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第一話

 「次はぁ、岡崎神社前、岡崎神社前ぇ。お降りの方は―」

 スピーカー越しの運転手の声が空気を震わせる。窓ガラスに頭を預けながらバスの揺れを感じていたアメフラ氏はゆっくり身を起こし、降車ボタンを押した。室内灯が乗客の後ろ頭を灰色に照らしている。窓の向こうではうつむきながら帰路につく人々が行き交っていて、葬儀帰りのようにもれなく暗い顔だ。ガラスに映る自分と目が合う。くたびれた老人。顔には手相のようにしわがひしめき合い、深いほうれい線は卑屈な吝嗇者みたいだ。髪は前からも上からも薄くなり、右目の横には痣のような濃いシミがある。六〇代でこれなら八〇歳になる頃には丸めた紙くずみたいな顔になっていてもおかしくないな、と思いながら彼は前を向いた。停留所はすぐそこに見えている。


 キー、ゴン、という味気ない音とともにバスの降車扉が開き、一人、二人とバスから降りていった。アマフラ氏も降車口に立つと、一二月の京都に冷やされた外気たちが、彼を押しのけて我先にと暖房の効いた車内になだれ込んでくる。彼は名残惜しそうに振り返って車内を見つめたが、後ろに立っている降車客に気おされ、慌ててバスの外へ出た。

 冬の空気は靴底を器用にすり抜け、硬いアスファルトが右足を受け止めた。重い衝撃が右足から腰にかけて走る。還暦を迎えてからというもの、身も心も急に老け込んだ気がするな。まあ、どうしようもないことだ。老人はそのようなことを漠然と考えながら道路を挟んだ向こう側にあるスーパーマーケットへ歩き出した。


 スーパーの自動ドアが開くと、再び暖房の熱がアマフラ氏を包む。生ぬるい空気が体中の毛穴をこじ開けていくのを感じた。彼はドアのすぐそばにある買い物かごを手に取り、精肉や青果の売り場には目もくれずに惣菜売り場へ早足で向かっていく。時計が指すは二〇時五分。老人は折りの悪さに顔をしかめた。このスーパーでは一九時頃には20%引きのシールが貼られ始め、二〇時頃には半額のシールが貼られ始める。しかし、厳密な時間は決まっていないようで、二〇時になってすぐにシールが貼られていることもあれば、三〇分経っても20%引きのままのこともあった。この日はどうやら後者のようで、売り場には20%引きのシールが貼られた惣菜がたくさん並んでいた。売り場をチラチラと見ながら近くを歩き回っている他の買い物客たちも彼と同じように半額の惣菜を狙っているようだ。彼はいくつかの惣菜に目星をつけると、他の売り場で時間を潰すために歩き出した。

 アマフラ氏は目的もなくスーパーを歩き回った。鮮魚、精肉、加工肉。冷凍食品、チルド品。ソフトドリンク、スナック菓子。カップ麺に菓子パンに、缶詰たちと日用品。幾度となくそれらの横を通り過ぎるも、彼の視線は惣菜売り場の方を向き続けていた。

 一〇分ほど歩き回った後、今度は惣菜売り場を回り始めた。シールを持った店員がやってこないか常に周囲へ気を張りながら、買うつもりもない惣菜とにらめっこをするのだ。あたかも自分がただ今日の夜飯を買うことのみ考えていると見えるように、自分が半額のシールを待ち望んでいることを気づかれないように。

 弁当コーナーにいるくたびれたハンバーグやアジフライたちと視線を交わしていると、一人の男性が惣菜コーナーにやってきた。アマフラ氏が店内をうろつき回っていた時に見かけなかった顔なので、どうやら彼は来店したばかりのようだ。アシックスのウィンドブレーカーを着たその男性は、惣菜売り場を早足で一周した後に一つ一つの商品をじっくり見つめ始めた。深いクマの上にある瞳は気だるげな光を放っている。きっと彼も半額になった時に備えて今のうちに品定めをしているんだろう、とアマフラ氏は推測を立てて今度はふやけた唐揚げとにらめっこをしようとした。しかし彼の予想に反して、視界の隅でその男性の腕が動いて何かをつかむのが見えた。老人は、ギョッとし思わず、そちらを向く。あかぎれまみれの指に挟まれていたのは天丼だった。


 雷に打たれたかのような衝撃が走り、老人はすっかり硬直してしまった。透明な蓋の向こうにいる天ぷらたちと確かに視線を交わす。

 細長く、ボコボコとした衣をまとっているのはエビ天だ。端から控えめに自己主張するさくらんぼのように赤い二叉の尾ですぐに分かる。そしてその赤さは衣の下に眠っている身が赤子の肌のようにプリプリであることを示唆していうようなものだ。そんなエビ天が二尾も入っている。その近くにあり、薄い衣をカーディガンのように着こなしているのはピーマンの天ぷらだろう。時間の経過でへたれることなくアーチ状に自立していることからその瑞々しさが窺える。衣の隙間から覗く夏の若葉のような新緑色を見ているだけで口の中にピーマン特有の苦みが広がる。横にいるのはレンコンの天ぷらに違いない。中心を取り囲むように空いた大きさの等しい穴は、採れたてであることの証明だ。そのベージュ色の穴は深く、見ているだけで健康な羊の毛に包まれた気分になる。シャキシャキとした肉厚さも容易に想像できる。少し離れたところで寡黙に佇んでいるナスの天ぷらも見落としていない。厚い衣にくるまろうとも強い存在感を放つ紫がかった黒色だけでも、旨みをしこたま蓄えて育ったことを計り知れる。柔らかい身を噛んだ瞬間に口の中に流れ込んでくるトロトロの汁に思いはせながら唾液を飲み込む。勿論、彼らを支える白米のことだって忘れてはいない。炊きたてでフワフワの白い宝石たち。天ぷらに注がれている茶色でコッテリとした甘いたれはご飯にまで染みこんでいる。天ぷらを食べた後に余った米をかき集め、たれに浸して食べるのだろう。

 なんてうまそうな天丼なんだ。アマフラ氏は心の底から後悔した。どうして最初にあの天丼が目に入らなかったんだ、と。


 老人の願望もむなしく、男性はその天丼を買い物かごへ入れて別の売り場へ向かっていく。どうやらあれが最後の一つだったようだ。しばらくの間、あの天丼があった空間をアマフラ氏は眺め続けていた。炒飯と白身フライ弁当の間の惣菜が一つだけ収まりそうな空間は、あの天丼が実在したことを逆説的に示している。その隙間を見ていると、彼は自分の内に存在する欠落に気づいた。不思議な感覚だった。どうやらその欠落はたった今生まれたものではなく、ずっと彼の内にあったものだ。この欠落に直面した瞬間、彼はどんな感情も抱けなかった。

 無感情を通り過ぎると、今度は体の芯がふつふつと煮えるような感覚がやってきた。この空しさはあの天丼のせいだ。あの天丼は俺の心の一部だったのだ。どんな手を使ってでも、あれは俺に食されなければならないんだ。血液が頭へ巡っていく感覚は今まで体験したことがないほど力強く、体の内側から顔が火照って両手がこわばっている気がした。


 老人は例の男性を探すのに苦労していた。スーパーは決して広くはないので、周りに視線を配りながらそれぞれのコーナーを通ればすぐに見つかりそうなものだったが、気の毒なことに彼は平静を欠いていたのだ。そのため、正面をにらみながら早足に歩いては同じ売り場をぐるぐる回ったり不意に呆けたように立ち止まったりというのを繰り返していた。それに加え、彼の目は完全に自身の中へ向けられてしまっていた。服にいつの間にかできていた虫食いようなその欠落にすっかり気をとられていたのである。

 五分ほど歩き回ってようやく鮮魚売り場にて見覚えのあるウィンドブレーカーを着た男性を見つけた。買い物かごの中にはあの天丼が入っている。アマフラ氏は安堵すると同時に落胆した。もしかすると彼の気が変わって天丼を元の場所に戻しているかもしれないと思っていたからだ。それ以降、彼は男性につきまとっていた。というよりは、天丼を追いかけていたと言った方が正確かもしれない。

 男性を追いかけて、鮮魚コーナー・ドリンクコーナー・カップ麺コーナーと歩いて行くうちに、老人の心にあった欠落はどんどん大きくなっていた。穴を中心に、池に張った氷を叩いたかのようなひびが広がる。その天丼は俺の心そのものなんだ。俺に食べられたがってるんだ。お前みたいなモノの価値を知らんガキに消費されるために存在するんじゃないんだ。彼はそう思いながら男性をねめつける。分かったらいい加減にその天丼を俺によこせ。若い男性の歩幅に合わせて一歩また一歩と足を運ぶ度に、心のひびが広がり、欠落の破片がポロポロと剥げていき、欠片がどこかの底にぶつかって跳ねる音がした。

 穴が広がって完全な無になると、アマフラ氏はその場に立ち尽くした。店内に響く音楽やアナウンスも水中にいるかのように遠く聞こえる。耳を澄ますと何かが聞こえる気がした。間欠泉が湧き出るような、そんな音だ。例の男性が彼の前を通り過ぎる瞬間、明確な音を伴って大量の水が心の中に溢れかえった。赤と緑と白と紫の、絵の具を溶かしたような透明な水。それらは完全に混ざり合うことなく、マーブル模様を彩なしていた。馬鹿らしい。殴ってでも、最悪殺してしまってでも、取り戻せばいい。あの野郎、このまま俺の天丼を奪って逃げるつもりだ。カラフルな水は心にとどまらず、アマフラ氏の眼前まで溢れ満たす。赤や緑や白や紫に染まった透明な視界の中で、憎い盗人の後ろ姿を捉えていた。トロい奴だ。今すぐお前の首根っこをつかんでそのまま地面に叩きつけてやる。しかしその時、男性の背中の先にあるレジが目に入った。彼がかごをカウンターに載せると、店員は天丼を手に取って読み取り機にかざしていく。ピッ、という呆気ない音を合図に、老人を満たしていた水はあっさりと引いていき、それに伴い、彼の顔は次第に青くなって体中に悪寒が走り始めた。

 会計を終えた男性が彼を一瞥した気がしたが、そんなことを気にとめる余裕もなかった。


 テレビの明かりだけで照らされたワンルームの一室で、アマフラ氏は半額の唐揚げ弁当を食べていた。唐揚げの衣はぶ厚く、ヘナヘナにしなびている。タレもベタベタと粘っこくて過剰に甘く、嫌な後味が残って仕方がない。あの天丼ならこうはならなかったはずだ。老人は目を瞑ったが、カラフルな水どころか、ヒビさえも見えない。見渡す限りの無がそこに広がっていた。


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