7.死者の軍勢
戦闘開始から約一時間、屍食鬼の戦列は既に傭兵たちの防御陣地である土塁にまで到達していた。
恐怖も痛みも感じない死者の軍勢は、真正面から放たれる弾幕にもまるで怯むことなく進み続けてきたのだ。
「クソッタレが! 墓場に帰りやがれ!」
土塁の上で傭兵の一人が叫んだ。彼は素手で防壁を登ってきた屍食鬼の一体を、魔法の火を纏ったサーベルで斬り払った。
斬られた方は全身を炎に包まれ、灰に変わりながら土塁の下へと落下していく。防壁の下には屍食鬼の群れが殺到しており、お互いを踏み台にして決死の登攀を敢行していた。既に空堀の底は、動かなくなったそれらの肉体で埋められつつある。
「うぉおおおおお!!」
隣でライフル歩兵の一人が、登ってきた屍食鬼の心臓に銃剣を突き立てた。屍食鬼は最期の力で相手の腕を掴むと、彼とともに土塁の下まで落ちていく。人間の兵士は、群がる屍食鬼たちに生きたまま四肢を引き千切られ、絶望の悲鳴をあげる。
戦場となっている防壁全ての場所で、同様の光景が広がっていた。津波のように押し寄せる死者の隊列と、壁のように展開する傭兵たちが鬩ぎ合っている。
「――――まずい! 左翼が崩れそうです!」
双眼鏡を片手に戦況を注視していたトリスが叫んだ。
見れば、屍食鬼たちが左翼の防壁を越えて、傭兵たちの陣地の中へとなだれ込んできている。乱戦が始まっており、部隊は混乱しているようだ。
「胸甲魔法騎兵を向かわせましょう! このままでは崩壊します!」
「駄目っ! ここで予備を投入したら誰があの戦列を突破するの!? 持ちこたえさせて!!」
トリスの提案を聞いたリンドベリーが撥ね付けるように叫んだ。
彼女はレバーを前に倒して装弾を終えると、引き金を引いて火属性の魔弾を投射する。敵戦列の中央で火柱が上がり、数体の屍食鬼を火達磨に変えた。
「で、でも……っ!」
トリスはなおも食い下がるが、その肩にアントンが手を置いた。振り返った彼女に対し、傭兵隊長は無言で首を振る。
彼もここで虎の子の魔法騎兵を投入することが、後の展開にどう響くかを正しく理解しているのだ。
「せ、せめてあなたの銃で左翼を支援できませんか?」
「……ごめん、そんな余裕はない」
「っ…………!!」
トリスは唇を噛むしかなかった。
リンドベリーは話しながらも敵軍中央への銃撃を継続しているが、屍食鬼の密集陣形はなかなか崩れない。砲火によって空いた穴も、即座に別の兵士が入り込んで埋まってしまう。しかし日暮れまでに勝負を決めなければ、ウラディミルが戦場に現れるのだ。
彼女は戦いが始まってからずっと、魔法の弾を撃ち続けている。それはすなわち、身体から魔力を垂れ流しているのと同義だ。
リンドベリーの顔にも、焦りと疲れの色が強く浮かんでいた。
左翼を任せられた傭兵の部隊長、モーフィルは馬の上で戦慄していた。
目の前で信じられないことが起こっている。
屍食血たちが土塁を越え、こちらの陣の中へと殺到しているのだ。乱戦の中で怒号と悲鳴が轟いていた。
「くそっ! くるんじゃねぇ!」
傭兵の一人が銃剣で屍食鬼の腹を突き刺した。だが、それでも敵は怯むことなく向かってきて、彼の頭を両手でがっちりと掴む。
「あぁぁぁぁぁ――――!!」
頭部を捻られた傭兵の悲鳴が響く。脳の抑制が外されているのか、元は人間だったとは思えないような力である。そのまま頸椎の砕ける嫌な音ともに、彼は絶命した。屍食鬼の方は彼の死体をゴミのように投げ捨てると、腹から小銃を生やしたまま次の獲物を探して徘徊する。
敵は弱点である火属性の魔法を食らおうとも、灰になる最期の瞬間までこちらを殺そうと向かってくるのだ。
敵兵のでたらめな戦い方に、傭兵たちの間で恐怖と混乱が広がっていく。
陣中は乱戦の極みだったが、恐れで士気の下がりつつある守備側が徐々に押され始めていた。決壊した堤防を水の流れが削るかのように、土塁を越えて侵入してくる屍食鬼たちの勢いは増している。
このままでは、崩壊は時間の問題だった。
モーフィルは、指揮官のいる丘の上をちらりと見た。
援軍は来そうにない。頬の上を、一筋の汗が伝った。
「くそぉっ! 体勢を立て直す!」
歴戦の部隊長は馬上で大声を上げた。
援軍もなく、乱戦を続ければ明らかにこちらが不利だ。組織だった抵抗ができないままでは、このまま屍食鬼たちの勢いに飲み込まれるだけである。
「ぶ、部隊長――――!」
と、目の前の兵士が断末魔の悲鳴を上げた。崩れ落ちた男の影から、屍食鬼の姿が現れる。手に持った石で、傭兵の頭を叩き割ったのだ
「なっ――――」
モーフィルは腰のサーベルに手を伸ばす。この距離なら魔法の発動も間に合うはずだ。余裕をもって迎え撃てる――――はずだった。
「ごあっ!?」
何かが砕ける音とともに、脳髄に衝撃が走った。意識を手離す最後の瞬間、彼はその屍食鬼が手に持った石をこちら目掛けて投擲してきたのだと理解する。
糸の切れた人形のように馬の背から地面に落下すると、部隊長モーフィルはそのまま絶命した。
「――――左翼がもう持ちません! 部隊長が死亡し、逃亡する兵も出てきています!」
丘の上で古参兵の一人が叫んだ。
「くそっ! 中央や右翼から兵を送れないの!?」
「難しいだろう……。他もいっぱいいっぱいだ……」
リンドベリーの提案に、アントンは苦虫を噛み潰したような顔で答える。
左翼を助けるために他の部分を薄くすれば、今度はそこから突破されてしまうだろう。
「やはり半分だけでも予備を投入するしかねぇな……」
「……うん、他にないかもね」
いくら胸甲魔法騎兵を温存していても、戦自体に負けたら元も子もない。左翼が突破されれば、中央も側面を突かれて瓦解するだろう。
リンドベリーだけでなく、他の古参兵たちもその意見に異論はないようだ。
と、ここでトリスが初めて声を上げた。
「――――私が出ます。騎兵はまだ温存してください」
その場の全員が、驚いて彼女の方を見る。
「指揮権を持った私が戦場に出るのは無責任なことかもしれません……。でも、ここにいても私にはあまりできることはないですし、それなら彼らを救いに行きたいんです」
「馬に乗って一人で突っ込むつもり?」
「だ、大丈夫ですよ。わ、私めちゃくちゃ強いですから……」
リンドベリーの質問に答えるトリスの顔は青ざめ、声も明らかに震えている。
これは決死の突撃になるのだ。彼女もそれを理解していた。
「わかった、騎兵を五十騎預ける。これ以上は無理だが、何とかしてくれると助かる」
アントンが、トリスの目を見て言う。
だが、もしかするとこれは妙案かもしれなかった。トリスは、名目上は軍団の総指揮官だ。そんな人間が前線に現れれば、否が応にも兵士たちの指揮は上がる。
逆転の目が出てきたかもしれないと、アントンは考えていた。
「あ、ありがとうございます。それとアントンさん、軍団の指揮はあなたに任せます」
「ああ、任せろ。存分に暴れて来い」
「よろしくお願いします」
アントンと話をしているトリスに、リンドベリーも声をかける。
「トリス、トリス。ちょっとこっちに来て」
「な、何でしょう?」
トリスが、硬い動きでこちらに向かって歩いてくる。右腕で銃を構えたまま、リンドベリーは血の通った方の腕だけで彼女を抱き寄せた。小柄なトリスの顔が、首と肩に埋まる。
汗と硝煙の匂い――――傭兵の匂いがトリスの鼻腔を満たした。不思議と落ち着く匂いだ。
「……あんたならできるよ。自分の仕事を果たして、絶対に生きて帰ってこれる」
「リンド……」
リンドベリーは、トリスの身体を抱き締めたままそう言った。
それから、腕をぱっと離すと花のような笑顔を見せる。
「死なないでよ。あんたは私の妹みたいなものなんだから」
「もう! 私の方が年上って言ってるじゃないですか!」
トリスは一頻りおかしそうに笑うと、馬に乗って出撃の準備を始める。
その顔は、もう青ざめてはいない。動きも緊張とは無縁だった。