最終話
目の前で起きたことが、どうしても理解できず、ただその場に立ち尽くしていた。インターホンもスマホも、まるで沈黙を決め込んだ石のように音ひとつ立てない。
──やはり、名前がわからないと駄目なのか。
そう思いかけた時、視界の端に引っかかったのは、テーブルの上に置かれた一箱のセブンスターだった。
自分はいつもハイライトしか吸わない。だからこそ、その存在に強い違和感を覚えた。指先で恐る恐る箱をつまみ上げる。思いのほか軽い。蓋を開けて中を覗くと、煙草は一本も入っていなかった。空箱──?
ふと、箱の底に何かが書かれているのに気づいた。
君が私のことを忘れませんように
朱色のインクで走り書きされたその言葉は、にじんでいて、かすれていた。まるで泣きながら書かれたかのように。
何かが心の奥でゆっくりと形になろうとしていた。でも、それを認めてしまえば、もう元には戻れない気がして、脳が本能的に拒んだ。
それでも、どうしようもない喪失感が胸にのしかかってくる。自分の記憶のどこかに、彼女は確かにいたのだ。だがその輪郭は、まるで煙のように掴めない。
一度、落ち着こうと思った。机に残された煙草に手を伸ばす。願いなど、もはや誰に届くものでもない。それでも──せめて、もう一度だけでいい。彼女に、会いたい。
そんな祈りにも似た言葉が、かすれた声となって口から零れた。何にも応えられずに、それは部屋の隅に、床に、空気の粒に、静かに散っていった。
ぼんやりと滲む視界をごまかすように、煙草をくわえて火を点ける。ライターの火花がはじけ、紙が焼け、甘い香りの煙が立ちのぼる。その煙を、深く、深く、肺に流し込んだ。願うように。忘れたくないという、ただその一心で。
その煙草の箱には、確かにこう記されていた。
──キキョウ。