第5話:呼吸という名のパフォーマンス
「……だが、リリアーナ。お前……」
ヴェルデ公爵の視線が、リリアーナの胸元に縫い付けられたように止まっていた。
「お前……息をしていないのではないか?」
震える父の声が、寝室の空気を凍らせる。
リリアーナの思考回路が、不快な摩擦音を立ててショート寸前に陥った。
心拍が早まることはない。しかし、極度の焦燥は確実に彼女の肉体を蝕む。
潤いを失った眼球の奥が、ギチリと軋むような痛みを訴えた。
最高級シルクのナイトガウンは、無風の湖面のように完全なる静寂を保っている。
生きた人間であれば、どれほど静かにしていても、わずかな胸の上下運動があるはずだ。しかし、死体である彼女の肺は、一ミリたりとも空気を出し入れしていない。
絶対的な「死」の証明。
父の顔が、恐怖と混乱で蒼白になっていく。
このままでは、神官を呼ばれる。聖なる光で「浄化(という名の物理的消滅)」をされてしまう。
何か。何か、胸元を動かす方法は。
リリアーナの乾燥した視界が、ベッドサイドテーブルに置かれた一つのアイテムを捉えた。
――孔雀の羽根飾りがついた、巨大な扇子。
彼女は硬直した右腕を、弾くように動かした。
生きた人間であれば、脳のリミッターが働いて絶対にやらないような、手首の筋を違えるほどの異常な速度とスナップ。
バサァッ!!
寝室に、突風が吹き荒れた。
扇子から放たれた強烈な風圧が、リリアーナのナイトガウンを激しく波打たせる。
ペラペラのシルク生地が、風に煽られて不自然なほど大きく膨らみ、そしてしぼんだ。
「……っ!?」
突如として巻き起こった爆風に、父が目を白黒させる。
リリアーナはすかさず扇子で顔の半分を隠し、極めて優雅に――そして声帯の端を無理やり震わせて、掠れた声を絞り出した。
「……お父様。淑女たるもの、常に自らの風を纏うべきですわ」
「ふ、風……?」
「ええ。わたくしは今、深い安らぎの呼吸……そう、大気と一体になるような、究極の呼吸法を実践しているのです」
扇子をバサッ、バサッと仰ぎ続ける。
そのたびにガウンの胸元が物理的にバタバタと暴れる。
どう見てもただ風に煽られているだけなのだが、リリアーナのあまりの気迫と、完璧なまでに微動だにしない顔の造形美が、父の判断力を奪っていく。
「そ、そうか……! 息が止まって見えたのは、極限まで洗練された最新の美容健康法だったのだな……!」
またしても、父のポジティブすぎる解釈が炸裂した。
だが、安堵するのはまだ早い。父の視線がまだこちらを向いている以上、「胸元の動き」を止めるわけにはいかないのだ。
リリアーナは扇子の風にタイミングを合わせ、肩の関節を意図的に上下させる「手動の偽装呼吸」を開始した。
吸って(肩を上げる)、吐いて(肩を下げる)。
肺に空気は一滴も入らない。
ただ、肩の骨と鎖骨を無理やり擦り合わせて、上下運動を繰り返すだけ。
ゴリッ……ゴリッ……。
リリアーナの耳の奥で、骨と骨が削れるような鈍い音が響き始めた。
関節の油分などとうの昔に失われている。動かせば動かすほど、彼女の肉体は物理的に摩耗していく。
――生きている頃は、こんなこと、無意識にやっていたのに。
呼吸という行為が、死体にとってこれほどの重労働だったとは。
絶望的な関節へのダメージを感じながら、リリアーナはひたすら肩を上下させ、扇子を仰ぎ続けた。
「……お父様。わたくし、少しお休みしたいのですが」
「おお、そうだな! ゆっくり休んで、美しい顔色を取り戻すのだぞ!」
感動の面持ちで頷くと、父はついに踵を返し、足早に部屋を出ていった。
バタン、と重厚な扉が閉まった瞬間。
リリアーナは扇子を取り落とし、ベッドの上に崩れ落ちた。
ガクンッ。
酷使しすぎた右肩のジョイントが、嫌な音を立てて半ば外れかける。
腕が不自然な角度でぶら下がり、首筋のパテに新たな亀裂が走るのを感じた。
「……嘘でしょ。肩の修復なんて、聞いてないわよ……」
父を誤魔化すことには成功した。
だがその代償として、彼女は朝から二度目の、そしてより大規模な「レストア作業」を強いられることになったのである。




