五話 山荘カニバリズム 後編
薄暗い地下空間。
地上への扉は封鎖された。
何とか扉をこじ開けたいが、都合の良い道具はない。
とにかく痛む腰を押さえながら、辺りを見渡すレオ。
しかし、精神的にまずい。ここに長くいればいる程吐き気が起こる。
適度な湿気があり、カビと鉄錆びの臭いが余計に気分を害する。
しかし何より、この空間自体がレオにとってのトラウマであり、地獄だった。
「はあ……はあ……暗い……怖い……」
誰もいないはずの部屋に、以前ここに囚われていた生前の少年少女達が、鉄格子の向こうで自分を見ている。
死んだような、虚ろな目で、恨めしそうに。
その中に、過去の自分も交じっていた。
「僕は……僕は……」
地上への扉が開く度に助けが来ると期待して、しかし現れるのは不気味に笑うイカれた狂人。
男は一人ずつ名前で呼び、そして一人ずつ体のパーツを撫でるのだ。
『夏美、君の首筋はラインがくっきり出ていて最高に綺麗だ』
『矢由美、君の手は今が一番美しい。これ以上骨格が育つと美しさが枯れてしまう。もうすぐ俺が永遠に老う事のない作品にしてあげよう』
『それから八重香、君にドレスを買って来たんだ。きっと似合うから着てごらん。やはり君はこの長い黒髪と女性らしい服が良く似合う』
『レオ、怖がらずにこっちへおいで。そして俺にもっと良く見せておくれ。ああ、その怯えた表情とこの翡翠色に輝く綺麗な瞳。何度見ても惚れ惚れする。出来ればずっと君を観賞していたい』
そう言いながら、男に指でまぶたを無理やり開けられ、眼球を舐められた。
あまりの恐怖に、幼い自分は泣きわめく。
その表情すらも、男は悦に浸ったような目で見てくるのだった。
今自分の目の前にいる者達が幻覚なのは知っている。
しかし、消えないのだ。
昔の記憶が、消させてくれないのだ。
レオは過呼吸になりながら、永遠に続く狂気を見続けなければいけない。
「たすけて……たす、けて……」
このままでは気を失ってしまう。
七年前のこの場所で、再びレオは絶望的な閉鎖空間に現実逃避したいと懇願していた。
その時。
鉄格子の奥で、何かが床に落ちる音がした。
「はっ……あれは?」
倒れたのはビールの空き缶。おそらく先程の男が飲んでいた物と思われる。
不思議なのは、何もない場所で急に物が倒れたという事。
だが不意に起きた物音のおかげでレオは正気を取り戻した。
そしてレオは吸い寄せられるように鉄格子の中へ入り、空き缶が落ちた場所まで足を運ぶ。
「何もない……よな?」
空き缶が置いてあった木箱を調べても、虫一匹いない。
そんな場所でどうして急に物が倒れたのか、そう思っていると。
ふと、レオはどこからか風の流れを感じた。
その微かに漂う風を肌に受けていると、
「……通気口」
丁度レオの真上に設置してあった換気扇に目がいった。
窓一つない密閉空間に、唯一空気を循環させる機器。
レオはおもむろに木箱の上に乗り、錆びれた換気扇のフィルターとプロペラを外した。
そして開通した通気口を覗くと、少し狭いが人一人通り抜けられるスペースはある。
上からはわずかに光も射していた。
希望が湧いて来たレオはすかさず通気口の中に入り、壁に両手両足をかけながら上へ登っていく。
すると間もなく、外に繋がる出口が見え、レオは出口のフィルターを思い切り叩いて地下室からの脱出を果たした。
「助かった……」
通気口は小屋の裏手側に繋がっていたようで、急いで正面に回ったレオは先程までコトギと男がいた大広間に向かう。
「くそ、あんなデカい石で扉を塞いでたのか」
地下の扉に置かれた岩石を見て、これではいくら力を入れても出られなかったと、男に怒りを感じる。
「そうだ、コトギさん!」
そして山荘周辺を見渡し、二人がどっちに向かったのか、何か手がかりがないか調べてみるが、育ちに育った雑草が邪魔で足跡一つ見つからない。
(確率的にコトギさんは来た道を戻る。だけど男を撒く為に途中で道を変えて逃げていたら探しようがない……けど時間もないし、とにかく来た道を進むしかないか)
と、そんな事を思っていた時。
ふと前方を見ると、何もいない場所で突然生い茂る草がかき分けられ、それは一本道のように真っ直ぐとした道標が浮き出たのだ。
「……これって」
まるであちら側に誘っているような……。
そしてレオは左右を見渡す。
地下室の時といい、今回といい、自分を後押しする現象が続く事を不思議に思うと共に、これは誰かが手助けをしてくれているのではないかと直感した。
それは多分身近な人で。
「夏美さん……夏美さんなの?」
返事は帰ってこない。姿も見えない。
しかし確かな道を示してくれた『何か』はそこにいて、今も自分に訴える。
まるで自分を急かすように、コトギの元へ行けと。
そう思ったレオは取り急ぎ、突如生まれた獣道に沿ってコトギの後を追った。
レオがコトギの後を追っている最中、彼女は未だ男の追跡を振り切れず山中を走り回っていた。
「お~い、息が上がってきたんじゃないのか? そろそろ限界か? なあ」
男は愉快そうにコトギのすぐ後を追いかける。
全力で走ればすぐに彼女に追いつくが、男はあえて速度を落とし、この状況を楽しんでいた。
対して、すでに足も上がらなくなってきたコトギ。
一瞬でも立ち止まれば男に捕まり、手に持っている大鉈で叩き切られるか、もしくはじわじわいたぶり貞操を奪った挙げ句殺されるか。
そんな絶望的状況を想像し、酸素が供給出来ない身体を無理やり動かし、少しでも人のいる場所へ近づこうとあがく。
しかしそんな時、地面に生えた気のツタで足を引っかけ、とうとうコトギはその場で倒れてしまった。
「痛っ……」
すぐに立ち上がろうとするが、元々限界だった足に負担をかけていた為、身体が言う事を聞かない。
「残念だったな。はい、捕まえた」
男は這いつくばりながら逃げるコトギの足を掴み、
「おらよっ!」
そのまま彼女を引きずりながら近くの大木に放り投げる。
「うっ!」
頭から直撃を受けたコトギは揺れる脳を押さえて蹲る。
「う~ん、もうちょっと頑張ってくれたほうが面白かったんだが、まあいいか」
自分ゲームが終わったかと思うと、興ざめした様子で倒れているコトギの腹部に圧し掛かった。
そして男はコトギの着ている上着を首元から引きちぎると、何かを確かめるように彼女の身体中を撫で回す。
「離してっ! キモイ!」
「まあ落ち着けや。……うん、肉質は微妙だな。柔らかそうだがもう少し筋肉がほしいところ。それにやせ細ってるし胸も控えめか……」
男に身体のあちこちを触られゾワゾワ鳥肌が立つ。
だがコトギは恐怖のあまり声も出せず、身をよじらせる事しか出来なかった。
「まあ久しぶりに女を味わえるんだ。文句は言ってられねえか」
そう言いながら、男はコトギの肩に手をかける。
(犯される……この男に強姦される……)
そんな予感が脳裏をよぎる。
しかし、実際は彼女の予想よりも悪い方向に外れた。
「んじゃ、ちょっと味見を……」
そう言った瞬間。
男はコトギの肩に向かって口を開け。
躊躇なく彼女の肩肉を食いちぎった。
「へっ……?」
一瞬何をされたのか分からなかった。
だが、直後に来る激痛と冷たくなる肩の感覚で理解した。
噛まれたのではない。喰われたのだと。
「っっっっ!」
肉をえぐられたショックにより、コトギは山岳に響き渡る程の悲鳴を轟かせる。
「ああああ、うああああ!」
吹き出す自分の血を見つめ、絶望感が押し寄せた。
「落ち着けって、ほとんど皮しか食ってねえよ。俺はこれでもグルメなんだ。お前さんの肉はちゃんとバラしてから血抜きして、塩を擦り込み旨味を引き出してから美味しく煮込んでやるよ。内臓は魚にでも食わせてよ。お前の命は無駄なく使ってやるから安心しろ」
考えが甘かった。
男は自分の体が目当てだと思っていた。
それは勿論間違いではなく、ただ意味合いが違う。
男の言う『食べる』とは、性的な意味ではく、そのままの意味で食べるという事。
自分は男にとって、腹を満たす食材だったのだと。
「いや……いやあああ」
そう思うと余計に恐怖心が増し、コトギはどうにか逃げようとジタバタ動くが上に乗られた男を振り払う程の力はない。
男は手慣れた様子でコトギを押さえつける。
「暴れるなよ。ここに足を踏み入れたお前が悪い。この山で行方不明になった人間の幾つかは俺が食ったしな」
恐怖に駆られながらも、コトギはしっかりと男の言葉を聞いていた。
(行方不明者ってまさか……)
コトギは七年前の事件を思い出す。
当時、殺害された者の他に、行方不明になっていた人間もいた。
それはこの男と関係があるのではないか。
今まで遺体が見つからなかったのは、殺害した人間を捕食していたから。
迫る死を前に、コトギはギリギリまで思考する。
だが、今となってはもはや無駄だった。
男が大鉈を振り上げる姿を見て、コトギは死を覚悟した。
「じゃあそろそろ終わらせ……ん?」
だがその時、一つの足音がこちらに近づく。
「離れろおおおお!」
続く叫びと共に、怒りに満ちた形相でレオが走ってきた。
そして、手に持っていた棍棒サイズの丸太を男に目がけて投げ飛ばす。
「なっ……!」
突然のレオの行動に、男は身を構える事も忘れ、投げられた丸太は突き刺さる形で男の顔面に命中した。
あまりの激痛に男は上体を崩し、コトギから離れ悶え苦しむ。
そのすきに、レオはコトギを抱えてその場を離れた。
「コトギさん! 大丈夫? ああ……こんなに血がっ」
コトギの出血を心配するが、今はこの男から逃げなければいけない。
「走れる?」
「大丈夫……」
レオはコトギに肩を貸しながら、少しでも遠くへ行こうと走り出した。
「いっつつ……クソガキが調子に乗るなよ」
痛みが治まった男は、流れる鼻血を拭い二人を追いかける。
今度は遊び気分ではなく、本気の殺戮をする為全力で。
しばらく追跡と逃避のデッドヒートを繰り広げていたが、手負いのコトギを担いで男を振り切る事は出来ないと察したレオは、
「コトギさん、時間を稼ぐ。今のうちに逃げて!」
コトギを下ろして迫りくる男に体を向けた。
そして地面に落ちている石を投げつけ相手を怯ませる。
「無理だよレオ君! 一緒に逃げよう」
「二人一緒じゃ追いつかれる。いいから先に……」
だが、そんな会話をしていた時、気が立っていた男は手に持っていた大鉈をレオに向かって投げつけた。
「うわっ!」
辛うじてそれを躱したレオだが、男の投げた大鉈が腕にかすり負傷した。
しかし、武器を失った事でレオは少し安心する。
レオは投げつけられた大鉈を手に持ち、男を威嚇する。
だが、男は着ていたコートの中に両手を忍ばせると、中から新たに長物のコンバットナイフを二本取り出した。
「人様バラすのによお、でけえ鉈一本だけじゃ綺麗に解体出来ねえだろ?」
大鉈を振り回しながらの威嚇も男には全く通用せず、躊躇う事無く向かってくる殺人鬼に恐怖を覚える。
コトギは未だ逃げようとはしない。レオの無事を確認するまで逃げる気はないのだろう。
つまりはこの男とここで殺し合いをしなければいけない。
やらなければやられる。
レオは固唾を飲み、迫る男に鉈を振りかざす。
その時。
「はっ!」
突如、草陰から一人の女性が飛び出し、男の両手首を叩き、捻り、武器を落とさせた。
さらに女性は武装解除させた男の胸倉を掴んで地面に投げ飛ばす。
いきなり現れた謎の女性に、レオとコトギは唖然としていた。
「な……何だてめえ!」
投げられた男は態勢を整え身構える。
すると女性も身を構え、丁寧な自己紹介を述べた。
「初めまして、あたしは菜夏 友恵と言います。早速ですけど投降して下さい」
山が似合わないパンツスーツの女性は男に投降を呼びかける。
そして、女性が男と対峙し始めた時、別の草陰からも一人の男性が静かに現れた。
「菜夏、下がれ」
助手にそう言うと、スーツ姿の男性は拳銃を構え、男に銃口を向ける。そして。
「警察だ。そのまま動くな」
無表情に気怠そうな雰囲気で男を牽制する。
突如として現れた鉤島と菜夏。
急な二人の登場に、レオとコトギは呆然としながら、コトギは菜夏に尋ねる。
「あの……あなた達は?」
すると、菜夏は二人に向けて、
「ある人から救援要請が出ましたので駆け付けました。もう大丈夫ですよ」
穏やかな笑顔で返した。
菜夏の言葉に安心したコトギは、足元から崩れ落ちる。
「コトギさん」
その様子を心配したレオは彼女の元へ駆け寄り、着ていた上着を彼女の肩にかけた。
「大丈夫、少し疲れただけだから……」
それを聞いてホッと安堵し、前方の男を見つめた。
未だ動きを見せない男に鉤島は尋問する。
「さて、ここからは大人の仕事だ。そこのお前、何故この子達を襲った?」
鉤島の問いに、男はニヤケ面を浮かべ、
「お前さんは豚肉を食べる時、『食べたい』と思う欲求以外に何か理由を付けるのかい?」
当然のように二人を食材と見なして論ずる。
「俺はあまり肉食じゃないから気持ちは分からないな」
「そうかい、気が合うな。俺も基本はベジタリアンさ。けどな、どうしてもこれだけはやめられない動物性たんぱく質が一つだけある。それがお前らだよ」
食人種。
好んで同種族の肉を喰らう狂人的な偏食家。俗にカニバリストとも言う。
「しかし難儀な事に、死んでる人間ですら一口味わうだけでも法律の壁が邪魔してきてな。多くの人間は喰わずにそのまま火葬するんだ。美味しくローストされた肉を味わう事なく焼き切っちまう。実に勿体ない」
男は残念そうに社会の在り方を批判する。
「だから俺はこの人気のない山奥で、何も知らずに迷い込んだ人間を待っているのさ。骨や内臓も隠し易いしな」
男は狂っていた。
多勢に追い込まれた状況でもなお、自分以外の人間は食材にしか見えていない。
「日本にも、母国イギリスにも、新しく憲法を立てるべきだ。人食の自由化をな」
男の話を聞いていたコトギと菜夏は吐き気を催す程の不快感が生まれた。
そんな中、鉤島は顔色一つ変えずに男を見つめる。
「そうか。お前の言い分は理解した。だが人が人である限り、お前に共感する人間はほとんどいないだろうな」
と、鉤島が男に返答した時、
「なら全員肉塊になっちまえばいいんだよっ!」
突然男は隠し持っていたナイフを鉤島に飛ばした。
鉤島は拳銃でそれを弾くが、その一瞬の隙をついて男は茂みに逃げ込み、そして、慣れた動きで急斜面の坂を滑り降りて行った。
「鉤島さん! あの人逃げちゃいますよ!」
焦る菜夏だが、鉤島は「落ち着け」と一蹴する。
「どのみち奴の庭で追いかけても危険が増すだけだ。それに、俺達の目的はこの二人の保護だろう」
言いながら、鉤島は静かに拳銃を腰に収めた。そして。
「二人共怪我をしているな。向こうに車を停めてあるが、歩けるか?」
レオは頷き、傷の深いコトギを担いで鉤島達のパトカーへ向かった。
軽い応急処置を済ませた二人は、鉤島に自宅まで送ってもらう事となった。
その道中。
「あの、どうして僕達の居場所が分かったんですか?」
レオは鉤島に尋ねる。
「ああ、とある情報屋が教えてくれてね。二人に身の危険が迫っているから助けに行ってやれと命令されたんだ」
「情報屋?」
何故自分の個人情報が流れているのかレオは疑問に思う。
鉤島は続けた。
「まあこちらも君に用があるから丁度良かったんだけどね。そして、隣りの君は県警から協力依頼を受けていた松日奈さんだろ?」
「私の事も知ってるんですか?」
「ああ、俺達も七年前の事件を追っていたからね」
鉤島はそう答えたのち、互いに情報交換を交わす。
何故鉤島達が二人の元へ来れたのか。
それは数時間前、ヤエカは自室にてレオの動向を探っていた時。
昨日鉤島に言われた一言でレオの事が気になったヤエカは、彼に会わずともせめてどこにいるかくらいは調べておこうと思い、たまたま彼のケータイのGPSを発見した。
そして周辺の監視カメラやドライブレコーダーの記録を脳内にジャックしつつ、彼の行方を追っていると、レオとコトギが七年前の事件現場へ向かう姿を目撃した。
そこでヤエカは焦る。
先程レオ達に襲ってきた男の正体をヤエカは知っていたからだ。
グレゴア・ハイン。母国イギリスで四人の人間を殺害したのち、国外逃亡を図り日本に移住。
そして死体清掃員などの裏稼業で生計を立てている。
骸惰とは長い付き合いであり、彼が殺害した遺体の何人かはグレゴアが処理していた。
ヤエカはこの男も最重要人物としてマークしていたのだが、今回レオ達が向かう場所とグレゴアが拠点にしている場所が同じだった為、高確率で襲われると踏んだヤエカは鉤島のケータイ番号をハッキングし、その旨を伝えたのだった。
だが、未だ男は生きている。
骸惰に、グレゴア。大衆に紛れて猟奇的殺人を犯す非人道的悪魔を彼女は捉え続ける。
いつか己の向ける『死線』が二人を追い詰めるまで、彼女は情報を飲み込み続ける。
カトブレパスが見つめる先で、死の宣告を告げるまで。