第6話:薬品の残り香
外れかけた右肩の関節の隙間に石粉パテを詰め込み、表面を滑らかに均してから油彩を重ねる。
二度目の大がかりなレストア作業を終えたリリアーナは、鏡の前でふう、と音の出ないため息をついた。
肩を回しても、先ほどのような骨の削れる音はしない。
どうやら応急処置は上手くいったようだ。
コンコン。
控えめなノックと共に、再びヴェルデ公爵が部屋に顔を出した。
「リリアーナ。少し休めたか?」
「ええ、お父様。おかげさまで、随分と……気分が良くなりましたわ」
かすれた声を絞り出し、扇子で口元を隠しながら優雅に微笑む。
父は安堵したように目尻を下げるが、すぐに鼻をひくつかせて眉間に皺を寄せた。
「それにしても……やはりこの部屋の薬の匂いは強すぎる。お前の美しい鼻腔が傷んでしまうのではないか? すぐに換気をして、薬瓶を片付けさせよう」
父の言葉に、リリアーナの冷え切った背筋(正確には脊髄のあった空洞)に、悪寒のようなものが走った。
娘をきつい薬品臭から解放してやりたいという、純粋な親心。
だが、リリアーナにとって防腐液は、この完璧な美を維持するための「命綱」である。これを片付けられれば、数日のうちに腐敗が始まり、究極の美容崩壊を招いてしまう。
――お父様、お願いだから余計な気を回さないで。
内心の焦燥をひた隠しにし、リリアーナは扇子をパタリと閉じて首を横に振った。
「お気遣いありがとうございます、お父様。ですが、薬を退けるのではなく……そう、匂いを別の香りで包み込みたいのです」
「別の香り、とは?」
「領地で最も香りの強い、『太陽の白百合』を取り寄せていただけませんか? あのお花を部屋いっぱいに飾れば、薬の匂いなど気にならなくなるはずですわ」
香水の匂いと防腐液が混ざってしまった以上、もはや自然界の圧倒的な芳香で上書きするしかない。
リリアーナの提案を聞いた父は、パァッと顔を輝かせた。
「おお、名案だ! あの一族伝来の聖なる花なら、お前の心も大いに癒やされるだろう! すぐに温室からありったけを運ばせよう!」
父が上機嫌で部屋を出ていくのを見送り、リリアーナは「完璧な回避」に成功した自分を称賛した。
*
数時間後。
リリアーナの寝室は、むせ返るような強烈なフローラルの香りに満たされていた。
運び込まれた数十鉢もの「太陽の白百合」が、その名の通り黄金色の花弁を大きく広げている。
作戦は完璧だった。防腐液のツンとする刺激臭は、花の芳香によって完全に打ち消されている。これなら誰が部屋に入ってきても、薬品の匂いを疑う者はいないだろう。
だが、安堵したのも束の間だった。
シュワッ……。
耳の奥で、炭酸水が弾けるような微かな音がした。
直後、肌の表面を薄く覆っていた防腐魔法の魔力が、目に見えない煙となって揮発していくような、ひどく奇妙な感覚に襲われた。
「……え?」
指先の感覚が、急速に遠のいていく。
急いで鏡の前に立ち、自らの顔を覗き込んだリリアーナは、声にならない絶叫を上げた。
油彩で緻密に描き込んだはずの薔薇色の頬が、見る見るうちに色褪せている。
さらに、首元や肩の関節を埋めた石粉パテの表面が、まるで強力な洗剤を浴びたかのようにカサカサと粉を吹き、微かな剥離を起こし始めていたのだ。
――どういうこと? 何が起きているの?
混乱する頭の中で、先ほどの父の言葉がフラッシュバックする。
『あの一族伝来の聖なる花なら』
聖なる花。
つまりそれは、微弱ながらも「浄化(光属性)」の魔力を帯びた植物。
アルテミス聖教会が定義する「浄化」とは、不自然に固定されたマナを強制的に解き放ち、元の循環へと戻す力。
それはアンデッドであるリリアーナにとって、自身の存在を根底から洗い流す「強制的なクレンジングオイル」に他ならなかったのだ。
関節の結合が緩み、全身の輪郭がボロボロと崩れ落ちそうになる悪寒。
匂いは見事に消し去った。
だが、このままこの部屋にいれば、数時間後には身も心も完璧に浄化されて、土に還ってしまう。
美容と生存の究極の板挟みの中、リリアーナは自業自得の絶望に打ち震えた。




