手紙を渡る
マグロ頭先生発案の「ことば小説」企画参加作品です。
例えば、手紙があるだろう。そう、手紙だ。
その手紙は、馬車の中にあった。
空は雲4、空6といったところ。
良い天気。車輪の音が響き、馬の背にいる人は無口だ。
他にも色々な荷物が乗っていて、手紙はおまけのように見える。
道はだいたいまっすぐで、地面は草8、地2か? もうすこし草が多いかもしれない。
ゆるやかに、するすると馬車は進んでいく。
この荷馬車は、荷物を運んでいるわけだが、少ないものだ。途中で盗賊に襲われて、向かっている街に荷が届かなかったとしても、街で飢える人、凍える人がでるわけでもなし、どこぞの商会が傾くわけでもない。
ただの荷馬車。
この、ただの荷馬車を操る人も、普通の人。
その人は、自分の村を出発する時、手紙を受け取った。無事に帰って来いよ、と。昔馴染みのがたいの良い中年に、痛いくらいに手を握られて。
その人は、言葉は無く、しかししっかりと、一度、深く、頷いた。
今は道半ばか、まだ半分も来ていないのか、それとももうすぐ目的地なのか。
荷馬車の主は、無言で、まっすぐ前を向いている。
風はさわやかで、前途に暗雲は見えなくても、油断なく、前を向いている。
荷を届けられなければ、自分の村が困窮する。そう、思っているのだろうか。責任を感じているのだろうか。判らない。
ただ、昔馴染みに握られたその手は、強く手綱を握っている。
そこに、その手紙はあった。荷台の中で軽く揺れ、別に特別に意識されることもなく。
そこに、その手紙はあったのだ。
時は移って、ある砂漠。
空は晴天、地面は砂。草や雲が混ざりはしない。
すこし、美しい。
日に肌を焼かれないように、頭から布をかぶり、体を覆っている、一人の旅人が居た。
懐には、諸々の必須品と、一通の手紙。
何か目的があるわけではないが、広い世界を見ていた。
たくさんの地を巡り、たくさんの人と会って。時には植物の種を運び、時には些細な言葉を運んだ。ある所では怪我を負い、ある所では殺されかけた。
そんななか、別れを惜しんで、傷ついて、けれどその3倍は、笑っていた。
今、その顔に笑顔はない。
砂地を踏みしめて行く。無理に力の入った足は、砂とこすれてきつい音を立てる。
立ち止まらずに、懐に手を入れる。取り出すのは、手紙ではなく、水筒だ。
軽く口に含み、口内を湿らせて飲む。と、水が切れた。
口を湿らすには十分だが、のどが、熱い。
水筒をしまい、きつい足音を立てながら進む。
刺すような陽の光。砂に飲み込まれそうな錯覚が生まれる。
一歩、もう一歩、そして、倒れる。最後の力を振り絞って、小さな岩の陰に辿りついて。
思い出す、前の街でのこと。
旅の話を肴に酒を飲んだ。おごってもらって、一緒に笑った。
そして、別の村から来ていたある無口な村人に、手紙をもらった。
この地方での独特の祈りなのか、片手を自分の胸にあて、逆の手をこぶしの形にして私の方に軽く伸ばし、旅の無事を祈ってくれた。
その人の手は、どこか力強かった。
ふと考える。この日陰まで来れたのは、あの力のおかげかと。
懐の手紙に触れる。
笑みが浮かぶ。
少し、砂漠が美しく見えた。
今の苦しみよりも、幸福だった自分の旅路に思いをはせる。
旅をして、別れを惜しんで、傷ついて、そしてその3倍、笑っていた。
その時、何故か、陰が濃くなる。
目を開けると、立ちふさがるような影。
笑っている遭難者は初めて見たと、後に言われた。
ある砂漠の民が、良く笑う旅人に手紙をもらった。
ある宣教師が、砂漠の民に手紙をもらった。
ある行商人が、宣教師に手紙をもらった。
ある旅芸人が、行商人に手紙をもらった。
ある流れの楽師が、旅芸人に手紙をもらった。
そしてある日、ある時、ある人が、手紙をもらった。
きれいとはいえないまでも、しっかり形を保った手紙だった。
それは、宛名も何もなく、真っ白な手紙。
相手に、何の手紙だと尋ねてみる。
曰く、これは、幾人もの人の手を渡り、未だ無事でいる幸運の手紙である。
之を持っていれば、きっと無事に目的地に着けるはずだ、と。
そして最後に、こう付け加えた。
「君の旅の無事を祈っている。」
ある人は、決してその手紙をなくすまいと、心に誓った。
言葉が手紙を通して、人から人に渡って行く。
別になんの力もない、ただの言葉。
しかし言葉は、人のおもいを乗せている。
おもいは人に、わずかな活力を与えるのだ。
この手紙が今まで無事だったのは、ただの偶然かもしれない。
しかし、此の度この手紙を受け取った人が、無事に旅を終えたかどうかは……。
言わなくても、判るだろう。
。
「ことば」とは「人から人へつむがれていく想い」だと思います。
人の行為が有難いと思った時、「ありがとう」と言う。自分の行為を申し訳なく思った時、「ごめん」と言う。「どういたしまして」も「おつかれさまでした」も、「おはよう」も「こんにちは」も「さようなら」も、もっと長い言葉なら余計に、人の「想い」がこもっていると思います。
人は他人の考えている事は判りません。言わずも伝わる想いとは別に、「ことば」と不可分の「想い」の領域があると思います。
自分は、ただ想うだけではなく、伝えるということの重要性・素晴らしさがあるのだと、信じています。