第10話:完食の令嬢
ブチッ、と。
自らの皮膚と隠し袋を繋ぐ太い絹糸が、悲鳴を上げて千切れかける音がした。
椅子から立ち上がろうとしたリリアーナの全身が、彫像のように硬直する。
大量のローストビーフと付け合わせの野菜、そして濃厚なソース。それらを詰め込んだ水袋の物理的な「重量」が、重力に従って容赦なく彼女の腹の皮を下に引っ張っていた。
――このままでは、袋が落ちる。
もしドレスの下から汚物にまみれた肉の塊がこぼれ落ちれば、奇跡の生還も淑女の面目も、すべてが物理的に崩壊する。
リリアーナは咄嗟に、右手に持っていた扇子を手放した。
カランッ。
硬い音が床に響く。
「あら……」
扇子を拾うふりをして、彼女は深く前屈みになった。
そして、父から見えないテーブルの陰で、両腕を腹部の前で強く交差させ、コルセットの上から隠し袋をガッチリと抱え込んだ。
腕の力で下から物理的に支え上げることで、かろうじて糸の崩壊を食い止める。
「どうした、リリアーナ? 落とし物か?」
父が立ち上がろうとするのを、リリアーナは腕を交差させたまま顔だけを上げて制止した。
「いいえ、お父様。その……少し、食べ過ぎてしまいましたわ。コルセットがひどく苦しくて」
淑女としてはあるまじき、はしたない言い訳である。
だが、今の彼女には美意識を重んじている余裕など一ミリもなかった。
腹を抱え込んだまま、両膝をぴったりとくっつけ、足首の関節だけを動かしてペンギンのようなすり足で後退する。
「おお、そうかそうか! よく食べるのは元気な証拠だ! ゆっくり休むといい!」
またしてもポジティブな勘違いをして満面の笑みで見送る父に、リリアーナはひきつった笑み(パテが割れないギリギリの角度)を返し、そのままの姿勢で大食堂から逃亡した。
*
自室に戻り、重厚な扉の鍵をかけた瞬間。
リリアーナは糸が切れた操り人形のように、絨毯の上へ崩れ落ちた。
すぐさまドレスのホックを引きちぎるように外し、コルセットを剥ぎ取る。
腹部の皮膚に食い込んでいた絹糸をハサミで切断し、パンパンに膨れ上がった隠し袋を切り離した。
袋の口を開けると、中から噛み砕かれた極上のローストビーフとソースが、生温かい汚泥となって排出された。
胃を満たすわけでもなく、血肉になるわけでもない。
ただただ、自身の体内に「腐敗のリスク」という爆弾を抱え込んだだけの徒労。
生者の営みである「食事」という行為に対する、アンデッドならではの圧倒的な虚無感と生理的嫌悪感が、彼女の冷たい空洞(胸の奥)を通り抜けていった。
汚物を処理し、リリアーナはふらつく足取りで化粧台の前へと向かった。
ここからが、彼女の至福の時間である。
汚れた腹部を丁寧に拭き上げ、新しい防腐液をたっぷりと染み込ませた布で全身を清める。
肩の関節、首筋、そして頬。
今日一日でヒビ割れ、酷使された部位に石粉パテを埋め込み、滑らかに均していく。その上から、油彩絵具で緻密な血色を描き直す。
筆が肌の上を滑るたび、彼女の指先から脳髄に向けて、ゾクゾクとするような快感が駆け抜けた。
自分がただの「醜い死体」から、「至高の芸術品」へと回帰していく感覚。
やがて修復が完了し、鏡の中に完璧な「社交界の真珠」が蘇った。
リリアーナは、陶磁器のように滑らかな自身の頬に触れ、うっとりと微笑む。
「……ああ、なんて美しいの」
だが、その全能感と陶酔は、長くは続かなかった。
ふと視線を落とした化粧台の引き出しの奥。
そこにあるはずの、彼女の存在を現世に繋ぎ止めるための命綱――「魔石」の輝きが、今にも消え入りそうなほどに鈍っていたのだ。
偽装呼吸のための扇子の強風、肩の関節の強制駆動、浄化の花を退けるための防空圏、そして隠し袋の接続と維持。
今日一日、死体らしからぬ無茶な行動を繰り返した結果、彼女はたった一日で「一ヶ月分」の魔力を消費してしまっていた。
さらに最悪なことに、彼女の視線は、机の端に無造作に積まれた紙の束を捉えた。
大量の『防腐液』と、最高級香水『夜の女王』の請求書。
その額は、裕福なヴェルデ公爵家の財政を一撃で圧迫するほどの、恐ろしい桁数に達していた。
このままでは、魔石を買う金が尽きる。
金が尽きれば、魔法が解け、物理的に腐る。
「……美しく死に続けるのも、金がかかるのね」
リリアーナは、鏡の中の完璧な自分に向けて、掠れた声で呟いた。
死体バレの危機は去った。だが、現実的な「リソース枯渇」という真の恐怖が、彼女の美しい首元に冷たい刃を突きつけていた。
早急に、莫大な金(あるいは金づる)を見つけなければならない。
こうして、死体令嬢の血の滲むような(血は出ないが)社交界サバイバルは、新たな局面へと突入するのであった。




