月曜日
この日、四月になってから、初めての雨が降った。
「嫌だわ……。まだお花見もしてないのに」
両手でノンカフェインコーヒーの入ったカップを持ちながら、竹内香苗は嘆息した。
「桜って、満開になるまでは散りにくいものなんだってさ」
力強く受け売りを話す柊真先だが、先週、お花見を仲間たちとしていたのでけっこう、他人ごとだ。
「真先さんはもう済ませているのよね。長岡京で」
「……えっと、まあ、うん。……誰から聞いたの?」
「ネタ元をそう簡単には明かせるわけ無いでしょう」
「芳賀? 猛男か? ……あいつら――」
小さくため息をついて、香苗は仕事の顔になる。それを見て、真先も姿勢を正した。
「じゃあ、始めましょう」
「ああ」
「まず、プティフランソワにとっては、阪神のレースはこれが初めてよね?」
仕事の顔はしているが、言葉は軽い。先輩記者の中手川でもこの場に居れば、彼女ももう少し言葉を選ぶのだが、ここには居ない。彼ら二人の家なのだから、当然なのだが。
「ああ、そのことについては心配ないよ。元々、デビューは中山だし。ずっと右回りを使ってきたから。右回りに対する懸念は無いんじゃ無いかな」
真先にしても、取材を受けているとは思えない口調だ。香苗が原稿に起こす段階で、適当な文章に直してくれるだろう、そんな思いからである。
「相手関係はどうなの? ティアーアップとは過去、二戦して、首差、二馬身と離されてる。ファンの間では勝負付けは済んでるって言う意見がほとんど」
香苗はそこで眼鏡をかけた。普段はコンタクトだが、風呂上りで外している。
「新馬戦は追い出しが遅れただけだし、シンザン記念は前が壁になった。……どっちも俺の乗り方が悪かった。だから、俺が変な乗り方さえしなければ、十分に勝ち負けにはなるはずだよ」
「じゃあ、自信があるのね?」
香苗の瞳がいきなり輝いた。おそらく優勝時の騎手進上金の計算でもしているのだろう。
「うぅ、今年も、俺が全然勝ててないからって、ちょっとロコツじゃないか?」
「しょうがないでしょう? 真先さん、フリーになってくれたけれど、その分収入が減ったんだから」
とは言うものの、騎手として決して調子自体は悪くない。昨年こそ、初勝利は九月だったが、今年はすでに三勝をあげている。
騎手のおもな収入源は、レースに騎乗することである。騎乗手当てと、八着までに入れば、着順に応じて獲得賞金の五パーセントが進上金として支払われる。例えば、日本競馬の場合、最高賞金額であるジャパンカップの優勝賞金が二億五千万円。優勝すれば騎手には千二百五十万円が支払われるのである。
真先が小林篤雄厩舎の専属騎手だった頃は、賞金のほかに月給があった。しかしその頃は厩舎作業に追われて、香苗との時間が作れなかった。彼女も競馬マスコミの人間である以上、非常に多忙である。二人の時間が重なるのは、月曜日ぐらいしかなかった。そんな時、
「だったらいっそ、フリーになったらどや?」
悩む真先に囁いたのは、他ならぬ小林であった。
「役に立たへん奴に給料払わんで済むし、お前も時間が出来る。一石二鳥やんか」
と、いう訳で、晴れて真先はフリーの騎手となった。ただし、
「今まで以上に結果残さんといかんようになってまうがな」
釘を刺すことを忘れないのは、弟子を想う師の親心だ。
「確かに収入は減ったけど……二人の愛は増えたじゃないか」
花子や猛男には絶対に聞かせられない台詞(間違いなくむこう三ヶ月はからかわれる)を吐くと、睨まれた。
「……アレ?」
「二人の……愛ね」
怒っているようだ。
「怒った顔も香苗は絵になるね」
「愛……ね」
香苗は頬杖を付きながらゆっくりと窓の外を見やる。雨あしが強くなってきている。何にせよ、真先のホメちぎり作戦は効果が無いようだ。
「香苗? 聞いてる? 香苗さん?」
「耳に入ってるわよ」
彼女は真先に顔を戻して、にっこり微笑んだ。満開の桜のような、美しすぎる笑顔だ。
「合コンの話」
「うっ――!」
雷鳴。いつの間にか、雷雨にまで発達していたようで、真先の呻きとそれは同時だった。
「いや、それはその、ホラ、人数が足りないからって、芳賀の奴が強引に――」
「舞妓さん相手に、大はしゃぎだったそうね」
「ううっ――!」
再び雷鳴が響く。ふっと暗くなった。停電だ。すぐに回復したが、真先の目の前はまだ暗い。(なんでバレたかなー)と。
香苗はもう微笑んではいない。満開の桜は散るのが早い。
「「……」」
怖くて真先は香苗と眼を合わせられない。
「さっきから殺気が……なんつって……」
恐る恐る上目遣いに言ってみた。
彼女は鼻で大きく溜息をつくと、眼鏡を置いた。二年も付き合っていれば分かる。今の彼女には逆らってはいけない。
「ごめんなさい……」
「話が逸れちゃったわね、続きを済ませましょうか」
「はい……」
「三戦三勝の二歳女王、シンソウレイジョウについては?」
「ティアーアップと同じくらいの能力はあると、思います……はい」
そうして、甘い夜は何も無いまま更けていった。