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猫とトオル

 家の外では真夏の太陽がさんさんと輝き、地上を容赦なく照りつけていた。こんな日は、大人たちは紫外線を警戒して外出を控えるが、子どもたちにはそんなことは関係ない。近くの公園からは、子どもたちのはしゃぐ歓声が窓越しに聞こえていた。

 今は夏休み。本当なら、トオルだって外で友だちと会って一緒に遊んだり、どこかへ出掛けたりしたい。だが、彼は来春に大学受験を控えた高校三年生だった。受験勉強のための貴重な時間である夏休みに、そんなことが許されるわけもなかった。一日のうちで外出できるのは、吹奏楽部の練習がある午前中の早い時間帯だけ。それ以外は、自室で机に向かい、ひたすら問題集を解く日々を送っていた。

 トオルが通う高校の吹奏楽部は、全国大会への出場経験もあるなかなかの強豪部で、今年も腕達者な部員がそろっており、まわりからも期待されていた。そんなこともあって、トオルも、秋の大会が終わるまでは、部活動を行うことを両親から許可されていた。

「それにしても、勉強って、なんでこんなにもつまらないんだろう。音楽をやるのはあんなに楽しいっていうのに」

 トオルは伸びをしながら独り言を言った。本当はトオルは、音楽大学を受験したかったのだ。吹奏楽部ではトオルは一番トランペットを担当しており、腕にはそれなりに自信があった。ピアノだって高二まで習っていて、ベートーヴェンぐらいなら、音楽的かどうかは別にして、一応弾くことはできる。音大を受験する資格は満たしている、と自分では思っていたのだ。だが、両親は反対だった。

「音楽なんか専攻して、将来どうするんだ? ミュージシャンにでもなるつもりか? プロだって、音楽だけで食っていけてる奴なんかほんの一握りなんだぞ。それとも音楽教師になるのか? それなら普通の大学の教養学部でも資格はとれるだろう」

「そうよ。普通の大学に行った方が圧倒的に有利なのよ。音楽は、大学で吹奏楽サークルにでも入ってやればそれでいいじゃないの」

 両親にそう言われて、トオルは言い返すことができなかった。それでも、まだ十七歳の彼にとっては、将来に備えるために、今やりたいことを犠牲にするなんて、どうしても納得がいかなかった。

「あーあ、音大に行きたいなあ」

 そう言った時だった。ドアの隙間から、家で飼っているオス猫のイサムが「ミャーオ」と鳴きながら部屋に入って来た。イサムはトオルに近づくと、足にスリスリし出した。甘えてるのだと思い、トオルはイサムを抱き上げた。ところがイサムはトオルの手を器用にすり抜け、窓枠にぴょんと飛び乗ると、そこで丸くなって昼寝を始めてしまった。

「猫はいいなあ。やりたくない勉強もしなくていいし、自由気ままに振る舞える。好きなことだけをやっていればいいんだからなあ」

 気持ちよさそうに寝ているイサムの姿を見ながら、トオルは思った。すると、イサムにつられたのか、トオルもだんだんと眠たくなって来た。そしていつの間にか、机に突っ伏して眠りの世界へと入っていった。


 目が覚めたトオルの視界に入ってきたのは、どういうわけか机の下の空間だった。

「あれれ。おれ、どんな格好で寝ちゃったんだろ」

 トオルあわてては立ち上がった。しかし、そこでもおかしな物が目に映っていた。机の縁が顔の高さにあったのだ。しかもトオルが立っていた場所は、なんと椅子の上だった。

「え、いつからおれ、こんなに背が小さくなっちゃったんだ?」

 トオルは椅子からぴょんと床に飛び降りた。すると彼の視線は、自分のすねあたりの高さなのだった。おかしい。絶対におかしい。彼は姿見に向かって歩き出した。それで気づいたのだが、彼はなぜか四つん這いになっているのだ。疑問だらけの頭で姿見を覗き込むと、そこには茶色い毛をふさふさと生やした一匹の猫の姿があった。

「わあ、そんなバカな。おれが猫だなんて!」

 大声を上げたつもりだが、それは「ミャー」という鳴き声にしかならなかった。

 その声に気づいたのか、イサムが目を覚まし、こちらを見た。とたんに「フーッ」と語気を荒げ、毛を逆立てると、トオル目指して駆け寄ってきた。猫は縄張り意識が強い。自分の住み処に見知らぬ猫が侵入するなどということは、絶対に許さない。

「イサム、待て。おれだよ。トオルだよ」

 言ったところで猫が言葉を解するわけもない。それに、トオルが発したのは、またしても「ミャー」という鳴き声だけだった。

 トオルは喧嘩はご免とばかりに逃げ出した。そんなトオルをイサムは家の中をどこまでも追いかけてきた。お陰でトオルは家の外に追い出されてしまった。

 途方に暮れたトオルがとぼとぼと道を歩いていると、向こうから誰かがやって来た。それはトオルと犬猿の仲の、木管パートリーダーの堀田信子だった。

「うわ、嫌な奴に会った」

 トオルは別の方向に避けようとした。しかし、からだが勝手に堀田のほうに近づいてゆくではないか。そして彼女の足下にまで来ると、スリスリをし始めた。

「うわ、気持ち悪い!」

 トオルが思っても、からだはスリスリをやめない。これはマーキング行動で、猫に備わった本能だ。

「まあ、かわいい猫ちゃんね」

 堀田がトオルを抱き上げた。その瞬間、トオルはからだを反転させて彼女の手をすり抜けると、一目散にその場を後にした。

 逃げた先にトオルがたどり着いたのは、子どもたちの歓声が聞こえていた公園だった。周囲には桜の木が植わっていて、春になるとここは花見客でにぎわうのだ。その桜の木の下で一息ついていると、トオルはなぜか木に登りたいという衝動に襲われた。猫には高いところに登ろうとする本能があるのだ。

「やめてくれ! おれは高所恐怖症なんだ!」

 トオルは心の内で叫んだが、からだは既に木の枝の上にあった。トオルは生きた心地がしなかったが、それもそう長くは続かなかった。トオルである猫は、五分もしないうちに、幹をつたって地面に降り立ったのだ。飽きっぽいという猫の習性に、トオルは助けられたのだった。

「こんな場所にいたら、いつまた木に登るかわかったもんじゃない。さっさと出て行こう」

 そう思った矢先、からだがブルブルッと震えた。もよおしてきたのだ。トオルは、その思いとは裏腹に、公園の一角にある砂場まで歩いて行き、排尿の姿勢をとった。

「みんなが見ているのに、恥ずかしいよう」

 だが、猫は人が見ていようがいまいが、したい時にするのが当たり前だ。当然、終えた跡に砂を掛けるのも忘れなかった。これも、自分の痕跡を消そうとする、猫の本能だ。

 トオルは思った。

「そうだったのか。猫は自由に生きていると思ってたけど、違うんだ。本能に従って行動していたんだ。言い換えれば、本能に縛られているんだ。それに比べて、人間は自由なんだなあ。本能から解放されてるもの。行動を意志で選択する自由があるもの。人間はいいなあ。人間に戻りたいなあ……」

 すると、さっき寝たばかりだというのに、トオルはだんだんと眠たくなってきた。猫は一日十四時間睡眠だ。たびたび眠気に襲われるのも仕方ない。トオルは本能のまま、眠りに落ちた。


 気づくと、そこはさっきまでいた自分の部屋だった。しかも机に突っ伏した格好でだ。

「もしや!」

 トオルは姿見に自らを映した。いつもの、見慣れた人間の自分がいた。

「戻れたんだ!」

 窓の外は既に闇に包まれ、窓枠にイサムはいなかった。玄関から「ただいま」という父親の声が聞こえてきた。

 その声を聞いた時、トオルは自分の心に大きな変化が起きていることに気づいた。

 人間には行動を自分で選択する自由がある。もしおのれの行動の決定を自分以外の者にゆだねたのなら、それは本能に従っている猫と変わらないじゃないか。

 音大受験の決意を両親に伝えるため、トオルは一歩一歩踏みしめるように階段を下りて行くのだった。

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