9.黄昏、そして
屍食鬼の軍団に勝利した傭兵たちは、順次街へと戻っていく。時刻は既に黄昏時だったが、日が落ちるまでに撤収は完了しそうであった。
リンドベリーは、殿の部隊の中を馬に乗って進むトリスの姿を見つける。彼女の額には乾いた血が貼りついており、身体も痣や擦り傷だらけだったが、深刻な怪我は負っていないようである。
「あっ! おーい、リンドぉー!」
向こうもリンドベリーの姿を確認したようで、隊列を外れて馬から降りると走ってこちらへ向かってくる。
「よかった、トリス。無事だったんだ……」
リンドベリーは、安心の吐息をつく。
と、その時、空から一匹の蝙蝠が二人の間に割り込んできた。黒い飛膜をはためかせるそれは、トリスの顔の前でひらひらと舞っている。
その瞬間、リンドベリーは全身が総毛立つのを感じた。
「ん、蝙蝠……? こんな時間に……?」
トリスが、不思議そうな顔をして足を止める。
それを見たリンドベリーは、声の限りに叫んだ。
「トリス、逃げてっ!!! そいつは――――!!!」
――――吸血鬼だと、リンドベリーの第六感は明確な危険信号を告げていた。
人間から吸血鬼へと変わるための“休眠”状態から目覚めた彼らは、まずは“半覚醒”と呼ばれる状態に移行する。魔族としての力を十全に発揮できない代わりに、日光への多少の耐性を残しているのだ。真昼間の外出は不可能でも、太陽光線の弱い夕暮れなら十分に活動できる。そして、“半覚醒”状態の吸血鬼は、人間の血を摂取することで完全な“覚醒”へと至るのだ。
そういえば、ウラディミルが“休眠”状態の吸血鬼がいると言っていたことを思い出す。迂闊にも、今の今まで失念していた。
見れば、その蝙蝠はくるくると回りながら黒い人間の影の形へと変わっていく。トリスは驚いてナイフを抜くが、今の疲弊した彼女で勝てる相手かどうか。
周囲の傭兵たちは突然のことに驚愕しており、全く反応できていない。
「くそっ!」
リンドベリーは義手からブレードを伸ばすと、聖魔法の触媒である銀に魔力を通した。右腕の刃が白銀に光り輝き――――、そして次の瞬間、信じられない光景を見た。
「え……?」
蝙蝠は、完全に人の形に変わっていた。
腰に佩いた二振りのサーベル、背が低く細い華奢な身体つき、薄い茶色の長髪、幼いながらも端正な顔立ち、自分と全く同じ薄墨色の瞳――――何年が経とうと、見間違えるはずもない。
探し続けていた妹、クランベリー・ウェスタの姿がそこにあった。
「クラン……?」
嘘だ、と脳が理解を拒絶する。だが、黄昏を飛ぶ蝙蝠をひと目見た瞬間からわかっていたはずではないか。そもそも蝙蝠の姿に変わることができる人間など存在しない。目の前にいるのは紛れもなく一体の魔族。夜を歩き人の血を啜る忌むべき鬼――――。
混乱する思考が、逃れようのない一つの結論に収束する。
――――妹は、吸血鬼になっていた。
「クランっ……!」
その言葉が聞こえたのか、クランベリーはちらりとこちらを一瞥した。だがそれも一瞬のことで、すぐに興味なさげに視線を背ける。彼女の瞳は、既に自分に向けて刃を構えるトリスの方へと向けられていた。
吸血鬼は、人から魔族に変わる際に記憶を封印させられる。ともに育った姉の姿を覚えていないのも無理なからぬことではあるが、リンドベリーには到底受け入れられることではなかった。
トリスを見る吸血鬼の瞳が、狂気を宿して爛と輝いた。彼女の右の手が、サーベルの柄にかけられる。
「やめてっ! クランっ!!!」
リンドベリーは、妹を止めようと地面を蹴って――――、そこで急に全身の力が抜けるのを感じた。
身体が、膝から地面に崩れ落ちる。顔を強かに打ち付け、口の中に血の味が広がった。ブレードに纏わせていたエーテルの光が、霧散している。
「そんな……。魔力……切れ……」
もはや起き上がる力すら残されていない。絶望感が全身に広がっていく。しかし、それでもリンドベリーは必死に重たい頭を上げて、二人の方へと視線を向ける。
クランベリーが、腰のサーベルを抜いた。瞬間、その刃をエーテルの輝きが覆う。人間だった頃の彼女がよく使っていた、聖属性の魔法だ。
彼女は、剣を構えてトリスに向かって突進する。必死に攻撃を受け止めようとするトリスの剣を数度打ち払い、そしてすれ違いざまに相手の左腕を容易に斬り裂いた。
「ああ――っ!」
鮮血がほとばしり、トリスが悲鳴を上げてナイフを取り落とす。間違いなく骨にまで達するような深手だ。
吸血鬼は、振り向きながら幼い顔で妖艶に微笑んだ。白銀の鋒が修道女に向けられる。
リンドベリーは、自分の背筋が凍り付くのを感じた。
「クラン、やめてっ!!! お願いっ!!!」
血を吐くような姉の叫びは、しかし妹には届かなかった。
白銀の剣が、トリスの腹部にゆっくりと根元まで突き入れられる。修道女の口から大量の血液が零れた。
クランベリーは、ぐったりと力を失い倒れ込むトリスを優しく抱き留めると、彼女の上衣を裂く。そして露わになった首筋を見ながら嬉しそうに口を開いた。“覚醒”状態の吸血鬼の持つ長い牙とは違う、小さな犬歯が白く輝く。
「クランっ!!! だめぇっ!!! 魔族になんかならないでぇっ!!!」
リンドベリーの目から涙が零れる。
その瞬間、野太い怒号が戦場に割り込んできた。
「うぉおおおおお――――!!!」
アントンだ。馬に乗って各部隊に撤収の指示を出していた彼が、戻ってきたのである。アントンは猛然と馬を駆けさせながら片手で腰のサーベルを引き抜き、それを思い切り投擲した。
魔法の付与されていないその刃は、回転しながらクランベリーへと迫る。彼女は顔を驚愕に歪ませ、トリスの身体を突き飛ばして避けようとした。
「ぐぅっ!!」
吸血鬼の口から、くぐもった悲鳴が漏れた。サーベルによって左腕の肘から先が斬り飛ばされ、切断面から赤い血が吹き出している。
それを見て、“半覚醒”状態の吸血鬼には魔法以外の攻撃も有効なことをリンドベリーは思い出す。
「消えやがれぇぇぇぇぇ!!! クソがぁぁぁぁぁ!!!」
アントンは地鳴りのような大声で叫ぶと、そのまま速度を保って突っ込んでいった。クランベリーの小さな身体が、馬体によって軽々と吹き飛ばされる。
同時に彼ははすれ違いざまに手を伸ばし、傷ついてぐったりしているたトリスを馬の上へと引っ張り上げた。サーベルが腹部を貫通したままで、彼女の顔は蒼白を通り越して紙のような色になっている。
リンドベリーもアントンに付き従っていた古参兵によって、馬の上に引き上げられた。このまま街まで急いで撤退するつもりだ。
気付けば、クランベリーの姿が消えている。
いや、違う。一匹の蝙蝠が、アントンとトリスの乗った馬へと後方から近付いていた。
「アントン! 後ろだっ!」
古参兵の声に、アントンが振り返る。次の瞬間、空中で蝙蝠が人の形に変わった。既にクランベリーも片腕をなくし、身体中を自らの血で汚している。
それでも彼女は、残った右腕の爪を伸ばして空中から彼に踊り掛かった。
「ぐああっ!!!」
都合五本の爪が、アントンの腹部を貫通した。しかし、彼は口から血を吐きながらも手綱を離さない。
「お願い……クラン………。やめてよ……。もう、やめて……」
リンドベリーは両の目からぼろぼろと涙を流しながら、前方を走る馬に向かって、左腕一本で騎兵銃を構えた。
もはや疲労で指の感覚がない。目だって涙で霞んで見えていない。だがそれでも、リンドベリーは祈るような思いで引き金を引き絞った。
撃ち出されたのは、魔法も何もかけられていないただの鉛弾だ。だがしかし、それは後方からクランベリーの右背部に見事に命中した。
「うぐぅっ!」
吸血鬼は苦しそうに呻くと、馬上から転落した。五本の爪も、主の重さに耐えかねて全て根元から折れ砕ける。
クランベリーは地面で二、三回転すると、再び蝙蝠の姿に変わって北の空へ去っていった。古城のある方角である。
これ以上は危険だと悟ったものらしい。
リンドベリーたちの馬は、そのまま南にある街へと駆けていく。
その日、傭兵たちは辛くも吸血鬼の襲撃を凌ぎきった。