第3話:仮初めの令嬢、爆誕
「リリアーナお嬢様、朝でございます。お入りしてもよろしいでしょうか?」
扉の向こうから響く侍女の声に、リリアーナは鏡の前で硬直した。
声を出そうとしても、乾燥しきった喉の奥で革袋が擦れるような虚しい音が鳴るだけだ。
このまま返事をしなければ、間違いなく合鍵で踏み込まれる。だが、大きく口を開けば右頬のパテが完全に崩落してしまう。
思考を巡らせる間にも、扉のノブがガチャリと無遠慮な音を立てた。
リリアーナは躊躇いなく、冷え切った右腕を化粧台の上へ滑らせた。狙うのは、琥珀色の液体が詰まった分厚いガラス瓶だ。
最高級香水『夜の女王』。
無理な角度で腕を振った瞬間、肩の関節からゴキッという不吉な音が鳴り響いたが、顔の筋肉だけは完璧な静止状態を死守する。
ガチャンッ!
甲高い破砕音とともに、むせ返るような濃厚な甘い香りが部屋中に弾けた。
これで「起きている」という合図と、部屋に充満しつつある防腐液の匂いをごまかすという二つの目的が達成されたはずだ。
「お嬢様!? 失礼いたします!」
慌てた様子で侍女が飛び込んでくる。
リリアーナは椅子に浅く腰掛けたまま、パテの浮いた右頬を絶妙な角度で影に落とし、手鏡で顔の半分を覆い隠すようにして振り返った。
計算し尽くされた、憂いを帯びた完璧なポーズ。
駆け寄ってきた侍女は「お怪我は……」と言いかけて、そのまま言葉を失った。
「あっ……」
侍女の目が、陶器のように滑らかなリリアーナの肌に釘付けになる。
生気を失ったがゆえの、血の通っていない圧倒的な造形美。人間というよりは、神殿に飾られた精巧な彫刻を前にしたような顔だった。
神々しいほどにお美しい。
侍女の瞳がそう雄弁に語っているのを、リリアーナは冷ややかに見つめ返す。
しかし、限界はすぐそこまで来ていた。
瞬きを忘れた眼球は極限まで乾燥し、視界の端からジリジリと砂嵐のようなノイズが侵食してくる。侍女の輪郭がひどくぼやけて見えた。
さらに悪いことに、破片を片付けようと床にしゃがみ込んだ侍女が、ふと鼻をひくつかせた。
「……お嬢様。少し、ツンとする匂いがいたしますね。香水の甘さの中に、なんだか薬品のような……」
優秀すぎる嗅覚に、リリアーナの指先がピクリと跳ねる。
夜の女王の香りをもってしても、致死量の防腐液の匂いは完全に上書きできていなかったのだ。
首を振れば関節が鳴る。
リリアーナは手鏡で口元を隠したまま、肺の奥に残っていたわずかな空気を、糸のように細く絞り出した。
「……新しい、香水の……調合よ……」
掠れた吐息に乗せた言葉は、かえってミステリアスな響きを帯びて侍女の耳に届いたらしい。侍女は納得したように「左様でございましたか」と頷いた。
危機は去った。そう安堵しかけた瞬間だった。
ドス、ドス、ドス、ドス!
廊下から、床板を踏み抜かんばかりの重く激しい足音が急接近してくる。
バンッ!
乱暴に扉が開け放たれ、そこに巨体が現れた。
「リリアーナ! おお、私の愛しい娘よ、無事だったのか!」
父親であるヴェルデ公爵だ。
大粒の涙を流し、両腕を大きく広げてこちらへ突進してくる。
娘の生還を喜ぶ父親の感動的なシーン。
だが、今のリリアーナにとって、それは破滅へのカウントダウンでしかなかった。
巨大な温熱源の襲来。
あの太い腕で抱きしめられれば、体温でパテが溶け、衝撃で全身の関節が外れかねない。
来ないで。お願いだから触らないで。
心の中で絶叫するが、すでに使い切った声帯からは何の音も出ない。
迫りくる熱気に視界のノイズがさらに激しさを増す中、リリアーナは手鏡を握りしめたまま、絶望の淵で硬直することしかできなかった。




