第1話:死に顔は妥協できない
死の瞬間、リリアーナ・ヴェルデが抱いた感情は、敬虔な祈りでも、未練による絶望でもなかった。
――嘘でしょう。こんな汚い顔で死ぬなんて、絶対に認められないわ。
深夜の中央階段。
三日後に控えた王宮舞踏会のため、一人でステップの確認をしていたのが災いした。
ふわりと広がった最高級シルクの裾が、リリアーナの華奢な踵を裏切る。
視界が上下に激しく揺れ、大理石の硬質な冷たさが幾度となく肌を打った。
最後に、首の奥で小枝を折ったような、乾いた音が響く。
パキリ。
その直後、指先から急速に温度が奪われていくのを感じた。
肺に溜まっていた熱い吐息が、無理やり外へと押し出される。
踊り場に崩れ落ちたリリアーナの視界に、近くの長椅子に置き忘れていた手鏡が映り込んだ。
「……あ……あ……」
喉を鳴らそうとしても、もはや声にはならない。
鏡の中にいたのは、首が不自然な方向に折れ曲がり、白目を剥きかけ、あられもなく舌を突き出した、一匹の泥まみれの野良犬のような女だった。
社交界の真珠と謳われた、リリアーナ・ヴェルデ。
その成れの果てが、この・・・。
恐怖よりも先に、猛烈な屈辱が全身を駆け抜けた。
このままでは、明日の朝に発見された際、使用人たちに『リリアーナ様、死に顔がとてもブサイクでしたわね』と末代まで語り継がれてしまう。
それだけは、死んでも死にきれない。
リリアーナは、懐に隠し持っていた魔導書の一部を、震える指先で強く念じた。
父の書斎から盗み出し、独学で読み解いていた禁断の美容術。
その実態は、肉体を強制的に静止させる死霊術の断片。
細胞のひとつひとつが、冷たい氷に閉じ込められていくような感覚が広がる。
心臓が最後の一拍を、重く、鈍く打ち鳴らし――リリアーナの意識は暗転した。
*
小鳥のさえずりが、やけに遠く、不明瞭に響く。
リリアーナは目を開けた。
視界の端に、昨日脱ぎ捨てたはずの夜着が見える。
どうやら無意識のうちに自室へ戻り、ベッドに潜り込んでいたらしい。
起き上がろうとした瞬間、全身に凄まじい違和感があった。
関節が、油の切れた古いからくり人形のように重い。
ギギ、ギ……。
骨と骨が直接擦れ合うような嫌な振動が脳に伝わる。
それだけではない。
どれだけ時間が経っても、一度も瞬きをしていない。
眼球の表面がひりつくように乾燥し、視界の端に砂嵐のようなノイズが混じる。
そして何より、胸元が、静止した湖面のように微塵も動いていなかった。
「……ッ」
息を吸おうとして、絶望した。
喉が、乾燥しきった革袋のように張り付いている。
リリアーナは、転がるようにしてベッドから這い出した。
這いずるたびに、肘や膝の関節から「パキパキ」と不吉な音が鳴る。
ようやく辿り着いた化粧台。
鏡を覗き込んだ彼女は、その場に凍りついた。
「…………ッ!!」
そこにいたのは、生ける屍だった。
昨夜の「最悪の死に顔」よりはマシだが、それでも惨憺たる有り様だ。
肌は血の気を完全に失い、不健康を通り越して土気色に変色している。
唇は紫色に濁り、あちこちに乾燥によるひび割れが見える。
さらに最悪なことに、首にはどす黒い内出血の跡が、醜いネックレスのように一周していた。
リリアーナは、乾いた空気が漏れるような音を喉から漏らした。
これは「死」ではない。
これは「美容上の致命的な欠陥」だ。
「……ふ……ふざけないで……」
ようやく喉の奥から絞り出した声は、人間のものとは思えないほど掠れていた。
だが、その瞳に宿る光だけは、死者とは思えないほどギラギラと燃え盛っている。
震える手が、化粧台に並んだ油彩絵具のチューブと、石粉パテ、そして筆を掴む。
死んで腐る暇などない。
リリアーナ・ヴェルデは、完璧でなければならないのだから。




