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8/9

日曜日

 第三レース、二番人気三着。第四レース、六番人気三着。第八レース、一番人気十三着。そして第十一レース、桜花賞のパドックへ真先は現れた。

 プティフランソワの馬体は、十八頭の中で、一際素晴らしく見える。が、オッズが少し下がっただけで、七番人気は変わらない。

 小林と作戦について最終的な打ち合わせをする。

「多分今年の流れは緩いはずや」

「つまり言ってた通り、前々でレースを運べと?」

「マスコミにそう言っとんのは確かやけどな。……ええか、後ろから行け。殿からでも構へん。けどあんまり離されんなや?」

 さすがにこの発言には真先も驚いた。

「なに、道中遊んどる方のが、プティには合っとんや」

「いや、でも……」

「ええから耳貸せ。ええか、今から言う通りに乗ってみい」

「……」

「――」

「ほんとに、大丈夫なんすか?」

「あかんかったら、また考えればええ」

「……わかりました。やってみます」

「あつーまーれー」

 その独特の掛け声を合図に、騎手たちは一列に並ぶ。レースについて、使用するコースや発走時間などの最終確認の後、地下馬道を通り、本馬場入場。そして返し馬でウォーミングアップ。

 輪乗り場で真先は、パドックでの小林の指示を思い出す。

「ま、言われたとおりにやってみるか……」

 腹を括るように呟く。

「真先? 何か言った?」

 耳ざとく猛男が聞いていたらしい。

「あ? 何が?」

「ううん。なんでもないわ」

 発走時間が近づいてきた。スターターが発走台に登り、厳かに旗をかざす。そして、振った。

 仁川の桜の咲き始めに抱く、「もうすぐ始まる」の思いが、「さあ、始まった」に変わる瞬間。

 泣く子も黙るGⅠの、同時にクラシックシーズンの開始を告げるファンファーレは、阪神競馬場の大観衆の中に呑み込まれ、地鳴りとなって何もかもを圧倒する。スタートの位置はスタンドから離れてはいるものの、そのうねりによってジョッキーたちに緊張を走らせるのだ。

 春の乙女たちには珍しく、各馬すんなりとゲートに収まった。動じる馬は一頭も居ない。

 負けに来る馬など、並んでいない。並んでいるのは全て、勝ちに来ている馬ばかりだ。

 ――チャンスはある!。

 真先は心中で一度呟き、スタートの合図に集中した。

「出ろぉー!」

 後ろから声が掛かると同時に、ゲートが開いた。

 緑まぶしいターフに駆ける。

 第二回阪神六日目。三歳牝馬G1芝千六百メートル。桜花賞がこの瞬間、発走された。

 スタンドから今一度歓声が上がる。

 レースは戦前の予想通り、ベルヴェーヌがハナをきる形となった。ティアーアップは二番手のポジションを難なく決める。そのすぐ外からサイレントナイトが半馬身差の三番手。また半馬身あり、外ウツクシイヒトミ、その内から首差でシンソウレイジョウが続く。ピーチフルサンデー、ハルカナユメヲ、バラードフィーバ、プティフランソワと、外枠の先行馬がその後に続き、レコードライブラリ、ミラアイドル、ヤングエイジらも素早くポジションを決めた。

 第三コーナーへ入る前にまず下がって言ったのはヘラ。揉まれると極端に脚色の鈍る馬なのでいくらペースが上がらないだろうとは言え、馬込みの中に入れるわけにはいかない。一度下がり、外に持ち出してから追い出すタイミングを窺おうという作戦だ。

 だが。

「何? 柊! くっ――」

 プティフランソワも手綱を押さえ、ヘラに馬体を併せた。

 ベルヴェーヌからヘラまではおよそ十二馬身。そのまま第三コーナーを迎える。


「え――?」

 中継を観ていた香苗は、狐につままれているのかと思った。

 レース前のコメントでは、小林は、「四番手より前の方から抜け出して」うんぬんと語っていたのだ。

 ハッ、と中手川がプティフランソワで勝負すると言っていたことを思い出す。今頃記者席で、

「あのオッサン! ヘンタかましやがった!」

 などと叫んでいるに違いない。

 それだけ真先のこの乗り方が、狙ってやっているとしか映らない。スタートは良かった。先行力はある。ペースはスローで落ち着きそうだ。あのまま手綱をしごいて前に付けるべきではなかったか?

 彼女にはこの乗り方が真先のとっさの判断には思えなかった。「天才」と呼ばれていた頃は知らないが、今の彼にここまで思い切った騎乗は出来ないはずだ、と。

 故障か? いや、違う。

 ならばやはり、小林の指示という事になる。


 第三コーナー途中で馬群がやや、バラけた。だがペースの緩さは変わらない。

 四番手にいたラヴラヴタイムが、このスローペースに堪えられなかった様で、少々掛かり気味にベルヴェーヌに並びかけた。懸命に抑えようとした館だが、ズブイところもあるし、行けるなら行ってしまえと作戦を切り替えた。

 ただ、外から被せられたベルヴェーヌにしてみると、たまったものじゃない。何が何でも逃げなければ走る気をなくす馬だ。当然加速をつけた。

 それを猛男が冷静に観察していた。完璧に折り合いをつけたティーアップからはしっかりした手応えを感じる。息を入れるタイミングと、仕掛け所をほんの少しずらしてと、計算し直した。ちらりと左後ろを確認する。サイレントナイトとの差は一馬身。いや、詰めてきた。

 コーナー及び、レースの中間、残り八百メートルで、徐々に後続馬の追い上げが始まる。もう一度馬群が縮まった。


『八百を通過。手元の時計で四十八秒四。やや遅いか』

 アナウンサーがラップタイムとペースを知らせてくれた。

『五番手につけているシンソウレイジョウ・芳賀の手が動いている。その外をすーっとあがって行ったのは――なんとプティフランソワ!』

 いつの間に順位を上げていたのか。第四コーナー、大外をぶん回すようにまくっていった。

 大観衆のどよめきが、テレビから聞こえる。

「向こう正面では最後方だったのに……でも無茶よ。いくらスローペースでも追い出しが早すぎるわ! これじゃ脚が上がっちゃう!」

 香苗の持つプティフランソワのイメージは、先行し、ぎりぎりまで追い出しを遅らしての『切れ味鋭くちょい差し』というものだ。多くの競馬ファンからしてもそうだろう。


 残り六百の標識を通過して、猛男がティアーアップに息を入れたとき、プティフランソワが交わして行った。

(真先?)

 一瞬、掛かっているのかとも思ったが、手綱は引いていない。そうでないのはすぐにわかる。

(しまった――! 前に行かせたままだと厄介!)

 猛男の直感が働く、そして瞬時に判断した。直後、猛然と追い出した。

「ちっ!」

 ティアーアップをマークしていた、サイレントナイト・三井も仕掛ける。正直なところ、もう少し我慢して居たかったが、セーフティリードを保たれたらサイレントナイトの脚では差すのは難しい。賢明な判断だと言える。

 シンソウレイジョウ・芳賀は直線勝負を決め込んで最内から進路が開けるのを待っている。

(スローやけど、ベルヴェーヌとラヴラヴタイムは、息を入れる間が無かったはずや。直線でその二頭を巧く捌ければ、充分勝負になる!)

 芳賀の予測通り、直線手前でその二頭の脚色が鈍りだした。それを外から交わしてプティフランソワが先頭で直線へと入った。

 阪神競馬場芝外回りコースの直線は四百七十四メートルと長い。さらに急な上り坂もあるので、差し・追い込み馬の台頭が顕著である。

 だから一心不乱に真先は追った。直線に向いた時、他馬との差がどのくらいあったか。せいぜい二、三馬身だろうとアタリをつけた。少しでも縮まらないように、少しでも拡げられるように。


『先頭はプティフランソワ! ――ティアーアップが来た! ティアーが来た! サイレントナイトも良い!』

「そのまま! あっ!」

『三頭一丸! プティフランソワは少し苦しいかっ!?』

 テレビの画面には、ティアーアップとサイレントナイトが脚を伸ばし、プティフランソワの粘り込みを阻止しようと、内と外から馬体を併せてきた。

『少し出たのは――』


 外サイレントナイトが首差前に出た。

 残り二百メートル。ここから、キツイ坂が待っている。

「こなくそ!」

 真先はステッキを振りかざした。その間にも左腕で手綱をしごいている。

(まだ、余力は感じる!)

 いつもは見せムチの多い真先も、だからこそ、この時ばかりと入れた。

 プティフランソワはしっかりと反応し、サイレントナイトを差し返す。

サイレントナイトは、そこで一杯になり、半馬身後退。シンソウレイジョウは、レコードライブラリに外から被せられ、下がって来たベルヴェーヌとラヴラヴタイムを捌くのに時間がかかり、ジュテームレイディとコールミークイーンの間を割って、末脚を炸裂させたが、前を行く三頭からは五馬身。


『プティ! プティ! 差し返した!』

 ゴールが一完歩ごとに近付く。残り百メートル。プティフランソワとティアーアップはお互い譲らずの、一騎打ち。

『桜はどちらに咲くか! プティか? ティアーか? ――赤い帽子が内から凄い脚を伸ばしてくるぞー!』

 瞬きも忘れ、香苗は食入った。


 真先にも猛男にも、もはや相手を気にしている余裕は無い。

 残り十メートル。

 プティフランソワは最後の力を振り絞り、ティアーアップを頭差交わした。

 だが、シンソウレイジョウが絶望的な状況から、信じられない脚で内から突っ込んで来ていた。


『……三着はどうやらティアーアップ。一着入線は、かなり微妙です』

『うーん……勢いで言えばシンソウレイジョウですけどね。プティフランソワも凄い粘りですからねえ』

『皆さん、お手持ちの勝ち馬投票券は、レースが確定までするまでくれぐれもお捨てにならないよう、お願いいたします』

『しかし、微妙ですね』

『ちなみにこのまま確定いたしますと、締め切りオッズは馬連、六番十八番で百十一倍、三連複は――』

ゴール前リプレイを観ながら、香苗は存在するか分からないが、神に祈っていた。プティフランソワは内のティアーアップは頭差退けていはるが、更に内のシンソウレイジョウもティアーアップを交わしている。

 優勝争いの二頭の差は微妙すぎる。アナウンサー、解説者、香苗にも判別できない。

「神様、存在しているのなら、真先さんに勝たしてあげてください……」


「俺だろ?」

「いや、俺やって」

「猛男、分かったか? どっちだったか」

「分かるわけ無いでしょ。分かったのはあたしじゃ無いってことよ」

「つうか! だいたいなんでお前が突っ込んできてんだよ!」

「しゃあないやんけ! こっちも勝ちたいんやから」

「おかげで俺のGⅠ初勝利が、かなり分かんなくなっちまったじゃんか!」

「ボケ! そんなん言うたら、俺かて二連覇がかかってたんやぞ? どうしてくれんねん!」

「お前勝ち譲れよ」

「お? ふざけんな?」

「いいじゃねえか! 去年勝ってんだし。猛男はGⅠ十勝してるし、花子なんか先月、ドバイ勝ってんだぞ? 同期じゃ俺だけ肩身狭いんだよ。分かる? それに香苗も喜ぶぞ?」

「いくら香苗ちゃんの為や言うてもそれとこれとは別やっちゅうねん。ちゅか、お前みたいなへっぽこがそう簡単にGⅠ勝てるわけ無いやろが」

「へっぽこ言うな!」

「まあまあ。まだ分かんないんだから……二人とも」

「大体、真先! お前は言うことがやらしーねん」

「あ! てめえ! やらしー言うんじゃねえ! 取り消せ! 今すぐ取り消せ!」

 言い争っていた真先と芳賀だが、スタンド前まで来ると、さすがに何も言わなくなった。仮に何か言ったとしても、十万人を超えるファンの大歓声にかき消されただろう。


 スタジオのキャスターはやや興奮している。

『先生、すごいレースでしたね』

『まだ確定してないから言うけど、個人的には、柊くんに勝たしてあげたいね』

『もし、プティフランソワが勝てば、柊騎手は嬉しいGⅠ初勝利ですね』

 先生の言葉は香苗にとってありがたかった。のだけれど、なかなか予想が的中しないことで有名な先生なので、素直に喜べなかったりする。

『レース回顧をどうぞ』

 画面が切り替わる。

『まず、ベルヴェーヌが抜群のスタート。圧倒的一番人気のティアーアップが続きました。一コーナーでは、シンソウレイジョウはこの位置です』

『枠順も良かったよね。ティアーアップを上手くマークできるし。血統的に、もまれても大丈夫だし』

『驚いたのは、プティフランソワ。これは、作戦ですかね?』

『だと思うよ。抑えているし。ついていけなかったわけじゃないね』

『三コーナー中間で全体的に落ち着いて、四コーナー、ここでラヴラヴタイムが行きたがってます。と、柊騎手の手がここで動いているようですね』

『仕掛けるのが早いんじゃないかと思ったけど、結果的には正解だったね。まくって、粘りこんで』

『直線手前でティアーアップとサイレントナイトも伸びてきて、プティフランソワに並びかけます』

『シンソウレイジョウは二頭を捌くのにモタついた。けど、凄い脚で伸びてくる』

『本当に凄い脚ですね』

『それにしてもプティフランソワの根性も凄い』

『一度差されるんですが、すぐに差し返しましたね』

『最後の最後にティアーアップも交わしたんだけど、シンソウレイジョウも来てる。どっちが勝ったか分かんないね、コリャ』

 またスタジオに切り替わる。

『ティアーアップも負けはしましたが、負けてなお、強しと。……確定しましたか? したようですね』

 香苗は目を瞑った。聞きたいような聞きたくないような。

「お願い!」

『一着は……ハナ差でシンソウレイジョウ、ですね。芳賀騎手の桜花賞二連覇達成です』

「……ハア――」

 香苗はがっくりとうな垂れた。そして、余計なことを言った、テレビに映った先生を恨んだ。

「もう!」


 後検量を済ませ、真先はパトロールフィルムを観て、シンソウレイジョウの瞬発力に舌を巻いた。

「うはっ……。あんな脚使われちゃなあ……」

結果はすでに聞いている。

「お話いいですか?」

 テレビ局のスタッフが彼の感想を聞きに来た。検量室の外では、芳賀が勝利ジョッキーインタビューを受けている。それを横目に見ながら、真先は答えた。

「悔しいです。勝ったと思ったんですけど……悔しいです」

 だが、胸の裡では、

 ――オークスこそは!

 と想いを燃やす。


『見事、桜花賞二連覇を達成した芳賀道行騎手です。おめでとうございます』

『ありがとうございます』

『最後は凄い脚を披露しましたね』

『そうですね。前に行ってた二頭を捌ければ、いい勝負になると思ってたんですけど、手前を変えるのにもたついちゃって。でも、馬を信じて諦めませんでした』

『道中、特に意識していた事とかはありましたか?』

『そうですね。やっぱり、ティアーアップをマークはしてたんですけど、それよりもリラックスさせることに注意しました』

『最近、同期の方々の成績が良いですね。宇賀神騎手はドバイワールドカップ、堂本騎手はフェブラリーステークス、高松宮記念と中央の平地G1を二連勝。だいぶ刺激になったんじゃないですか?』

『そうですね。負けてられへん気持ちは、やっぱりありましたね』

『そうして、見事に桜花賞二連覇を達成しました。まさに黄金世代ですね』

 香苗はそれを聞いて、このインタビュアーにムッとした。まるで真先を“黄金世代”としていないかのように聞こえたからだ。

『いや、もう、テキや応援してくれたファンの人たちのおかげですよ』

『次はいよいよオークスですが、自信はありますか?』

『うーん。無いわけじゃないですけど、競馬ですから。でも、狙いますよ。はは』

『最後にファンに向けて一言お願いします』

『相手はアレですけど、牝馬三冠狙います! これからも応援をお願いします』

『桜花賞二連覇の芳賀騎手でした。ありがとうございました』

『ありがとうございました』

 香苗はもう一度ため息をついて、気持ちを切り替えることにした。真先が帰宅したときに、暗いままでは彼に悪いだろう。

 そして、長集に電話を掛け、火曜日から仕事に戻ると伝えた。どうしても桜花賞のインプレッションを書きたいと思った。

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