町へ行こう
当初はどうなるかと思ったが拍子抜けする程穏やかな日々が続いている。夫となった人と顔を合わせることはないが、使用人達はよくしてくれて、食事も季節の食材を取り入れた新鮮で美味しいものが出てくる。
このところ体に肉がついたなと思い、その話を侍女にすれば、「今までが細すぎたのです」とどこか怒った口調で返された。彼女は年が同じくらいで、時々話し相手になってくれる。
それでもこの日々がいつ終わるかわからない。
だって母が生きていた頃は幸せだったのに、いなくなった途端平穏な日々は終わってしまったから。
不安は消えないのだ。それならばいざという時の為に備えておこう。幸い私にはビアンカが渡してくれた宝石がある。義妹がどういうつもりでこれを渡してくれたのかはわからない。でも大切に使わせて貰おう。
まずは領地の人々が、平民の方がどんな生活をしているから見てみたい。私でも何かできる仕事はあるだろうか。あとはここを離れる方法も知りたい。他のどこか遠い所へ移る手段も調べなければ。
一番重要なこと、それは辺境伯にバレないこと。絶対に見つからないように準備を進めなければ。
私は侍女に領民の生活を見たいと、町へ出てみたいと話をした。彼女は旦那様に相談してくださいと渋る。それでも何度も頼み込む。彼女と顔を合わせる度に懇願した。
「旦那様のお手を煩わせるのが申し訳ないの。ほんの少しの時間でいいから」
何度も何度もしつこく頼み込む。するとある日根負けしたと言わんばかりに、小さく頷いてくれた。
「ちょうど明日町に用事があるのです。でも町で目立たない服に着替えて頂くことになりますよ」
その言葉に私は強く頷き、何度も感謝を伝えた。
翌日、地味な服を用意して貰い、侍女と共に裏口から出た。目立ってしまうので他の従者はなしだ。二人でいれば姉妹に見えるのではなかろうか。
屋敷の外を歩くのは初めてだ。舗装されていない道には野花が咲いていた。畑では農民たちが手入れをしている。こんな広大な土地を扱うのは大変そうだなと思う。私が農民になるには力をつけないと無理そうだ。
暫く歩くと賑やかな場所にたどり着いた。
「奥様、ここが小さいけれど町でございます」
そう小声で教えてくれた。
人々は皆穏やかな表情をしていて優しそうに見える。皆が満ち足りているのだろうか。
王都では街を歩くのは危険で、絶対に馬車から出てはいけないと言われていた。貴族が歩いていると平民から金目の物を狙われ、さらには誘拐されることもあると聞いていた。そんなことになったら面倒だからと言われていたのだ。ここはそんな風には見えない。
食べ物屋、雑貨屋、鍛冶屋、色々な店が連なっている。侍女は用事があるという店に私を連れて入った。そこは色とりどりの布や糸が並べられた場所だった。
「せっかくですし。奥様、刺繍をされたらいかがでしょう」
そう耳打ちしてくれたので、布と糸を選ぶことにした。彼女も注文が終わり、私の選んだ物と共に屋敷に届けて貰うことになり、店を出た。
「休憩しましょうか」
そう言って道に置かれたベンチに私を座らせると、すぐ傍にある食べ物屋で彼女は何かを買ってきた。手渡されたのは焼き菓子だった。折った紙の中に入れられてじんわりと温かい。
侍女も同じものを手にして、隣に腰掛ける。そして食べてみせた。
「甘い焼き菓子です。よかったら食べてみてください」
そう言って幸せそうに微笑んだ。私も一口齧ると自然と笑みが溢れる。素朴で優しい味わいのお菓子だ。懐かしい気持ちがこみ上げてきた。
「お口に合いますか?」
恐る恐る尋ねる彼女に私は頷いた。
「昔まだ私の母が生きていた頃、こういうお菓子を焼いてくれたの。出来上がった菓子を今みたいに並んで食べたの」
「それは素敵な思い出ですね」
「優しい味のお菓子、とっても美味しいわ。ありがとう」
「そんな、お礼を言われる程のことなんてしていません」
侍女は顔を赤くして小声で呟いた。彼女の優しさが、人柄が、じんわりと私の心を温めてくれる。
「さあ、そろそろ戻りましょうか」
侍女の言葉に頷いて、屋敷への道をまた戻っていった。幸せな気持ちでいっぱいだ。今なら何でもできそうな気がする。
そうだ、刺繍を練習して速く上手に縫えるようになればお針子の仕事ができるかもしれない。これから練習すれば上達していくはずだ。そうしたらどこかの町でお針子になって素敵なドレスを作るのだ。花のようなドレスやレースのようなドレスを想像しては楽しい未来を思い描く。
今日は本当に良い一日だった。私は幸せな気分で侍女に続いて裏口から屋敷へと入ったのだった。