22 この先林檎を見る度トラウマを思い出すかもな俺
その頃、皇帝の執務室では……。
「……エドゥアール・ギュイ……!」
地獄の釜の蓋を開けたようなおどろおどろしい空気と、一声聞けばどんな者でも一度は凍りつくに違いない超高圧のくせに極低温な怒声が床や壁を這った。
この少し前、当の赤毛の騎士隊長に林檎になる魔法を掛けた張本人たる男ハインツは、きっとそろそろ差し入れの品が修道院内に入っただろうと見越して机の上の球体に遠視魔法でその光景を映し出したのだ。彼も修道院内の様子は気掛かりだった。
だからこそ臣下を林檎に変え、その林檎周辺に限っては遠視魔法が察知されないような秘匿魔法を掛けての内部偵察に出たのだ。
因みに、修道院内で後は自分でどうにか魔法を解いて更に詳しく内部の様子を探れとも命じてある。
動けない林檎に変えておいて自力で解除しろとは何とも鬼である。
そして解除方法は林檎だけに誰かに齧られるという酷な条件でもあった。
齧られる=口付ける……とも物理的接触という観点からは言えるので、魔法を解く定番の方法たるキスが解除方法と言えなくもない。いやもうまさに全っ然その通りだ。
好きな女が他の男にキスをするなど、ハインツが殺意を抱くには十分だろう。
執務室内の窓ガラスに無数のヒビが入った。
ただ、エドゥアールとアデレイド両者の間に置きた出来事は、ハインツにも全くの想定外だった。
ハインツとしては正直な所エド林檎はアデレイドではない誰かに齧られると思っていたからだ。
何故なら、彼の良く知るアデレイド・ロジェは生の林檎を好まない。
しかし、彼女は進んで口にした。
これが単なる日常の光景だったならその点に驚き益々異なるアデレイドへの思索を深めただろう。だがそれ所ではなくなった。よりにもよって最愛のアデレイドの前で無様に全裸でのた打ち回る失礼無礼を最早思い切り宇宙レベルで超越したクズ男の図を目の当たりにしたせいだ。
ハインツは百二十%の殺意を抱いた。
今度は危うく机の上の球体を壁に投げ付ける所だったがハインツはどうにか堪えた。もしも投げていたなら壁を五枚は貫通させていただろう。
日頃から修道院への差し入れは珍しくはなく、それが果物なら特に魔法の有無を厳しく調べられたりはしないと踏んでエドゥアールを潜入させたのはハインツだ。
ハッキリ言って後悔しかない。
皇帝たる者が修道院で魔法を行使するなど禁忌を破るのかともしも誰かに非難されても、入る前から元々魔法が掛かっているものはセーフだと言い逃れられるセコい手に出た自業自得だろうかと自問自答もした。
「くそっ、あの男は何をやっている。さっさと部屋を出ろ」
破廉恥三昧な臣下へとハインツは怒りの余り頭痛までしてきた。
アデレイドが修道院に留まって病の原因を突き止めたいとしているからこそ、彼はエドゥアールをその調査のために潜入させた。そうして自分たちの方で原因を究明し事態を収束させれば、自ずとアデレイドは修道院から出てくるだろうと、彼はそう思っているのだ。
しかし、エドゥアールの存在は最悪の形でアデレイドに露見してしまった。もうひたすら嘆くしかない。
その一方でハインツは淑女たるアデレイドが嫌な物を見たと卒倒しなくて良かったと心底安堵してもいた。
球体の中に映る彼女はよろめく気配もなく、むしろ逞しくも気遣わしげな顔で破廉恥隊長を見下ろしている。
そんな彼女が次のような衝撃発言をした。
『ええと、知らなかったとは言え齧っちゃって悪かったよ、エド。大丈夫か……? ほらとりあえずこれでも巻いとけって、――俺のシーツで悪いけど』
アデレイドの使っているシーツ。
エドゥアール、とハインツは地獄の門番でも脱兎の如く逃げ出すような怨嗟の呟きを漏らした。
シスターたちによって昨夜の分は既に洗濯され新しい物に取り換えられているのだが、そんな細かな事実までを彼は知らない。
銀甲冑を借りていたという恩義がなければ、この先間違いなくエドゥアールの命はなかっただろう。
『とりあえずそこのクローゼットに隠れとけって。ここで見つかったら大目玉だろ? 詳しい理由とかは後できっちり聞かせてもらうけどな』
全裸男にも動じない頼もしい令嬢の姿にちょっとトキめいたハインツは、彼女に大きな不安はなさそうだとしてここで遠視の魔法を切った。正直に言えばこれ以上変な場面を見たくなかった。
彼とて、普段騎士としては有能な臣下を私怨で失いたくはない。
「人任せにするのはやはり良くないな……」
一つ教訓も得て短く嘆息した栄光の皇帝陛下は、うっかりヒビを入れてしまった窓ガラスの全てを魔法で瞬時に修繕するのだった。
他の人間に見つからないようにエドにはクローゼットに隠れてもらったけど、ものの数分でおばちゃんシスターに見つかった。
エドの野太い悲鳴をばっちり聞かれてたっぽい。
現在俺は気まずい面持ちで大人しく椅子に腰かけ、おばちゃんシスターは居丈高に腕組みして仁王立ちし汚物でも見る目で睥睨している。彼女の真ん前に正座させられている全裸にシーツを巻いただけの赤毛の不審者を。
「ええとシスター、こいつは俺の知り合いで、手違いでこんな事になったって言うか……」
「アデレイド様……もしやこの男があなたの恋人ですか?」
「へ? まさか~」
「ごごご誤解です某ではありません!」
俺は笑い飛ばしたけど、エドは血相を変えて全否定した。まあハインツに聞かれたら立場が悪くなるだけだろうしな。
にしてもさ、シスターの言い方からすると俺に誰か交際相手がいるって確信してるよな。本当にこの人はどこまで何を気付いてるんだ?
とは言え、とりあえず今はエドの処遇だ。
シスターは今にもエドの首根っこを捕まえて窓から放り出しそうな般若みたいな形相をしている。男らしい厚い胸板とシックスパックだったエドの筋肉美に見惚れたりしない辺りシスターも中々のもんだ。こんな出来た体付き、普通の婦女子なら垂涎ものだと俺は思うね。
まあ俺は理想の同性として憧れるだけで特に何も感じねえけど。
それに魅せる肉体美って観点から言えばハインツの方が綺麗で……って何考えてんだ。
手まで振って脳内の脱線した思考を追い払うと、俺はごそごそとドレスのポケットを漁った。
正直エドが突き出される場面なんて気の毒過ぎて見てらんねえよ。ったくハインツも酷な任務を与えるぜ。
だから俺がこれからする事は一か八かの賭けだ。
俺はずずいっと上向けた両掌をシスターへと突き出した。
「シスター、どうかこいつを見逃してやって下さい。――これで!」
これで、これで、これで、これで……と俺の声がエコーがかった室内は急にしんと静まり返った。
シスターが両目をこの上なく大きく見開いている。
その二つの瞳にはキラキラした装飾品の輝きが映っている。
今、俺の両手の上には俺の賄賂の一部がてんこ盛りだった。
「こいつは、エドは、俺のかけがえのない友人なんです。だからお願いします!」
「ううう、アデレイド嬢~ッ」
エドが感動したように涙ぐみ堪え切れないように口元を押さえた。ただし絵的には白ける。現に俺もシスターも彼の方を一顧だにしなかった。
「こいつは路上のジョンって子の面倒を見てやったりしてて、いい面もあるんです。ですから無罪放免でお願いしますシスター! 金で解決なんていけない事だってわかってますけど、エドも初犯……だとたぶんそう思うんで」
「初犯ですよおおお!」
「どうか今回だけは見逃して下さい! これはシスターの自由に使って下さって構いませんから!」
俺は輝く金品を駄目押しするようにシスターの面前へと更に近付ける。
悪徳シスターを見つけて使うつもりだったけど、その計画も崩れかけてるし無駄に手元に置いておくよりはこうやって一縷の望みを託す方が得だ。
さあさて、賽は投げられた。
この先どう転ぶ?
シスターはゴクリと警戒するように咽を鳴らす。
俺もエドも緊張の汗をじわりと滲ませ、彼女の一挙一動から目を離せない。
「アデレイド様、あなたってお人はっ…………」
シスターの声が憤りのためかやや声高になった。
くっ、やっぱ敬虔なシスターにはこの手はむしろ侮辱と同列で逆効果だったか……ッ。
「――話のわかる方ですねええっ!」
…………。
はい、かくしてエドは無事に難を逃れられて、そこらをうろついててもすぐには不審がられない男物の修道服まで用意してもらえました~。めでたしめでたし。
おばちゃんシスターは、悪徳シスターだった。
ハハ、まあこっちにとっても都合が良いから助かった……。
そんなわけで、シスターは賄賂に応じて色々と協力もしてくれるようだった。
早速と更なる賄賂を渡して、エドのここでの滞在用隠れ場所も用意してもらった。順調順調~。
破廉恥ハプニングが収拾した所で、必要になったら呼ぶからとシスターには退室してもらってエドに着席を促して話を聞けば、彼はここには密かに病の調査のために来たって正直に話してくれた。それもこれも俺にここに留まって欲しくないからみたいだけど、エドはさ……俺とハインツのとばっちりだよな! 何かもうめっちゃごめんな! もしもハインツに殺されそうになった時は、精一杯庇ってやるからな。
そんな決意を胸にする俺は、聞けるうちにとエドから他にも話を聞いた。
「街中の方は少しは落ち着いたのか?」
街には皇帝命令で騎士たちが薬とかの物資を沢山運び込んでるらしいってシスターたちが言っていたっけ。修道院の中まではさすがに踏み込んではこないけどな。
救援って目的だし、薄々街の異常事態に気付き始めていた人たちは早期の対策に諸手を上げて喜んでいるから、教会サイドも表立っては文句を言えないみたいだな。でも基本教会サイドのシスターたちもこの件に関しては好意的だった。
「そうですね、薬とあとムンム医師のアドバイスのおかげで、罹患した者の症状も幾分良くなっているようですよ」
「えっ? ムンム? 来てんの!?」
「ええ、来て数日だそうです」
えー、何だよ水臭いなあ、こっちに顔出してくれてもいいのに。ああでも街の現状を放っておけなくて動いてんなら、そっちに集中してほしいかも。
「ムンム医師が言うには、症状が食中毒に似ているので直接口に入れる物は必ず加熱するようにアドバイスしているそうで、それが功を奏しているのかもしれません」
「ふうん、煮沸消毒が効くならそれは朗報だよな」
とすれば、やっぱり原因は食べ物?
雨でカビが繁殖しまくってるとか?
いやでもカビ生えてたら食わねえか。
他にも、ハインツの指示でこの街中の患者の分布状況なんてものも調べて纏めたらしく、その詳細も教えてもらった。
それによると修道院に近い区域の方が明らかに患者数が多く、街の外の耕作地帯になるとそういう患者はほとんどいないんだそうだ。
そう言えばこの教区に入ってこの街に入るまでの道すがらじゃ、畑に出ていた人たちは雨の中でも元気そうに見えたっけ。
緩やかな丘陵地になっているこの街も丘の上の方は比較的患者が少ない。
「どうしてだろ……」
「某も報告書を読んで、そこが疑問なんですよ。低い場所に集中しているなんて、何だか悪い物が流れ下っているみたいですよね」
「……流れ下る、か」
俺の脳裏に途中途中で見た街中の光景が次々と甦る。
石畳の至る所に溜まった汚れた色の水。
長雨。
道脇の水路は所々溢れてなかったっけ?
「水……?」
俺の無意識の呟きに、エドが怪訝な顔になる。
水に何かが入ってんのか?
でも、毒だとすれば患者の分布が偏るもんだろうか。
「なあエド、例えばこの街に害をなした所で、誰も得しないよな?」
「そう思います」
ここは国境近くでもないから、仮にこの地から住人が一人もいなくなったとしても領土拡大を目論む他国にメリットなんてほとんどない。この世界に来て俺が得た知識から見て内紛の兆しって線も極めて薄いしなあ。……だってその芽が出る前にハインツから秘密裏に冥土に送られるし。
となればこの事態は人為的じゃあない可能性が大だ。
「なあエド、頼みがあるんだけど」
「はい何です?」
「まずはこの修道院内の水回りの状況を調べてほしい。あと水飲み場から生の水を持って来てほしい」
いつも俺の部屋に届く水はおばちゃんシスターの意向で一度沸かされた水だから、元々の水がどんな感じなのか俺は知らないんだよな。その水だって優雅にお茶にしたり花の香りが付けられていたりもするし。
エドにそこを頼んだのは俺の中にとある疑いが湧き出て来たせいだ。
それはここでも街の方でも同じなんじゃないのかって思う。
ムンムのアドバイスが効いているのがその証拠って思えてならない。
まあ俺の住んでた世界とこの世界の造りは同じようでいて違うから、全く見当違いかもしんねえけどな。
俺は椅子から腰を上げるとベルでおばちゃんシスターを呼んでエドをこっそりこの建物の外に出してもらうよう頼んだ。雨降りだし魔法を使わず目立たないように敷地内を調べるのはきっと手間だろうから、報告は明日でいいとは言ってある。その際はまたおばちゃんシスターの世話になるな。
一度廊下を覗いて人の有無を確かめてから慎重に出て行く背中たちを見届けると、俺はふうと椅子の上で一息ついた。
何となく、テーブルの上の林檎へと手を伸ばす。
「……やっぱまだやめとこ」
手を下ろした。ぶっちゃけさっきのがトラウマで、エドにもう林檎人間は入ってねえよなって確かめてからじゃないと齧る気になれない。
「今日はもう俺に出来る事はなさそーだよな。けど、ただ待ってるだけって辛い……」
退屈だしな。
そんな俺のこの日一日は、特に大きな変化もなく夕食までを終えた。
ここ連日のようにおばちゃんシスターが食後のお茶を持ってきてくれる。
俺は結構このティータイムが嫌いじゃない。
シスターと他愛のない話をするのも好きだ。
ただ、この日はちょっと予想外にも彼女はお茶の用意を一旦置いて出て行くと、お茶関係以外の物を手に戻ってきた。
「ええと、シスター?」
俺の疑問顔にシスターは一人心得たように頷いた。
「アデレイド様も退屈でしょうし、ここでの生活の間この子の面倒を見てあげては如何でしょう?」
時々つまんねーって辛気臭い顔をしていた俺に気付いて気を利かせたのかもしれない。シスターは何と猫を一匹連れて来た。
品の良さそうな長毛種で、毛色はシルバー。
……誰かさんを彷彿とさせる色だ。
だからちょっと最初は近寄るのを躊躇しちゃったよ。
でもまさかこのツンとした猫がハインツのわけがねえよな。
林檎がエドだったってオチに囚われ過ぎだろ俺……。
アーモンド形の一対の赤い瞳が俺を凝視する。
うぐっ、瞳の色まで一緒だし!
だが見ろ俺、そいつは大人しくシスターに抱かれているじゃあないか。
へっあの唯我独尊ハインツ様が誰かに大人しく抱っこされてるわきゃねえ。だからこいつは只の猫、只の猫、ちょっと高そうな猫ってだけだ。考え過ぎるな俺。
そう自分に言い聞かせて気を落ち付けて、俺はそっと指先を猫へと伸ばした。
幸い、威嚇されて爪で引っ掻かれるなんて悲しい展開にはならなかった。
俺の手に頭を擦り寄せるようにして猫は撫で撫でに気持ち良さそうに目を細めた。
おいおい可愛いなお前~ッ。
「あらあら、アデレイド様が好きみたいですねえ。私が撫でても無愛想にして特に反応を見せなかったんですよこの猫。お行儀は宜しいですけど性格に難ありかもしれませんねえ」
冗談っぽく笑うシスターだけど、猫は機嫌を損ねたように彼女の腕の中から逃げ出した。
そうして俺の方に寄ってくる。
俺も俺で猫は嫌いじゃないから抱き上げて顔に近付けた、途端。
「――ぶえーっくしょいっ! へっくしょん! はっくしょーーーーん!」
いきなりくしゃみが止まらなくなって、思わず猫を放り出していた。
すると、くしゃみが止まった。
猫の方も見事十点満点な着地を披露したはいいものの、突如令嬢らしからぬ盛大なくしゃみをかました俺を心底ビックリしたような真ん円な目で見上げてくる。俺だってビックリだよ。
まさかアデレイドが猫アレルギーだったとはな。




