金曜日
中手川が香苗の携帯に電話をしてきたのは昼、一時過ぎのことだ。
「電話じゃ話せん。……セラヴィまで来れるか?」
行きつけの、少々風変わりな喫茶店だ。といっても、店の雰囲気は普通の喫茶店と変わらない。風変わりなのは店員である。
「あ、香苗。中手川さん来てるわよ」
店員の藤島瑞穂が香苗を案内する。彼女は香苗の高校のクラスメイトだ。当時、あまり交流も無かったし、別々の大学に進んだため疎遠になっていたが、二年前、偶然再会したのだった。
「コーヒーぐらいはおごってやるよ」
中手川は香苗に席を促しながらそう言った。
「それ、冗談でしょう?」
「……どういう意味だよ」
「中手川さんの口からおごるなんて……初めて聞きました」
「あのなぁ。ケチだって言いたいのはわかるがな。自覚もしてるし。でもいいか、ケチはケチでも俺は気前のいいケチなんだよ。そんじょそこらのケチとは一緒にしないでくれ」
一杯二百五十円のコーヒーで気前がいいと思っているのだから、そんじょそこらのケチとあまり変わらない。
「それで、話というのは?」
「ああ、その前にだ。おまえの腹は決まったのか?」
運ばれてきたコーヒーを香苗にすすめる。彼女は一口飲んで質問に答えた。
「昨日あれから自分なりにじっくり考えて、どうするかは決めました」
香苗は中手川の顔をまっすぐ見つめながら、はっきり言った。
「そうか。それならいいんだ」
「真先さんに謝ろうと思います」
「明日は柊の騎乗は無かったな。でも夜は調整ルームに入るし、今日にでも言ってやれ。好い結果が期待できるかもな」
「ええ、そうします」
「しかし、悪いな、わざわざ呼び出してしまって」
「いえ、別に」
「じゃ、俺は帰るわ。じゃな」
「はっ?」
ぽかんとした香苗を気にするでもなく、中手川は伝票を掴んでずんずんとレジに向かっていく。
「ちょ、中手川さん」
香苗は慌てて中手川を呼び止める。
「おいおい、竹内。おごるって言ったろ? 気にすんなって。まあ、どうしても自分で払うなら……」
「違います。そうじゃなくて、中手川さんが言ったんですよ? 話があるって」
「あー、あれな。……もういーんだよ」
「もういいって……どういう意味ですか?」
怪訝な顔をした。言葉をそのまま受け取れば、話す必要が無くなったということだ。
「いや、お前の決心がついたわけだからな。逆に駄目になったんだ。そーゆー事。じゃな」
財布の中から紙切れを取り出して、伝票と一緒にレジへ置くと、中手川はそそくさと店を出て行った。紙切れはどうやらセラヴィのコーヒーサービス券だ。香苗にも見覚えがある。
「逆に駄目?」
香苗は首をひねった。謎は深まるばかりだ。
「もしもし? 竹内さーん」
顔の前で手をひらひらされたら、誰だって気付く。
「あ、ごめん志賀くん。ここに立ってたら邪魔よね」
「いやー、今は暇だし、かまやしないけどね。けど、なんというか、やられたね、竹内さん」
志賀くんの名前は直哉という。彼はニヤけながら、それでも気の毒そうな中途半端な顔で、中手川の出したサービス券を香苗に差し出した。
「有効期限」
直哉は彼女に裏を見るように言うと、そこには一週間前の日付が記載されていた。
「……」
「……」
「……ワザとだと思う?」
香苗は苦笑を浮かべながら直哉に意見を求めると、
「俺もケチって事じゃ人後に落ちないつもりだから分かるんだけどね。中手川さんも俺も善良なケチだよ。ただ、あの人はちょっと、抜けたトコがあるからね」
「ふふ。おごられる気は無かったけど、まさかこうなるとは思って無かったわ」
「悪いね。ここのところ本業のほうが不景気でさ。探偵業務と喫茶店と、どっちをメインにしたら儲かるだろうかって皆で悩んでるくらいで。はい、お釣り」
彼を含めて、この店の店員は全て、向かいに建っている牧口探偵事務所の所員である。
直哉の人懐こい顔を見ながら香苗はつい、考える。
(中手川さんが話そうとした内容を調べて貰おうかしら)
「やだな。俺がかっこいいからって、そんなに見つめないでよ」
(やめておきましょう)
直哉には悪いが、その台詞で気持ちが萎えた。それに、なんとなく気が引けるというか、後ろめたいというか、嫌な気分だ。それに費用も幾らくらいになるのか見当がつかない。
「それじゃ、ごちそうさま」
「ありがとーございましたー」
とりあえず家に帰ってまずしたことは、シャワーを浴びることだった。そうでないと真先に電話する気にならなかったし、あの嫌な気分も洗い流したい。言ってみれば、禊だ。
人間、さっぱりすると気持ちがおおらかになるもので、すべてが上手くいきそうな感じがしてくる。真先の携帯に連絡し、謝って、仲直り。なに、簡単なことだ、と。
だが、髪を乾かしながらよくよく考えてみると、一つ重大な事に気が付いた。
水曜に猛男から、真先が輝明の部屋に転がり込んだ、とは聞いている。調整ルームはテンションが上がりすぎるかも知れないと言って嫌がったそうだ。それはいいが、この三日間の着替えはどうしたのだろうか?
香苗の出社中にでも帰って来ていたか、あるいはどこかで買い求めたか。とにかく軽はずみなことを言ってしまったと、彼女は落ち込んだ。真先の性格上、「帰ってくるな」と言われたら、帰って来られないだろう。たとえ、彼女がいなかったとしても。
(真先さんはそういう人だ。きっと怒っているのね。私が馬鹿なことを口走ってしまったたばっかりに……。意地になって着替えすら取りに戻っていないなんて……)
戻ってきていないのはただ単に、真先が基本的に小心者だからだし、意地になるならないは彼の精神の問題であり、また、そうならないことも彼女はよく理解をしている。が、そこはそれ。愛に悩む女の心は複雑なのだ。
(もしかしたら、彼は怒ってないかもしれない。だって彼は優しい人だもの。きっと私に冷静になる時間をくれたんだわ)
冷静になる時間を与えたのは長集編集長だが、そこもそれ。
(愛情表現の一部なのよ。ああ、真先さんは私のことを愛してくれているんだ)
こうして、『香苗愛の劇場』はありえないほどのアクロバティックさで自己完結を迎えるのであった。
「真先さん――」
過程はどうであれ、彼女は感涙にむせんだ。これはもう謝るしかない! と携帯の短縮ダイヤルで発信する。
基地局が探している時間も惜しい。が、すぐコール音に変わった。
その時だった。彼女の後ろから小林調教師の叫び声がしたのは。
「今年の阪神は強いでー! 頼もしでー! やったでー! 優勝するでー!」
驚いて振り返ると、目に入ったのはパソコンデッキ。プリンタの横で真先の携帯が叫んでいる。小林の声は着信音なのである。
「ウソ……」
呆然とする香苗の手から、するりと落ちた。
「でもホンマはワシ、巨人ファンやねーん! せやから巨人の優勝やー! 今年の阪神は強いでー! 頼もしでー! やったでー! 優勝するでー! でもホンマはワシ、巨人ファンやねーん! せやから巨人の優勝やー! 今年の阪神は――」
固まる香苗に、真先の携帯はニセ阪神ファンの声を叫び続けるのであった。ちなみにこの着信ボイスは去年の四月、小林が真先に強制したものだったりする。
香苗がニセ阪神ファンの声を聞いていたその時刻、ちゃんとした阪神ファンの真先はセラヴィの入り口にいた。
「あ、柊さん。いらっしゃい」
「やあ」
右手で直哉に挨拶し、カウンターに座る。
「ねえねえ柊さん。新メニューがあるんだけどさ。どう?」
直哉が身を乗り出してくる。
「新メニュー? ……またイカの塩辛の砂糖漬けとか……そんな感じのもんじゃないだろうな?」
問い返すと、直哉のうしろのキッチンにいる瑞穂と三石涼が「やめとけ」と手を振っている。
「あー、アレは大失敗だったね」
直哉はけらけらと笑って悪びれたふうもない。
「でも今回は自信あるよ」
「ちゃんと味見したんだろうな?」
「当たり前だよ。前回反省したんだから。今回はしたよ。はっきり言って抜群に食えたもんじゃなかったけど、人の好みはそれぞれだから」
「おまえ……自分で不味いと思うようなものを客に勧めんな!」
「全員に勧めてる訳じゃないって。一部の舌のおかしそうな人たちにだけ。特別に」
「喧嘩売ってんのか? おまえ」
真先は憮然としながらコーヒーを注文した。
「コーヒーと言えばさー」
抽出されていくコーヒーを見つめながら、直哉は真先に話しかける。
「柊さん、ヤバイかもよ?」
「ふーん。……はぁっ?」
あまりにも自然な直哉の口調に思わず右から左へ聞き流すところだった。
「なんでコーヒーで俺がヤバイんだよ」
「二時間くらい前かな。中手川さんと竹内さんが来ててさ。なんか深刻そーだったし」
「二人が?」
コクリと頷いて彼は続けた。
「マサやん、ケンカしたっしょ? 竹内さんと」
「誰がマサやんだ!」とつっこもうとしたが、鋭い指摘に阻まれた。
「図星か」
「どうして……わかったんだ? 香苗から聞いたのか?」
「いや、勘だよ。俺をなんだと思ってんの? 探偵だよ? これでも」
遅ればせながら、真先はこの店の店員が全員、探偵であったことを思い出した。確か、依頼が少なくなってしまってどうしましょ? ということで、探偵業務と喫茶店とをミックスしてしまえ――とかなんとかいうことだったらしい。
「実はそうなんだ。でもケンカというかなんと言うか……。聞いてくれよ、香苗が――」
「んーなハナシどーでも良いよー」
「どうでもって!」
「さっきも言ったけど、俺ら探偵さんだよ? 男女間の情のモツレなんて聞き飽きてるよ。なあ?」
いつの間にか直哉の隣に涼も来ている。直哉は彼に同意を求めたが、それには答えずに真先に質問した。
「竹内さんには謝って……へんよね? その様子じゃ。もっとも、どっちが悪いのかは知らんけど」
涼の言葉は『謝った者勝ち』と言っているようなものだ。
「いや、それが……携帯がなくて。謝ろうにも連絡ができないんだよ」
「携帯なら貸しますよ。涼が」
善良なケチが涼の腕をつついた。彼もおとなしく真先に携帯を渡した。
「ああ、サンキュ。香苗の番号は入ってるか?」
馬鹿なことを言うなあ――と呆れる二人。
「あれ? 柊さんてアホですか? 入ってる訳無いっしょ」
「じゃあ、無理だ」
ひょいと携帯を返した。
「は? なんで?」
「覚えてないんだ。香苗の番号」
沈黙。
「……普通、忘れます?」
やっとのことで直哉が言ったが、真先は反論した。
「だって、登録してるんだぞ。名前で探すことはあっても、番号までは見るか? かかってきても名前が出るし」
うん、うん。と頷く涼。
「そりゃあ、まあ……」
「しかも短縮でかけてるし。1と通話ボタンでアラ不思議、だ」
「確かにそうだね。よく考えたら俺もあづさの番号は覚えてないや」
直哉が頷きながらそう言った。
「涼はみこっちゃんの番号、覚えてるか?」
「もちろん。1と通話ボタンです。はい」
「だろ? 覚えてないもんだろ?」
「まいったね、これは」
三人で笑っていると、瑞穂に非難された。
「まったく。あんた達の愛情を疑っちゃうわ。……まあいいわ。私が香苗にここに来るように言ってあげますよ」
「え? いや、でも」
途端に狼狽しだす真先に、
「なにを言ってんですか。謝るんでしょう?」
「そりゃ、ま、そうだけど」
「なら問題なし」
そう言って奥へ引っ込むと、五分ほどで戻ってきた。右手でOKサインを作っている。
「……来るって?」
おずおずと真先は言った。火曜日の香苗の剣幕が脳裏に甦る。
「すぐに来るって。柊さんが居るって言ったら、なんだかひどく慌てだしたみたい」
「はあ……まだ怒ってるのかな……」
肩を落としてため息をつく。
「うーん。そうじゃないと思いますよ? たぶんね」
意味ありげな笑顔で瑞穂は励ました。
「そもそも、どうして怒らしちゃってん」
涼がコーヒーをすすりながら尋ねた。真先の注文したコーヒーである。それに気付いても涼は、慌てるでもなくすすり続ける。
「実は先週、俺は合コンに参加したんだよ」
瑞穂が、少し顔を歪めた。彼女は恋人一筋である。
「それがバレてな。いや、バレてたんだけど、花子とか国松とかがハナシをややこしくしやがったんだよ」
真先はそのときの惨状を話した。
「あっはっは! それでT・Oか。最初、芳賀騎手のことだと思っちゃった」
直哉が大爆笑。
「うははははっ! 言い訳ヘタすぎ! そりゃ誤解も生まれるって。アホや!」
涼も遠慮が無い。
「他人ごとだと思いやがって。笑い事じゃなかったんだぞあの時! めちゃくちゃ怖かったんだから!」
「でも本当にT・O――ブハッ、してないの? 案外と事実なんじゃない?」
「三石! おまえまでそんなことを! 誓って俺は何もやましい事はしてない!」
「じゃ、何で合コン行くかな。何もする気が無いなら参加なんかする? フツー」
直哉の言葉は暴言だが、真理と言えなくも無い。
「下心 無いなら参加 しませんよ。お、ぴったり十七音」
句の意味は、もっとこじれろ。面白いから。こんなところだろう。
「下心なんかないって。……ただ、結婚を前に最後の羽目外しと言うか、バカ騒ぎと言うか」
「血痕? 誰の? どこに?」
「結婚だ!結婚!」
一応探偵らしい涼のボケに、真先は立ち上がってツッコんだ。これが“帝王”こと芳賀なら、大げさに椅子からズッコケ、その後にツッコミを入れたことだろう。
「結婚? 香苗と?」
「そうだ! 俺はな! 近いうち香苗にプロポーズをしようとだな――」
「真先さん――!」
はっとして、グッと振り向くと香苗がいたりする。
とにかく図ったように抜群のタイミングで登場した彼女に、真先は口を開いたまま無言、三人の店員は口を揃えて
「いらっしゃいませー……」
それが精一杯だった。
香苗は瞳をうるうるさせながら、真先の胸へと飛び込んだ。
「真先さん、ごめんなさい。私――」
いち早く冷静さを取り戻したのは瑞穂だった。ドギマギして何も言えなくなっている真先をつついて、発言を促した。それである程度は落ち着いたのか、彼は優しく香苗を包みながら言葉を探した。ただ、落ち着いたのは、ある程度、なわけで、落ち着いていないことには変わりがない。
「い――いらっしゃいませ」
真先と香苗以外の全員が、コケた。