水曜日
競馬関係者の朝は早い。この日もまだ日も昇りきらない午前四時から、すでに多くの人間が、ここ美浦トレーニングセンターへと集まってきていた。
もちろん、競走馬のトレーニングと、その取材の為である。
「なんだか、様子はあまり良くなかったな」
主要な馬の調教も一段落したので、食堂でコーヒーをすすりながら、中手川辰巳は香苗に賛同を求めた。
「プティフランソワですか?」
「プティはいつもあんな感じだろ。そうじゃなくて、ヤネのほうだ。ヤネの」
中手川はひらひらと手を振った。
「あんなに汚い柊の乗り方は見たことが無い」
「汚い?」
「まったく重心が取れてない。挙句に落馬して、調教助手の田島くんがあとを引き継いだぐらいだ」
「……」
「竹内、なにかあったのか?」
「え? ええ、まあ、少し」
十年前には天才とまで言われていた真先が落馬した、それほど酷い乗り方をしたのだろう。
合コンについては、彼女はあまり怒っていない。別に行くのはいい。ただ問題は、それを隠そうとする小細工が気に入らないのだ。
「なににせよ、あいつによく言っとけよ? 俺はプティで勝負するんだからな」
もしかしたら、言い過ぎたのだろうか。軽い後悔が彼女を襲う。
「……」
そこで香苗は自分の甘さに腹が立った。
真先の身から出たさびではないか。……でも。
「帰ってくるな」はやはりキツ過ぎる。甲斐性のうちではないか。とも思ってしまう。
「……」
やはり甘いのだろうか?
「聞いてるか?」
「あ、はい」
出馬登録を済ませた小林は、真先を呼びつけて落馬の原因を問いただした。
「一体どないしてん」
「いや、実は……」
かくかくしかじかで事情を説明していくうちに、小林の顔に呆れの色が広がっていった。
「というわけなんです」
「お前……アホやろ? なんでもっとバレへん様にやらんねん」
「気を付けてはいたんですけど」
「ほしたらなんでバレんねん。そやろ?」
「はぁ」
「そもそもやな、合コン行くって言っとかなアカン」
「それじゃ反対されるじゃないですか」
「だからお前はアホやねん。最初のうちに頭合わせとかなんとか、口八丁で乗り切っとくんや」
「あー、なるほど」
真先は師匠に感心して頷いた。メモでも取りたい気分だ。
「よっしゃ! こうなったら、お前に女遊びの秘訣を教えたる。高等テクや。よう覚えとけよ?」
伝授されたテクは真先にとって、あまりに高等すぎて使いこなせそうもなかったので、陽の目を見ることは無さそうだ。
「まあ、こんなとこや。……そもそも、なんで合コンしたんや? 国松を祝うだけとはちゃうやろ?」
小林が問題の根本を問うと、真先はしばらくモジモジしていたが、やがて口を開いた。
「そろそろかな、と思って……」
「何が?」
「はあ、そのー、結婚です」
「なんで?」
小林のきょとんとした顔に、真先もつられてきょとんとした。
「なんでって……なんでだっけ?」
高等テクが彼の頭の中を飛び跳ねている。
「いやいや違う」
危うく小林に洗脳されかけている自分に気付いて、頭を振った。
「香苗と知り合って、もう二年になりますし。俺たちもちゃんとした大人のつもりですから。しっかりケジメをつける時期じゃないかと」
「ほーお。合コンはつまり、独身最後の羽目外しっちゅーわけか」
「つまるところは、そうです……」
小林は静かに溜息をついた。
「十年前の、丸坊主のアンちゃんが……そうか……。結婚か」
「……」
「成長してへんようで、してんねやなあ」
小林は、弟子の成長を噛締めるように、微笑んだ。
「テキ……」
「人生の先輩として、お前にアドバイスをやろう」
そう言うと、小林はゆっくりと椅子から離れ、窓の近くに置いてあるCDプレーヤーのスイッチを入れた。
張りのある、女性の歌声が広がる。最近流行の昼ドラマ『即! 離婚』のテーマ曲だ。
「結婚はロクなもんとちゃう。せえへん方がええ……」
外へ、遠い眼をして小林は諭した。
「縁起でもない曲をバックに、そういう事を言わないで下さい!」
真先はプレーヤーのスイッチを乱暴に切って、続けた。
「とにかく! 俺の決意は固いんですから。そう簡単には揺らぎませんよ」
さっきしっかり揺れまくってたくせに。と、小林の目が言っている。
「ちっ。つまらんやっちゃで」
「何とでも言って下さい。俺は香苗を愛してるんですから」
「へーへー」
あさっての方向を向き、鼻をほじりながら聞き流したおっさんは、「ブッ」と一発屁をかまして、
「もー帰ってえーぞー」
シッシッと真先を追い出した。
「人の幸せ話なんぞ、聞きと無いしな」
「クッ――。むかつく!」
「明日はちゃんとした仕事せえよ」
結局、仕事ぶりについてはその一言だけだった。