め続けた嘆願書もあった。
夢中になって読んでいるうちに、昼の鐘が鳴ることも珍しくない。
月に一度、アドリアンから手紙が届いた。
以前ほど測量の成果ばかり書かれてはいない。
新人の助手が測量棒を川へ落としたこと。
宿の主人が焼いた林檎の菓子がおいしかったこと。
雨が三日続き、全員の靴下が乾かなかったこと。
オデットも返事を書いた。
修復中の羊皮紙から百年前の押し花が出てきたこと。
書庫で鼠に昼食のパンを盗られたこと。
昔の街道図に、今はなくなった井戸を見つけたこと。
どちらも、「帰るまで待っていて」とは書かなかった。
季節が一巡し、一年間の任期も終わりに近づいた。
その第一日曜日。
午後三時ちょうどに、下宿の呼び鈴が鳴る。
数週間前の手紙で、二人で決めた日時だった。
扉の向こうには、仕立て直した紺色の上着を着たアドリアンがいる。
重い測量具はなく、抱えているのは革張りの筒一本だけだ。
「こんにちは、オデット」
「こんにちは。時間ぴったりね」
「測量師だからな」
「昔からそうだったわね」
部屋へ通すと、アドリアンは机の前へ座り、革筒から新しい街道図を取り出した。
等高線。
橋。
宿場。
共同井戸。
中央には、リューディカから州都へ続く街道が描かれている。
「峡谷の測量は、全部終わった」
「お疲れ様」
「それで、来期からの仕事について測量院から二つ話が来ている」
オデットも向かいへ座った。
「一つは王都へ戻って製図主任になる道。もう一つは、リューディカを含む北部街道の維持を担当する地方技官だ」
アドリアンの指が、地図上の二本の道をなぞる。
「地方技官なら、この街か隣の宿場を拠点にできる。ただ、出張は多い。給料も王都勤務より少し下がる」
「そう」
そこで指が止まった。
「オデット。次の仕事について、君と相談したい」
「相談?」
「ああ。私がどこで働くか。君がこれからどうしたいか。そのうえで、もし二人で暮らすならどうするか。順番に話したい」
「ちょうどよかったわ」
「何が?」
「書院から、もう一年残らないかと言われているの」
「受けるのか?」
「受けたいと思ってる」
オデットはそう答えてから、机上の地図へ目を落とした。
「でも、前みたいに一人で全部決めてから知らせるのも違うでしょう? だから返事を出す前に、あなたの話も聞きたかったの」
「……そうか」
アドリアンはもう一度、地図を広げ直す。
「なら、まず君がもう一年ここで働く前提で考えよう」
「ええ。でもあなたが無理に地方勤務を選ぶのもなしよ」
「分かってる。王都勤務になった場合の移動日数も出してきた」
「そういうところは変わらないのね」
「必要だろう?」
「必要ね」
オデットは立ち上がり、台所の戸棚を開けた。
引っ越してきた日に一番上の段へしまった、深い青の縁取りのカップ。
一つ。
もう一つ。
二つ目を取り出す。
湯は、ちょうど沸いたところだった。
「紅茶、飲む?」
「飲む」
アドリアンの前へ、二つ目のカップを置く。
「じゃあ今日は、二人分ね」
二つのカップへ紅茶を注いだ。
アドリアンは地図を広げたまま、オデットが席につくのを待っていた。
オデットも自分のカップを持ち、その向かいへ座った。
紅茶が冷めるまでには、きっと話したいことが山ほどあった。
最後までお読みいただきありがとうございました。
面白かったと思っていただけましたら、評価していただけると今後の作品制作の参考になります。




