木曜日
小林との会話は、不毛で、何の解決にもなっていない。眠りに就くまで思っていた真先だったが、目覚めてみると、驚くほど気持ちがラクになっていた。
(意外と効き目があるんだな)
ほんのりと小林に感謝をしかけて、やめた。昨日、鼻をほじりながら屁をした彼の姿が甦ってきたのだ。
(屁っこき親父に感謝するのは、人間としてどうなんだ?)
「じゃあ、ぼちぼち行きましょうか、先輩」
「ん。そうだな」
火曜日から真先は、輝明の部屋に泊まらせて貰っている。明らかに火に油を注ぐので、花子の部屋には行けない。明らかに真先の貞操が危ないので、猛男の部屋にも行けない。事情を知っていて、色々安全なのは輝明だけである。調整ルームも考えたが、今の真先では必要以上に神経を張ってしまって、本番に良くない。
とにもかくにも、平常心を取り戻した彼を見て、小林はプティフランソワのウッドチップ調教の指示を出した。
「この時点での出来は七分やな。長め強めでな」
「了解」
プティフランソワに跨り、記者席を見ながら調教コースへと向かった。靄がかかって見えなかったが、香苗はあそこに居るはずだ。
彼は愛馬の首筋をさすりながら、謝った。
「昨日は変な乗り方して、御免な」
しかし、なんと素晴らしい乗り心地だろうか。今までで最高の仕上がりではないか。これで七分どころとは。血統的にも一番の目標はやはりオークスだが、だからこそ、勝って弾みをつけたい。
調教後、希望が確信に変わった。指示通り長めに二本追ったが、彼女は全く疲れた素振りを見せなかったのだ。
「まだまだ良うなるでぇ。ダービーでも勝負になるんと違うか」
小林が言ったが、冗談にも聞こえない。
その後、真先は今週騎乗の予定がある、他の馬の調教を行い、感触を確かめ、その日の仕事を終えた。
「私に言わせて貰えばだな、それはどちらも悪い」
長集仁は自慢のバリトンで言い切った。
日の出出版の『ザ・ホースレースファン』編集部編集長室で香苗と中手川から、話を聞いた後の発言である。
「確かに、柊に同情の余地は無いが、お前が仕事に支障をきたしている以上、お前のとった行動は間違っている」
長集のその言葉にしきりに頷いて、中手川が口を挟んだ。
「大体、甲斐性のうちだろう? 浮気くらい」
「あの、浮気ではないです」
香苗の言葉を中手川は無視した。
「いいか竹内。男ってのは浮気しなきゃ男じゃない。男は浮気しなきゃ死んじまうんだ。かの有名な昔の俺もそう言っているくらいだからな」
「お前は少し黙っとれ」
中手川にげんなりした長集だが、すぐに気を取り直して香苗に言う。
「これは、柊だけの責任じゃない」
「すみません」
昨日、中手川からプティフランソワの乗り替わりの可能性が有ると聞いてから、彼女は集中力を欠きまくった。
うわの空で人の話が全く耳に入らない。ティアーアップを管理する堀川調教師とのインタビューを忘れる。社に戻っても原稿の入稿が遅れる。中手川が何とかフォローしたものの、今日、桜花賞の枠順が発表され、プティフランソワの鞍上が真先で登録されているのを見て、今度は気が緩んだのか、メモも取らずに帰ってきてしまった。当然、そこで中手川の堪忍袋の緒が切れてしまった。
「仕事に私情を持ち込むなとは言わん。人間である以上、それは不可能だ。だがな、持ち込むなら持ち込むでせめて、自分の仕事を忘れない程度にしろ。それがどうしても出来なければ休め。なんのために有休があると思っているんだ」
長集は以前、中手川が私情を持ち込んで失態を演じた時とは、まるで違う反応を示した。
「そりゃ無いでしょうボス! 俺の時とは言ってることが違うじゃないですか!」
中手川の抗議に「人間は一秒一秒進歩するものだ。大体、人手の足りなかった昔とは状況が違う」にべも無い。
「うぅ……しどい……」
「とにかく」
長集は鹿つめらしく、香苗に謹慎を命じた。
「今のお前は使い物にならん。問題を解決できるまでは、仕事をするな」
「はい……」
彼女にとってそれは、クビを宣告されたようなものだ。責任と名誉のあるクラシックレースのインプレッションを任された直後に、おあずけを食わされたのだから。しかも問題の解決はいつになるか分からないのだから。
「とりあえず、桜花賞の記事は中手川、頼んだぞ」
「ええ? 俺? 嫌ですよ。めんどくさい」
長集は中手川に一瞥をくれると、無視して続けた。
「竹内。柊とよりを戻すなりなんなりは、自分で考えて決めるんだぞ」
彼女もそれは解っている。長集もそれを見越してのものだ。
「今日はもう帰ってゆっくり考えるんだ。明日か別の日か、結論が出たら柊と話しなさい」
長集はふっと、自分の娘を見るような穏やかな顔をした。
「はい……やってみます」と答えた香苗は俯いていた。