第2話:禁断のレストア作業
朝の光が、レースのカーテン越しに寝室へと差し込む。
普段なら、小鳥のさえずりとともに優雅に目覚める時間だ。
だが、リリアーナの朝は、絶望的な指先の鈍さから始まった。
体温を完全に失った指は、まるで冷え切った蝋のように固まっている。
化粧筆を握ろうとするだけで、関節からギチ、ギギ……と、古い扉を開けるような不快な振動が骨を伝わり、直接頭蓋を揺らした。
さらに不快なのは、視界だった。
死んでから一度も瞬きをしていないため、眼球が完全に乾燥しきっている。
鏡に顔を近づけようと視線を動かすたび、瞼の裏で砂粒を擦り合わせるような強烈な異物感が走る。
リリアーナは硬直した足を引きずり、壁際に隠された小型の金庫へと向かった。
動かない指先を無理やり曲げ、ダイヤルを回す。
重い金属音とともに扉が開き、中から分厚い古書を取り出した。
父の書斎の最奥から盗み出した禁書、『死せる美の福音』。
パラリとページをめくると、長年積もった埃と、どこか乾いた鉄を思わせる匂いが鼻腔を突く。
そこに記されているのは、本来ならば異端審問にかけられるレベルの死霊術の数々だ。
腐敗を止め、肉体を固定し、死者を現世に縛り付ける呪われた術式。
だが、リリアーナにとって、これは「最高の美容液のレシピ」でしかなかった。
彼女は古書を化粧台に広げ、本格的な修復作業を開始する。
まずは防腐液の小瓶の栓を抜く。
ツンと鼻を刺す強烈な薬品臭。生者なら顔をしかめる匂いだが、今の彼女には、自分の存在を繋ぎ止める安心の香りに感じられた。
それを真新しい布に染み込ませ、丁寧に全身を拭き上げる。
次に、最大の難関である「首の折れた跡」に取り掛かる。
どす黒く変色した内出血の帯。
リリアーナは高粘度の石粉パテを手に取ると、躊躇いなく自身の首へと塗り込んでいった。
冷やりとしたパテが、死んだ肌に密着していく。
銀色の金属ヘラを使い、表面を滑らかに均す。鎖骨から顎のラインにかけての起伏を、彫刻家のような手つきで完全に再構築していく。
パテが乾くのを待ち、今度は油彩絵具を調合した特製のファンデーションを重ねる。
筆が肌の上を滑るたび、失われた血色がキャンバスに描かれるように蘇っていった。
やがて、作業が完了する。
鏡の中に、完璧な「社交界の真珠」が戻ってきた。
陶器のように滑らかな肌、薔薇色の頬、そして微かな隙もない首筋のライン。
リリアーナはうっとりと、自らの姿に見惚れた。
「……ああ、なんて。私、最高傑作だわ」
擦れた声でそう呟き、満足げに微笑む。
その、瞬間だった。
ピキッ。
耳元で、微かな、しかし決定的な亀裂の音が響いた。
微笑むために頬の筋肉を無理に動かしたことで、乾燥しきっていなかったパテの端が、肌からわずかに浮き上がったのだ。
微小な亀裂から、再び冷たい空気が入り込むのを感じる。
コンコンコン。
パテの軋み音をかき消すように、扉を叩く音が響いた。
「リリアーナお嬢様、朝でございます。お入りしてもよろしいでしょうか?」
侍女の声だ。
本来なら「入ってちょうだい」と優雅に答える場面である。
だが、できない。
先ほどの呟きで、わずかに潤いを取り戻したかに見えた喉は再び完全に張り付いている。
大きな声など出せるはずがない。
ここで返事をしなければ、不審に思った侍女が合鍵で入ってくるかもしれない。
しかし、声を出そうと大きく口を開けば、今度こそ右頬のパテが完全に剥がれ落ちるだろう。
扉の向こうの足音と、硬直した自分の肉体。
リリアーナは、鏡に映る「最高傑作」の顔のまま、音のない絶叫を上げた。




