3. 幕間 料理講座:つけ麺-2
「つけ麺のスープがぬるくなるという課題において、対処方法は大きく分けて3つある」
貝塚はそう言いながら指を3本立てた。
「まず、スープを冷たくすること。冷たい麺と冷たいスープという組み合わせなら、熱いスープがぬるくなって不味いということにはならない」
貝塚はホワイトボードに「スープを冷たくする」と書く。
極めて単純なやり方だが、最初からスープが冷たければぬるくなるという問題は解消できる。
そして、注記として「氷を使わない」と書いた。
「この方法を取る場合、動物性脂肪などが冷えて固まるため除去が必要になる。また、冷やすために氷を入れては駄目だ。やりがちなミスではあるが、氷が溶けてスープの味が薄くなるため美味しさの持続力が低下する。ただでさえつけ麺は麺を洗うことで水分を含みやすい。そこに加えて、ラーメンに比べてスープ量が少ないつけ麺では氷による味の変化が大きく、後になるほど味が薄まって不味く感じてしまうのは避けられない」
動物の脂は部位にもよるが30-40度くらいで固まってしまう。
そのためスープを冷たくする場合にはこれらを取り除かないと、白く固まった脂を食べるという全く別の料理になってしまう。
また、氷を入れた場合、食べている間にどんどんスープの味が薄まっていくことになる。
茹でた野菜が山盛りになっているラーメンでも似たような現象は起きる。
食べ始めた最初は美味しいのに後になるほど味が薄まっていくようでは、どうしても評価が落ちてしまうから避けるようにと貝塚は指摘した。
「次に、温度差を広げること。つまりスープを可能な限り熱くするという話だ」
先ほど書いた文字の隣に「温度差を広げる」と書く。
煮えたぎるほどスープを熱くすれば、そう簡単にはスープは冷めなくなるというアプローチである。
しかし、このやり方には根本的な問題があった。
「残念だが、これだとスープが麺で冷やされるという当初の問題は解消しない。スープよりも麺の量が多いため、口内でぬるく感じるという問題も変わらない。やるのであれば、麺の量を減らすかスープの量を増やすなどして、スープが冷える前に食べ終わるように設計する必要がある。このやり方が駄目だとは言わないが、安易にスープを熱くすれば良いというわけでもないと理解してくれ」
このやり方の場合、スープが必要以上に煮詰まるため味の調整が難しいという問題も存在する。
特にスープの器ごと火にかけるようなことをすれば、逆にスープを冷まさないと味が濃くなり過ぎてしまうため本末転倒になりかねない。
「最後に、常温でも美味いスープを作る。早い話が、老舗の蕎麦屋が出すざるそばだ。麺は冷やしても、つゆは常温に近いものを出す」
先ほど同様、「常温でも美味いスープを作る」と書く。
人間が美味しいと感じる冷たい飲み物は5-10度ほどと言われており、飲んだ時の口当たりがすっきりとしたものへと変わる。
常温とは15-25度ほどを指すが、こちらの場合は口にした時に若干ぬるいと感じる温度のため、スープを冷やした時ほどの刺激がないためその点では一歩劣る。
「麺で多少冷えることは計算しなければいけないが、こちらであればスープを冷たくするよりも食材の選択肢が増える。なにより、人間の体温に近づくことで味がはっきりと分かるようになるという利点がある」
「スープを常温にする場合でも、温度や種類によっては動物性脂肪が固まります。脂肪による味わいやコクは何の食材で補えばいいのでしょうか?」
今度は先程の女性ではなく、黒髪短髪の若い男性が手を上げて質問する。
融点が低い豚の脂、いわゆるラードでも25度以下となれば固まってしまう。
つまり、常温のスープという縛りの中ではラードは利用できない。
動物性脂肪を山盛りにしたラーメンは根強い人気を誇っているが、脂肪のもたらすコクや風味というものはそれだけ魅力的であり、それを使わないスープではどうしてもインパクトで負けてしまう。
このインパクトの差をどうやって埋めればいいのかと、質問した男性は聞きたいわけだ。
質問された貝塚もこの悩みは理解しているようで何度も頷いている。
「冷やしても影響のない味噌やきのこ、干し魚の出汁で味を補強するのが楽だな。もしくは植物油や魚油を使えば、手軽に油の香りやコクを加えることもできる。ココナッツ油などは冷やすと固まるため、冷たいスープを作る場合には油の種類に注意するように。もしくはスープをドロドロにして、動物性脂肪を練り込んだスープに仕上げるという手もある。こちらの場合はスープの温度を少し上げないといけないな」
融点の低い植物脂などであれば、常温以下であっても固まることはない。
例えばマヨネーズは圧倒的なコクを持つ人気の調味料だが、成分の7割が植物油という文字通り油の固まりである。
マヨネーズを見倣って植物油をスープに入れれば、動物性脂肪を使わなくともスープに油由来の味わいをもたらすことができる。
「動物性脂肪の話も重要だが、スープの温度は具材の選択にも大きな影響をもたらすぞ。ラーメンと同じようにつけ麺にチャーシューを添える店は多いが、チャーシューは冷えたままだと脂が溶けないので口当たりは悪く不味くなる。正直なところ、個人的にはスープがぬるくなるよりも、冷えた脂を食べさせられる方がきついと思う。脂肪の少ない部位を使うか、それこそハムを分厚く切って乗せるといった工夫が必要だ」
そう言って貝塚はホワイトボードに「具材の選択」と書いた。
貝塚の説明を聞いて、聴講者たちは冷えて白く固まった脂を想像する。
料理をしていれば固まった脂を見るのは珍しくもないし、世の中には脂肪を食べる料理も存在するが、あれをそのまま食べろと言われればきついだろう。
ラーメン屋が出すつけ麺の具材は共通したものを使うことが多い。
その時の体験を思い出したのか顔を歪める者もいた。
「こういうことを考えていくと、ラーメンというのはスープが主体の料理なんだなと思わされる。大量の熱いスープがあるからこそ許される調理や食材の幅は広い。それが無いつけ麺はラーメンよりも難しいというのが個人的な感想だ」
部屋全体を見渡しながらそう言う貝塚に対し、今度は髭面の30代と思わしき男性が声を上げた。
「スープの話とは別になるんですが、私はつけ麺を食べる時に麺の匂いが気になることがあります。これはどうにかならないのでしょうか?」
ラーメンやつけ麺では中華麺を使用する。
中華麺はかん水を加えることで独特の食感を生み出しているが、その代償としてアンモニアの鼻にくるような匂いも出てしまう。
微量の匂いであれば中華麺らしい匂いということで受け入れられるが、かん水の量が多すぎれば単純に臭いと言われてしまう。
かん水以外の素材の匂いなどもあるが、特につけ麺は麺が主体となるだけに、ラーメンよりも麺の匂いに敏感になるのは避けられない。
質問を受けた貝塚も、あーそっちの問題もあったなと呟いた。
「麺の匂いがきつくなるのにはいくつか理由がある。まず、麺保存用のアルコールが蒸発したり、麺を常温保存している間に水分が蒸発したりしてアンモニア濃度が濃くなるパターン。かん水の含有量が多く、元々匂いがきついというパターンもあるな。スープのアミノ酸が多い場合、麺のアルカリ性と混じってアンモニアが遊離して、その匂いが鼻に来るということもある」
「アンモニアをどうにかすればよいということですか?」
「本来、麺を茹でるという行為にはアンモニアを抜くという意味もある。だから茹で時間が短かったり、お湯を適度に変えていない店では麺の匂いがきついことが多い。とは言え、アルコールと違ってアンモニアを0にすることはできないのが辛いところだ」
ラーメン屋に限らず、飲食店では用意した素材をその日に使い切れないことは珍しくない。
麺であれば翌日に持ち越すことはおかしくないが、水分が抜けた分だけ匂いはきつくなる。
スープが時間経過で酸化するのと同じように、いつ用意した麺なのかで味は変化することになる。
それらを踏まえた上で麺の湯で時間を変えれば今度は麺の食感が変わるため、それが料理の腕による味のブレなのか判断することは簡単ではない。
加えて、食材の回転が悪い、つまり客が少ない店ほど味が悪くなりやすいという話になるため、どうにかしろと言われても困るというのが経営者の本音となる。
この話を聞いて聴講者の1人が頭を抱えているが、恐らくラーメン屋か何かを営んでいて、似たような問題を経験したことがあるのだろう。
「さて、理論的な話はここまでだ。次はキッチンに移動して各自何か料理を作って貰う。つけ麺である必要はないが、今日出た話を踏まえた工夫をすること。互いに料理を食べて評価して貰うからある程度の量を作るように。では、解散」
貝塚の指示に従って聴講者たちは立ち上がって移動を始める。
しかし、貝塚がキッチンとは別の方向へと向かい出したのを見て柿本は呼び止めた。
「師匠はどこに行くんですか?皆の調理内容を確認しないんですか?」
「準備があるからな」
「料理は作らないんですよね?」
不思議そうに首を傾げる柿本だが、こういう時の貝塚を放置すると良くないことが起きるという経験が警告を発していたので、半眼になって問い詰めようとする。
「料理の評価には複数の視点が必要だろ?その準備だよ」
しかし、貝塚は答える気がないようで、ニヤニヤ笑いながら再び歩き出した。