プロローグ
親愛なる友たちへ捧ぐ
君は知ってる? “口のない男”の話を。今回はそんなヒトの話。
桜が満開だった。春らしい陽気のなか、老若男女のざわめきが公園の空気をやわらかく震わせている。けれど、俺はその景色をどこか他人事みたいに眺めていた。
この公園は家からすぐ近くで、子どもの頃はよく家族や友達と遊びに来た場所だ。初めて煙草を吸ったのも、たしかこのベンチだった気がする。そんなことを思い出して少しだけセンチメンタルになっていたとき、隣のベンチから聞こえてきた会話にふと耳が止まった。
「ねえ、今日なんでマスクしてるの?」
「寝坊してメイクしてないからだよ」
「スッピンでも可愛いのに。特にさ、口元がすごく綺麗」
口元が綺麗って、どんな感じなんだろう――そんなことを考えていると、会話の続きが聞こえた。
「それよりさ、聞いた? 口のない男の話」
「……口裂け女じゃなくて?」
そう言いながら、彼女はマスクをずらして大きく口を開ける真似をして笑っていた。
「そんな都市伝説、流行んないよ」
「でもさ、本当にいるんだって」
それっきり、彼女たちは立ち上がって、話題を変えながらどこかへ消えていった。
そういえば最近、駅の中に有名なカフェチェーンができたっけ。昔はよく、何かを探すみたいにあちこちのカフェを巡ってたな――そんな思い出が、珈琲みたいに苦く頭をかすめる。
気づけば、夕暮れのチャイムが流れていた。周囲の人の気配はすっかり薄れていて、ベンチにいるのは俺ひとりだった。
茜色に染まった空の下、ポケットから取り出したセブンスターの空箱をそっと握る。何かを祈るように、何かを隠すように。
そして、顔の下半分を覆ったマスクの位置を静かに整えた。